ノイズ

奔太

第1話 Noise

 *


 Another world count 1        



「さて、と……」

 木々の間から零れる木漏れ日を眩しく思いながら、森の中を歩いていく。通路の脇には小さな木の実や面白い形をしている雑草が無作法に生えていた。

 森の中だと言うのに、鳥のさえずりや草食動物たちの鳴き声は聞こえてこない。当たり前だ。この場所に、命というものは存在しないのだから。植物たちは決して成長し、伸びるということはない。切られたり、抜かれてしまえばもうそれっきり。二度とそこには植物は生えてこない。さらに言えばバクテリアやプラクトンなどの微生物も新しく生まれて来ない。人類の祖とされた猿人類もだ。そう、まるでこの場所に流れるはずだった時間が止まってしまったかのように。

 かくいう俺も、その例外ではない。俺はこの場所に何百年も滞在しているが、寿命で死ぬどころか、少年の姿のままから一切成長しなかった。そしてそれは今も現在進行形である。別にそれを気にかけはしないが、理由の不明瞭なことに興味が沸く、というのは一種の人間の性であろう。毎日ふと考えてしまう時がある。

 樹と樹の間に空いている自然の道を通り抜け、森の奥へと進んでいく。そこを抜けると、葉で出来た天井が開けた場所に出た。俺は空を仰ぎ見る。

 上空には、穏やかな蒼空と、それに浮かぶ白雲に包まれて光を放つ、小さな太陽があった。俺のすぐ真上だ。何故かは定かではないが、この場所にあるあの太陽はいつも真上にある。俺がどれほど遠い場所に行こうとも、まるで俺の後をついてくるようにあの太陽は真上にあった。おかげでこの場所に夜や夕方といった時間帯は無い。いつも昼だ。真昼間だ。

 でも、何故だろうか、あの太陽に妙に親しみを持つ時がたまにある。人間とは分からないものだ。自分の中にある深層心理だって分かるようにして欲しい。

 そう言えば、この場所では気候が位置によって変わる。時間など関係なしに、その場所ではいつも雨が降り続けたり、雷が止まらないというのだ。実際、ほとんどが晴れているので、あまり気にしないが。

 太陽から視線を移し、また森の緑へ。その光を浴びた緑は艶やかな彩りを放っていた。その中に、違う色を放つものを見つけ、俺はそれに駆け寄る。

 オレンジ色をしていたそれは果実だ。『リィルの実』。この場所で良く目にする果実。見た目こそ外殻によって固められ、いかにも硬質なものに見えるが、あれは見た目だけ。リィルの実の中身は、見た目と相反した液体である。形状はゼリーよりも柔らかく、色は外殻と同じオレンジ。味はなんて言えばいいのか分からん。例えるのならメロンとスイカを融合させてそのまま割ったような味だ。ん? 自分で言ってて意味が分からんな。

 ちなみに、このリィルの実は、元々名前など無かった。これは、ある人物によって名づけられたのだ。もちろん俺じゃない。その名づけ親とは、

「ソウ君、探したよ~! 酷いよ、置いてけぼりなんて」

 彼女、アリサだ。

 俺はその声に振り向くと、太陽の下、この場所唯一の亜麻色をした光を放つものが目に入った。それはまるで小川のようにサラサラと音を立てて俺の心を奪う。彼女の髪だ。彼女はその髪を、背中ほどまで無造作に垂らしている。といっても、髪質なのかいつもストレートなのだが。

 彼女が顔を上げる。まずその白い肌が俺の目に入る。もちもちと音をたてそうな柔らかい肌に、見るだけで癒される大きな目。外見年齢は俺と同じくらいの少女だ。彼女の目が俺を捕らえると、説明して! という風に訴えてきた。良く見ると汗をかいている。昨日の寝床から走ってきたのだろうか。

「いや、俺がアリサを置いていこうとする訳ないだろ? ちょっとアリサが起きる前にリィルの実を調達しておこうって思っただけだよ」

「……それなら別にいいんだけどっ」

 腕を組み、プイッと顔を背けるアリサ。

 彼女も、俺と同じこの世界の住人だ。体は全く成長せずに、俺とこの場所を昔から共に過ごしていた。服装は白いワンピースを着ている。

 ちなみに、人がいないこの場所では、もちろん服を作る人もいない。服は、俺たちが最初に着ていたたった一着だ。汚れた時などは、湖や川で、自分の体と一緒に服も洗う、というやや不便なものだ。もちろん別々に洗っていますよ。

 俺の服装は彼女のような清純なものとは違い、簡素なTシャツに、黒い上着、そしてジーンズという酷く庶民的なものだった。悔しい思いなんてしていない。

「リィルの実を飲むんなら、ライカが必要だよね。来る時に見かけたから、ちょっと取ってくるよ」

「ああ、頼むな」

 先ほどまで不機嫌だったアリサの顔が綻び、彼女は元気に走っていった。

 彼女が口にした、『ライカ』とは全長2メートルはある管状の植物である。このライカという植物は、茎の部分が細いのに対し、やけに硬くなっているため、リィルの実を飲む時には必ず使っていた。このライカも名前がないのを、彼女が勝手につけたものである。彼女が名前をつける時は、そのものがこの場所で頻繁に良く見かけ、尚且つ良く使うものにつけられる。そのため、実質名前がついている植物はこの二つだけであった。

 彼女がライカを取りに行っている間に、こちらも目標物を手に入れておくことにする。リィルの実がなっている木に素早く足をかけ、一気に上る。そしてそのまま枝に足を乗せ、枝の先になっている木の実をもぎ取った。俺が再び地に戻った時には、遠くから彼女が2つのライカの茎を持ってきていた。

「サンキュ。飲むか」

「うん! えへへ。楽しみ~」

 彼女と2人、近くの樹木に腰をかける。そのまま手にあるスイカ程の大きさもあるリィルの実に茎を深ぶかと刺した。そしてそのままライカに口をつけ、吸い上げる。すると、口の中に液体に近いゼリーが広がった。

 この場所の特有の1つとして、食料及び水分の摂取は不要というものが上げられる。噛み砕いて言うならば、食欲やのどの渇きがない。何年も飲み食い無しで生きていける。成長しないのなら当然と言えば当然な気もするが……。

 ただ、別に食べちゃいけない訳ではないので、いつでも飲んでもいいし、食べてもいい。俺たちはこのリィルの実の存在を知ってからは、この味に惹かれ、目にする度に飲んでいる。

「――――♪」

 彼女の笑顔の隣、俺もリィルの実を吸う。吸い上げた味はひどく懐かしい味だった。   


 この世界に人はいない。そう気づいたのは、この世界の存在を認識……つまりは自覚して間もないころだった。

 今となっては遥か昔のことだ。

 ふと気がつくと、俺はいつの間にか見たことの無い草原にいた。理由は分からない。何故俺がここにいるのか、ここはどこなのかという疑問は数多くあったが、過去をかえりみても答えはおろか推測すらたてられなかった。

 何故なら、俺には記憶というものがなかったから。『森』や『湖』などの基本的な知識はあったが、自分に関することは名前以外は何も覚えていなかった。

 仕方なく俺は歩き始めた。誰かに会い、この状況を説明してもらおうとして。その時は空に暗雲が立ち込めていて、大きな不安が俺を包んだのを漠然と覚えている。

 そして、歩き始めて何日かたったころに気づいたのだ。この場所の異常さに。

 いつも真上にある太陽、場所によって変わる天候、沸かない食欲。全てが不思議に思い、全てに恐怖した。そして何より1番不思議だったのは、

 その世界的常識を不思議だと訴える俺の知識だった。俺の知識がこの場所のものだったのならば、そのこと自体を不思議に思わないはずなのだから。つまり俺の知識とこの場所が食い違う、ということは……一体。

 思い悩む日々が続いた。酷い雨の中を走り、見えない恐怖と戦っていく。だが、それでも状況は一向に変わる気配を見せなかった。歩いても歩いても草原ばかり。人なんて姿かたちはおろか、影すらも見つけることができなかった。こんな広い世界にただ一人いると認識し始め、段々と黒い影が俺の背中に迫ってくる。

 振り返る過去もなく、目指す未来もない。いつしか俺は歩く足を止めていた。

 ふと、空を見上げた。そこには、俺の心境を絵に描いたように映っていた雨雲があった。それの作り出す冷たく鋭い雨に打たれ、俺は少しずつ……ほんの少しずつ、何もかもがどうでもよくなっていった。

 そんなときだった。

 その暗雲の端に、一筋の光が見えた。

 俺は弾かれるように強く地を蹴って走った。濡れた草で転びそうになりながらも、その光に向かって。ただ、ただ無意識に。ただ、ただ闇雲に。無我夢中でその光がもたらす何かを求めて、走った。

