1-4.転移
郁と彼女たち、そして福地と江間は、A大で佐川教授の研究室に所属している。郁と江間、福地、寺下が同級生で菊田は二つ上、佐野は一つ下だ。率直に言って、郁はその全員に対して好意を持っていないし、彼らも同じはずだ。
それがなぜこんな見知らぬ場所で、共にサバイバルをする羽目になったか――
事の起こりは六日前、旅先で交通事故にあった研究室の先輩に頼まれてPCを届けに行くため、江間の車に乗ったことだった。
郁にも面倒見のいいその先輩から「入院中にデータをまとめたい、ついでに見舞いに来て」とメールが来て断れなかった。だが、交通の便の悪いところでどうしようかと思っていたら、江間が「一緒に行ってやってもいい」と言い出したのだ。実家から車を借りられる、と。
そこに、福地がその先輩と一緒にやっている研究の打ち合わせをしたいと言い出し、次いで菊田たち三人が見舞いと江間や福地とのドライブ目当てに参加したというわけだ。
だが、出発して三十分後には後悔していた。存在を忘れておいてくれればいいのに、いつも以上に不機嫌な江間は、車中で癇に障る発言ばかり投げてくるし、菊田たちがそれにいちいち反応し、嫌みへと繋げる。福地は福地で、彼らを宥めようとしてくれるのだが、“そうすべきものだからそうする”彼のフォローはどこか的がずれていて、毎回狙ったかのように郁への当たりと空気がさらに悪くなる。
そうして、いい加減疲れてきた頃だった、車の周囲に霧が立ち込め始めたのは。
すぐに道路脇の騒音防止のための高い壁が見えなくなった。
「霧だ、かなり深いな」
そう言いながらハザードランプをつけ、減速する江間は、うわついて見える表面と違ってやはり抜かりがない。その横で福地が「フォグランプは?」と江間に確認していた。
「いきなりですね。対向車線、見えなくなっちゃいました」
そんな会話が響く中、横をすごいスピードで一台のSUVが追い抜いて行く。対照的に郁たちの乗る車はさらに減速した。
霧はどんどん深くなっていく。
前方で強いブレーキ音が響いた。
「……事故かな」
「かもな」
前にいる車がウィンカーを付けて、追い越し車線に移っていき、江間もその後に続く。
しばらく進むと、走行車線に二台?の車がハザードを付けて停車しているのが濃い霧の間にうっすら見え、すぐに消えた。
「なんか……どんどんひどくなっていってない?」
「ここまで濃い霧って初めて……なんだか怖い」
静かな車内に、中列からの声が響いた。
≪見渡す限り真っ白だった。最初はそんなものなのだろうと思っていたが、そのうちに足元も見えなくなってきて、上も下も時間もわからなくなった。確かに歩いているはずなのに前に進んでいるのか、それともそこにとどまっているのかも感じられなくて、最後には自分が本当に存在しているのかすら自信がなくなった≫
白以外見えない窓の外の光景に、郁は祖父を思い出した。幼い郁がした質問に、彼は静かに、だがひどく無機質に答えていた。
(そういえば、シャツェランと会うのもいつも霧の中だった……)
“あっちの世界”と“こっちの世界”を繋ぐ霧――ひょっとしたら、この世界と祖父の故郷をつないだ霧もこんな感じだったのかも、と思うともなしに思った瞬間、体が少し浮いた気がした。
「捕まれっ!」
前方で大きな衝突音が響いた。ほほ同時に江間が叫ぶ。白で覆われていたフロントガラスに大きな何か――壊れた車のフロントが上下逆さまに飛んでくるのが見えた。タイヤが悲鳴のような音を立て、頭部と四肢が前方に、次いで体全体が右に引っ張られ、シートベルトが食い込んだ。
(事故――)
車内に響く悲鳴の中で、郁は咄嗟に身をすくめ、衝撃に備える。ぎゅっと目を瞑った瞬間、なにかに引っ張られるように体が宙に浮き上がって、全身に鳥肌が立った。
「……」
時間にして数秒程度だったのかもしれない。覚悟した衝撃は、だが結局訪れず、郁は固く閉じていた目を開けた。
「……抜け、た? てっきり、ぶつかった、と……」
福地が独り言のように呟いた後、江間に「あの車、分離帯、乗り越えて目の前だった。あれを切り抜けるなんて……」と安堵と感嘆の混ざった声を零した。
「……」
(助かった……?)
