第2話 遊園地~水族館2

「やっぱり締めはこれだよね」

 そう言って連れてこられた先は遊園地の定番中の定番とも言える観覧車だった。太陽は既に沈んでいて、遠くから街中の夜景が明るく灯っているのが見えた。山の中にある遊園地という事もあってか地平線までくっきりと姿を表している。

 ゴンドラに備え付けられた座席に座って夜景を眺めていると、慌ただしかった1日の疲れが吹き飛んでいくような気がする。そして楽しかったという感情だけが僕の中に淡く色づいて残る。

「今日は大変な1日だった・・・・・・」

「でも楽しかったでしょ?」

「ああ、ほんとにな」

 思考が僕を追い抜いて思わず本音がこぼれる。あぁ駄目だ。こんなの僕じゃないと思いながらもこの暖かな浮遊感に溺れそうになってしまう。

 葵は向かいの座席で外を眺めていたかと思うとおもむろに僕の方へとやってくる。

「そこ詰めて」

「はいはい」

 もうこういうやり取りも今日何度かしたか分からない。すっかり意志疎通出来るようになってしまった。葵はとにかくボディランゲージというか、スキンシップを取りたがるようだった。それが年相応のものなのか生来の性格なのかは僕には良く分からないけれど。

 腰を上げて座席の端に移動すると、僕の隣に葵が座る。そしてそのままもたれかかってくる。

「お兄ちゃん感謝してよね。お兄ちゃんは滅多にこんな経験出来ないんだから。こんな可愛い女の子と遊園地デートなんて男冥利に尽きるってもんでしょ」

「可愛い女の子は自分の事を可愛いなんて言わない」

「それ男側の勝手な幻想だよ。女って生き物は自分の可愛さを自覚してそれを武器に周りの人間関係を上手くコントロールするんだから。男は支配欲強いって言うけど女の子も負けてないと思う」

「勝手に美化して何が悪いって言うんだ」

「それにそんな事言ってお兄ちゃん男女経験無い癖に~」

「無いよ。悪いか」

「あはは、開き直った~」

 僕の肩に葵が頭を乗せる。今日1日の出来事を共有するかのようにどちらともなく体を寄せ合う。葵が僕の手を取って指を絡めてくる。僕はその暖かくて小さな手をほのかに握り返す。流れるようにそれを受け入れている僕に少し驚いたがそんなものはもうどうでも良かった。今はこの心地よい瞬間に身をゆだねていたい。

「良かった。お兄ちゃんが楽しんでくれて」

「なんでここに連れて来ようと思ったんだ」

「だってあの時のお兄ちゃん捨てられた子犬みたいだったんだもん。寂しそうで、儚くて、自分の居場所が欲しい子供みたいで。そんな顔してた。なんかほっとけないなって思っちゃったの」

 どうして分かったんだろう。僕の根底に渦巻く思いを、あの1瞬で見抜いたのだろうか。本当に女子って奴は。いや女子で括るもんじゃないな。本当にこの子は我が儘なようで人を良く見ている。いくら取り繕うとしても僕の浅はかな内面まで読みとられてしまう。理解されてしまう。でも不思議と嫌じゃなかった。ただ、なんとなく。彼女にはもう素の自分で良いという安心感があった。

「葵は不思議な奴だな」

「ん、どういう意味~?それって褒め言葉?」

 繋いだ手を弄ぶように少し揺らす葵。その視線はどこを見るという訳でもなくぼんやりと宙に泳がせていた。

「褒め言葉だよ」

 素直に感謝の気持ちを言えばいいのに、それが難しい。ひねくれてる自分に呆れてしまう。でも彼女はきっとそんな僕の本音もくみ取ってしまうのだろうと思った。僕らは心が通じ合っている気がした。それこそあるいは僕の幻想なのかもしれないけれど。

「ほんとはね、今日ここに来るの怖かったんだ」

 ぽつりと呟くように葵が声を漏らす。

「私がどう思うか自分でも予想つかなくて。行き交う人を見て羨ましいな

、私もそんな風に過ごしたかったなって思っちゃいそうで。ここには色んな人がいるでしょ?私よりも年上の人とか幼い子とか。家族との思い出を振り返って、お父さんお母さんの声を思い出しちゃって悲しくなっちゃったりとか。そんな風に思うんじゃないかな。惨めな気持ちになっちゃうんじゃないかなって」

 昼間の往来を見ていた葵を思い出す。あの風景の中で葵はきっと可能性を見ていたんだろう。もし自分が生きていたら。家族と一緒に年を取っていく時間、季節の節目に祝ってくれる両親、そして姉の存在。彼女にはもうそんな普通の人々が過ごす日常を経験する事は出来ないのだ。

「でもね、実際来てみたらそんな事なくて。お兄ちゃんと遊ぶのが楽しかった。途中からお兄ちゃんが本当の兄妹みたいに思えて来ちゃって。ちょっと子供っぽいお兄ちゃんだけど。本当の兄みたいな人で、私の恋人。頼りないけど私の彼氏。憧れてたんだ~。いつか彼氏が出来たら素敵なデートするんだって。その夢はね、現実に叶う事は無かったけど。今日は本当にその夢が叶ったみたいで嬉しかった」

 葵は独り言を言ってるみたいな口調で僕に語りかける。僕はそんな葵の言葉をただ聞いていく。

「幸せな時間をありがとね、お兄ちゃん」

「・・・・・・まだその言葉は早いだろ」

 お礼なんて、むしろこっちが言いたいくらいだった。今日1日で僕の人生観ががらりと変わったのだ。言い過ぎかもしれないけど、僕にとっても今日の様な経験は憧れだったんだ。心のどこかで諦めていた日常。僕には普通の生き方なんて求める資格はないと。今の今まで思っていた。彼女は僕のそんな背中をそっと押してくれた。優しく暖かな手で。笑いながら見守ってくれていたんだ。それはきっと僕の為に。

「どうせ時間は無限にあるんだ。これから全部経験していけば良い。やりたかった事とか、諦めてた事、全部この夏に詰め込んでさ。あぁ楽しかったなって思えるまで。好きにしたら良いよ」

「ほんと?付き合ってくれる?」

「だって、恋人なんだろ?」

 仕方ないから付き合ってやる。そんな素直じゃない言葉を飲み込んで。僕は彼女の顔を見れずにそんな言葉を伝えた。

「お兄ちゃんてほんと、素直じゃないよね」

 ふふふ、と静かに笑う。遠くで歓声が聞こえる。遊園地の賑やかさが微かに伝わってくる。その喧騒が今は胸にすっと入ってくる。

「じゃあ・・・・・・もっと恋人っぽい事、しよ?」

 葵が体を起こすと僕の方を見る。僕もそれに呼応するかのように繋いでいた手を正面から繋ぎなおして両手で絡め合う。葵が目を閉じる。それを合図にゆっくりとお互いの顔を近づける。遠くで花火の音が聞こえる。瞼の向こう側から微かな明かりを感じる。

 数瞬の後、名残惜しさを感じながら唇を離す。

「えへへ、ちなみにファーストキスだったりして」

 照れくさそうに葵が笑う。

「誰が男女経験少ないだよ、全く」

「でもお兄ちゃんよりはコミュニケーション能力ある・・・・・・」

 反論しようとした葵にまた顔を近づける。葵は驚きながらそれを受け入れてくれた。もう体が言うことを聞かなかった。口を開けて葵の口内に進入する。唇をついばんで舌で葵を感じる。しばらく固く閉じていた彼女の唇も開いて僕の舌を受け入れる。舌が絡め合う。雄の本能が目を覚ましていく。心が彼女を求めている。思考がおぼつかない。握っている手に力が入る。握り返す彼女の手のひら。その体を花火の色が照らしていく。

 今日みたいな日をずっと過ごしていこう。

 お互いに体をむさぼりながら、夏の思い出に埋もれていく。


 *



 *


「という訳なんです」

「ふーん、なるほどねぇ」

 7回目の朝。僕は狭鳴に断りを入れて先生の館へと来ていた。夏休みかつ休日という事もあって、占い目的の先客がいるかもしれないと思ったがそれは杞憂だったようだ。先生、イリス=アーデルハイトは退屈そうに机に脚を乗せてあくびをしていたから今日も客の出入りは少ないのだろう。

 僕は早速ループ現象の事をいちから先生に説明し、過去にも先生に相談した事も話した。そして異端者の犯人を見つけたが納得するまでその人に付き合う事にした事も。

 しかし先生は苦虫を噛み潰したような表情で宙を睨んでいる。

「やっぱりその人を殺す方向じゃないと先生は納得いきませんか?」

 以前も先生に言われた事だ。異端に取り付かれた人間がそうそう納得する訳がないと。そんな簡単に納得できる事象であるならば異端現象など起きない。基本的にその大元ーー葵を殺すしかないと。

 だが先生は僕の言葉にあっけらかんとこんな事を言った。

「いやおかしいだろ。これだとまるで君が主人公みたいじゃないか。なんか納得いかんのよなぁ。そんなおもしろーー奇異な現象こそ私の身に起こるべき事だろ。私が主人公の怪奇譚のはずが、君が主人公になったティーンズ向けのジュヴナイル小説みたいじゃないか」

 僕はそんな先生の思惑にがっくりとうなだれた。

「先生そんな、子供じゃないんですから」

 しかも今面白そうとか言い掛けてなかったかこの人。

 そんな世界は自分中心に回っていると思いこんでいるような痛い思春期の少年みたいな事を真顔で言って欲しくなかった。でも事実彼女は異端解決の専門家であり、こと異端に関しては先生みたいな人こそ主人公で、僕はミステリーで言う所のワトソンですらない脇役には違いないだろうが。当の本人にあっけらかんと言われると呆れてしまう。

「む。飽くなき探求心だと言ってくれ。純粋さって言うのはこと幼稚さの象徴だと思われがちだが大切な事だよ。大半の人間がそれを忘れて大人になってしまう。こと大事な物事に関しては学校では教えられないものだ」

「僕にそんな事を言われましても」

 はぁ、と相づちを打つ事しか出来ない。

「そうさな、だからこれはちょっとした不満みたいなものだよ。君は気にしなくていい」

 そう言うと先生は姿勢を正して僕を見据える。

「以前私が言ったらしいね。異端者を殺せと」

「・・・・・・はい」

「そして君は異端者を殺さないと決めた、と」

「そう、なります」

 のどが枯れた感じがする。思わず生唾を飲み込む。

 そう言えば今まで僕は先生の助言に従ってきたが、こうして先生の言葉に相反するような、それこそ先生の好意に背くような事をしているのだ。

 自然と体がこわばってしまう。

 僕が決めた答えに自信が無くなってくる。

 それでも僕には幽鹿鷺葵を殺せない。殺す事は出来ない。

 僕はーー葵を殺さない。

 葵とこの終わらない夏を生きていく。

 そう決めたのだから。

 先生の射抜くような視線を受けながら僕は先生を見つめ返す。

 しかし。

 しばらくすると先生はふっと笑った。

「まぁ良いんじゃないか。なんて言うか君らしいよほんと」

「良い、んですか?」

「なんだい。反対されると思ったのかい。まぁ私の身に起きた事なら別だけどこれは君たちの問題なんだ。君が出した答えならそうすればいい。所詮私はこの件に関しては傍観者ですらないモブ役みたいなものなんだからね。問題にどう向き合うかは君が決める事さ。まぁ馬鹿だなとは思うけどね」

