1-2.不和

 顔に差し込んできた西日に目を細め、郁は焚き木を拾うために動かしていた手を止めると、背を伸ばした。

 あれからさらに三日が経った。人や文明を探しに行くべきだと言う江間と、本当の理由は隠しているものの、それに賛同している郁。慎重を期してもうしばらく状況を確かめるべきだと言う福地と、どっちつかずの他の三人との間で、結論はいまだ出ておらず、ずるずるとここに留まっている。

 まだ『応接使』は来ない。彼らに捕まりたくない郁としては喜ばしいはずなのに、なぜ来ないのかという不安も湧き上がってくる。ここは本当に祖父の故郷なのだろうか……?


 焦りと苛立ちを交えて、郁は深い森の向こう、真っ赤に染まった空を睨んだ。丸い千切れの雲の下面が夕日に赤く輝き、その上の黒い部分と毒々しい対比を見せている。日ごとの違いはあれど、この世界の夕焼け空はあちらの世界と何も変わらない。


 日が暮れるまであと四十分、そこから二、三十分であたりは真っ暗になる。この五日間、向こうの世界の時計を使って確かめてみたが、この星の自転周期は、ほぼ二十四時間だった。だが、あれが「太陽」で、今自分の足元にあるこれが「地球」かどうか――現にこの世界には月が二つある。

「……」

 一瞬地球を背負っている亀と象の絵を思い浮かべ、郁は首を横に振った。現実を支配するのは物理法則であって、魔法や神様ではないはずだ。


「あ、あの時事故に遭ったじゃないですか? だから本当は意識不明でICUとかにいて、今のこれはきっと夢で」

 幸いというべきか、残念ながらというべきか、これは夢などではなく現実――この世界に来た時、そう言ってパニックになっていた後輩の佐野を思い出して、郁は息を吐き出した。


 自分たちが身につけているものなどは、向こうで見えていたのと同様に知覚できているし、呼吸も今のところ問題なくできている。たった五日ではあるが、体の代謝も正常に行われているようだから、この世界を構成する基本的な要素は、少なくとも人体にとっては、向こうとさほど変わらないのだろう。そして、それは郁が知る他の事実とも一致していた。


 絶対的な意味での時間もほぼ同じなはずだ。つまり、自分たちが消えてからの時間は向こうでも同様に五日。六人が一斉に消えたのだから、いい加減騒ぎになっている頃かもしれない。

(……私には心配してくれるような人はもういないけど)

 郁は亡き祖父母の顔を思い浮かべ、胸元に手を当てた。彼らが、特に祖父が生きていたら、どうしていただろう?


 森が夕日の朱金と、影の黒に染まっていくのを見ながら、そういえば祖父は実家から見える山の向こうに沈んでいく夕日を見るのが好きだったと思い出す。そういう時は決まって、声をかけるのをためらう、何かを請うかのような顔をしていた。

 懐かしんでいたのかもしれない――不意にそう思い当たった。今郁がそうであるように、彼も暮れゆく燃える空の色に故郷を思い出して、その下に帰りたがっていたのではないか。

「……」

 死の際の彼が、枯れ木のように細った腕を伸ばしてきた光景が蘇り、郁は視線を伏せた。


 森の冷気と香りを含んだ風が背後から流れてきて、郁の茶を帯びた長い髪を乱した。

 同じ風に周囲の梢が一斉にざわざわと音を奏でる。小さな一枚一枚の葉が擦れあって生まれる音は、それ自体が生き物の咆哮のようにも聞こえた。

 世界が闇に覆われることを喜ぶ者たちの声――恐ろしい夜がまたやってくる。


「……」

 郁は胸元に隠している守り袋を、服の上から指でいじる。

 今ここにいるのが祖父であればどんなに良かったか。彼であれば、きっとうまく生き延びられるだろうに。

 郁は静かに頭を振ると、血のように染まった空に背を向けた。感傷に浸って呆けている場合ではない。暗くなる前に早く安全な場所、あの洞窟に戻らなくては。


「そろそろ帰りませんか?」

 少し離れた場所で同じ作業を行っている三人に声をかければ、何かを小声で話していた彼女たちは一斉に会話を止め、郁へと視線を向けた。

「そうね、もう暗くなってきたし、そろそろ……宮部さん、ずいぶん拾ったのね」

「宮部先輩、さすがですね。こんな時でもどこまでも冷静ですごいです、本当に尊敬しちゃいます」

「助かります」

 拾った枝をそれぞれ手にして近寄ってくる彼女たちの表情は、言葉とは裏腹なものだ。

 彼女たちが申し訳程度の薪しか持っていないことに気付いて、郁は小さく眉をひそめる。

「私たち緊張続きで少し疲れているから先に帰るわ。代わりにこれは運んであげる」

「……」

 郁の二つ上の菊田が、郁が積み上げた薪の山へと手を伸ばす。さらに後輩の佐野が上目遣いに郁を見上げ、「宮部先輩もお疲れでしょうから、これぐらいは」と残りの薪の半分を抱えた。最後の一人、寺下も郁をちらっと見た後すぐ目をそらし、結局同じことをする。気まずくて顔を合わせられないというわけではないのは確かだ。口の端が上がっている。


