1-3.転禍

 菊田の妙にぎらついた目つきに、郁はここに来る少し前、彼女に大学の階段の踊り場で突っかかられたことを思い出した。平手打ちを避けたら、逆上した彼女に掴みかかられて階段から落ちかけた時のあの目だ。

 彼女は感情に走りがちなタイプだが、それでも向こうではもう少し取り繕っていた。その時も自分がやったことをまずいと判断し、悪者にならないよう、先に「宮部さんに突き落とされそうになって……」と根回しをする程度には人目も気にしていたし、大学や教授がそれを聞きつけて大事になった時には、「誤解だったかも」と慌てて訂正する程度には知恵も回った。嫌がらせも悪口も少なくとも江間や教授たちの前ではしなかった。

 だが、こちらの世界に来たせいか、それもなくなってきたのかもしれない。

(そろそろ本格的にまずいのかも……)

 陰りつつある日のせいだけでなく、薄ら寒さを感じ、郁は眉を寄せた。


「てか、宮部さん、江間君、親切だけど、身の程はわきまえなよ? 勘違いとか痛すぎるし、恥ずかしい思いするの、宮部さんだからさ」

(――まただ)

「宮部さんの妹ぐらいなら、クォーターって言われても納得できるんだけどね。その証拠にこの人、神林君とか堀田君とかいい感じなる人なる人みーんなその妹にとられちゃってるの、知ってた? 四つも年下の、時々ちょっと大学に寄るだけの子に」

「あー、私、多分その子見たことあります。この間も来てて、江間先輩に話しかけてませんでした? すっごい美人だけど、めっちゃムカつく感じの子。学外者だったんですね、うわあ……」

「色々誤解があるみたいなので訂正しておきますと、あれは実質妹ではありませんし、神林さんや堀田さんと私がいい感じとやらになったこともないです」

「ま、かわいそ過ぎるし、そういうことにしておいてあげる。てか、江間君も妹狙いだったりしてね。宮部さんと親しくしておけば、妹から寄って来るんでしょ?――ほんと、迷惑な姉妹」

 吐き捨てるような台詞に、郁はため息を吐き出した。何を言っても聞く気はないらしい。その辺は“妹”と同じだと辟易とする。


 妹は元々自分に注目を集めたい、愛されたいという願望の強い子だったが、離れて暮らす郁の人間関係にまで執着するようになったのは、十年ほど前に“本物の王子様”の存在を知ってからだ。

(今私がその“王子様”の世界にいると知ったら、あの子、どうするだろう)

などと現実逃避気味に考える。


「確かに。江間先輩、めちゃくちゃ優しいのに、宮部先輩にはしょっちゅう嫌味言ってるし、殊更にきついですもんね、妹目当てなら納得……って、あれ? むしろ宮部先輩自体は嫌われてるんじゃ?」

「嫌味だろうと何だろうとかまわれてるでしょ。だから「好きだからいじめちゃう」みたいな痛い勘違いしないように教えておいてあげなきゃ。寺下もそう思うで」

「――どうでもいいです」

 そこまで江間に興味があるのであれば、その江間こそが、妹や菊田たちと同様、いやそれ以上に郁を見下していると、なぜ気付かないのだろう?

 ついに苛立ちを隠しきれなくなった郁は、歪に笑って話す菊田たちを露骨に遮り、視線を赤い夕空に向けた。


 影の黒みが強くなってきた森の奥深くから、岩をこすり合わせるかのような叫びが響いた。その音にびくりと体を震わせた彼女たちも、今更ながらこんなことをしている場合ではないと思い出したようだ。「じ、じゃあ、後で」と言いながら、薪を抱えあげた。

「っ、ちょっと待……」

 それでも郁を置きざりにするつもりであることに変わりないらしい。抗議しようと口を開いた郁は、直後に口をつぐんだ。

(――違う。チャンスだ)

 そう思いついた瞬間、全身に鳥肌が立った。


 郁は向こうにいる時から、彼女たちにずっと見下されてきた。その上、この異常な状況だ。ストレスのせいか、一緒にいる時間が長くなるほど、彼女たちは攻撃的になっていく。このまま一緒に居続けてもろくなことにはならない。というか、ここに置き去りにしようとしている今の時点で、もう危ういところに来ている。

 何より今なら江間がいない。怪しまれることなく、彼らから離れられる。


 この世界にきて既に六日。どこの勢力かわからないが、そろそろ『応接使』が迎えに来る頃だ。郁はそれがどこの国の使いであっても、遭遇したくない。静かにこの世界に入り込み、帰る方法を、確かにあると知っているそれを探したい。

 その辺の事情を皆に伏せたまま、どうこの森から出るかと考えてきたが、いい加減限界だ。

 そもそも郁が彼らに付き合う必要はないのだ。この世界で一人になっても、郁はある程度は大丈夫なはずだし、義理立てしなくてはいけない恩を彼らから受けた覚えもない。


≪大丈夫……じゃないな? ちゃんと寝てるか? 最後の食事はいつだ?≫

 一瞬だけ江間の顔が思い浮かんだが、すぐに抑え込んだ。

 佐野が言っていたように、彼は誰に対しても親切だ。郁に向けられたことのある親切もノートを貸したり、実験を手伝ったり、教授たちから彼に割り当てられた仕事を助けたりしたことで、恩を返したはずだ、と後ろめたさを振り払う。


 郁は胸元に隠している小袋を再度服の上から握りしめた。

「あ、ちょっと、なにそれ?」

「っ、っと……これ、ですか? 薪を拾っている間に、食べられそうなものを見つけたので、試してみようかと……」

 企み事をしている最中に突然話しかけられ、郁はぎくりと体を震わせた。菊田の視線は地面に置かれた郁のバックパックに向いていて、胸をなでおろす。

「じゃあ、それも私たちが持って行ってあげる」

「いえ、大丈夫です。食べられるかまだわかりませんし、もし毒だったら……」

「いいからいいから」

「っ、だめです」

 今いる森は複数種の大型の化け物を養えるとあって、かなり豊かだ。植物が生い茂り、果実も多い。だが、知識も道具もない現代日本人六人が、満足できる食事がとれているわけではなかった。

 目の色を変えた菊田と寺下に、食料を詰めていたバックパックへと手を伸ばされ、郁は慌ててそれを引っ込めた。逃げることを思い立った今、これを奪われるわけにはいかない。


「……独り占めする気?」

「みんなで助け合おうとしているのに……」

(助け合いをどの口が言う)

 嫌みを返したくなる衝動を抑えて、郁は取りつくろう。騒ぎになって『イェリカ・ローダ』はもちろん、江間達がこちらにやって来るのは避けたい。

「いえ、何か新しいものを見つけたら、また拾って帰るので、中身だけお願いします」

 口惜しいが仕方がない。ひそかに忍ばせていた道具類をバックパックの底へとうまく選り分けると、郁は拾っておいた果物のようなものを取り出し、三人に差し出した。

「そ、そう、ならいいわ。変なものだったら困るから、次は私たちに最初に見せて」

「ええ、ご相談します――次の機会があれば」

 目下に見ていた者の思わぬ反抗が、実は反抗ではなかったと解釈した菊田は、体面を繕うことを思い出したらしい。もっともらしいことを付け加えつつ、次の機会を郁に確約させると、微笑みかけてきた。

 なるほど、この果物も将来のも、薪同様自分たちが採ってきたことにするつもりらしい。

(まあ、動機はどうであれ、福地や江間にも分けようとしているだけ、逃げ出そうとしている私よりましか……)

 降りてきた宵の帳に紛れて、郁は自嘲をこぼした。

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