 僕はそんな先生の言葉に不思議な安心感を覚えた。僕の意志を肯定されたような、尊重して貰ったような気がして、自然と肩の荷が下りた気がした。

「でもどのくらい時間がかかるか分からない。もしかしたら何年も、それこそ何十年も君たちはループし続けるかもしれない。十中八九気が狂ってしまう可能性が高い。精神が壊れて廃人になってしまうだろう。それでも良いんだね?」

 僕はしっかりと頷いた。

 答えはもう決まっていた。いや決まってしまっていた。僕の預かり知らぬ所で、僕の心が僕を追い越してしまっていた。

「そうか、君も大人になったものだな」

「そうでしょうか。大人なら問題解決しそうなものですけど。僕のやってる事は結局問題を先送りにしてるような事ですし」

「解決するだけが大人の条件ではないよ。解決出来ない問題だってあるし、乗り越えられない壁だってある。本質は答えを出す事だ。君がどう歩いていくか。その答えを出せた者だけが本当の大人になれる」

 そう言って先生は僕の肩をバシバシとはたいた。

「歩いていくんだ少年。そこがどんな暗闇だろうと、光は君の中にある」


 *


 一息つく。

 占いの館の一室で気が抜けたように天井を眺める。

 僕はもしかしたら背中を押して欲しかったのかもしれない。他ならぬ先生に。僕の決めた事は間違ってないんだと、肯定して欲しかったのかもしれない。そうじゃなければこの感情の説明が付かない。

 僕はきっと大人になりたかった。

 そして僕が決めた道は多くの人が批判するだろう。だけれど先生はそうじゃなかった。この道を進んでいいか迷ってる僕をそっと押してくれたのだ。

 だからきっと大丈夫だ。

 僕達はきっと、大丈夫だ。

「でも先生は良いんですか。先生は確か異端現象を解決するためにこの街に来たんですよね。異端現象を放っておくみたいな事になっちゃってますけど」

「ん?前も言ったろ。異端に巻き込まれた人々を私は助けない。しかし手助けはするとね。解決するのはあくまでその本人なんだよ。例外として、私も巻き込まれてしまう程の異端なら話は別だけどね。それこそレベル4くらいの異端じゃなければ私は基本放置だよ。今で言うネグレクトっって奴だね」

 その言葉の使い方はなんか違う気もするけど。

 でもなんか初めて聞く単語を言ったような。

「先生その、レベル4って言うのはなんですか」

「あれ、話してなかったっけ。異端現象にはすべからくレベルがあるんだよ。まぁ本国で勝手に付けたレベルだけどね。異端現象はその脅威度によってランク付けされて、そのランクに応じた異端審問官が派遣される。私はレベル5以上が担当なんだがそんな異端はまれでね。今はこうして本国から出てきて売れない占い屋をやってるという訳さ」

「レベル5って・・・具体的にどんなヤバさなんですか」

「ん?災害レベル」

 そうして水を飲みながら僕にグッと親指を上げた。

 いやなんのボディランゲージなんだそれは。もしかして自慢しているのかもしれない。意外と子供っぽい所がある事が最近分かってきた。

「ちなみに僕の異端のレベルはどのくらいなんですか」

「レベル2。雑魚も良いとこだよ」

「雑魚って・・・・・・」

 もっと言い方は無いのだろうか。いくらレベルが低かったとしても僕にとっては命の危機だったのだからそんな事で悩んでいた自分に悲しくなってしまうじゃないか。

「ちなみに今僕が使えるヘレティックについても」

「同じレベルだね。基本的に起きた異端現象以上の事は出来ないから、君はレベル3以上の異端現象が起きたら大人しく逃げた方がいいね」

「え、でも今起きてるループ現象って」

「まぁ今回は例外みたいなものだよ。対象は街全体だからレベル3だけどそこまではた迷惑な異端じゃない。異端としての力は君よりも上だが本人に戦う意志は無いようだしね」

「なるほど・・・・・・」

 どうやら僕は知らない内に危ない橋を渡っていたらしい。幽鹿鷺に取り付いているヘレティックを解決しようと思っていた自分に水を掛けてやりたい。僕のヘレティックは弱い。今後は慎重にならなければいけない。

「君の知ってる限りだと幽鹿鷺君に取り付いている異端はあとは鹿と鷺だったな。間違いはないね?」

「はい。おそらくですけど」

 いつか見た幽鹿鷺のノートにも子鹿と親鷺が出てきていた。翠さんも同じ事を言っていた。もっとも、彼女が嘘を付いている可能性もあるけれど。

「じゃあ多分今回は子鹿だな。鹿っていうのは死と再生の象徴でね。ほら鹿って角が1年毎に生え替わるだろ。そこからそういう伝承が生まれたんだろうね。まぁ伝承が先か現象が先かは分からないけど、一日の終わりと始まりを繰り返す。それが鹿の異端現象なんだ。まぁ世界全体をループさせてる訳じゃないからあまり成熟してない鹿なんだろうけど」

 それで鹿、子鹿の異端か。

「だから前回の私は君にも子鹿の異端を殺せると判断したんだろうね」

「僕の異端は結構戦闘向き。って事ですよね」

「まぁね。でもだからって調子には乗るなよ。あくまでレベル2の中ではって話だ。そういう意味ではあの幽霊を頼ってもいい。彼女の異端は凄く強い。何せ土地とその街に住む人々の呪いとか祈りとかでブーストかかってるからね」

「翠さんですか。彼女はレベルだと・・・・・・」

「レベル4。1つの街を滅ぼせるレベルだ」

「は?」

 思わず間抜けな声が出る。

「先生は、そういう事知っていて僕にあの事件を解決させたんですか?」

「え、そうだよ」

 思わずため息が出る。なんでそんな事を黙っていたんだろうか。

「まぁあの事件に関しては異端そのものを殺す必要はなかったからね。あくまでその付随現象に過ぎない。だから君を送り込む手助けをした。なんだい不満かい?」

「いえ、まぁその事は良いですけど」

 事実先生がいなかったらあの事件は解決出来なかったからなんとも言えない。

「それにレベル4と言ってもこの土地限定の話さ。この土地意外ではあの幽霊は大きく力を失うし、何よりそこから出られない。非常に限定的なヘレティックなんだよ」

「なるほど」

 だからと言ってそのレベルのヘレティックに立ち向かわせようとしたのっだからこの人はもしかしてたちが悪いんじゃなかろうか。いや感謝してるけども。

「なぁに、君を信じていたんだよ」

「そう言われると何も返せませんけど」

 なんて都合の良い言い方だろうか。

 まぁ、とにかく僕のやるべき事は決まった。後は夜留多と翠さんに報告するだけだ。あの2人が僕の答えに納得してくれるか分からないけれど。

「それじゃ今日は帰ります」

「あぁ。また何かあれば来なさい。その時はいつかの私が話を聞くだろう」

「はい」

 そう言って僕は席を立ち、占いの館から出ようと扉を開ける。

「あぁそうそう言い忘れてたけど」

 そんな時に先生はこんな事を言い放った。

「ヘレティックのレベルは5までじゃない。その上のヘレティックと出会う事は間違いなくないだろうが、万が一出会ってしまった場合は報告してくれ」

 深淵が見える。

 世界の裏側を知ってしまったようなそんな感覚が背中をつたう。

「その異端はどのくらいの力を持ってるんですか?」

「レベル6」

 室内の照明が先生の顔を怪しく照らしていた。

「世界の危機(ワールドクラス)だよ」


 *


 その後。

 僕は繁華街からバスに乗り水族館へと向かった。もちろん幽鹿鷺逹と合流する為ではない。僕の目的は他にあった。バスから見た窓の風景はゆっくりと陽光を照り返していた。夏の日差しは明るい。僕には少し眩しいくらいに。

 この後あの2人にどう説明しようかと考えてはみたが、妙案などすぐに思いつくべくもなく、考えがまとまらない内にバスは海の近くまで到着する。ここの水族館、前川町マリンピアは海沿いにある。

 バスから降りるとすぐに陽光が僕の肌を熱く照りつけてくる。むせかえるような暑い空気が僕の肺に入り込む。

 そのままバス停沿いに据え付けられたベンチに腰を掛ける。遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。毎回聞いている筈なのだが、今日に限ってははっきりと聞こえていた。それはまるで水面に浮き出た泡のように僕の耳に張り付いていた。暖められたアスファルト。あまりの暑さでゆらゆらと揺れている風景。僕はそれをただ無味乾燥に眺めていた。

 まだ時間は正午を回ったばかりだ。幽鹿鷺逹は既に葵と合流して昼食を食べている頃だろう。その時間を見計らって僕は夜留多に連絡を飛ばしていた。

 ベンチの背もたれに体を預けながら夏空を見上げる。そこにはゆったりと流れる雲があった。何故だか僕はそれになりたいと思った。

「こんにちは。隣良いかしら」

 そんな僕を上からのぞき込むように麦わら帽子が入り込む。

「ええどうぞ。丁度空いている所だったんです」

「それじゃあ失礼するわね」

 翠さんはそう言って僕の隣に座ってくる。上品らしい所作が彼女にはとても似合っていた。

「貴方が来なくてとても寂しがってたわよあの子」

「それは本当に申し訳ないと思っています」

「それ、反省してない人間が言う事よ。たとえそうなるとしても何かをやる必要があったっていう言い訳に聞こえるわ」

「なんだか今日の翠さんは手厳しいですね」

「だって貴方昨日来ないんだもの。流石の私も暇しちゃうわ」

「そう、ですよね。退屈ですよね」

 そこまで言うと翠さんは僕の顔を見る。

 そして何かを言おうと口を開いた時。

「やぁやぁ親友。ここまで呼び出してどうしたんだい。しかも翠さんにも伝えておいてくれなんてさ」

 新たな声が聞こえた。見ると、いつも見る白衣姿のままの夜留多鼎が手を振って僕のベンチの近くまで歩いてきていた。

「ここに僕達を呼び出したって事は例の作戦会議だろう。昨日は丸1日いなかったんだし、何か進展でもあったんじゃない」

 そう言いながら夜留多も僕の隣に腰を下ろした。僕の口は第一声を発そうとしたが、何か鉛でも付いてるみたいに動かなかった。

「僕には殺せない」

 なんとかそれだけを口に出す。

「あの子を殺す事なんて出来ない」

 自分の膝を見つめる。2人の顔が見られない。会わせる顔がなかった。僕が言った事はつまり、2人ともこの終わらない夏に閉じこめるという事を意味しているのだ。取りようによっては2人を裏切って葵側につくということ。そんな事がただ申し訳なかった。僕の決断にこの2人を巻き込みたくなかったのだ。そんな感情に今気付いた。

 長い沈黙が下りた。

 ただ波のせせらぎと蝉の声、館内から微かに聞こえるざわめきだけが聞こえる。

「ま、良いんじゃないか」

 その声を聞いて僕はゆっくりと顔を上げる。

「前も言ったけどさ、僕は今の日常嫌いじゃないんだぜ?少なくとも旭が一緒なら僕は退屈しないしね。むしろ望むところだ」

 そう言って夜留多は肘で僕を小突いてくる。

「そう、まぁ予想はしていたけどね。貴方に異端殺しなんて出来ないって。それこそ人の形をしているなら誰だって難しいもの」

 翠さんも足を組んで片膝に頬杖をつく。

「どうせ昨日あの葵って子とどっか行ってたんでしょ。それで尚更情が湧いてどうにもならなくなったと」

「まじかよ、流石の僕も3股はドン引くぜ親友!」

「いや、それは・・・・・・!」

 否定しようと思ったが否定出来なかった。

「しかも幽霊の女の子よ」

「まじかよっ、守備範囲広すぎだろ親友!」

「いや違うって!」

 口では否定したものの、結局否定出来なかった。

「同じ幽霊の私でもそれはどうかと思うわ。いくら現実の女の子に見向きもされないからって女の子の幽霊を狙うとか・・・・・・ねぇ?」

「ぐっ・・・・・・!」

 僕が気にしている所を!

