第1章 袂別 ―惑いの森―
1-1.化け物
背後の茂みががさりと音を立てた。
(生き物、大きい――)
「っ」
総毛立って前へ転がれば、抱えていた果実が周囲に散らばった。
「宮部っ」
江間の叫びを背に、受け身をとって反転すると、
「っ」
片膝をついた状態でのけぞり、襲ってきた何かを左手の枝で弾くと、咄嗟に手首を返して枝で絡めとる。
「……」
全身の毛穴からどっと汗が噴き出す。心臓の音がうるさいぐらいに耳に響いてくる。
(な、に、これ……)
“縄”の向こう、夜明け直前の森の暗がりからガザザッと音を立てて現れた“敵”の姿に郁は茫然と目を見開いた。
「今度はカエルの化け物かよ……っ」
駆け寄ってくる江間言葉通りそれは牛ほどのサイズの、カエルそっくりの生物だった。全身が半透明の粘液で覆われ、薄明を反射してぬらぬらと光っている。体の三分の一を占める頭と思しき部分には、横一直線六十センチ程にわたって裂け目があり、郁の手の枝に絡んだ赤い縄はその裂け目の奥から出ている。舌のようなものかもしれない。
「っ」
化け物ガエルは郁へとにじり寄りつつ、舌を引き戻し始めた。強い力でがま口へと引っ張られ、左手から化け物へと傾ぐ。
「させるかっ」
化け物の背後に着くなり、江間は手にしていた棒を躊躇なくその頭へと振り下ろした。びちゃりという音が辺りに響く。
(え……)
化け物の頭だと思っていた場所がその音の通り何の抵抗もなく、プリンを叩いたかのようにつぶれたのを見て、郁の頭は真っ白になった。
頭の上半分が棒の跡形のままべしゃりと凹み、目と思しき部分も両サイドにぐりんと移動してしまったというのに、がま口から出ている舌のようなものは、同じ力で郁を引っ張り続けている。悪寒が全身に広がっていく。
「っ、宮部、放せ、引っ張り込まれるぞっ」
いつもひょうひょうとしている江間も、信じられないものを見る顔で一瞬フリーズしたが、すぐに持ち直した。
「っ、来るなっ」
(引き負けたら食われる。けど、この舌を逃がせば、また攻撃される――)
化け物の舌の絡まる枝を渾身の力で引っ張り返せば、奥歯がぎりりと音を立てた。枝がミシリと悲鳴を上げた瞬間、郁はがま口に向かって飛び込む。左手に握る枝を外側に回し、舌の動きを封じた。
「っの、馬鹿っ」
江間の罵声を耳にしながら、郁は右手に握った木の棒を振り上げ、がま口の奥へと付きたてた。
威嚇するような音と共に、手に抵抗が伝わってくる――頭部のような変形はない。
これならいける、と棒を奥へと押し込むものの、思ったより深く沈んで、腕のみならず頭と肩がカエルの口へと近づいてしまった。生臭い臭気に顔を包まれた瞬間、全身に鳥肌が立つ。カエルの口内には細かい歯がびっしりと並んでいる。
「っ」
衝撃と共に上半身が後方へ傾いだ。同時に目の前のがま口に別の棒が突き刺さる。
滑り込んできた江間が郁の後ろ襟首をつかんで化け物から引きはがし、その勢いのまま手にした長い棒を奥へと押し込んでいる。
一瞬呆けた郁だったが、ブツリという音を耳にして我に返った。左足を軸に右足刀を化け物へと繰り出す。ぶにゃりという感触ではあったものの、目論見通り郁と江間、化け物の間に距離ができる。
「江間、引き抜けっ」
「っ」
無理な態勢ながら江間はぐっと背を逸らし、右手を振り上げた。木の先を削っただけの槍ががま口の外に出、その軌道を追うように赤黒い血しぶきが舞う。
ガラスをこすったような断末魔が、日の出前の森に轟いた。
音と土埃を立てて、郁と江間は分厚い腐葉土に倒れ込んだ。
「い、ってえ……宮部、大丈夫か」
「な、んとか……、っ、江間は」
呻きながら身を起こした郁は、仰向けに転がったまま肩で息をしている江間を慌てて覗き込む。
怪我はなさそうだと胸を撫で下ろしたのも束の間、その本人に「放せって言っただろ……? いっつもいっつも人の忠告、無視しやがって」と睨まれて、眉を寄せた。
(来るなと言ったのを江間だって無視したし、そもそも助けてくれと頼んだ覚えもないし。ああ、でも……)
「聞こえなかった。でも助かった。ありが」
「江間君っ、大丈夫!? ちょっと宮部さん、何やってんのよ!」
「け、怪我、江間先輩、怪我ありませんか?」
助けられたのも事実としぶしぶ認めた郁はしれっと嘘をつきつつも礼を口にしたが、あいにくと菊田と佐野に遮られた。
息を吐きつつ、彼女たちにかこつけて江間から距離を取る。
「大丈夫、宮部さん」
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
遅れてやってきた福地がかけてきた機械的な言葉には、同じように機械的に返せばOKだ。ちゃんと安全を確認してからやって来るところといい、実に彼らしい。
地平線から朝日が顔を出したようだ。
木々の間から射し込むまだ若い日が化け物の遺骸にあたり、口から流れ落ちる鮮やかな血の赤を照らした。
「もうやだ、一体何なの、あれ。ここ、本当にどこなんだろう、なんでこんな目に……」
「あれもどう考えても地球の生き物じゃないですよね……というか、死んでます、よね……?」
“この世界”に来てから二日。何度目かしれない泣き言と愚痴を繰り返す同郷人たちから離れ、郁は仕留めた“化け物”に近寄って観察する。
微妙に痙攣しているのは生きているからか、それとも向こうの生物同様神経組織のようなものがあって、それがまだ機能しているからか。いずれにせよ、攻撃の意思は既に失われていそうだ。
これまでこの森で見かけた動物たちは、“元の世界”のものに似ていた。空を舞っているのは鳥と同じに見えるし、耳が四つある生き物は、ウサギに似ている。水辺にいるのは、ヒレの数などに違いはあるものの魚に見えたし、食べることもできた。だが……これは違う。
「……」
(おそらくイェリカ・ローダ、『神に疎まれし者』だ)
祖父が話していた、『惑いの森』にしか生息しない異形の化け物――。
「それも食べられるかな」
「いや、これは」
「宮部さん、いくらなんでもそれはちょっと」
このブニョブニョで、血と粘液でデロデロの異形の生物を見て、食べるという発想が出るのも福地だ。郁は苦笑いしながら口を開いたが、呆れを含んだ寺下の声に遮られた。
食べられるかと言ったのは福地であって自分じゃない、と言うのも億劫で、郁は「さすがに無理では」とだけ口にした。
(無理なんてものじゃない、食べたら多分死ぬ)
強いイェリカ・ローダであれば、この世界にある国の一大隊が束になってかかっても壊滅させられるというのに、苦労して仕留めても毒でしかない。強さと見た目の気持ち悪さに加えて、そのことも『神に疎まれた』と言われる所以だと祖父は言っていた。
「……」
郁は化け物のがま口から静かに流れ落ちる赤い血に人指し指を浸すと、親指と擦り合わせた。ぬるりとした感触と独特の臭気が広がる。
(この血を疎むのは、『神』だけではないはず――)
「なあ、宮部、お前、なんか武道やってただろ?」
「っ」
いつの間にか背後に近寄っていた江間に、郁は身を硬くした。
「……護身術程度に」
「二刀流の護身術なんて聞いたことねえよ。しかも……かなり変わってる」
がま口から垂れた青い舌に絡んだままの二股の枝を手に取って眺め、江間は鋭い視線で郁を見る。
「そう言われても。祖父が教えてくれたものなので」
「祖父、ねえ。……お前、なんか隠してない?」
「隠す……」
「お前みたいな性根の捻くれた奴が、素直に言うわけねえか」
嘘としらを重ねる郁に江間は皮肉に笑った。冷や汗をかいているのを悟られないよう、意識して無表情を保つ。
警戒すべきは、『イェリカ・ローダ』でもこれからやって来るだろう『応接使』でもなく、やはり江間だ。彼に悟られず、どうやって『応接使』から逃れるか――猶予はあと数日しかない。
「? 宮部、お前、怪我してないか? 何が大丈夫だ。意地張るにしても考えてやれよ。変なとこで頭悪いな」
鋭い空気を一瞬で引っ込めた江間が眉を寄せながら、郁の首筋へと手を伸ばしてきた。首にかかる髪を無遠慮にかき分けて傷口を確かめると、「深くはないな」とほっとしたように息を吐き出す。
「……」
(こういうところも嫌いなんだ)
郁は小さく眉を下げつつ無言で彼から離れ、先ほど化け物に襲われて放り投げた果物を拾いあげた。
他の人たちの手にも食べられそうなものや水を入れたペットボトルなどがあった。
「一度洞窟に戻ろうか。これでとりあえず朝ごはんにして、午前も食料と薪を探そう」
福地の声を合図に六人で連れ立って、この世界への入り口となった洞窟へと向かった。
「たったこれだけ。もうお菓子もないのに……」
「変な化け物だけはいるし……」
「お腹もすきましたけど、あんなのが洞窟に来たら怖すぎます……。夜通し火を焚いておけば、大丈夫ですかね……?」
「そうだね、昨日は途中でなくなってしまったから、今日は念のため、多めに薪を拾おう」
「……」
青と金色、時折虹色に光る『月聖岩』が密集するあの洞窟には、そもそも化け物、『イェリカ・ローダ』は入ってこない。郁は無言を貫きつつ、胸元に隠した守り袋に手をやる。
「今日はそうするとして、いつまでもこうしてたって仕方がないだろう。この森を出ることをそろそろ考えるべきだ」
「そろそろってまだ二日じゃないか。この森から出られるかどうかもわからない。世界中全部こんな森が続いていたら? もう少し情報を集めたほうがいい」
江間と福地のやり取りを聞きながら、郁は目線を上に向けた。
背の高い木々の梢には、新緑を思わせる葉が生い茂り、金を帯びた朝日をキラキラと反射する。その向こうでは朝焼けが後退し、透き通った青空が出現し始めた。
季節はここでも春のようで、吹いてくる風はまだ少し冷たく、緊張で汗ばんだ肌に心地いい。鳥に似た可愛らしいさえずりがそこかしこで始まった。足元では、小さな白い花が同じ風に揺れている。
向こうの世界と何も変わらなくて、先ほどの化け物との遭遇がただの夢だったのではないかと思えてくる。
いつものごとく最後尾を歩く宮部に、珍しく菊田が並んだ。
「宮部さん、いつも言ってるけど、勘違いしないようにね。江間君が優しいのは、別に宮部さんに限った話じゃないから」
「知っています」
いつも甲高く騒いでいる彼女に珍しい、抑えた声に、郁は郁で静かに返した。
≪いかにも処女って子は重たすぎね。宮部みたいなのとか論外≫
さっきの江間の態度を特別に優しいとは思わないし、勘違いも何も江間本人がそう言っていたのだ。菊田に言われなくても嫌というほどわかっている。
十二の頃、郁は親友を失った。物心ついた頃から、笑い合ったり喧嘩したりしながら、たくさん話をして、共に色んなことを悩んで試して、ずっと一緒に過ごしてきた人だったのに、彼はほんの数か月前に知り合っただけの郁の妹の言葉を信じて、郁を嘘つきだと決めつけ、罵倒した。
妹は彼に続いて他の友達も郁から奪った。その後知り合った人たちとも、同じことが起きた。
ずっと一人でいた時にただ普通に話してくれる人が現れて、それが江間だった。
本当に嬉しかった。好きだとかそんな感情を持つ時間さえなかったし、そもそも自分なんかが誰かと付き合えるとか、間違っても思っていない。ただ、普通に人と話したかった――それを皆の前で本人に笑い捨てられた、あんな惨めな思いはたくさんだ。
「私より佐野さんの方がよほどお気に入りでは?」
郁は前方を軽く顎でさした。後輩の佐野に弾むような調子で話しかけられている江間の横顔は、小さく、だが確実に笑っている。二人を見て顔を歪めると、菊田は敵を見るような目で郁を一睨みして、前へと歩いて行った。
明らかに“人を食う”意思を見せた化け物と遭遇した後だっていうのに、と思わずため息を吐く。
(今考えるべきは、異世界のこの森で死なないことだろうに)
呆れの乗った顔を見咎められないよう、郁は首の凝りをほぐすふりをしながら、再び空を見上げ、目を鋭く眇める。
(その次は、密やかにこの世界に潜り込むこと……)
――やがて来るだろう『応接使』に、『稀人』として捕まる前に。
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