「宮部さん、本当に申し訳ないんだけど、もう少しがんばってくれる?」

「先輩が頼りなんです。こんな不気味なところにいきなり来たっていうのに、全然泣かないし、一昨日もその前も江間先輩と一緒に、化け物を追っ払ってくださいましたし」

「あの可愛いウサギだって殺してしまえる性格です。頼りにしています」

 言葉だけは丁寧だったから、咄嗟に言われていることの意味を理解し損なった。

 この世界の、この森で、この時間に郁を一人置き去りにする、今彼女たちはそう言ったのだろうか?

「……」

 思わず、まじまじと目の前の三人の顔を見つめた。だが夕日の陰になって、表情がよくつかめない。

「……一人でここに残れということなら」

「夜を越すには、この量じゃ心もとないでしょ? 誰かさんが車、谷に落としちゃったし」

「いざとなったら逃げ込める場所だったのに、無くなっちゃいましたもんね。帰る時だっているのに」

「江間君、本当にお気の毒ですよね……」

「それは申し訳ないと思っていますが」

「そう思うならお願いね」

「宮部先輩なら大丈夫だと思うんです。福地先輩も江間先輩も、宮部先輩のことは頼ってらして、色々相談もしてるじゃないですか」

「女扱いしてないだけって気もするけど」

「聞こえますよ」

 字面だけの信頼を郁に与えた佐野に、菊田が忍び笑いを漏らし、郁の同級生である寺下がちらちらと宮部を見ながら、咎めているのか、嘲っているのかよくわからないニュアンスで続けた。


 悪意は感じるものの、彼女たちを見つめるしか思いつかない郁に、菊田と佐野は笑いを深めた。寺下は薄く笑っているように見えるが、相変わらず視線が定まらない。


「もう本当に嫌。ここ、一体どこって話。スマホが使えない、人っ子一人いないのに変な化け物だけいる、電気どころか食べ物飲み物にも困るってありえない」

「違う世界じゃないかって福地先輩たちが言ってますけど……」

「異世界召喚ってやつ? 漫画とかだと素敵な王子さまが現れて、この世界を救う女神様とかあがめられたりするのに全然じゃない」

「あ、でも、福地先輩と江間先輩はカッコいいです、守ってくださってるって感じで。私、こんな世界の王子様より福地先輩の方がいいかも」

「そんなこと言って、ほんとは江間君狙いじゃないの、佐野ー?」

「えー、菊田先輩の邪魔はしませんってば。というか、寺下先輩も私と同じで、福地先輩狙いですよね?」

「え? いえ、そんなことは……。というか、その、本当に気味の悪い場所ですし、お風呂とかいい加減入りたいかなって」

 目が全く笑っていない菊田に焦ったらしい佐野は、寺下に話を振った。その彼女も焦ってもごもごと返すが、「それ、天然? それともはぐらかそうとしてるの?」「動揺してますしねー」と歪な笑いを浮かべた菊田と佐野に遮られた。


「でも私もお風呂入りたい。見て、このバッサバサの髪。江間君たちと話してても、近づいたら臭うんじゃないかって、気が気じゃないんだもん。化粧だってボロボロだし」

「なんですか、それ。先輩、結構余裕じゃないですか」

「こんな目に遭ってるんだから、少しぐらいいいことがなきゃやってらんないじゃない」

「あー、まあ、そうですね。私の手も見てくださいよ、ネイルぼろっぼろです。日焼けしてきたし、もうさいてー……」

「というか、化粧! 化けさせて!」


 目の前で繰り広げられる、大学での日々と変わらない光景を知らず凝視していた郁は、彼女たちの目がこちらを向いて、思考を再開させた。

「ま、そんな悩みも宮部さんにはなさそうね。うらやましい。色白は七難隠すって言うし、元々化粧っけないもんね」

(……そうか、あえて日常の感覚でいようとしているんだ)

 彼女たちはこの世界をまったく知らない。わかっているのは今が非常事態ということだけ。

 そういう精神状態を指す言葉があったと思い出し、同情と共に彼女たちを見ると、彼女たちも同じ目で郁を見返してきた。


「本当に色が白いけど、まあ、クォーターだから当たり前か?」

 菊田は地黒で、それを気にしていることは郁ですら知っている。当然それを察しているだろう佐野が慌てたように、「逆に言うとそれぐらいとか?」と引きつった顔でフォローした。

「というか宮部先輩、クォーターだったんですね。じゃあ、茶色っぽいあの髪も天然?」

「らしいよ。でもさ、茶髪なんて今時誰でも染められるし、化粧っ気もない、おしゃれでもない、髪型もダサいんじゃねえ。残念ハーフならぬクォーターってタイプ?」



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