「ていうか、それならなんで私を狙わないのよ! そんなに若い子が良いっていうの! この小児性愛(ペドフィリア)!」

「いやなんでそこで浮気された女性みたいな事言うんですか!」

「あーあ。相馬君は年上じゃなくて年下好きだったかぁ」

「ちなみに親友。いくら女性だからって僕にも欲情しないでくれよ?流石に手当たり次第じゃ僕も身の危険を感じてしまうぜ」

「そこまで脳がイかれてはいない!」

「そう言えば年下好きって同年代はセーフなのかしら。そこんとこどうなの?具体的に言うと幽鹿鷺ちゃんの事どう思ってるのよ!」

「いや幽鹿鷺はその、女性として魅力的に思ってはいますけど」

「同年代もいけるらしいわよ夜留多ちゃん!」

「身の危険!」

「だから違うって!」

 そこまで言うと僕らは静かに笑いあった。馬鹿みたいな話。夏の一幕。同じ日常は退屈かもしれないけど、この2人となら悪くはない気がした。

「まぁ気楽にやっていきますか」

 夜留多はベンチから立って空を見上げる。空の雲は変わらずゆっくりと流れていた。


 *


「あ、やっと来た」

 夜留多と翠さんと共に水族館へ入ると、ロビーで狭鳴逹がくつろいでいた。四角い色付きのソファーに3人共座っている。幽鹿鷺はじゃれている葵を相手にしているようで、葵が楽しそうに幽鹿鷺の携帯をのぞき込んでいるのが見えた。

 狭鳴は携帯から顔を上げ呆れた目で僕を見た。

「ごめん、遅れた」

「そっちから誘っておいて本人が遅れてくるとかどういう事よ全く」

「返す言葉もありません」

 狭鳴はそう言うとソファーから体を起こす。

「こっちは幽鹿鷺さんとはほぼ初対面なんだから少しは気を使ってよね」

「お兄ちゃん!」

 声の方を振り向くと、葵が狭鳴と僕の間に割って入るようにして体をこちらに預けてきた。そしてごく自然な動作で(この場においては不自然極まりないが)僕の腕に腕を絡めてきた。

「お、おい葵・・・・・・」

「もう、遅すぎ!何やってたの~」

「何、2人とも知り合い?」

 僕らの様子を見て幽鹿鷺が不思議そうな目で疑問を呈してきた。対して狭鳴はジトっとした目で僕を見ている。気持ち蔑むような視線だった。事情を知っている夜留多は僕の後ろで笑いをこらえていた。

「あ、ああちょっとした知り合いでね。偶然今日水族館に来るって言ってたからどこかで合流する予定だったんだ」

「は?」

 絡まれてる腕に力が込められる。ちょっと痛いんですけど。思わず葵を見ると不満げな表情で僕を見ていた。

「それにしてはその子、迷子って言ってたけど」

「あはは、この子昔から方向音痴でね!待ち合わせの場所が分からなかったんじゃないかな」

「はぁ?」

 更には足を踏んづけてきた。痛い!全体重を乗っけてきてやがる!

「それより待たせちゃった事だし早く見て回ろうか。ほらせっかく来たんだし」

「それもそうね」

 狭鳴はそう言うと僕のすねを蹴ってから颯爽と水族館に消えていった。

 僕は痛みのあまりその場にくずおれた。


 *


「何怒ってるんだよ」

「べっつに~」

 その後。

 夜留多と狭鳴、幽鹿鷺は3人で水族館を見て回っていた。僕の知り合いという事で葵は僕に任せるといった風だった。というか葵が僕から離れようとしないので自然と放っておこうという雰囲気になったようだ。女子3人という事で中々悪くなさそうな雰囲気だった。

 一方こちらはというと何故か葵が不機嫌だった。

「どうせ私はちょっとした知り合いだもんね」

「いや、あれはあの場はそう言うしかなかっただろ」

「男なら堂々と彼女ですって言うべきじゃないの」

 いや僕にそんな甲斐性を求められても。

「どうせ方向音痴だし~」

「悪かったって。お前だって人前で抱きついてくる事ないだろ」

「何よ、どうせ皆今日の事は忘れちゃうんだからいいじゃない」

「そう簡単に割り切れないって」

「ふんだ!」

「おいおい・・・・・・」

 そう言いながらも僕の腕を離そうとしないのは何故だろう。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんの事好きなの」

「なんでその話になるんだ」

「だってそうでもなきゃ隠す必要ないじゃない」

「いや単純に恥ずかしいだろ」

「それともあの狭鳴って人の事が好きなの?」

「あ、いや・・・・・・」

 言われて考えてみる。幽鹿鷺の事は意識している。これは間違いない。狭鳴とだって今は気まずいが、恋愛感情を抱いてないというと嘘になってしまうだろう。そして夜留多に関しては親友と呼んでくれる事は嬉しいが同時に寂しさを感じてしまう時がある。ある種僕としては女性として見てしまう節もある。

 あれ、僕ってもしかしてクズ人間?

「あ」

 考えてしまって言葉に詰まった事が失敗だった。葵は僕から腕を離すと足早に僕を置いていこうとする。

「ちょっと待てって」

「知らない!」

 なんだこれ。今どういう状況なんだ。これじゃまるで痴話喧嘩してるカップルみたいなシチュエーションじゃないか。いやまるでも何もそうなのかもしれない。

 早足で追いかけるも葵は僕を振り返ろうともしない。周りからはそんな僕達を奇異な目で見ているのが感じられた。

 これは、あれか?

 あの言葉を言うしかないのか?

 こんな人前で?

 いやでもそんな事ぐらいで機嫌が直るものなのだろうか。いやしかしそうでもしないとこの状況はまずい。下手をしたら葵はずっと不機嫌なままだろう。

 僕はため息を一つ吐くと、葵の後ろを付いて行きながら、拳を口の前まで持っていき他の人に出来るだけ聞こえないように言葉を絞り出した。

「お、お前が1番だよ」

 思ったよりかすれた声が出た。顔が急に熱くなる。顔が赤くなってしまっているのが自分でも分かる。恥ずかし過ぎて穴があったら入りたい。

 葵は耳をぴくりと動かすと急に動きを止めた。

 自然と体がぶつかってしまう。

「もう一回言って」

「え」

「もう一回言って」

 まじでか。さらいでか。

 思わず辺りを見回してしまう。人々は相変わらず往来で立ち止まっている僕達をちらちらと見ていた。

 僕は視線を宙にそらしてしまう。

「だからお前が、1番だって」

 なんだこの見せしめ処刑みたいな現場は。恥ずかしくて死にそうだ。

 しかし件の葵は振り向くと無表情な目で僕を見つめてくる。

「誰がなんの1番なの?」

「まだ言わせる気か」

「だってお兄ちゃんの声小さいから良く聞こえなーい」

「くっ・・・・・・!」

 葵はそう言って僕の顔を前から横にへと見てくる。

 こうなりゃヤケだもう。

「葵が1番好きだよ」

「きゃーっ」

 その悲鳴にも似た甲高い声の方を見ると女子高生らしき2人組が僕らの事を見ていた。僕と目を合わせるとサッと背中を向けてひそひそと話し合ってる。

 あぁ、なんだろうこの気持ち。

 全てが0になる。

 真っ白に燃え尽きたよ。

「じゃあ私ってお兄ちゃんの何?」

「恋人・・・・・・」

 なんだか無力感に苛まれながら脱力したままそれだけ呟く。

「きゃーっ」

 また甲高い声が聞こえたが見ない様にした。

 葵はまだ憮然とした表情だったが、やがて笑顔に変わった。

「ふっふーん」

 何故か偉そうだった。

「しょうがないなぁお兄ちゃんは。許してあげる」

「しょうがないのはこっちだよ全く」

「じゃあほら行こ」

 葵はまた僕の体に腕を絡めるとまた歩き出した。

「今日は水族館デートだね」

「ほぼ毎日来てるだろ」

「気分が違うの、気分が」

「はいはい」

 何はともあれ機嫌が直ったらしい。

 僕らはそれから水族館内を見て回った。周りからは恋人にしか見えないだろうなと思いながら。


 *


「ほら」

「お兄ちゃんの分は?」

「僕は良いよ」

「そーう?」

 水族館外れの庭。

 ペンギンロードとか名付けられたその脇のベンチで葵にアイスを手渡す。葵はアイスが好きなようで、前と同じくねだられてしまった。そんな所はまだ子供っぽくて愛らしいな、と思った。

「ほらほらここ座って」

 そう言ってポンポンと自分の隣をたたく。

 素直にそこに座る。遠くに見えるペンギン逹の群れを取材に来ているのか、テレビ局らしき人たちが大きなカメラを持ってペンギンを映している。

「ほんとに好きなんだな、アイス」

 少し手持ち無沙汰になったのでなんの気なしに尋ねてみる。

「おいしいからね、ちょっと食べる?」

「じゃあ、ちょっとだけ」

「はい、じゃ顔こっち向けて」

 葵はそこから目を閉じて唇を僕に合わせてきた。

 僕は驚いて少しも動く事が出来なかった。

「きゃーっ」

 また甲高い声が上がった。さては付けてきてたな。

 もうどうでもいいやと思いながら葵の唇の感覚に身を預ける。

 甘いシトラスの味がした。

 そこから熱いものが僕の口内に侵入してくる。僕はそれを受け入れるように少し口を空けて迎え入れる。舌が絡め合う。葵の息づかいが大きく聞こえる。

「うわ、うわわ」

 少し後ろでバタバタと音がする。その音が遠ざかる。葵から体を離して見てみると、後ろにはもう誰もいなかった。

「もしかして人前でこういう事するの好きなのか?」

「だって後を付けて来ててちょっと邪魔だったんだもん」

「でもこういうのは2人きりでなぁ」

「良いじゃん今は二人っきりだよ」

「2人きりにしたんだろ」

 なんだか振り回されてばっかりだった。

 葵は片腕で僕の腕を絡んでくると、もう片腕でまたアイスを楽しみ始めた。

「それ、食べづらくないか?」

「良いの。恋人っぽくて良いでしょ」

「そんなもんかね」

 葵はそう言った僕の肩に頭を預けてくる。自然とそうした方が良いような気がして僕は腕を葵の肩に回した。葵が僕の胸元で嬉しそうに微笑んだ。

「にゃー」

「なんだそれ」

「猫の鳴き真似。可愛いでしょ?」

「はいはい、可愛い可愛い」

「心がこもってないし」

 ほんとにじゃれてくる子猫みたいだった。

「あれ、お兄ちゃん興奮してる?」

「え」

 ふと見ると葵がとある一点を凝視していた。男のSAGA。何せさっきそういう事をしていたのだ。体が反応しない訳がない。最近実感した事だが、女性と手を繋いだり腕を絡め合っていると男の本能で反応するらしい。遺伝子レベルで刻まれてるものだから決して自分がやましい訳ではない。おそらく。たぶん。

「お兄ちゃんて結構性欲強いよね」

「いや男は皆こうなるんだ」

「絶対嘘だし」

 葵はアイスを食べ終えるとベンチから腰を上げ、僕を引っ張っていく。

「それじゃあいつものとこ、行こ?」

 僕はそれに反対する事は出来なかった。


 *


「性欲が強いのはどっちだよ」

「だって気持ちよかったんだもん」

 トイレから出てくるといそいそと2人で往来の場に戻る。葵は気持ち顔が上気していた。まだ体の興奮が残っているのか、息が少し乱れていた。

「はぁー。中出しされるの気持ちいい」

「お前、もう人前だぞ!」

「だって癖になりそうなんだもん」

「とにかくそろそろ良い時間なんだし皆と合流しよう」

「はーい」

 上から見下ろして皆を探すためにテラスへの階段を上る。すると葵が僕よりも更に上の段で立ち止まる。

「ねぇねぇ、男の子ってこういうの好きでしょ」

 そしておもむろにスカートを両手でたくしあげた。

 そこにはまだ熱を持った液体が太ももの辺りをつぅと垂れているのが見えた。

「どう?」

 葵の体を陽光が反射して扇状的に映している。

「・・・・・・エロい」

「ふふっ」

 微笑んだ口から舌がちらりと顔を覗かせる。

「やーい、お兄ちゃんのエッチー」

 そう言って葵はぱっぱとスカートの裾を握って隠すような仕草をして僕から逃げていく。

 本当に僕は彼女に振り回されてばかりだ。


 *


 僕はどこへ行くんだろうとふと思う時がある。

 僕らの国は1945年に敗戦して以来、資本主義社会と化し発展してきた。その時組まれた社会が人材の量産化だった。教育が義務づけられ、社会にレールが敷かれた。そのレールをただ辿っていけばいいと僕らは大人に仕組まれている。

 そして僕は今の所その通りに生きている。それは僕が決めた事ではなかった。ただ物心付いた時にはそういう風だと刷り込まれていたから、その刷り込みを自分から消すことは出来なかった。そういった活力が僕にはきっと不足していたのだろう。

 だが今年になってそれが崩れた。僕は異端者となり自然とそういった社会から切り離された風景を目の当たりにしてしまった。世界の裏側、真実の場所、明日の国。

 それ自体にはなんの不満もなかった。僕はこうしてまだ日常をかろうじてだが保っているし、先生のおかげで一命を取り留めた。だが同時に怖くもあった。普通の人々と外れた道を行く。そこには保証もなければ確かな道もない。ただ未知の荒野があるだけだった。僕はそこに道を作らなければいけなかった。方法は誰も知らない。誰かにどう生きればいいのか教えを請う事も出来ない。

 誰かに背いて違う事をするという事が僕に言いようもない不安を感じさせた。だから僕は道を作る事に忙しくて行き先がどこかなんて分からなかった。僕は道を選んだだけで、その先がどこに繋がってるのかは分からない。

 そもそも、僕はどうして歩かなければいけないんだろうと。

 果たして僕はどこへ行き、何をするんだろう。

 そんな命の使い道が分からないでいる。


 *


 皆と解散した後、いつものように葵と街へと繰り出した。と言ってもここ数日で街にあるレジャー施設は踏破してしまったので、今日は公園に来ていた。街明かりは明るく、陽の落ちた公園を薄暗く照らしていた。公園にはまだ子供たちやそれを見守る家族たちが見えた。彼らは穏やかに日常を謳歌している。

「これからどうするー?」

 葵はブランコに乗りながら僕に笑いかける。ブランコの音がキコキコと申し訳なさげに微かに鳴いていた。

「と言っても街にあるとこは大体回ったしな。後はカラオケとか飯屋とか、後はプールとかもあったかな」

「あ、泳ぎたい!海行きたい」

「プールじゃなくて?」

「プールじゃなくて」葵は僕の言葉をそのまま繰り返した。「海がいい」

「それならまた今度行こう。もう遅いから今日は他のとこな」

「はーい」

「他にはないのか?」

「遊園地はこの前行ったしー、映画も見たしー、後は温泉旅館とかも行ってみたいな」

「わざわざ旅館なのか」

「大衆浴場よりは二人っきりで楽しめる方が良くない?その方がイチャイチャ出来るし」

「それくらいならどこでも出来るだろ」

「雰囲気が大事なのー。特別感っていうの?あ、今日は大事な日なんだなーって気持ちに浸りたい」

「女心は分からないな」

「そうなの。お兄ちゃんが思ってるより複雑なんだから。ちゃんと汲み取って大事にしてよね」

「はいはい。あぁ明日はフラワーパークにでも行くか。街外れにあるんだよ。夏休みだから混んでるかもしれないけど」

「いいじゃん行こう行こう」

「引きこもりとしては気が進まないけどな」

「私のおかげで大分経験積めたんじゃないの?」

 葵はこう言う時決まって褒めてもらいたがっているパターンだ。

「葵のおかげだよ」

「へへー」

 そして褒めてあげるといつもにこやかにはにかむ。僕らの境遇を忘れてしまうくらい爽やかな笑顔だった。

「葵の行きたい所に行こう。時間はたっぷりあるんだし文字通り飽きるまでな」

「ん」

 何も考えずにそう言ったら葵はきょとんとした顔で僕を見た。そして唐突にニヤニヤし始めた。

「お兄ちゃんもしかして私にデレてきた?真顔でそんな事言うなんて恥ずかしくないのー」

「え、まじ?」

 僕は感情に疎いと思っていたが、確かにこんな事は今まで幽鹿鷺にも狭鳴にも言った事はなかった気がする。僕は本当に彼女に気を許しているのかもしれない。

「葵は魅力的だからな」

「う、やめてよ。正面からそんな事言われたら照れちゃうじゃん」

 そう言って腕で顔を隠す。

「今更何言ってんだよ。いつも僕に言わせてるじゃないか」

「言わせるのと言ってもらうのとは違うの、もー」

 そう言ってまたブランコを漕ぎ出す。公園の時計は7時になろうとしていた。

「そろそろ帰るか」

「あ、今日はお兄ちゃん家行きたい」

「いいよ、行こう」

 葵は普段僕が帰った後は街をブラブラして過ごしているらしい。それを知った僕は1度彼女を家に誘った事がある。「わーいお姉ちゃんより先に入っちゃった」と葵は騒いでいた。その夜は一緒に料理をして、風呂に入って、そのまま一緒のベッドに入った。僕はリビングで寝ると言ったが葵がそれを引き留めた。

「一緒のベッドがいい」そう言われてしまうと僕は何も言い返せなかった。不思議とその夜はお互いリラックスしてそのまま寝てしまった。葵は久々のベッドだったのか、僕よりも早く眠りについた。手は僕のパジャマの裾を握っていた。そうしてそんな1日は終わった。

「今日はエッチしようねー」

「昼にもうやっただろ」

「お兄ちゃん家ではまだだもん」

「ていうかもう僕の家で寝泊まりしないか?わざわざ水族館で会うのも変な話だし」

「え、それ同棲じゃん。やば」

 意外とギャル語を使いこなしている。

「何がやばいんだ」

「いやー同棲ってやってみたかったんですよ。これでまた一個夢が叶いました」

「なんで敬語」

「でも実はお兄ちゃんから言ってくれるの待ってたんだ。へへ、嬉しい。でももうちょっと早く言って欲しかったな」

「そんなプロポーズでもあるまいし」

「そんなもんなのー。女の子はそういうちょっとした事が嬉しいんだから。ここメモっといてね」

「はいはい。じゃあ帰るか」

「れっつごー」

 葵は勢いよくブランコから降りるとそのまま僕と並んで歩き出した。そして裾をくいくいとつまんでくる。いつもの合図だ。僕は葵の手を取るとしっかりと指を絡めた。葵の手はいつも暖かかった。

 そして公園の敷地から出ようとする。

 その時。

 人がいない事に気付いた。

 さっきまでいた子供たちが、家族が、誰もいなかった。それだけではない。公園の外からもざわめきが聞こえない。公園の周りは住宅街だったが、そこからも明かりが一切消えていた。遠くから聞こえるはずの街の喧騒や低音で唸る車の排気音でさえ耳に全く届いてこない。

 全くの無音。

 聞こえるのは僕と葵の足音だけ。

「お兄ちゃん何してるの」

 葵はこの状況にまだ気付いていないのか場違いなトーンで声を出した。

「何か、おかしい」

 辺りを見回す。不審な点はどこにもない。ただ人と音が消えただけ。それだけの筈なのに僕の心臓はまるで早鐘のように脈打っていた。

 

 朱は血の色、華の音。

 蒼は空色、虚の音。

 緑は果てなく、空の音。

 朱は生命、蒼は宇宙。

 そして緑は星の元。


 どこからか鈴の音が聞こえる。街灯が遠くから順番に消えていく。公園が黒に染まる。そこにはただ月明かりだけがぼんやりと佇んでいた。そして聞こえてくるのはただ、一対の足音。


 我は星の体現者。

 異端とは即ち星の敵なり。

 守護者として執行する。


 雲の合間から月明かりが指していく。天使の梯子(エンジェルラダー)がその一点を照らし出す。一点の曇りもない純白のワンピース。川を想起させる艶やかな長い緑髪。そして肩に咲く一輪の向日葵。


 星の守護者として。

 理に反する不敬者に刑罰を。

 制裁者荒羽場木(あらはばき)翠。

 贖罪の鎮魂歌を歌いましょう。


 公園の入り口。麦わら帽子で隠れていた顔を少しあげて眼を現す。

 彼女は月明かりの中でそっと不敵な笑みを浮かべた。

 グリーンゴースト。

 翠さんがそこに立っていた。


 *


「翠さん・・・・・・?」

 僕の声帯が震える。しかし僕の声は夜の街に吸い込まれてしまったかのようにあてもなく公園の空気を静かに震わせただけだった。

「え、誰あの人」

 葵が僕の背中に隠れるようにして服を掴んでくる。葵を守るように僕は少しだけ前に出た。翠さんの視線は目の前にいる僕ではなく、ただ真っ直ぐに葵を見つめていた。不敵な笑みは消えることなく、ただ深さだけを増していた。

「悪いわね、相馬君」

 そこで初めて僕を認識したかのように、僕の存在を思い出したかのように、僕に向けてにっこりと微笑んだ。満面の笑み。暗闇とは不釣り合いな野原に咲く1輪の華のように。その不対照さが不気味に映えていた。

「今の私は幽鹿鷺ちゃん。と言っても姉の方の碧ちゃんに付いているヘレティックなの。いつか言ったでしょう。私はただの願望実現機に過ぎない。碧ちゃんの願望を無意識に察知し叶える存在なの。あの子は未来を望んでいる。言っている意味は分かるかしら?」

 その間も翠さんの歩みは止まらない。ただ機械的に、無作為にゆっくりとした足取りで距離を詰めてきている。

「だから貴方の存在は碧ちゃんにとって不都合なものなの。彼女を未来へと進ませるためには、どうしても排除するしかない。そして相馬君にはそれが出来なかった。と言っても最初から出来る訳がないとは思っていたけれど、まさかそこまでその子に肩入れするとは予想外だったわ」

「つまり、何が言いたいんですか」

 肩が震える。指先が強ばるのが分かる。本能が警告音を鳴らしている。冷や汗が喉を伝う。口の中がぱさぱさに乾いていた。崩れそうになる足を何度も力を入れて踏ん張る。

「あら。ここまで言えば分かるでしょ?」

 そうして。

 彼女は腕を袈裟懸けに一振りした。

 一瞬の閃光。翠色の煌めき。

 僕の視覚がそれを認識した時、強い衝撃が体を走った。地に着いた足の感触がなくなり、景色がブレる。体が行き場を失い、ただベクトルを辿り、意識が軽く吹き飛ぶ。

「お兄ちゃん!」

 背中に強い衝撃があったと同時に僕の体は止まった。呼吸が出来ない。体の節々に痛みが残っていた。辛うじて眼を開けると、遠くで翠さんと葵が僕を見ていた。

 何をされたか分からなかった。ただ腕を振り下ろされただけだ。それだけで僕は50mもの距離を吹き飛ばされてしまった。何も出来なかった。ちょっとした反応ですらも。それは僕になんの猶予もなく行われた。

「貴方はもう何もしなくていいの。後は私の仕事よ」

 翠さんが静かに葵に近付いていくのが分かる。葵は状況が飲み込めないのか、呆然と体をすくめ立ちすくんでいる。

「何を、する気、ですか」

 本当は彼女が、翠さんが何をする気かは分かっていた。しかしそれでも聞かずにはいられなかった。僕と翠さんの間には友好が、少なくとも好意的な何かが生まれていたはずだ。そんな関係が壊れることを、壊されてしまう事を認めたくなかった。

「この子を殺すわ」

 葵が声もなく息を呑む音が聞こえた。

 やはり、そうか。

 僕は立ち上がる。立ち上がらなければならない。

「待って下さい。話を、させて下さい」

「もう話す事はないわ。貴方はこの子に何の制裁も下せず、存在する事を見逃す。そう心に決まっている。だから私がやる。そこに裁定の余地は無い」

「待って下さい。葵が満足すればループ現象は終わるんです。それまで待てばいいだけの話じゃないですか」

「貴方はその話を鵜呑みにしたの?この子は明確な目的を持って異端と相成った。それは碧ちゃんへの怨恨。碧ちゃんへの妬み嫉みがその根元。根元がある限りループ現象は続いていく。言わばこのループ現象は碧ちゃんを閉じこめる牢獄のようなものなの。そこに碧ちゃんを閉じこめて明日へは行かせない。その基本骨子がある限り貴方が何をした所で変わる状況じゃないの。待ってるのはただ無間の廊下。この異端を殺さない限りメビウスの輪が開く事はない。そんな子が満足する訳ないじゃない。碧ちゃんが死んでしまえば話は別だけどね」

 唖然とする。

 そういう事、なのか。

 ただ無念のままに死んだから、その無念を晴らす為ではなく。生きていた時にやりたかった禍根を絶つ為ではなく。ただ幽鹿鷺を永遠に足止めさせるためにこのループ現象が起きている?

 僕は葵を見る。

 葵は僕を見て、瞳を何回か泳がせた後に、耐えられなくなったように僕から顔を背けた。

 ならおそらく彼女が、葵がこの夏で満足する事はない。

 幽鹿鷺が死ぬ事でもなければ、ループが解消される方法はない。葵を満足させる方法はーー幽鹿鷺を行かせない事。その意味では葵はもう満足していたのだ。この現状に、誰より1番満足していた。

「つまり幽鹿鷺ちゃんが死ぬか、この子が死ぬかの2択だったのよ。最初からね。貴方は他人に関心がないと自分で思ってるようだけど。その実誰よりもお人好しで甘ちゃんなのよ。どちらを取るか、取捨選択する事が出来ない大人になれない子供。でもいいわ。そのために私がいるんだもの」

 翠さんは歩みを始める。葵の方へ向かって手を伸ばし始める。

 急いで立ち上がる。まだ腹部に鈍痛が残っていたが、微かな意識で二人の間に走り寄る。

「あ、そうそう。邪魔はしないでね」

 翠さんがにこやかに僕へとはにかむ。

 その朱い眼に目が吸い寄せられる。

 その瞬間、僕の体は言うことを聞かなくなり、無抵抗に不作法に土に倒れ込む。顔が砂で擦れる感覚。片腕に走る衝撃の痛み。

「お兄ちゃん!」

 何度も味わった感覚だ。体が動かない。声を出す事も出来ない。ただのどの奥で声にならないくぐもったうねりが声帯を揺らした。金縛りの魔眼。グリーンゴーストが持つ異能。レベル4のヘレティックの一端。圧倒的な実力差がそこにあった。

「さてそれじゃぱっぱと終わらせちゃいましょうか。あなた程度の異端なら野原に潜む蟻を踏みつけるくらい簡単に殺せるわ」

「いや、いやだよ・・・・・・」

「恨むのなら碧ちゃんじゃなくて私・・・・・・私がそもそも恨みの権能みたいなものだから私を恨むのはお角違いね。そうね。貴方の生まれを呪いなさい。幽鹿鷺の家系に生まれた、ただそれだけの事よ」

 翠さんの手が伸びる。葵に向かって伸ばされる。

 どうする。僕はこうして黙って葵を見殺すのか。地に伏せたまま、ろくに別れの言葉も告げられないままで。

 分かっている。分かってはいるんだ。

 僕には金縛りの魔眼に対抗出来る力がある。だがその先はどうだ。あの翠さんに適うのか。この僕が。たかがレベル2と評された力が、災害レベルの異端に。

 そもそもループを終わらせるには葵が死ぬしかない。他に対抗策はない。ただの時間経過でも葵は満足しない。なら、この現状を。この現実を受け入れるしかないんじゃないのか?この夏を、葵と過ごした夏を終わらせるしかないのか。葵が死ぬのを黙って見ているしかないのか。

 脳裏に葵の笑顔が蘇る。水族館で出会った生意気な女の子。映画館で恋愛ドラマにのめり込んでいた女の子。遊園地で僕の手を引いてくれた女の子。僕のベッドで安心したように眠った女の子。そんな彼女を、僕は見捨てるしかないのか?


 →戦う

 見捨てる


 無理だ。救えない。

 どう足掻いても翠さんに勝てる訳がない。相手は40年もこの街の感情を力にした化け物だ。僕なんかの力が適う訳がない。


 →戦う

 見捨てる


 そもそも仮にこの場を切り抜けられたとして。その後はどうなる。ずっと永遠にこの夏を過ごす事になるんだぞ。未来もなければ明日もない。ずっと同じ日常を繰り返す事になる。そんな事態は誰も得しない。


 →戦う

 見捨てる


 それでも。

 それでも僕は。

 彼女を見捨てたくない。見捨てられない。

 僕は彼女のいない未来を生きるくらいなら。

 彼女のいる今だけを受け入れる。

 それが例え間違っていようとも、他人に後ろ指を指されるものだとしても。僕は、僕の感情に従う・・・・・・!


 スイッチが入る。

 意図的に体の命令信号を切り替える。あの事件以来の感覚に身を委ねる。制御出来ない感覚が駆け巡り、暴走していくのが分かる。

 恐らくそう時間は掛けられない。この力を使って自我が保てるのは、おそらく長く見積もって5分・・・・・・!

 その間に決着を着ける。

 体を駆け巡る熱い感覚を解き放つ。景色が驚くほど鮮明に見える。葵の方に向かって手を伸ばす。

 俺の体は瞬時に50mの距離を詰め、更に距離を取る。手に葵の体を抱いて。手のひらから葵の体温が感じられる。この大切な何かを奪わせないために。俺はこれから勝ち目のない戦いに挑むのだ。負けると分かっていても。それで俺が死ぬ事になっても。見過ごせない事がある。

「俺の恋人に手を出すなグリーンゴースト。死に損ない風情が。幽霊は大人しく土にでも埋まってろ」

 砂塵が舞う。それが開戦の合図だった。

「そう、それが貴方の選んだ答えなのね」

 翠は笑うこともなく、ただ何かを諦めた表情で僕を見据えた。

「いいわ。それじゃあ戦争をしましょう。貴方の事は」


「ゆっくりと殺してあげる」


 葵を手の中から地面に下ろすと手で後ろに下がらせる。

「お兄ちゃん・・・・・・」

「下がってろ」

「う、うん」

 勝負は1瞬で決めるしかない。俺の体の細胞が今も死滅しているのが分かる。翠には俺の力の総量を看破されている。だからこそ、その油断の隙を指す。

「でも不思議ね。貴方は見たところ魔眼耐性持ちという訳ではなさそうだし。何故動けるのかしら」

 そうして俺の目を見るともう1度目を見開いた。

 朱い眼が俺を射抜く。

 その油断が命取りだ。

 閃光が駆ける。被我の距離を詰め、瞬時に翠の背後に回る。この1撃で終わらせる。翠を止めるのではなく喰う。止めただけではまた葵を殺しにかかる。だからこそこの戦争を終わらせるには翠を殺すしかない。

 神経を瞬時に右手に集める。右手の細胞が悲鳴を上げる。その力をそのまま翠の頭をめがけて振り抜く。

 翠の頭に俺の腕が吸い込まれた。その腕はそのまま翠の頭を貫き、そして体ごと倒れた。

 俺の体が。

 確かに振り抜いた腕には何の感触も無かった。ただ空を切った。それを認識するまで時間がかかった。脳味噌が認識を拒んだ。

「そう、そういう事」

 背後から声が聞こえる。振り向くと何もない空間から煙りが立ちこめたようにして翠が瞬時に現れた。

「貴方の異能は電気信号のようね。おそらく魔眼で物理的に動けなくなった体に電気信号を流して無理矢理動かしている、と言った所かしら」

 失敗した。唯一の勝算を逃した。

「それで筋肉に大量の電気信号を流して爆発的な瞬発力を得ている。瞬間移動じみた動きもそれで納得出来るわね」

「分析どうも」

「ふふっ。アハハッ。そんな異能で私に勝てると思ってるの。これだから成熟してない子供って面白いわね。採算度外視で感情に従う。まるで泣きわめく子供のよう」

「あいにく物分かりは悪いほうなんでね」

 まだだ。まだ相手は油断している。もう1度チャンスは来る。物理攻撃は効かないと分かった。それなら異能の力そのものを直接ぶつけるしかない。

 翠が手を振り上げる。衝撃波が来る!

 足に電気信号を送る。瞬時に横へ飛ぶ。髪の毛がちりりと音を立てて切り裂かれる。砂塵が舞って着地する。

 そこに2段目の衝撃波が来た。

 電気信号を送る時間がない。崩れた体勢のまま上半身をよじらせる。左腕に衝撃。肩口に鋭い痛みが襲うと同時に吹き飛ばされる。回転しながらかろうじて受け身を取る。

 なんて反応力だ。俺の超高速を眼で捉えて2撃目を間断なく、一寸の狂いもなく放ってきた。回避すらまともに出来ない。こんな相手に勝てるのか畜生!

 そんな俺をあざ笑うかのように翠が上に跳んで両手で2段振り下ろす。今は動けない。咄嗟に右手を出し、そこから電磁波を放出する。衝撃波と電磁波が音と閃光を立ててぶつかり合う。

 押し負ける・・・・・・!

 ありったけの電磁波を体から送る。体が痛い。右手がへし折れそうになる。足が地面をずりずりと後退してなんとか衝撃波が止む。

「あら。意外と粘るわね」

 翠はまだ余裕そうな表情を浮かべている。対してこちらはもう左手が動かなかった。衝撃波をまともに食らったからか神経が焼き切れてしまったようだ。肩から先が重りのようにだらんと左腕が垂れている。

「もうお喋りする余裕もないのかしら。さっきの威勢のいい担架はどこに行ったの?」

「もう勝った気でいるのかよ早漏野郎が。つべこべ言わずにかかってこい」

「ふふふ。いいわそうでないとね。私も力を使うのは久しぶりだもの。せいぜい楽しませて頂戴ね」

 しかし現実問題。どうやれば勝てる。どうすれば勝てる。

 間違いなく実力では相手が上だ。限界まで力を使った所であのグリーンゴーストには届かない。

 なら、この土壇場で俺がこの力を使いこなすしかない。頭を回転させろ。この力をどう使えばいいのか発想を切り替えろ。今のは咄嗟だったが電気信号を外部に向けて放出出来たんだ。つまりこの力には更なる奥がある。それを使い分けろ。今この瞬間だけでいい。手足のような感覚で異能を使うんだ。

「でも貴方には私に絶対に勝てない。その理由を教えてあげる」

 翠がそう言ったと同時に翠の姿がフッと消える。

 静寂が辺りを包み込む。

 周りを見ても、後ろを見ても、上を見てもその姿はどこにも視認出来ない。そこには俺と、遠くで佇んでいる葵の姿しかなかった。

「私は目に見えないもの。現世というルールから外れたもの。そんな超常現象に肉体を持つ貴方では干渉出来ない。一方的な攻撃に貴方は耐えられるかしら」

 霊体化。実際を持たない虚無。

 俺は目を閉じると辺りの静けさに耳を澄ませた。街灯が切れかかってる音、葵の息づかい、自分の心臓の鼓動。俺はある一点に電気信号を集中させる。右腕の先、拳の先に本来はない空中に電気信号を溜めていく。汗が喉を伝う。荒れ狂う電気信号を制御する。ただ中央へまとまるように。

 右手の先からバチバチと電気が駆け巡る音が聞こえる。制御から外れた電気が俺の体を焼き尽くしていく。右手の感覚がなくなり欠けている。

 次の一手がお前の命取りだ翠。俺にこの時間を与えた、致命的な油断。

 どこかで、鈴の音が鳴った。

 その瞬間。

 俺は右手をある一点へと解き放つ。右手の先にある電磁波の固まりを一線上にして放り投げるように。”雷槍”(ライトニングパルス)。その閃光は辺りを真っ白に染め上げ、ただ電気が閃光のように走り抜ける。

 葵に向かって。

 葵は状況が飲み込めない。ただ呆然とその閃光を見つめ、光速で向かってくる電磁パルスの槍を待ち受けている。

 雷はその横を通り過ぎ、

 翠に直撃した。

「なん、で」

 閃光は翠を貫き、住宅街に穴を開けた。穴の周辺が焼き溶けている。この本番で俺は新たな力の使い方に自分で驚く。

「理論は簡単だグリーンゴースト」

 翠は胸を貫かれ、悶え苦しんでいる。葵は涙目で走ってこちらへ駆け寄ってきた。

「まずお前は二つ真実を隠していた」

 詰みだった。この雷槍が当たればまず間違いないだろう。

「一つ。お前には物理干渉が効かないと言ったが、それは何もしなければの話だ。お前が攻撃する時は必ず霊体化を解く。お前自信が物理干渉をする時には実体化する必要があった。現世に影響を及ぼす場合は自身を現世に現さなければならない。当然の事だ」

「くっ・・・・・・!」

 翠はずるずると俺から距離を取るように倒れた体を引きずっていく。

「二つ目。お前には俺が殺せない。お前が幽鹿鷺の願望実現機だと言うのなら幽鹿鷺は俺の死を望まない。お前が教えてくれたじゃないか。幽鹿鷺は俺との未来を望んでいる。だから俺ではなく葵を狙うと思った」

 翠はまだ動けない。俺は静かに翠へと歩みを進めていく。

「お前の敗因は俺を信頼し過ぎた事だ。信用し過ぎた事だ。そして俺の力を過不足なく見極めていた。その予想を俺が上回った。それだけの話だ。それだけの話だった」

「体が、動かない。これも貴方の力だと言うの?」

「よくあるだろう。テレビが勝手に点いたり消えたりする霊現象。幽霊と電気は同じ次元にある。つまりあんたにとって俺は天敵なんだよ」

 俺が勝てた理由はここにある。相性が良かった。きっと俺が電気使いでもない、それこそそれよりも強い何かだったとしても勝てなかっただろう。俺が電気使いである事。それだけが唯一俺が勝っていた要因だった。

「とどめを刺させてもらうよ、翠さん」

「えぇ、そうね。もう終わりのようね」

 翠はやり切った表情で空を見上げた。そこに何を思っているのだろう。悲観か、それとも郷愁だろうか。どちらにせよ、もう俺には関係のない事だ。

 俺はもう1度電磁波を操り、一振りのナイフの形状にしたそれを翠に振り下ろす。

「甘ちゃんさん♪」

 その瞬間。

 俺のナイフは空を切った。

 呆然とする。

 まだそんな力が残っていたのか。

「失敗を犯したわね。貴方は何も言わずに私にとどめを刺すべきだった。でもそれが出来なかった。無意識のうちにとどめを躊躇していたからよ。それが私に時間を与えた。回復する時間をね。長い時間おしゃべりしてくれてありがとう。おかげで私はもう1度機会を得た。今度は本気を出してあげる」

 地面が揺れる。低いうなり声のような地響きが鳴る。

 大地から巨大な木の根が姿を現した。

 これが翠の本当の力。

「名は体を表す。言い得て妙よね。翠という名は大地を表しているもの。これで私は実体化する事なく貴方たちを殺せるわ。チェックメイトね。王子様」

 いやまだだ。まだ勝負は点いていない。

 再び体に電気信号を走らせる。限界時間の5分はとうに過ぎていた。ここから先が本当のデッドライン。体が軋む。もはや感覚が無くなっている右腕を電気信号で無理矢理動かしていく。

 今の俺になら出来るはずだ、こんな芸当も。

 右手から電磁波を放出したように、体全体から電磁波を一斉に周囲へと発する。葵の体、大きな樹木の反応が分かる。そしてその虚無であるはずの空間から謎の反応を見つけ出す。

 高速で右手の先から電気を発し、そこに雷槍を打ち込む。

 簡易レーダー。

 今の俺ならお前の存在が手に取るように分かる。

 悲鳴が上がる。翠の悲鳴だ。

 また反応が消失した。翠が移動した。すかさず電磁波を放つ。そして雷槍を打ち込む。

 悲鳴。だがまた移動している。どこまで底無しなんだこの怪物は。俺の体が保たない。電磁波だってかなりの細胞を使っているんだ。もう3発も雷槍を打ち込んでいるというのに、まだ翠は余力を残しているようだった。

 巨大な樹木がその間、うねうねと動きながら葵を狙って来る。俺はその度に葵を抱えて力を使いながら移動する。これはもはや俺が先に力尽きる前に翠を殺せるかどうかの戦いだ。

 力が弱くなっていくのを感じる。目が霞む。あぁもううっとうしい。

 俺は目を閉じて電磁波の動きだけを感じる。翠という存在に雷槍を打ち込んでいく。その度に樹木の動きが鈍くなっていくのを感じる。

 相手の動きが止まった。今だ。

 雷槍を2発、3発と打ち込んでいく。手応えがある。これで倒せる。この最後の一発で。

 俺は最後にありったけの力を振り絞って電気を作り出す。そしてそれを翠へ向かってふり投げる。

 はずだった。

 俺の拳の先には何もなかった。ただバチバチと小さな静電気がなる音。そして体の感覚が全てなくなったようにどさりと地面に倒れ込む。

 どうして。

 どうして体が動かないんだ。よりにもよって最後の最後に。

「どうやら燃料切れのようね」

 視界が暗い。もはやもう目にすら電気信号が届かなくなったみたいだ。ただ遠くで息切れしている翠の声が聞こえた。

「私をここまで追いつめた事、褒めてあげるわ。電気で麻痺させられていたにせよ、私に本気を出させたんだから」

「う、ぐぁ、が」

 声が出せない。思考だけが空回りしている。ここで動かなければ葵が殺されてしまうのに。俺の体はもうピクリとも動かなかった。

「甘ちゃんと言った事、訂正するわ。貴方はいっぱしの戦士だった。絵本に出てくる白馬の王子様みたいなちゃちなものじゃない。女の子を守る本物の騎士だったわ」

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」

 遠くから足音と、葵の声。何か頬に冷たい感触。葵が泣いているのだろうか。そこには嗚咽が混じっていた。

「貴方ももう良いでしょう。ここまでして守ってくれる人がいるってだけで満足しなさい。さぁ終わらせましょう」

 大きな足音が遠くから聞こえる。多分翠だろう。ここで終わってしまうのか。こんな所で、何もなせないまま。

 でも俺頑張ったよな。結局負ける戦いだったにせよ翠相手にここまでやったんだ。もう良いじゃないか。俺はやり切ったんだ。全力を出して、その上で負けた。これが結果だった。俺の最初で最後の全力だったんだ。

 遠くで葵が泣いている声が聞こえる。

 葵が泣いている?

 葵が泣いている。

 ・・・・・・。

 あぁ俺ってやつは本当に

 どうしようもない奴だったんだ。

 勝てもしない相手に挑んで、負けて、それで葵を泣かせている。この夏だけの関係だったけれど、恋人を泣かせている。

 それがどうしても受け入れられない。

 こんな結果なんかに満足出来やしない。

 俺は。

 俺の命は。

 きっとここで使うためにあったんだ。

 体が震え出す。もう力なんて欠片一つも残っちゃいない。でも、それでも、今はただ動かなければならない。俺の恋人が泣いている。それがただ俺に力をくれる。

 目を開く。もう一度電気信号を体に送る。脳味噌が焼き切れる音がする。これ以上は危険だと警告音を発している。そのリミッターを俺は焼き切った。

 瞬間、体に力が戻る。制御を失った雷が辺りに満ちる。ダムの水が堰を切ったように俺の体から電気が全て出し尽くされているのが分かる。

 翠が驚きの声を上げた。

「貴方、正気!?これ以上異能を使ったら本当に死ぬわよ」

 人の心配をしてる場合か。

 俺の声はもはや声に出なかった。のどに充満してる電気が呼吸の邪魔をする。これが最後になる。俺の命と引き替えに与えられた最後の力。

 穏やかな日々。葵の笑顔。そんなものが記憶から剥がれ落ちていく。失いたくないな、と頭の片隅で思った。そんな風に思うほど俺はこの夏が大切だったんだと気付いた。

 立ち上がる力すら惜しかった。俺は全身を迸る雷をそのまま右手にベクトルを移す。

「あ、が、あぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」

 右手から奔流が迸る。全身の力が右手に吸われていく。翠が瞬時に樹木を盾にしたの見えた。それでも俺はやらなくちゃいけない。俺の恋人を泣かせるこいつを、ここで殺さなければならない。

 脳味噌が機能しなくなる。もう何も考えられない。今はただ真っ白な閃光が目の前の樹木に叩きつけられるのが見える。俺は何をしているんだろう。そんな事すらもう思い出せない。

 ただ分かるのは。

 きっと俺はこの瞬間のために生きていた。

 俺の命の使い所はここだ。

 やがて何かを貫いた音がして、雷が全てを馴らしていく感触。暗闇を世界が覆う。静寂をこの場を支配する。

 そこで俺の意識はasdfghjkl。

 kjnhbgyhunbgvf。

 xcvfghjk,mnbnm,。

      00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000。


 *


「相馬君」

「もう聞こえていないみたいね」

「私の負けよ。貴方の勝ち。良かったわね」

「ここでこの子を殺す事も出来るけど、なんだかしらけちゃったわ。これじゃ私が悪者みたいだし」

「ともかく敗者は大人しく勝者の言う事を聞く事にするわ」

「この夏をどう生きようと貴方たちの自由よ」

「貴方の命と引き替えにここは引くわ」

「次会えるかは分からないけど、また会えるといいわね」

「それが現世かあの世かは分からないけれど」

「その時はまた馬鹿な話でもしましょう」

「私もこの夏は嫌いじゃなかったわ」

「それだけ。じゃあね」


 *


 誰かが泣いている。

 誰だろう。どこかで聞いたような声だ。泣いているのだろうか。ポタポタと何かが頬を伝っている感触があった。僕の為に泣いてくれてるのだろうか。でも謝らなくちゃいけない。どうして君が泣いているのか僕には分からないんだ。僕が何か悲しませる事をしてしまったのだろうか。だとしたら一体どんな事を。僕にはもう何も思い出せない。

 目を開ける。ぼんやりと視界が開ける。焦点が合わない。そこにはただ暗闇に映る女の子の顔が見えた。

 女の子が何か喋っている。泣きながら何かを訴えている。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」

 誰だろう。僕の事をお兄ちゃんと呼んでいる。僕には妹がいたのだろうか。この子が僕の妹なのだろうか。でもそんな記憶は無かった。思い返してみても、何も心当たりがない。

「君は・・・・・・誰?」

 声を出したはずなのに自分の声が遠く聞こえる。上手く喋れているのだろうか。この声は誰かに届けられたのだろうか。

 息を呑む音。女の子が両手で自分の口を覆っている。

「僕は、誰なんだろう・・・・・・?」

 僕の言葉は闇に吸い込まれて消えていった。それと同時に何か音が鳴り始めた。それが雨の音だという事にしばらくしてから気付いた。

「お兄ちゃんの名前は相馬旭って言うんだよ、分かる?自分の事思い出せる・・・・・・?」

「そうま、あきら」

 初めて聞いた名前だった。それが僕の名前らしい。でもそれはどこか遠くの国の人のように聞こえた。ピースが一つ足りないパズルにそれはかみ合うピースではなかった。

「僕は、何か大切なものがあった気がする」

 でもそれが何かはもう思い出せない。手のひらをさらさらと流れていく砂のように、手からこぼれ落ちている。

「それを守ろうとして、それで・・・・・・どうなったんだろう」

 僕は守り切れたのだろうか。その大切な何かを。

 とてつもなく眠かった。意識がかさかさと音を立てて崩れていきそうだった。

「駄目、目を開けててお兄ちゃん。私のループは完全じゃないの。今死んじゃったら明日になってもお兄ちゃんは生き返らないんだよ!」

「ごめん。でももう限界みたいだ」

 意識がごちゃ混ぜになっていく。女の子の声も段々と聞こえなくなっていく。ただ雨の音が世界中に響きわたってるかのように頭の中で鳴っていた。目を開けている力もなくなっていく。世界が0になる。

「僕はやりきったのかな。この手で何かを・・・・・・」

「そうだよ。お兄ちゃんは私を守ってくれたの。だからお願い、死なないで」

 女の子が僕の手を取る。感覚はないけれど、それは確かなぬくもりがあったような気がした。

「そう、か。君を守っていたんだ、僕は。それなら良かった。僕の人生はきっと、それでいい」

 記憶も、人格も、名前も、僕は全て失ったけれど。

 きっとその人生に意味はあった。

 そう思える事が出来る。

「お願い、間に合って・・・・・・!」

 女の子が僕の手を握って何かを祈っている。

 雨足が強くなる。僕の意識が僕を手放す。最後にどこかの時計の音が聞こえた。時を刻む音。それが段々とゆっくりになって、そして止まった。

 最後にこの子が風邪を引かないようにと。

 そんな事を祈った。


 *


 最初に感じたのは痛みだった。

 全身が悲鳴を上げている。目を開けると、いつもの天井が見えた。見慣れた自分の部屋の天井だ。頭が金槌で打たれているかのように痛い。とにかく俺は自分の部屋で寝ているらしい。

 体を起こそうとすると背中と腹部に電流が走った。ひどい痛みを感じる。筋肉痛の比ではなかった。とにかく痛みが少しでも和らぐようにゆっくりと体を起こした。

 辺りを見回す。簡素な部屋。勉強机にタンス、それと幾ばくかの本が置かれている本棚。一瞬ここがどこだか分からなかったが、その風景がやがて記憶と一致してくる。

 俺の部屋だ。

 置き時計を見ると、そこには7/31日の日付と曜日を表すSundayの文字、そして8:30という数字が見えた。

 少しぼんやりとする。意識がはっきりと浮上してこない。

 俺は確か翠さんと戦って、それで。

「葵はどうなったんだ」

 軋んだ体を動かす。なんとか足をベッドから下ろす。脚の感覚がなかった。ちゃんと床についているのに木材の感覚が足裏から感じ取れなかった。そこには何も存在していない。少なくとも感覚的に。

 両足を床につけ、体を起こすと同時に目眩がした。視界がぐにゃりと歪む。膝から崩れ落ちそうになる。壁に体を預ける。それから壁伝いに扉の元へたどり着く。

 公園に行かないと。

 ただその使命感だけが俺の体を動かしていた。階段を手すりに捕まりながら緩慢と降りていく。この時間がもどかしかった。早く葵の無事を確かめたかった。

 しかし階段の半分を降りた所で音が聞こえた。下の階に誰かがいる。トントントンと木材を叩くような音、ゴトゴトと金属が僅かにこすれ合う音。そして機嫌が良さそうな鼻歌のハミング。

 リビングに体を引きずっていくと、そこには制服にエプロンをかけた女の子の後ろ姿が見えた。淡い色の、二つに結われたツインテール。キッチンで忙しなく動く女の子。

「・・・・・・何やってんの」

「あ、お兄ちゃん!」

 その女の子ーーーー葵は僕の声に振り向くと笑顔を見せた。そして僕の方に来ようとして「おっとと」と慌ててコンロの火を消した。

「良かった~。もう起きて大丈夫なの。体痛くない?」

「いや、それはめちゃくちゃ痛い、けど」

「顔真っ青だよ。まだ寝てなくちゃ駄目だよ」

「いやごめん。上手く動けない」

 そこで俺の体が膝を付く。葵を見て安堵したからか体の力が抜けてしまった。葵は「おっとと」と慌てて俺の体を抱き止めてくれる。

「とりあえずソファに横になってて。すぐに出来るから」

 葵は僕に肩を貸しながらリビングにあるソファまで連れて行ってくれた。そうしていつ覚えたのか風呂場にあるブランケットを持ってきて俺の体に掛けてくれる。

 そしてまたキッチンへと戻ると、また鼻歌を歌って何かをかき混ぜている。俺はぼやけた頭でその音に耳を傾けていた。

「はい、おかゆ出来たよ。食べれる?」

 しばらくすると葵がお椀におかゆをよそって持ってきてくれた。おかゆにはグリーンハーブと人参が備え付けられていて、仄かに湯気を漂わせている。ほんのりとした塩気の匂いが鼻を刺激してくる。

 葵はスプーンで一口おかゆを掬うと俺の口元まで運んでくる。半ば無意識に口を開けると、舌の上に茹で上がった白米が乗せられる。

「うまい」

「でしょー?へへへ、料理結構得意だったんだから」

「翠さんは、あれから一体どうなったんだ」

「分かんないけど、もう大丈夫なんじゃないかな。翠さんって人ももう手は出さない的な事言ってたし。多分だけど」

「そう、か」

 俺には翠さんを殺す事は出来なかったらしい。しかしどうして翠さんは手を引いてくれたのだろうか。俺が死んでしまうとやはり翠さんからするとまずかったのかもしれない。あそこで葵を殺してしまえばループ現象は起きなくなるから俺も死んでしまうからかだろうか。

 おかゆのおかげか、少し頭が回ってきたようだ。

「じゃあ、もう大丈夫なんだな」

「うん、お兄ちゃんのおかげだよ」

 自分に言い聞かせるように呟くと葵が元気に頷いた。そこでようやく自分の中で何かがこみ上げてくる。達成感のようなものが心に充満していく。

「ていうか、自分で食べるよ」

「良いの。私がやりたいんだから。お兄ちゃんは口をぽけーっと開けてればいいの」

 言われた通り口を開けると、次々とおかゆを掬って俺に食べさせてくれる。不思議な感覚だった。安心感と言うのだろうか。葵は俺を守ってくれている。もしくは守ろうとしてくれている。それが実感として体にこみ上げる。

「お兄ちゃん、泣いてるの?」

 気付けば俺は泣いていた。自覚するとそれはあっという間だった。のどの奥から何かがこみ上げてきて嗚咽になってこぼれた。体が勝手に動いてしゃくりあげる。思えば初めての経験だった。初めてーー家族の味を知った。

「俺には、両親がいない。父さんも、母さんも」

 違う。こんな事を言いたいんじゃない。葵が無事で良かった。これからも一緒にいよう。そう伝えたいのに、俺の思惑とは裏腹に言葉がこぼれ落ちていく。

「だから、だから俺は一人で、一人で生きていかなくちゃならなかった」

 涙で視界がぼやける。葵の顔が見られなくなる。膝にかけられたブランケットにぽたぽたと水分が滲んでいく。

「でも、辛くて、周りの人たちが羨ましくて、どうもしようもなかった。そんな空白を抱えるのが嫌だった。いつも何か違くて、俺は本当は、生まれてこなければ良かったんじゃないかって。どこにいても、俺は望まれていないって。俺は誰にも受け入れられないんだって」

「大丈夫だよ」

 俺の体が抱きしめられる。葵がそっと頭を撫でてくる。

「お兄ちゃんには、私がいるよ。もう一人じゃない。私がいるから。私が見てるから。ずっと近くでお兄ちゃんを見てるよ」

 そうだ、俺はただ。

 誰かに、お前はここにいて良いんだと。

 言って欲しかっただけなんだ。


 *


「俺が両親を殺したんだ」

 ソファに二人、ブランケットを共有しながらお互いにもたれかかっている。葵は泣きやんだ俺の手をずっと握ってくれていた。

「とある施設で育った。実験施設だ。俺はそこで被検体として育てられた。両親はそこで働いていた。でもある日事故が起きた。俺が起こした事故だった。気付いた時には施設は残骸だった。その瓦礫に二人とも押しつぶされていた。それを、俺は無感情で眺めていたんだ」

 葵は俺の独白をゆっくりと聞いてくれていた。俺の肩に頭を預けて、握った手をゆらゆらと宙に浮かしながら。

「だから俺は家族というものを知らないで育った。その後は孤児院に預けられた。小さな場所だ。でもそこでも俺は腫れ物扱いだった。両親を殺した子供。俺は大人からも怖がられたんだ。だからこの街に来た。誰も俺を知らない場所を求めて」

「そっか」

 そうして狭鳴に出会って、夜留多と知り合って、幽鹿鷺と遭った。

「葵は俺が怖くないのか?」

「ううん。お兄ちゃんは私のヒーローだもん。怖い訳ないよ」

「そう、か」

 穏やかに時間が流れていく。朝の木漏れ日が静かに俺たちを照らしてくる。

「葵」

「なーに?」

「俺の家族になってくれないか」

 葵はそこでふと、笑った。

「いーよ」

「即答ですか」

「お兄ちゃん、ほっとけないもん。だから私が奥さんになってあげる」

「なんか偉そう」

「お兄ちゃんモテなそうだし。貰い手いないだろうから私が仕方なしに貰って上げるの」

「はいはい」

 言葉とは裏腹に、言葉の端から嬉しそうな響きが伝わってくる。

 素直じゃないな、と思いながら。

 しばらくそうして2人の時間を味わった。


 *


 その後は怒濤のように時間が過ぎていった。

 朝は葵に起こして貰い、2人で水族館へと向かい皆と合流した。夕方になると一緒に帰り2人でご飯を作って食べた。そして夜は一緒のベッドで眠った。たまに水族館以外にも足を運んだ。映画館や遊園地、いつかの公園。2人で過ごす時間は楽しかった。毎日が輝いて見えた。ようやく一人の人間になれた気がした。

 翠さんはあれ以来俺達の前に姿を見せなかった。きっとどこかで見ているのだろう。それがどんな感情かは分からないけれど、多分仕方ないなぁと笑ってくれている気がした。

「そうだ、この後皆で狭鳴の家に行かないか」

 そんな終わらない夏のとある日。水族館を出た後。

 俺はそんな提案をした。深い意味なんてない、何気ない言葉だった。「なんで私の家なのよ」と狭鳴は口を尖らせたが、俺と夜留多が結託してあれをしようこれをしようと言っている内に諦めたらしく、最後はしぶしぶと言った様子で了承してくれた。

 狭鳴の家に行くと、そこには豪勢な料理が振る舞われていた。連絡を貰った狭鳴の母親が腕によりをかけて作って待っていてくれたらしい。狭鳴の父親もいつも通り無口だったが、皆に料理を小皿によそって分けてくれた。賑やかな食卓だった。狭鳴の母親は娘の友達が来てくれて嬉しかったらしい。普段は俺以外連れて来ないのに女友達が3人も来てくれるなんてと。狭鳴の父親も無言で頷いていた。食卓で交わされる雑談。料理を取り合う俺と夜留多。それを呆れた目で見ている狭鳴。そして葵に料理を取ってあげる幽鹿鷺。

 しばらくすると、幽鹿鷺が何も言わずに席を立った。不審に思った俺が席を立つと、葵がそれに付いてきた。幽鹿鷺は泣いていた。玄関の外で、誰にも聞かれないように声をしゃくりながら。声をかけようか迷っていると、葵が幽鹿鷺の隣に足を運んだ。

「お姉ちゃん、なんで泣いてるの?」

「葵ちゃん・・・・・・」

 幽鹿鷺は慌てて目尻を袖で拭うと、無理矢理笑顔を作った。

「ごめんね。なんだか家族を思い出しちゃって。お父さんとお母さん。それと、私の妹。訳合って皆いなくなっちゃったけど、私だけここにいていいのかなって思っちゃって。皆を置いて、こんな幸せな気持ちになって。妹だってきっと私を恨んでると思う。私のせいで皆不幸になったのに、そんな私がこうして生きていていいんだろうかって」

 葵はそんな幽鹿鷺の独白をじっと眺めていた。

 幽鹿鷺は「もう少しだけ泣くね」と言ってしばらくさめざめと泣いていた。葵は幽鹿鷺の手を握り、泣いている幽鹿鷺の頭を撫でていた。葵はそうしながら真顔でただ月を眺めていた。ただ、瞬きする事なく。その月明かりを見上げていた。

「海に連れてって」

 そう葵が言い出したのは、もう数えていない何回かの日曜日の朝だった。


 *


 海へ着く頃にはすっかりと夕方になってしまっていた。

 葵は防波堤の上に乗ると、両手を広げてバランスを取りながらとことことゆっくり歩いていく。俺はその後ろをただついて行った。しばらくして満足したのか、葵は足を止めて夕焼け空に沈み行く太陽を眺め始めた。茜色が葵の顔をうっすらと照らしていた。

 俺も水平線へと視線を移す。今日の葵はなんだかおかしかった。ここに来る途中も何かを考え込んでいるようで何も話そうとしなかった。そこには俺の介入の余地はないように思われた。それだけ真剣な表情をしていた。

「ごめんね、お兄ちゃん」

 それは唐突だった。

 今日初めての笑顔を俺に向ける。それは自分の中からありったけのものを引き出したかのような儚い笑顔だった。


「ありがとう、お兄ちゃん。今まで付き合ってくれて。私ね、満足しちゃった」


 言葉が詰まる。そんな言葉に面を食らってしまう。

 それの意味する事がなんなのか、俺には分かってしまう。その先を想像して。その未来を示唆されて。戸惑ってしまった。

「どうしたの、そんな顔して。私が居なくなっちゃうのが寂しい?」

「そりゃ、そうさ・・・・・・そうに決まってるだろ」

 寂しくない訳がない。誰にだって居なくなって欲しくなかった。その人が例え死んでしまっていても。

「でもね、本当に満足しちゃったんだ。お兄ちゃんみたいな恋人が出来たし、お姉ちゃんとも沢山遊べた」

 本当は止めたかった。彼女にいなくならないで欲しかった。でもそんな葵はやりきったような澄んだ目をしていた。だから、止めても無駄だと分かってしまった。

「それにお姉ちゃんの涙を見ちゃったら、お姉ちゃんを日常に返してあげなきゃって思ったの。私は死んでこの先には進めないけど、お姉ちゃんにはまだこの先がある。だから、私の存在はここで終わり。私の人生はこれでお終い」

 俺の気持ちを察したのか、葵は両手で俺の手を包み込む。

「本当はね?私だってもっと生きたいよ?お姉ちゃんのそばで、お兄ちゃんと一緒に生きたかったよ。それでね、お兄ちゃんを取り合って、最終的に私とお兄ちゃんが結婚するの。私ワガママだからそこは譲れないかな。そうして子供を2人作って、一緒に年老いていくの。一緒に時間を過ごしていくの」

 葵の手にポタポタと滴が垂れる。葵は涙を流さず、ただ優しそうに微笑んでいた。

「でもそれは叶わない夢だから、夢を見るのはお終い」

 そう言って彼女はいつかのように俺に耳打ちする。

「お兄ちゃんの事、タイプじゃないって言ったけど、本当はね、大好きだったよ」

 俺から離れると彼女は寂しそうに笑った。

「じゃあね、お兄ちゃん。もし生まれ変わったら、今度は私と本当の恋人になってね」

 一筋の涙を流しながら。彼女は夕焼けに煌めく海に溶けるように消えていく。俺は咄嗟に彼女の手を掴もうとしてーー空を切る。

 あぁ。

 俺には確かにこの夏、恋人がいたんだ。

 そして俺は確かに恋人を失ったのだ。

 そこにはただうずくまって泣きじゃくる一人の男がいた。


 *


 その後。

 夏休みも終わり、始業式。

 気怠い体を引きずりながら歩いていると、どこかで見かけた事がある人影を発見した。相手は俺の姿を確認すると「げっ」と声を出して逃げ出した。

「おい、おいおいおいおい!」

 俺はその影を慌てて追いかけると、その人物を捕まえ、そして自然と組み伏せる形になる。

「やだお兄ちゃん、女の子を押し倒すなんてだいたーん♪」

「お前、消えたんじゃなかったのか!」

「んー、私もそのつもりだったんだけど、なんかまだ力が中途半端に残ってるみたいで消えられなかったんだよね。でもああいう別れ方した手前、会いに行くの恥ずかしいし」

「バカかお前は・・・・・・」

「何よ、お兄ちゃんが思ってるより乙女心は複雑なんだからね」

 そう言って口を尖らせると、

「とにかく、これからもうちょっとの間、よろしくね(はーと)」

 僕に優しくキスをした。


 蒼の章-young dear-


 了。

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