 段々と、少しずつ世界が明るくなっていった。まるで、ゆっくりと世界を照らし出す夜明けのように。空には、あの暗い雲も鋭い雨ももう無かった。そこにはただ、白雲の尾根から覗かせた光が俺を照らしていた。

 そこは小高い丘だった。この丘から、この世界を見渡すことが出来た。風に吹かれ、音を奏でる木々たち。光を浴び、その岩の色を表す谷。彼方に見える、たなびく雲に架かる山々。初めて見るこの世界の風景は、どこか物悲しく、儚く、とても綺麗なものだった。

 そして―――。

 その丘の上に、彼女がいた。

 優しい風に純白のワンピースをはためかせて。

 その純粋な色をした瞳と視線があった時、俺は鳥肌がたったのだ。

 白いワンピースを着た彼女――アリサは、俺と全く同じ状況だったらしい。思い返す記憶もなく、話し合う人もいない。分かるのは自分の名前ただ1つ。人と会うのも、俺が初めてだと言った。

 それから、俺たちはその丘で話し合った。分かる状況、出来る限りの予測、これからどうすればいいのか。そんなことを、ずっと話し合った。穏やかな光を今なお放ち続けている太陽の下で。

 俺たちの旅はここから始まった。


  *


「ほら、アリサ」

「う、うん。ありがとう、ソウ君」

 朝飯を終えた俺たちは、少し急な草の坂をのぼっていた。滑る草で転びそうになるアリサの手と体を支え、隣で一緒に歩いていく。

 これも俺たちの習慣の1つ。1日の時間の多くはこの行動に費やしている。

 この世界の果てを目指し、歩き続けること。この世界がなぜ存在するのか、何故自分たちがそこにいるのか、いや、何故自分たちしかいないのか。そんな疑問がたくさんあったからだ。人を捜すという目的もあるが、俺たちはまだ誰にも会ったことがなく、これほど旅をしていても見つからないため、半ば諦めていた。

 気が遠くなるほどの時間、アリサとこの世界を渡り歩いてきた。光輝く岩でできた山や、網状になっている樹でできた森林、湖畔の奥地にあった地下空洞など。だがそれも、長い年月のせいでぼんやりとしか覚えていない。

 しかしそれを残念とは思わない。きっとこれからも様々な光景が俺たちを待っているはずだから。

「よっと……」

 アリサより一足早く上にたどり着いたとき、今朝よりも少しだけ涼しい風が俺を急かすように吹き付けた。その風に一瞬、目を腕で覆ったあと、俺は蒼い空の下ではっと息を飲んだ。

「ちょ、ちょっと、ソウ君? 手貸して」

 まだ登り終えていなかったアリサの声が下から聞こえたが、今の俺の耳には入ってこなかった。それ程までに、この光景に圧倒されたからだ。

「ソウく~ん?」

「……あ、ああ、悪い」

 俺に差し伸べられていた白い手を、慌てて掴み、優しく引っ張りあげる。アリサがやれやれといった調子で登ってきたが、この眼前に広がる光景を見て、俺と同じく息をのんだ。

「わぁ……!」

 彼女の瞳に、たくさんの色彩豊かな花が映っていた。


「ほら、ソウ君、早く早く~!」

「ア、アリサ、ちょっと待てって」

 隣ではしゃぐアリサと一緒に白、黄、赤といった色をした花畑の中を、花を踏まないように歩いていく。

 チューリップ。それがこの色違いの花の名前らしい。何故アリサが花の名前を知っていたか気になったが、おそらく昔に一度見て、そのときにアリサが名前をつけたのだろう。……俺は覚えていないが。

「……本当、すごく綺麗だね」

 隣を歩いているアリサが、俺とその向こうにある色を眺めながら呟いた。

「ああ、そうだな。……こんな光景初めて見た」

 俺の口を突いて出たごく自然な本心。ここまで見る者に圧倒的な美しさを感じさせる景色を過去に見ていたとしたら、必ず覚えていたはずだ。過去に見たチューリップは、おそらく一輪、二輪ほどの少ない数だったのだろう。だが、俺の言葉を聞いたアリサは、何故か悲しそうに目を伏せたあと、俺に向けて笑おうとして――失敗した。

「アリサ?」

「ご、ごめん! あはは……なんでもないから」

 慌てたように俺から顔を背け、パタパタと手を振るアリサ。

「……やっぱり、このチューリップって花、過去に見たことがあるのか? でも、こんな綺麗な花畑なら、一度見たらそうそう忘れないと……」

「だ、だから、なんでもないって!」

 持ち前の長髪を淡い光で輝かせていたアリサは、俺に背を向けながら指で目尻を拭い、少し震えた声でそう言った。次の瞬間には、あっちに行ってみようと言って俺に笑顔を見せたが、その笑顔の片隅には、何か煌くものが見えた。


 しきりに吹いてくる心地いい風の中、俺の頭の上に乗っている花の冠がフサフサと揺れる。それと同時に、隣でまた寝ているアリサの髪もサラサラと音を立てた。

 アリサは、先ほどまで俺にチューリップの花冠を作っていてくれた。だが、作り終えた後、疲れたのかまた眠ってしまった。そんなアリサの寝顔を見ながら、俺はずっと先刻のことを考えていた。

 あのアリサの悲しそうな表情、少しだけ潤んで色褪せた瞳。あんなアリサの表情は今までに見たことはなかった。俺は、アリサがいるから……彼女の笑顔を見ることが出来るから、こんな場所でも歩くことを諦めず、前を向けていられた。だが、彼女はどうなのだろうか。彼女は、俺がいることで何か変わったのだろうか。……俺は、彼女の支えになれているのだろうか。

 また少し風が吹いてくる。今度の風は先ほどよりも強く、優しい風だった。その風を背中で受け止めながら、

「―――やれやれ」

 俺は思わずそう呟いていた。


  *


「う……ん?」

 目を開けると、そこには澄み渡るほど蒼い空と、その空を彩っている緑色の葉と白い雲が見えた。その眺めに一瞬だけ魅了されたが、すぐに自分が眠っていたことに気付く。そして、いつも一緒にいる人を探し、辺りを見回してみるが……。

「ソウ君……?」

 辺りには、風に吹かれて微かな音を奏でるチューリップの花畑と草原しかなかった。

 ………………なんかあったなぁこの展開。

 そう、この状況は―――眠っている間に一人にされているというシチュエイションは、まさしく今朝と同じだった。

「ソウ君の……バカ」

 思わずため息をついてしまう。

 その草むらの中央で涼しい風を受けながら、少しの間どうするか迷うが、また私が今朝のように探しに行くのはなんか癪だったから、結局ここで待つことに決めた。胸の中のもやもやを振り払うように、背中から勢いよく草むらに倒れこむ。視界がまたついさっきの色で溢れかえる。

 いつもなら朝はどっちが早く起きても、もう一人が起きるまで待ってたのに……。というかそれはもう二人の暗黙の掟になってたはずなのに…ソウ君、今日はやけに生意気だなぁ……。

 と、心の中で毒づいている内に、暖かな日差しと涼しい風が織り交ざって、再びまどろみが私を包んだ。周囲で子守唄のようにざわめいている草花の声を聞きながら、ゆっくりと私は眼を閉じていった。そして落ちていく意識の中で、私はほとんど無意識に、ある感情を想った。

 寂しい、と


  *


 さら……さら……。

 誰かが、私の頭を撫でていた。大切そうに、愛おしそうに。その優しい行為と、心安らぐ感覚に、私は夢を見てしまった。

 それは、遠い昔の記憶。

 一面白い部屋の中を、落ちていく太陽が茜色に染め上げた時。綿の詰まったベッドの上、ベッドと同じ色をしたシーツにくるまっていた私を、優しく撫でてくれていた、名前も知らない男の子。その子の唇が、そっと開いて、音を発する。

 その音は……。


 遠くにある蒼空に浮かぶ、今朝よりも広く伸びきった雲を見上げながら、アリサの頭を撫でる。髪さらさらだな……とか思いながら、先ほどからずっとこの行為を続けていた。

「……ん、んん」

 今まで静かに胸を上下させていた膝の上の女の子が、小さく声を上げたのを聞き、その女の子に声をかける。

「起きたか? アリサ」

「ソ、ソウ君……?」

 アリサは、上にある太陽が眩しいのか、一瞬手を上にかざした。

「私……寝てたの?」

「ああ、この花冠作ってくれた後にな」

 と、今頭に被っている花冠の花を潰さないよう優しく撫でる。俺のすぐ下にいる女の子は、俺の言葉に一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、すぐにまあいいやというように微笑んだ。

 そして、すぐに何か違和感に気づいたような顔をした。どうしたと声をかけても「いや、なんか……」という曖昧な返事しか返ってこない。アリサがもじもじすること数秒……不意に動きが止まり、俺の顔の位置を確認し、叫んだ。

