第8話 兄
柊木伊弦
柊木はるか、僕の兄。
そう、お兄ちゃん。
周りがどれだけ姉と弟、という関係だと思っていようが僕たちの中ではお兄ちゃんはお兄ちゃん、兄と弟だった。兄はよく僕に隠れて泣いていた。僕の前ではいつも笑っていたから時々その笑顔が怖かった。兄は中学生になってから学校へ行かなくなった。次第に僕も学校を休む日は増えたが、週に2回は最低でも登校していた。兄が中学ニ年生になったと同時期に僕は中学校へ入学した。僕は兄を学校に誘ったが、結局来てくれたことは一度もなかった。兄の部屋にはいつも、ハンガーに見本のような新品のセーラー服がきれいにかかっていた。
少し時間が経って兄は中学校を卒業した。その後から家の環境が悪化した。元々、母はよく暴力を振るう人だった。包丁で脅してくるものだから本当に死んでしまうのではないかといつもビクビクしていた。なぜ悪化したのか、それは兄が母に反抗を始めたからだ。兄の体は母より少し小さかったが力は圧倒的に兄のほうが大きかった。殴り合い、脅し合い、そんな毎日だった。そんな二人を遠くからただ見ているだけの僕を見る母の目は、兄へ向けていた怒りに満ちた目ではなく、お前は消えろと言っているような冷たい目だった。
そんな日々は唐突に終わりを迎えた。
母が初めて僕に包丁で傷を負わせた日だった。左頬の唇の横辺り、今は絆創膏で隠れている場所を母が振り下ろした包丁がかすった。その時の兄の目は忘れられない。絶望と怒りと悲しみと、言い表すことができないような目をしていた。そのまま兄は家を飛び出していった。僕は状況の理解ができずにその場に突っ立っていた。
「伊弦。」
はっ……
兄が僕の名前を呼んでいる。
「僕が、行かなくちゃ…」
母が寝室に戻っていったのを確認して僕は兄を追いかけるために家を飛び出した。兄はきっとあの展望台にいる。小さい頃よくあそこに二人で逃げていたから。
なんとなく嫌な予感がした。
僕の心臓は飛び出そうなくらい脈をうっている。運動はあまり得意ではないからすぐに息が上がってしまった。苦しい。だけど、休んでいる暇はない。早く兄に追いつかなければ兄はもう帰ってこなくなってしまう。展望台の前の坂まで来た。ふと上を見上げる。階段を登る。兄の姿があった。
「お兄ちゃん!!!!!!!!」
僕がそう叫ぶと兄は動揺したような顔をした。しかし止まることはなくまた視線を戻して歩き始めた。
「待ってっ!!おいて行かないで!!!」
階段の手摺を掴む。
「来るな!!!!!!!!」
泣きそうな兄の叫び声が聞こえた。
はぁ、はぁ、………はぁ…っ
半分程登っただろうか…
足が痛い。左頬が痛い。心臓が、痛い。
視界がぼやけてよく見えなくなってきた。最後の曲がり角。頂上が見えた。
さん、に、いち……
登り終わった…!まだ、間に合う。
と思った瞬間僕は崩れ落ちた。
登り終わった、と同時に体力に限界が来たのだ。
「げほっ…がはっ………げほっげほ!!」
勢いよく咳き込む。耳鳴りが酷い。
顔が、上がらない。体が動かない。僕の視界は地面に落ちた汗と唾液と涙だけを映していた。
そこから意識が無くなった。
目を覚ましたときにはどれだけ時間が立ったのかも、何も分からなかった。兄の姿だけが無くなっていた。
恐る恐る展望台の頂上から下を見下ろしたときの兄の姿は一生、僕の頭の中から消えることは無いだろう。
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