震えながら視線を挙げれば、ルームミラー越しに江間と目が合った。彼の顔色も心なしか白んで見えた。
「……よ、かったあ」
「怖かったぁ、江間君、ありがとう」
泣き声交じりの声が上がり、福地も興奮冷めやらぬ調子で先ほどの事故について語り出し、江間も徐々に応えを返し始める。そうして落ち着いた二人が事故の連絡を、と思いつき、福地がスマホを取り出したところで、最初の異変に気付いた。
「電波が入らない」
運転手以外がみな自分のスマホを見、口々に同意する。首を傾げつつも次のパーキングエリアで止めて連絡を、という話をしながら、車は減速したまま進み――さらなる異変に気付いたのは、その五分ほど後のことだった。
何もなかった。
変わらない音を響かせ、滑るように車は進んでいた。オーディオは事故の前と同じ調子で、福地のお気に入りだという洋楽を響かせている。
霧の中でも前の車のテールランプぐらいは見えていたのに、それが見えない。見渡す限り真っ白で、不自然なまでに真っ白で、ただひたすら真っ白だった。
最初に江間が話すのをやめた。いつも賑やかな彼が黙るだけで車内は一気に静かになった。次に無言のまま福地が前方を見つめ始め、郁も眉をひそめる。
何もなかった。そして静かだった。不自然なほど静かで、ひたすら静かだった。
「ねえ……おかしくない?」
誰も言い出せなかった言葉を発したのは、中列に並んで座っていた三人の内の一人。
見えないのは、防音壁や周囲の車だけじゃない。案内や警告の標識も、さすがに見えるはずの路面のラインも、タイヤが掴んでいるはずの直下の路面の色すらも消えていた。もうあっていいはずのパーキングエリアの案内も見当たらない。
響くのは車内の六人分の息遣いとエンジン音だけ。いつの間にかオーディオからの音楽もやんでしまった。横を高速で通り抜けていく車が奏でる、風と排気の音も聞こえない。
周囲はひたすらに白で、真っ白で、どこまでも白い。タイヤが掴んでいるはずのアスファルトの色も同じ色。
方向が分からなくなった。前も、後ろも、それどころか重力の方向も。
漠然とした不安が広がっていく。霧を含んだ比重の重い空気が車の中にまで入ってきたように、急に息苦しくなった。
「……止まったほうがいいな」
江間の声はひどく低く、それを短く肯定した福地の声も同様だった。
重苦しくなっていく車内の空気に比例するように、額に汗がにじんでくる。いつの間にか拳を握り締めていて、そこが湿り気を帯びている。
郁は苦笑して手を開き、手を振ったところでまた浮遊感を覚えて……
「……」
それが収まった時も霧の中だった。前方に半円の明かりが見えて、いつの間にトンネルに入っていたのだろう、と漫然と疑問を覚えた。
「っ」
突然車が大きく揺れた。凄まじい音と共に上下に震動し、左右に不規則にぶれる。タイヤに跳ね上げられた砂利が車体にぶつかって、騒音を立てた。江間がさらに強くブレーキを踏んだせいで、車内の全員は前につんのめり、シートベルトに支えられている状態だった。
「なんで無舗装っ?」
悲鳴の中で困惑を発した助手席の福地は、扉上のグリップを握ってすぐに体勢を保ち直した。
「江間君っ、前っ、道がない……っ!」
そして悲鳴のような声で叫んだ。
「っ、見えてるっ」
怒声でそれに応じた江間がハンドルを右に切った。衝撃とともに車体の側面がトンネルの壁に擦り付けられる。車全体が嫌な音を立てて振動し、内部の人間も小刻みにバウンドする。金属がこすれて悲鳴をあげ、車の天井に何か石のようなものが降り注ぐ。
泣き叫ぶ声の中、江間は舌打ちをこぼすと、急激にハンドルを切った。車体右側面がトンネルの壁に衝突する。耳障りな異音とひどい衝撃とともに、エアバックが作動する。郁の体は再びシートベルトにきつく押し付けられた。
そして……移動が終わった。
「……」
誰もが放心する中、郁は奇妙な予感と共に顔を上げた。
ヒビの入ったフロントガラスの向こうに広がっているのは霧。それの一部が薄くなって青が見えた。その面積が徐々に広がっていく。空、だ。
「宮部? おい、待て」
郁は立ち上がり、江間の声を無視して中列の人を押しのけ、スライドドアをこじ開ける。足元には地面があって、おそるおそる外に降り立った。スニーカー越しにでこぼこした感触が伝わってくる。
周囲を見渡せば、森の香りを含んだ風が霧を流し、頬を撫でていった。徐々に白い幕が失われていく。濃淡ある霧の薄い部分からぼんやりと向こうが見えた。
「……」
車の進行方向、開けた眼下は一面の緑で、彼方の地平線まで続いている。ぎりぎりのところで止まった車の前部下には、底のまったく見えない谷。その手前、“トンネル”の内部を振り返れば、天井には所々青やら金やらに鈍く輝く青白色の突起――鍾乳石が吊り下がっていた。下には同じ色の壊れた石筍が転がっている。
背後の広大な森から獣のような鳴き声がして、慌てて顔を向け直せば、木々の間から翼長三メートルはあろうかという、極彩色の巨鳥が一斉に飛び立った。
その後、地球にいるはずのない異形の生物に遭遇して、そこが郁の父方の祖母が逃げ出し、母方の祖父がそれに付き合わされて捨てることになった世界だとはっきりと気付いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます