式守祝詞は祈らない

灰汁須玉響 健午

第1話

 時間は、おそらく深夜だった。

 睡眠の途中でトイレに起きた佐藤淳は、用を済ませて洗面所へと向かった。今年で四十六歳になるが、三十五を越えたあたりから、どうにも夜中にトイレに起きる頻度が上がってきた気がする。それもそうか、と淳は思う。自分はもう充分に中年なのだから仕方ない。

普段なら、手洗いもトイレ内ですませて、そのまま寝室へと戻るのだが、かいていた鼾のせいか、どうにも喉がいがらっぽく感じて、うがいをすることにしたのだ。

 電気をつけてうがい用のコップに水を汲み、口に含む。少し寝ぼけているせいもあって、その時無意識に視界に入る正面の鏡も、鏡の中に映る自分の姿も別に気にはならなかった。

 そのまま上を向いてうがいをすると、流れのまま水を吐き出す。

 別に、見るでもなく視線を鏡に戻したところで、固まった。

 思考と視線と、そして体も強張り、文字通りに一瞬、固まってしまった。

 鏡には、赤く掠れた液体で、『許さない』と書かれていた。つい一秒前にはなかったもの。水を吐き出し、顔を戻すまでの刹那の間に、確かに存在しなかったものが突如現れたのだ。

 身の毛もよだつ、とはこのことだった。

 凍り付いたような感覚からいくらか解きほぐされて、淳は早くなる鼓動を押さえつけるように冷静に呼吸をした。

 幾分冷えた頭で見てみても、鏡には血文字で『許さない』と書かれていた。

 そこで、淳はこれが夢である可能性を疑った。

 こんなホラー映画の中で王道に使われるようなことが、日常で起こると考える方がどうかしている。

 だが、彼のそんな希望的な推測も、数秒後には打ち砕かれることになる。

 洗面所の電気を消して、寝室へと戻ろうとした淳は、数歩歩いたのちに、転倒した。

 とっさに突いた手と、あえなく打った膝の痛みで、これが疑いようのない現実であると認識したのだった。

 しかし、妙だ。

 洗面所から寝室までの廊下には、障害物は何もない。荷物もなにも置いてはおらず、壁もつまずくようにせり出ているような場所はない。

 では、自分は何に躓いたか。

 いや、そもそも自分はつまずいたのだろうか。

 淳は倒れたまま、瞬時に脳内で少し前の記憶を手繰ってみる。探したのは、転倒する直前の足の感覚だった。

 どこかにぶつけてこけたのか、足を縺れさせてこけたのか、それとも……。

 そう手繰っていって、容易に答えにたどり着く。

 自分はそうだ、出したはずの足が、上手く前に行かなかった為に、バランスを崩してこけたのだ。

 淳は同時に、『なぜ』上手く前に行かなかったのかを思い起こして、戦慄した。

 そうだ。自分は――自分の足は、何かに捕まれたように引っ張られて、前に出せなかったのだ。

 恐る恐る、淳は体をひねって反転させて上体を起こすと、足を延ばして尻もちをついたような体制で、自分の足元を見た。

 暗い廊下の闇の中、捕まれた感覚のあった右足に視線を送ると、そこには白い手があった。

 すでに淳の足を掴んではいなかったが、手を開いて、そのまま、すうっと闇へと消えていく。

 手首だけであった。

 人間の手首から先だけが、彼の右足の上に乗っており、そのまま引っ張られるように消えていった。

「うわぁあああああああ」

 思わず、彼は叫んだ。座ったままの体勢で手足をバタバタとさせながら、後ずさると、そこでパッと、廊下の明かりがついた。

「あなた、どうしたの? 今の叫びは?」

 声の方を見上げると、そこに淳の妻の顔があった。

 叫びを聞きつけて、飛び起きてきてくれたようだった。

 明かりに照らされた廊下のはしには、手首どころか、怪しい影すらも見えなかった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る