「ななななな……なんで膝枕してんのぉぉぉ!!」

 耳まで真っ赤に染めながら。

「いや、こっちの方がいいかと思って…」

「よくないよくない!」

 まるで駄々をこねる子供のように騒ぎ出すアリサ。

「も、もう起きる!」

「やめい」

「わきゅ!」

 この年(?)にもなって膝枕を恥ずかしがっているアリサの頭を、半ば無理やり俺の膝の上に倒す。膝枕をする必要はないのだが、どうせ時間があるのなら膝枕をしてやりたかった。というかさせて欲しかった。

「まだまだこうしてな」

「あう~」

 しばらく居心地が悪そうにもぞもぞと動いていたが、やがてベストプレイスを見つけたのか、そこに落ち着いた。そんなアリサの頭を俺はまた撫でた。

「気持ちいいか?」

「……うん。……気持ちいい」

 俺もー!と叫びそうになるのをかろうじてこらえる。

 蒼空の下、影がまばらに見える色彩豊かな風景を見ながら、俺たちはこの時を過ごした。ずっと変わらないように見える蒼空に浮かぶ雲は、少しずつ…目に見えないほど少しずつ動いていた。

「ソウ君、もしかして…私が寝てる間、ずっと撫でてくれてたの?」

「ん、ああ。」

 少し寝そうになってるかなー、と思っていたアリサからハッキリとした声が発せられてちょっとびっくりした。

「………そっか」

 俺の返事を聴いたアリサは何故か神妙な顔つきをした。それは、どこか遠くを見つめているようだった。

「あ、そうだ」

 俺の突然の声に何事かと視線だけでアリサに問われた。その彼女の眼前に後ろポケットのブツを取り出してから見せた。そしてそれを見たアリサは何故か信じられないという顔になり、確かめるようにそれを手に取った。

「……紫色の……チューリップ」

 それは、優雅な色を纏った紫色のチューリップだった。そう、今日アリサが眠っている時、アリサのために何かを探してそれを見つけたのだ。黄、白、赤といったチューリップ畑の片隅にそれはあった。そして俺はこの花ならば、アリサは喜んでくれるじゃないのだろうかと、漠然とそんな気がして摘み取ってきたのだ。アリサに紫は合わないと思ったけど。

「花冠のお礼」

 本当の動機は気恥ずかしくてとても言えたもんじゃない。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……あれ?

「あ、アリサ……?」

 膝の上にいるアリサはまるで固まったかのように微動だにせず、喋らない。その表情もついさっきのものと全く変わっていなかった。………信じられない、という表情。

 一瞬、時が止まったかのように思えた。

 けど、それは違った。

 アリサが……アリサの表情が、静かに変わっていき、その目の端から水滴をこぼした。

「え……?」

「う……ひっく……!」

 彼女が零した突然の涙に、俺の思考は真っ白になる。

「あ、悪い! これ、嫌なもんだったか!?」

「……ち、違う……よ」

 俺の謝罪に、アリサは溢れてくる涙を懸命に何度も拭いながら、違うと言った。

「け、けど……」

 アリサの表情に俺はおろおろとうろたえてしまう。俺は彼女を傷つけてしまったのだろうか、と。

「違う、違うの!」

 紫のチューリップを胸に抱きながら、涙を見せる彼女。そしてその嗚咽が止まらない喉からかすかな声を出した。

「う……嬉しいの……!」


  *


「すぅ……すぅ……」

 アリサは泣き疲れたのか、また深い眠りの世界へと旅立っていた。俺は、よく寝るなぁと苦笑いをしながら、そっと隣で寝そべり、彼女の髪を撫でていた。

 ……ふと、両手を頭の後ろに回し、空を見上げる。そして、今日のことを考えた。今日は、色々な意味で特殊だった。普段、弱みを全く見せない彼女が、泣いたのだ。それは、この場所では初めてのことだった。

 では、彼女をそうさせたのは何か……?

 ……多分、あのチューリップ畑。そして、紫色のチューリップ。おそらく、アリサは過去に何らかの形であのチューリップの花に思い入れがあったのだろう。

 だけど、それだと不可解なことが一つ。

 俺がそのことについて記憶がないことだ。俺とアリサは大昔からずっと一緒にいた。初めのころは一人だったが、それもほんの一週間程度のものだろう。アリサが覚えているのに俺が覚えていない、それは………。

 この疑問は今にはなかなか晴れそうになかった。


  *


 翌朝。

 少々の名残惜しさを覚えながらも、俺たちはチューリップ畑を後にした。アリサは、この場所を目に焼き付けるように何度も振り返っては寂しい表情をしていた。俺がまた来ようと言うと、アリサは来れるかなと返した。俺はそんなアリサに、絶対来れるさと力強くのどを鳴らすと、少し微笑んで頷き、最後には笑顔で振り返っていた。

 チューリップ畑から続いていた道を進むと、少し大きな雑木林が待っていた。昨日のリィルの実があった森よりも暗い色をした雑木群だ。中へ進むと、落ち葉や小枝と言ったものが地上に散乱していた。ここで俺は無い勇気を極限まで振り絞り、アリサの手を取ってゆっくりと進んだ。手を取られたアリサは、恥ずかしさと戸惑いが入り混じったような表情をしたが、何も言わずに受け入れてくれた。

 この先は、進めば進むほど地形が酷くなっていった。段差や木の幹はもちろん、木のツルや根が壁になっていたり、急な坂が不定期にできていたりした。その分、アリサとの衝突イベントが発生するのは万々歳なのだが、肝心のアリサの体力が心配だ。  

 俺とアリサはまさに足が腐るほどの距離を歩き続けてきた。だが、成長することが出来ないこの世界では、体力が上がるとか、力がつくとかそういうものさえ全くない。そのため、俺とアリサは身体的な意味では最初のころから何も変わっていなかった。俺はもともと体力があったみたいだが、アリサは俺とは違い、体力はあまり無かった。驚くほどに。もしかしたら、生前(?)は体が弱かったのかもしれない。

「ここらで少し休むか」

 ここの森一帯の中で比較的平らな場所を見つけると、アリサの方を振り向きながら告げた。

「ま……まだまだ行けるよ」

 アリサは俺が自分のことを気遣っていると分かっているらしく、強がりを張っている。実際、繋がっている手からは熱い熱が伝わってきていた。これは予想通りの反応。なんせこんなことはしょっちゅうあった。アリサが無理にがんばろうとすることは。そして、俺が気づかずに…………その先を行ってしまったことも。だから、今のうちにこの強情な愛娘を無理矢理にでも休ませる必要があった。

「俺が疲れたんだよ。もう休みてぇ」

 俺が花冠を持ち上げて、額にある微かな汗を拭いながらそう口から言うと、アリサもしぶしぶ納得したようだった。

 2人で手を繋いだまま、近くの樹木の根元に腰掛ける。座る時、右手で地面に手をついた時、パキ、という音とともに俺の手に軽い痛みが走った。右手を見てみると、親指の付け根から赤い液体が滴れていた。どうやら鋭利な小枝で切ってしまったらしい。俺は右手をアリサに気取られないように背中に隠した。

 このように痛みを感じたり、傷が出来たりはする。当たり前のことだが、それは時間とともに治っていく。病気も同じだ。もちろん、それはしばらく安静にしていたり、葉を巻いたりしていればだが。体の異常は治るのに成長はしない。よくよくこの世界が不思議に思えてくる。

「……ハァ……ハァ……」

 左隣のアリサから小さな息切れが聞こえてきた。俺に聞こえないように抑えているようだが、あまり効果は無かったようだった。以前もこういう複雑な地形は通ってきたのだが、この森は今までより異常なほどに入り組んでいた。俺も珍しく汗をかいていたぐらいだ。

 俺は手をつないだまま、アリサの息が整うのを待った。


「……結構絡まってるな。あ~あ、綺麗な髪が台無しだよ」

「き……綺麗って……」

 だんだんいつもの調子に戻ってきたアリサが、髪に絡まっている枝や葉っぱを取ろうとして難儀していたので、俺が代わりに取ってやっていた。

 アリサは時々「あぅ……」だの「ひぁ!」だのよく分からない奇声をあげていた。普段、アリサのようなさらさらな髪にゴミ等は滅多につかないのだが、さすがに今日は規模が違うようで、沢山のものが絡まっていた。

「よし、取れるのはこれで全部かな」

 ひとしきりの大きなゴミを払ったあと、アリサの髪を手で梳きながら言った。

「え……大丈夫? 変じゃない?」

「…………あ~、うん」

 髪に手を添えて心配していたアリサは、俺の曖昧な返事に恥ずかしそうな表情をした後、突然俺に背を向けた。

「あ、アリサ……?」

 また怒らせてしまったのだろうかと内心焦る俺。しかしアリサは、何故か髪をしきりに撫で、ちょこんと出ている耳を赤くしながらこんなことを言い放った。

「こ……こっち、見ないで……」

 次の瞬間、俺はアリサを力の限り抱きしめていた。


 しばらく休んだ後、俺たちはまた歩き始めた。休憩が功を成したのか、足取りは軽く、笑い合いながら森の中を進んでいった。

その途中、道に大きくはみ出していた木々が無くなり、視界が開けた場所に出た。そこからは、遥か遠くにある草原や荒地、大きく聳え立つ岩山などが見えた。

 そんな時、アリサはふと、また昨日のような表情―――どこか遠くを見つめるような顔をした。

「ねえ……ソウ君」

「ん、何?」

「……私たちの旅、もうどのくらい続いてるんだろうね」

 開けた先にある遠い風景を見ながら、アリサは俺に聞いてきた。

「さあな……。最初は数えてたけど、いつの間にかやめちゃってたな」

「どのくらいだと思う?」

「……400年くらい?」

「……そんなに?」

 アリサが怪訝そうな表情で振り返り、その視線がこちらへと向く。

「俺はそんな気がする。あまりに長くて、感覚が麻痺してるのかもしんないけど」

「あはは。そうだね、長かったもんね」

 まさに悠久、永遠と言ってもなんら差し支えないくらいの時間をこの場所で過ごした。なのにまだ、旅の終わりは見えない。もしかしたら、旅の終わりなんてないのかもしれない。だとしたら、俺たちはたった2人で永遠にこの場所を彷徨い続けるだけ。それでもいい、と俺は思う。人がいなくても、未来がなくても……彼女さえいてくれれば、俺は……。

「ソウ君……?」

 アリサが俺の顔を覗き込んでくる。淡い太陽が今だけは明るく光り、俺たちの真上から、彼女の顔を美しく照らし出した。

 俺はそんな彼女と見つめ合い、いつの間にか俺は、こんな言葉を言っていた。

「……アリサ、ずっと、一緒にいような」

 俺の急な言葉に、彼女は数秒何かを抑えるように押し黙った。だがやがて、彼女の顔が笑顔に変わり、弾む声で返事をした。

「うんっ。ずっとずっと、一緒だよ!」

 俺たちは2人、この場所で永遠の約束を交わした。

 太陽が、祝福するかのように俺たちを照らしていた。


  *


 それからも、俺たちの旅は続いていった。劇的な変化は無い。今までのような変わりない毎日。それでも、俺たちは笑っていた。退屈な日々でも、彼女がいるだけで、輝いて見えた。

 人のいない世界でも、俺たちは確かに生きていた。

 そう実感していたある日、俺たちはあるものを見つけた。

「ここ……洞窟か?」

 そこは湖のほとりにある草木に囲まれた場所だった。小高い丘の上に湖に背を向けた形で洞窟の入り口があった。

「でも、なんだか普通の洞窟じゃないよ」

 俺たちは今までに何度か洞窟を訪れたことがあった。だが、ここの洞窟は他と比べて明らかに何かが違っていた。

 金属で作られた壁や天井、今はもう点いていないが、かつて使われていた形跡のある松明。そう、洞窟というよりは遺跡の名前のほうが合っていた。

「嘘だろ……これ。こんなもん、明らかに人工物じゃないか!」

 こんな無機質だらけの洞窟は自然的には絶対にありえない。なら、ここは人によって作られたということ。そう、俺たち以外の。

「やっと、私たち以外の人の手がかりを見つけたけど……」

 事実上、人の痕跡を見つけたのは初めてだったが、あまりにも遅すぎる気がした。

「ねえ、ソウ君。ここ、もっとよく調べてみよう!」

「あ、ああ。そうだな」

 アリサと手分けしてさらなる手がかりがないか探しはじめた。


「へぇー、なんかすごいな」

 奥のほうへ行くと、少し大きな部屋に壁画があった。古ぼけている上に少しだけうっすらと黒ずんでいる。それはギザギザのついた白い穴に何かが吸い込まれていくような絵だった。

「……ブラックホールか?」

 いや、白いからホワイトホールだな。

 ただ、それだけではなかった。絵には、四角く角ばった何かが何本も聳え立っていた。

 それを見た瞬間、俺の頭に電流がほとばしる。俺の頭の「知識」が反応する。

「……タテモノ……?」

 単語だけが頭に思い浮かぶ。この直方体のものは建物。一般に人が住む場所だと。だが、この世界に建物など存在しない。なら、この絵は一体なんなのだろう。

 ……遥か昔にこの穴が全てを飲み込んだが、俺たちはなんとかそれを逃れて生き延びたとか……?

 ……いや、でもそれだとこの世界と俺の知識の食い違いが説明出来ないし……。

 ……なら、この穴に吸い込まれた俺とアリサは記憶を失ってこの世界にきたとか……?

 ……この説が一番しっくりくるけど、にわかには信じがたいな……。

 ……というか仮にそうだとしても何でそれがここに記されているんだ……?

 頭の中で数億個の仮説が飛び交うが、どれも有力な線ではなかった。

 無意味な憶測をやめ辺りを見回すと、壁画の隅になにやら怪しいスイッチがあることに気がついた。俺は迷いもせずにそれを押した。ポチっという効果音とともにそれはずずず……と壁に沈み込む。

 ……………………。

 不思議と何も起こらない。もう一度壁やら天井やら見回してみるが、別段変わったところは何も無かった。

 ポチっとな。もう一度押す。

 ……………………。

 ポチっとな、ポチっとな。

 …………………………………………。

 ポチっとな、ポチっとな、ポチっとな。

 ………………………………………………………………。

 プツン。

 俺の中の何かが弾けた。

「うおおおおおおおおおおおおお!!!」

 連打する。己の限界までただひたすらに腕を引き、ただ衝動のまま押し続ける。

 そして奇跡は起きた。

 バコン!!

 ……悪い意味で。

「うおっ!?こ、壊れちまった……!」

 スイッチの飛び出ている部分が形を崩して落ちた。淡く光る金属の地面に落ちたそれはあっけなく粉々に砕け散った。

「……わ~お」

 いかにも隠し通路がある、という感じのスイッチを壊してしまった俺は、しばらくどうしようかと迷った。しかし、その俺の思考を遮るかのようにスイッチが崩れた穴から甲高い効果音が鳴り響き、だんだんと壁画にヒビが入っていくのが見えた。壁画に見事な線路図を描いたそれは一瞬音が止んだかと思うと、次の瞬間、ガラガラと音を立てて、俺の前に小さな瓦礫の山を築いた。

「……なんかやばい気がする……」

 壁画を壊しても咎める人はアリサくらいしかいないのだが、やはり物を壊すとなると少ない良心がチクリと痛んだ。

 その壁画があった場所の奥を見ると、宇宙を連想させるかのような暗闇が広がっていた。壁画の成れの果てを踏み越え行くと、その黒の向こうへと続く階段があった。

 俺は一瞬後ろを振り返り、震える足でその階段を下っていった。


 ……空洞だった。果てしなく続く宇宙のような――――。

 地下へと続いていくはずだった階段は、いつの間にか地下を超越していた。そこには俺を狭く圧迫する壁が無く、明るく照らす松明もない。ただ、どこまでも広く、ただ、どこまでも暗かった。

 下へと続く階段は、数段先までしか視認出来ない。そこから先は暗黒が広がるだけ―――。手を横に伸ばしても、その手には何の感触も無く、なにも掴むことができなかった。振り返っても、そこに壁画があった部屋は無い。ただ暗闇の手が伸びてくるだけ。

 汗が頬を伝い、階段へと落ちる。響く音は階段を下る俺の足音のみ。

 ……ここは……どこだ……?

 俺の呟きは声にならなかった。ただ掠れた音がのどから漏れただけに終わった。

 俺の体が震えていた。そこで俺は気づく。

 ああ……これが恐怖か。 

 意識し、体が寒気に震えてしまう。寒い、怖い。

 だが、不思議と戻る気は起こらず、俺はただ、何かに急かされるように、引っ張られるように、その闇に沈んでいった―――――。

 

「……ソウく~ん?」

 ソウ君が向かったはずの場所には、瓦礫の山があった。なにかの絵のようだが、形が崩れてよく分からない。重大なのは、これが壊れたのが昔なのか、今日ソウ君が壊したのかだった。

「……後者だったらお仕置きしなきゃね。ふっふ~ん、寝かせてあげないぞ~」

 ……自分で言っていて、何かエッチな物言いに気づいて顔が熱くなってしまった。

 とりあえず瓦礫に近寄ってみて―――気づいた。

 その奥にある闇に。

「……」

 瓦礫の山に登り、黒を見据える。階段が地下へと続いていた。だが、その階段には終わりが見えず、深く深く、大きな闇へと繋がっている。

「……ソウ君?」

 私は生唾を飲み込んで、その闇へと足を踏み入れる。嫌な予感が私の胸を強く締め付けていた。


 終わりが見えた。長く続いた階段の最下段。うっすらと白く光るその無機質な段を下り終え、俺の前にあったのは、

「……扉?」

 俺の背丈の3倍はあるかのような巨大な扉だった。この完全な暗闇の場所で、それは青く光りその存在を誇示している。ゆっくりとその扉に手をかけると、手の平を刺すような冷たさが伝わってきた。負けるものかと、ムキになって扉を強く押す。そしてその扉は、俺の力に少しずつ、少しずつ開いていった。

「うぉっ!?」

 ――瞬間、扉の隙間から鋭い風が吹き荒んできた。俺は懸命に脚を踏みしめ、扉を押してくる風ごと鉄の板を押し開いた。扉を開けた後、いきなり俺の体を襲う強風に吹き飛ばされそうになる。咄嗟に顔を腕で庇う。目を開けることも容易ではない。俺は目を覆う腕の下から風の中心地を見据えた。

 この立方体の部屋の中の最奥地。そこにある祭壇のようなものの中心にそれはあった。様々な色が交じり合った混沌とした壁。それはゆらゆらと模様を変えて何かを映し出していた。俺は風から体を庇うのも忘れ、それに吸い込まれるかのように近づいた。

 そして、見た。その模様の向こう、そこに広がる風景を。

 人が乗っている動く箱、それが走る道、物を売る場所、何かを学ぶ場所、食物を育てる地、それを囲むビニールハウス、……俺が初めて見る不思議なものの数々。

 それら全てに俺の『知識』が反応する。

「自動車……車道……店舗……学校……田畑……温室……」

 俺の知識は知っている。この風景にあるもの全てを。

 高層ビルの間を行き交う人々、世界を茜色に染め上げる夕焼け。

 この場所を、俺は知っている。俺の知識が覚えている。

 この場所が……俺がもといた場所なのか……?

 俺はそこにある風景を掴むように手を伸ばす。

 そして、まどろむようにその壁に触れ―――。


「ソウ君?」

 その声に引き戻され、我に返る。声がした背後の方を振り返ると、俺が先ほど開けた扉の入り口に彼女が立っていた。

「アリ……サ……か」

「どうしたの?」

 いつ止まったのか、風はやんでいた。さっきまで聞こえていたあの風切り音は聞こえず、今はただ穏やかな静寂が横たわっている。

「いや、さっきな……何か変なのがあって……」

 そう言いながらついさっきあった不思議な壁の方を振り向く―――――が、

「あ……あれ?」

 何も無かった。祭壇のようなものはあるのだが、そこの中央には何も無く、この部屋の無機質な壁を曝け出していただけだった。

「ソウ君……寝ぼけてるの?」

「え……いやでも、確かにさっきは」

「はいはい、そんなことはもういいから、さっさとこの薄気味悪い場所から出よ?」

「あ、ちょ……! お、押すなってアリサ……!」

「は~い、文句は受け付けませ~ん」

 俺はその場所を離れる時、強く後ろ髪を引かれたが、アリサに背中を強く押され、諦めて戻ることにした。


「あ、ちょ……! お、押すなってアリサ……!」

「は~い、文句は受け付けませ~ん」

 ソウ君の背中を押しながら、私は振り返り、それを見つめる。

 今はなんの変哲もないただの壁。

「……『門』、か」

 私はソウ君を強く押して、早々にこの場所から退避した。


  *


『はーい、そう、ここよ。がんばって、もう少し……はーい、よく出来ましたー!』

 木で造られた家、眩しい日差しと太陽の匂いに包まれた不思議な空間。僕を腕の中へと収める暖かい人。

『……ハァ……ハァ、帰ったぞ―――』

『あら、お父さん、お帰りなさい。今日は早いんですね』

 大きな人。顔は高すぎて見えなかった。でも僕はその人を知っていた。今僕を包んでくれているこの人と同じ人。

『ああ、そんなことより、――が歩いたというのはホントなのか?』

『ええ、さっきからずっと歩いてるの。昨日まで何度も転んだのに』

『そうなのか? よーし――、こっちまで歩いてみろ』

『はーい、――くん。お父さんのところまで歩いてみて?』

 包まれていた手が解かれる。僕は大きな人のそばへ行く。

とてとてとてとてとて。

『おぉ! すごいじゃないか――! さすがは父さんの子だ。この調子なら、喋るのももうすぐなんじゃないか?』

 大きな人も僕の体を包んでくれた。

『あら、それは気が早いですよ』

『そうでもないさ、なんたって――は、俺と―――の子だからな』

『あらあら、お父さんたらお調子者ですね』

 確かなぬくもりが、そこにはあった。


 Another world count 2


「ソウ君?」

 アリサの声にゆっくりと目を覚ます。開いた目の先にはいつもと変わらない同じ空と同じ雲、そして控えめにこの場所を照らす太陽。そして、その視界の端に俺を覗き込んでくるアリサの顔。

「おはよう、ソウ君。いい夢でも見てた? いつもよりぐっすり寝てたみたいだったよ

「あ、ああ……」

 自分の手を目の上に置く。彼らの面影を思い出すように。

「なんか、ヘンな夢見てた」

「ヘンな、夢……?」

「ああ……」

 あの夢は……なんだったんだ? ただの夢にしてはやけにおかしい点があった。俺たちが見る夢には、このただっぴろい場所が大前提だった。しかし、今の夢は違った。明らかに人工物である、木で作られた家があった。さらにそこに住んでいたものは『家族』だった。母親と父親、そしてその子供。それは、この場所では決して成り得ないものだ。

 だが、重要なのはそこではない。

 俺は知っていた。あの家を、あの人たちを、あのぬくもりを。明確な記憶としては残ってはいないが、なんとなく憶えていた。既視感、とでも言うのだろうか。

「……よくわかんねえけど……すごく、懐かしい夢だった」

「…………」

 俺のやや電波な発言に、アリサは聞こえているのかいないのか、沈黙が返ってきただけだった。

「……アリサ?」

「……えっ、何? ソウ君」

「いや、どうしたのかと思って。ってかアリサ、今膝枕してる?」

 頭の後ろにある柔らかい感触に今気がついた。いつからしていたのだろうか?

「あ、うん。この前やられたから仕返し。どう? 恥ずかしいでしょ?」

 そう言ってまたもや胸を張るアリサ。

「恥ずかしい? まさか! 最高に喜びを感じるよ!」

 俺はそう言ってもぞもぞと動き、アリサの太もものもち肌をたっぷりと堪能する。

「あ、ちょ……! う、動かないで……あぁ……んぅ!」

 ……うん、エロい。だが、本当にアリサの体はすごく気持ちいいの一言に尽きた。

「あー、癒されるー」

「うう、結局恥ずかしいのは私だけ……?」

 今度は動きを止め、アリサの膝の上で落ち着く。やや眩しい真上からくる日差しと、周囲の葉を揺らし音を起こす涼しい風、そしてアリサの体から伝わる温もりが、俺を包むかのように思えた。

「……あー、なんであんな夢見たかちょっと納得」

「え……?」

「アリサの膝、なんかものすごく安心する」

「……ふふ。……そっか」

 頭に何かが触れる。触れてきたそれはゆっくりと俺の頭を撫でてくる。

「なあ、また寝ちゃってもいいか……?」

「……うん。おやすみ、ソウ君」

 その声に後押しされるように、俺は再びまどろみの中へ沈んでいった。


  *


 俺が起きた時、何処へ行ったのか、アリサはいなかった。周りを見渡しても、あの輝く亜麻色は無く、光を浴びて鮮やかな緑色に光る木々しか見当たらない。探しに行こうと思ったが、下手に動くとすれ違う可能性があるため、俺は少し待つことにした。

 近くの、ライカの茎に囲まれた古い大木に腰を下ろし、前髪をいじりながら、まだ少しだけ抜けていない眠気を覚まそうとする。

 ふと、あの夢の光景を思い出す。古びた床の畳、少し黒ずんだ掛け軸、年季の入った木の柱。あの匂いがひどく懐かしかった。

 不思議なもので、夢の中では実際に匂いなんてあるわけではないのに、匂いがある。もしかしたら、その匂いを嗅いでいた時の記憶を見ているのかもしれない。

 その匂いの中に、一際大好きな匂いがあった。それは……。

『――』

『――』

 頭の中に思い浮かべたその面影は何かを俺に言った。だが、その言葉は俺には聞こえなかった。思い出せなかった。

「――――、――――」

 自分で、驚く。俺は一体何を言おうとしていたのか。同時に、その言葉を口に出来ないことが、ひどく悲しかった。

 あの場所は、一体どこで、あの人たちは一体誰で、俺は、何者なんだ?

 えも言われぬものが俺の胸を支配した。焦燥感……、悲壮感……。どの感情の知識にも当てはまらないものだ。

 俺は腰を上げ、昨日歩いた道を戻る。あの遺跡の場所へと。

 今日見た夢はあの遺跡に関係している、いや、俺が不思議と思っていること。あの場所、この場所、アリサ、チューリップ、俺の知識。全ての謎の鍵を、あの遺跡が握っている。何となくそんな気がするから。


  *


 洞窟は封鎖されていた。

「何故に!?」

 厳密に言うと、金属で出来た板が洞窟の入り口を閉めていた。以前は無かった模様のついている壁のようだ。それはいくら叩いても、いくら蹴っても、いくらヘッドバットしても何の反応も示さなかった。

 コンコン……。

「は~なこさん」

 ………………。

 とりあえず、といつかの壁画のようにスイッチを探して近くの草むらや樹木を調べてみるが、とりわけ変哲なものは何も見つからなかった。

 ……しょうがない、戻るか。そうして踵を返した時だった。

 水音が聞こえた。洞窟の裏にある湖の方からだった。俺は何だろうと思い、洞窟の脇にある茂みを抜けて湖へと出た。


 宝石を散りばめたかのように湖面が光っていた。それは何故か、この場所の太陽よりも眩く輝いていた。染み入るように澄み渡った穏やかな青に、揺れ動く様々な色の光。

 その中心に彼女はいた。

 湖に浸かっていた体を湖面から出し、その白を空気に晒して。

 長い亜麻色の髪。透き通るような白い肌。少しだけ華奢な体のライン。

 アリサ、だった。

 その美貌に一瞬で見入ってしまった。俺はあらゆる感情を捨てられ、この瞬間を一秒たりとも忘れまいと、目をそらせなかった。

 アリサは緩慢とした動作でゆっくりとこちらの方を向く。その一つ一つの動作が美しいと感じてしまう。まるで、女神を目の当たりにしているかのようだった。もしくは天使、だろうか。

 今まで伏せていた彼女の大きな瞳が少しばかり揺れ、その目線が……俺を捕らえた。

「……え?」

 その間の抜けた彼女の声に俺は我を取り戻した。

 そして見た。彼女の一糸纏わぬ無垢な姿を。

「な……ななな……」

「………………」

 なんだ? 一体何が起きている? これは……アリサのはだ……。

「ごふっ!!」

「きゃっ!!」

 鼻から何か生暖かいものがドバッと溢れてきた。それは青い湖の一部を真っ赤に染めた。


  *


「変態」

「…………」

「スケベ、女たらし」

「いや、アリサ……」

「ホント、最低……人でなし」

「……悪かったって」

 湖のほとり、草むらの向こうでアリサは濡れた体を拭いている。その近くで俺は湖の方を向きながら、胡坐をかいて鼻を押さえていた。

「そもそも、こんなとこで、は……はだ…………水浴びするなよ」

「別にいいでしょ、覗く人はソウ君しかいないし」 

「い……いや、俺は覗いてない! あれは不可抗力だって!」

「わざとじゃないとしても! ……見ちゃったんでしょ?」

 その語気の強い問いに、自然と思い出してしまう。

「……はい。……エヘヘ、見ちゃいました」

 その瞬間、草むらの向こうから石が飛んできた。それは俺の背中にそのゴツゴツしたボディを叩きつけると、地面に転がった。

「痛い……!? それは痛いって……!?」

 俺も同じように地面に転がった。

「変なこと考えるからだよ」

「考えさせたの……アリサだろ」

 痛む背中を押さえながら、よろよろと体を起こす。すると、草むらの方からか細い声が聞こえてきた。

「……ね、ねえ、ソウ君?」

「ん~、何~?」

 まだヒリヒリとしている背中をさすり、おそらくアリサが投げたのであろう石を、湖に投げ入れながら返事をした。

「そ、その……ど、どうだった?」

「えー、何がー?」

「だ、だからその……」

 俺の急かすような問いに、奥の人物は少し戸惑って、言った。

「……私のカラダ」

「……ブッ!! ガハッ!!」

 空気がヘンな風に喉に詰まった。

「ちょ……失礼だよ!?」

「い、いやだって……! いきなりで……!」

「そ、それで……どうなの?」

「はい? どうって……?」

「だ、だからぁ、私の……その……スタイルとか」

「あ……」

 やっぱりアリサも女の子だなー、と実感する。そして、アリサにどう言おうかしばし考える。こういうのは正直に言うと結構照れくさい。

「え、えっと……物凄く綺麗……だった」

「……」

 俺の言葉が聞こえているのか、いないのか、草むらの向こうからはただ、シュル――という衣擦れの音が聞こえただけだった。

 しばらくして、アリサが元の白いワンピースを着て出てきて「さっさと行こ」と足取り早く俺の前を歩いた。どことなく、顔を朱色に染めながら。


  *


 アリサの隣を歩き、俺たちはまた歩き始めた。湖畔を離れる時、アリサにあの遺跡の入り口が閉じてしまったことを話したが、アリサはその事に関しては終始怖い顔をしていた。だがそれも、今朝の位置まで進んでくると、いつもの(可愛い)アリサに戻っていたので安心した。

 今朝の大木の所を過ぎると、大きな直角の岩山に直面した。どのくらいの大きさかと言うと、富士山(←知識で得た)よりも一回り大きいくらいだった。回り道をしようにも、なにしろこの大きさだ。右を見ても左を見ても、続くのは無機質な岩ばかり。

「え~と、ロッククライミング……は無理だよねぇ。やっぱり」

「そりゃ無理だろう」

「むう……じゃあ、どうするの?」

「そうだな……向こう側に続いてる山道とか洞窟があるかもしれない」

「じゃあ、それを探すんだね」

 俺は岩山に沿って歩き始める。アリサはそんな俺のすぐ隣を歩いた。

 

  *


 案の定、山の中央部分には洞窟があった。その中に入った途端、自分の周りの温度が2,3度下がったような気がした。その洞窟はあの時のような完全な暗闇――ではなく、松明が壁にかかっていたため、中はある程度は明るかった。それでも、中途半端な暗さにゆらゆらと揺れる松明の火とその光は、俺たちの不安を余計に掻き立てた。

 今までに見てきたような天然の洞窟ではない。確実に人の手により整備されたものだ。

 ぎゅ……と、アリサの手が俺の服の裾を弱々しく掴んでくる。俺はそんなか細い手を強引に掴み、指と指を絡ませる。途中、「あ……」という声が聞こえて、彼女の方を向くと、もう……! とでも言いたげに微笑んでいた。

 それからどのくらい歩いただろうか……。1時間、半日、もしかしたらもう1日経っているのかもしれない。俺たちは手を繋ぎながら結構な量を歩いたはずだ。しかし、周りの風景は最初から何も変わっていなかった。松明に質素な通路。ただそれだけの直線。前を見ても後ろを見ても、松明が転々としていることしか視認することが出来ない。

 考えて見れば当たり前のことだ。外から見てあれほど大きな山だったのだ。いくら中を通るからといって、すぐには出られないことは分かっていたはずだった。だが、この漠然とした不安を抱かせるこの通路が、俺たちの余裕を奪っている。さらに、中に入るに連れ、気温が段々と下がっていっている。そのせいか、普段よりも体力の消耗が激しい気がした。

 いつもよりひどく冷たい汗が顎から滴り落ちる。それが地面を弾く音を聞いて、初めて俺がこんなにも汗をかいていたことに気づく。そして重大なことを思い出し、慌てて後ろを振り返る。

 しまった、と思った。

 アリサは俺と比べると体力が異常なほどに少ない。俺が平均的な体力だったとしたら、アリサは間違いなく病弱とも言えるほどの体力だった。だが、まだそれだけならよかった。アリサという人間は、自分からは決して辛い、悲しいなどと言うことはない。どれだけ自分が辛くても、どれだけ自分が悲しくても、ただがむしゃらに頑張る。耐え続ける。その先に何があるのかも分からないのにだ。むしろ何もなくても、彼女は続けるだろう、さもその行為こそが大切なのだと伝えるように。

 だから、彼女は今も尚続けていたのだ。まぶたを上げることさえ、ままならなくなった状態でも。

 握った手からは驚くほどの熱さが、冷たい汗を介して伝わってきた。

 息は荒い。それどころか酸素が足りないのか、ぜぇ、ぜぇ、という音まで聞こえてきた。

 なのに足は動いている。まるで呼吸に使う分の体力を足に使っているかのように。

「アリサ……!!」

 俺はすぐにアリサの方に向き直ると、彼女のややフラフラとしている体を抱き留めた。彼女の羽根のような重さを受けた瞬間、彼女の体は俺の方へと崩れ落ちた。

 俺は急いで自分の上着を脱ぎ、床に敷いた後、その上に彼女の体を横たわらせた。シャツを脱いで、彼女の苦しそうな顔に張り付いている汗を拭う。ぜぇ、ぜぇ、と鳴っていたのどは、ヒュー、ヒュー、というものに変わっていた。

 俺はその光景に心底腹が立っていた。何でこうになるまで黙ってたんだ、何でもっと人に甘えようとしないんだ、とか彼女に対して少し、腹が立っていた。

 だが、それ以上に、何よりも許せないことは、

 俺が全く気付かなかったことだった。

 この道の不安や寒い空気に呑まれて、いくら余裕が無くなっても、彼女だけは、彼女にだけは注意を払うべきだったのに。ああ、昔からそうだ。ことあるごとに1つのことに夢中になってしまう俺は、しばしば自分を見失い、見境なく暴走してしまう節があった。そして俺は、周りを見渡すことが出来ずに、飽きるまで行動し続けた。

 その度、アリサがこのような状況に陥っていた。アリサは体力がないだけじゃない。その体力の限界地を超えると必ずこのような発作が起きることから、間違いなく彼女は何かの病気を患っていただろう。それも重度の。

 自覚してからは、その回数は激減したが、今も尚、このように俺一人の勝手で、彼女を振り回して、こんなにも苦しませている。俺がすぐにでも気が付いていれば、まだ軽い息切れ程度で済んだのにだ。

 アリサの目尻から微かな水滴がこぼれる。それが汗か涙かは分からなかったが、とにかく拭った。それと一緒に、もう一度顔全体、首まで汗を拭うが、拭っても拭っても、次から次へと汗が溢れてくる。 

 このアリサの苦しみは俺からは想像出来ない。この苦しみはアリサにしか、当人たちにしか分からないものだ。ただ、アリサは根気強く、精神が強かった。そんなアリサを倒れるまでに追い込んだ苦痛だ。それは、泣きたくなるほど、嘆きたくなるほど苦しいものだろう。

 俺は無意識にギリ……と強く歯を噛み締めてしまう。この現状に、俺は涙が出てきそうになるが、駄目だ、と必死に目の奥で押し留める。俺のせいで、俺よりも何十倍も苦しんでいるアリサが泣いてないのだ。俺が泣いてはいけない。

 床でずっとヒュー、ヒューと甲高い音を鳴らすアリサに、俺は涙をこらえることしか出来ない。痛みを和らげることも、痛みを受け負うことも、痛みを止めることも、痛みを起こさせないことも、何も出来ない。俺には……何も出来ない。

 俺はとうとう最後まで我慢出来なくなり、心の底からの叫びと共に洞窟の壁を思いっきり殴りつける。だが、洞窟は鈍い音を立てただけ、微塵も形を崩さない。砕けたのは、俺の拳の方だった。俺は自分の拳から出てくる赤を見て、遂に、涙をこらえることさえも出来なくなってしまった。


  *


『お、コゾー。ま~た、来たのか』

 白い建物。もう何度も一人で来る建物だ。だが、未だ中の独特な雰囲気には慣れない。

『なんだよ、来ると悪いかよっ!』

 その横にある花畑で、ここでよく会うな~すと顔を合わせてしまう。

『いんや、別に。……あの子も喜ぶだろうしな』

 あの子……俺がここに来る理由の1つ。

『……う~ん、そうなのか?』

『あん? 分かんないのかよ』

『いや、だってさあ……あの子あんま表情変えないし』

 あまり何を考えているか分からない。

『へへ……心配すんな、コゾー。……あの子もちゃんと喜んでるさ』

『何でそう思うんだよ……ってか「も」ってなんだよ! 俺は周りの人やインチョーさんに言われて仕方なくだなぁ……!!』

『へっ、何年もあの子を見てきた俺が言うんだ。間違いねえ、あの子は楽しんでる。お前は楽しくねえのか?』

『……お前、やなやつ』

『へっ、確かにそいつは言えてるな』

 何故かそいつだけはどうしても憎めなかった。


  *


 薄ら寒い空気に目を覚ます。目を開けると、まず一番に、頼りなくこの場所を照らす松明が見えた。そこから視線を床に動かし、そこに横たわる彼女を見る。

 彼女は相変わらずヒュー、ヒュー、とのどを鳴らしていた。だが、その音の大きさは昨日よりも明らかに小さかった。

 俺はそれに小さく安堵の息を漏らすと、昨日絞った自分のシャツをさらに絞り、それで彼女の額を拭いた。それで目が覚めたのか、彼女の目がゆっくりと開かれた。

「ソウ……君?」

「……起きたか、アリサ」

 俺の声は少ししゃがれていた。アリサの声の方がしっかりとしている。情けない。

「私……また……?」

「ん……ああ」

 アリサは申し訳なさそうに微笑んだ。

「ゴメンね。……迷惑かけちゃって」

 謝るのは、謝らなきゃいけないのは俺の方だ。

「いや……別に」

 だが、口には出さない。何度言っても、彼女は自分が悪いの一点張りだ。俺が謝れば、彼女は謝らせてゴメンという風に謝るだろう。正直どうすればいいか分からない。

「大丈夫か?」

「……う、うん。今は少し……苦しいだけ」

「……そっか」

 今度は腕や足を拭く。その時、アリサの下に敷いてあった上着が湿っていたのに気付いた。今は、と言うことは、今までは少しどころじゃなかったということだ。現に、俺の上着はこんなにもアリサの汗を吸っている。

「ねえ……ソウ君、どうして上に何も着てないの? そんなんじゃ、風邪ひいちゃうよ」

 アリサが俺を見て言う。そして、すぐに俺の手の中にあるシャツと、自分の下にある上着を見て、合点がいったというように微笑んだ。

「あ……ごめんね。すぐどくね」 

 アリサはゆっくりと体を起こし始める。

「おい、無理するな」

 思わず彼女の体を支える。

「あはは……無理なんてしてない……よ。」

 見てられなくなるほど辛い笑顔。そののどからは昨日と同じ大きさの音が出始めていた。

「あ、あれ? 立った途端、なんだが急に……」

「……まだ安静にしてろよ」

 アリサの体をもう1度寝かそうとするも、彼女は震える手でそれを押しのけた。

「大丈夫、だよ。……ほら、早くここを出よう」

「……しゃーないな」

 俺はシャツを脇に抱え、彼女の下に敷いていた上着を回収する。そのあと、俺は彼女に背中を向けてしゃがみ込んだ。

「乗れよ」

「え? ソ、ソウ君?」

 彼女から戸惑っているような返事が返ってきた。驚いてる彼女に、もう一押しとばかりに強引に急き立てる。

「ほら、早く」

「は、はい!」

 やや強制的に返事をさせてから、俺は彼女を背中に乗せた。そのまま立ち、まだ常闇の通路の中を歩き始める。彼女はその華奢な見た目どおり軽かったが、ちゃんと重みがあり、やけに俺を安心させた。スタイルもやや細身のアリサなら、お姫様抱っこも出来るかもしれない。今度試してみよう。

「まずは、ちゃんと休めるとこに行かないとな」

「……うん」

 彼女の息遣いが近く感じた。今発作を起こしているためか、その息遣いは妙に色っぽく感じてしまい、俺の胸の鼓動が早まった。一旦それを意識してしまうと、今背中に当たっている感触やら手で支えている彼女の太ももの柔らかさとかが頭の中に入ってきてドギマギしてしまう。

 そんな時、不意に彼女の唇が開かれた。

「ねえ……ソウ君、背負ってくれるの、久しぶりだね」

「……そういや、そうだな」

 しばらくアリサの発作が起きなかったからだろう。発作が起こる度に、俺が彼女を日陰や風通しのいい場所に運んでいた。最後の発作は1年前ぐらいだった。なら彼女を背負うのは1年ぶりになる。

「前々から思ってたけど……ソウ君の背中、おっきくなったよね」

「……そうか? 気のせいだろ」

 この場所では成長という概念が無いため、俺の体は全く変わらないのだ。無論、背中が大きくなるなんてことはない。

「ううん……大きく、なったよ。あの頃より、ずっと……」

「……アリサ?」

 寝息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったらしい。昨夜があんな状態で、十分に急速がとれていなかったんだろう。

 彼女を背負い直すと、俺は歩幅を大きくする。この寒い通路の中、彼女の体はどこと無く暖かい気がした。


  *


『へっ、生意気なんだよぉ!少しチャンバラが上手いからってエバっちゃってさ~』

『そうそう、本当はこんなにも弱いのにね~』

 腹部を蹴られる。それを合図に様々な所から蹴りの連続が始まる。

『う……が、がぁ……』

『ははは、おい見ろよ。こいつ口から血ぃ出してるぞ。かっこ悪ぃ~』

『お……おい、さすがにやりすぎじゃないか? 血が出てるって言っても口からだぜ』

『おいおい、何言ってんだよ。俺様だって大量出血させられただろ~? おあいこおあいこ』

 てめぇのはただの鼻血だろーが……。そう頭の中で思っても、蹴りは一向に止む気配はない。

 ああ……いてぇなぁ……。もう、いいよな親父。約束破っても。

 ―――いいか、俺はおまえにケンカで勝つためにこれを教えたんじゃあない。これはお前が思っている以上に危険なものだ。もう二度とこれでケンカなぞするんじゃない。

 無理だよ、親父。だってさぁ……俺、こいつらみたいな奴が、死ぬほど嫌いだから。

 朦朧とし始めた意識の中、僅か数センチの場所にある鉄パイプに手を伸ばしかける。蹴られながらも、気付かれないように。その指先が微かに触れた時、

『おらぁあああ!! てめぇらぁぁぁ!!』

 小さな影が、敵の大将を殴りつけた。

『何やってんだ! 男なら正々堂々、拳と拳のタイマンで戦えやぁ!!』

 ヒーローのように。

『て、てめぇ! ざけんな!』

『がはっ!』

 そいつは次の瞬間、地に伏していた。当たり前だ。ただのケンカなら俺の方が数倍も強いのだから。 突然現れたそいつに、さっきまで俺に付きまとっていた奴らがフクロにし始める。

『やれやれ……』

 思ったよりもカクカクする足で立ち、俺は手の中にある鉄パイプを……投げ捨てた。

『死にさらせぇぇぇぇぇ!!』

 そしてその後、俺は悠然とラリアットを敵軍にぶちかました。


『ハァハァ……なぁ、俺たち……勝った、のか……』

『はぁはぁ……そう、みたいだな……』

 戦場の跡、影が二つ寝転がっていた。

『へっ……』

『はっ……』

 その二つの影は、拳と拳を付き合わせた。


  *


 洞窟に入ってから三日が経過した。

 アリサは少し回復の兆しを見せたが、まだまだ歩ける程良くはなっていない。ここの気温や緑の無い空気のためだろう。彼女の体調を考えるならば、早くここを出て、十分に休める場所で休ませた方がいい。

「……くう……くう」

 と言っても、俺の背中で十分休んでいる気もするが……。

 彼女の寝顔を振り返り、思わずクスリと笑ってしまう。

 彼女はいつも良く眠っていた。体力が少なく、体が弱いのなら簡単に疲労が溜まるのかもしれない。

 こんな彼女を見ていると、たまに何故だろうと思う時がある。何故彼女は普通じゃないのだろう、と。何故彼女は普通に生きることを許されなかったのだろうか、と。

 体は病弱でろくに運動も出来ない。さらにそれを犯した罰のように彼女の首を締め付ける発作。次第に苛立ちが沸いてくる。何に? 分からない。彼女を助けられない自分にかもしれない。彼女が俺を頼ってこないことにかもしれない。もしくは……この世界にかもしれない。

 通路の先は未だ深い闇。松明という名の小さい灯火は、その闇を払うには小さすぎた。

 闇の中を進む。進んでいく。出口はあるのだろうか。この闇の向こうに。闇を彷徨い、歩き抜いたその先に。

「……ふにゅ~」

 彼女の間の抜けた声に、俺はハッとし、抜けかけていた力を腕に入れ、彼女を背負い直した。

 先のことは分からない。多分、俺にも、彼女にも。

 ただ、俺は信じたい。

 ずっと、ずっと闇の中に閉じ込められていた人達でも、その歩く足を止めなければ……いつかは、いつかは……きっと。

 いつしか、通路の奥に、極小の光の点が見えていた。


 洞窟を抜けた先には大きな川が広がっていた。川の上流は段差を経て山頂から流れてきている。それは小さな滝に見えなくも無い。山の上にある氷河が溶けているのか、その川は綺麗な透明の色をしていた。川のほとりに眼を移せば、小さな草むらがあり、その草むらの中央に大きな樹木がある。

「おい、アリサ。起きてるか?」

 背中の彼女に問いかけると、なんとも呑気な声が返ってきた。

「……ん~ん。寝てる~」

 俺も思わずあくびが出てきそうになる。

「本当か?」

「……多分~」

 仕方なく、俺はまだ半寝の彼女を、木陰の草むらに寝かせた。下ろす時に、彼女がう~、と手を伸ばしていた。案外起きてるんじゃないだろうか? いや、起きてるな。

 川の横へと赴き、しゃがみ込んで手で小さな桶を作った。俺はそれを川へと差込み、水を入れたまま彼女の元へ戻ってくる。

「ほら、アリサ。飲めるか?」

「飲めない~」

「何で?」

「ソウ君の背中から吸い取ってたエネルギーが失われたから~」

 貴様は寄生虫か。

「どうすれば飲める?」

「ソウ君の背中~」

「俺の背中が何だ?」

「乗せて~」

「…………」

「乗せて~」

「……つべこべ言わずに飲みなさい。お仕置きするぞ」

「ふふ~ん。ソウ君にそんな度胸無いも~ん」

「あまり俺をなめるなよアリサ。本当にするぞ」

「出来るものならどうぞ~」

「よし分かった」

 俺は手に携えていた川の水を俺の口に含み、そのまま躊躇なく彼女の口に押し付けた。

「…………!」

 触れ合った時、今まで閉じられていた彼女の眼が大きく開かれた。そして俺の顔を認識すると、顔、いや体を真っ赤に染めてじたばた暴れだした。

 俺はそれを押さえつけ、彼女の口に川の水を流し込んだ。流し込む最中、彼女は俺に押さえつけられて、何も抵抗することが出来なかった。ただ、胸の辺りがビクンビクンしていたが。

 全ての水を彼女に流し込んだ後、俺はゆっくりと彼女から離れ、体を起こす。

「……ふむ、癖になりそうだ」

 いや、俺何言ってんだ。これじゃ変態だぞ。

 ただ、彼女の方を見ると、口の端から水を垂らし、恍惚の表情を浮かべながらまだピクピクしていた。

「……アリサ、大丈夫か?」

「……ソウ君」

 俺は彼女に何だ、と聞き返そうとしたが、出来なかった。彼女の膝が俺の頬に突き刺さったからだ。俺はそのまま吹っ飛ばされ、川の中へと落っこちた。川は見た目より深くないのか、威力が止まらない内に底についた。

 底に足をつけて立つ。正直久しぶりの水だから、かなり冷たい。だが、心地のいい冷たさだった。

 俺はそのまま蹴られた頬を押さえながら振り向き、草むらで仁王立ちしている彼女に文句をいう。

「痛いじゃないかアリサ」

「なっ! ななななななな――――!」

「何言ってるか分かんないぞ」

 アリサ語か?

「何してんのよぉおおおー!」

「何って……」

 俺は自分の体を確認する。服はもうびっちょびちょだ。

「水浴び?」

「そっちじゃなあああああああい!!」

 まだ紅い顔で叫ぶアリサ。

「何だ、口移しか? ……嫌だったか?」

「う……い、嫌じゃ……ないけど……」

 俺から眼を背け、何故かまた恥ずかしそうにしきりに髪を撫でるアリサ。

 川から出て、服を絞る。幸い、上の方はあまり濡れていなかった。

「あ~、もういいよ!」

 アリサは1人でスタスタと大きな樹木の根元へ行き、そこに腰掛けた。俺も絞った後、彼女の隣に腰掛ける。

「悪かったって。そんなに怒るなよアリサ」

 まだ頬を膨らませている彼女に形だけ謝る俺。

「……別に悪くないけどさ。なんていうか、ムードっていうか……」

 む~、と言いながらそんなことを言う。俺はそんな彼女に聞く。

「ムードか……じゃあ、もう1度やるか?」

 が。

「いい」

 即答された。しかも俺にプイっと顔を背けて。

「う……何でだ? やっぱり俺は嫌われてるからか?」

 やべぇ。今胸を見えないナイフで切り裂かれた。痛みで泣きそうだ。そんな俺を彼女は横目でチラっと見やると、渋々というように何かを言う。

「…………窒息死しちゃうから」

「はい?」

 肩にポン、と彼女が寄りかかってくる。そして、ぼそぼそと小さい声でこう言った。

「……ソウ君とそういうことすると、胸が締め付けられて窒息死しちゃうから、しない」

 俺はその言葉に窒息死しそうになった。だが、こういうことをアリサに言うと調子に乗るから言わない。ただ、俺も彼女へと寄りかかる。

 草むらを吹き抜ける風がやけに気持ちよかった。


  *


 それは唐突にやってきた。何か不思議な音が聞こえてくる。

 波の音だ。

 この押し寄せては返す音。浜に水を打ち上げ、また海へ帰っていくような音。

 懐かしい。何故かそんな思いがこみ上げてきた。

「ソウ君、もしかしてこの音……」

「……ああ」

 駆け出す。森で覆われたゆるやかな傾斜をアリサと一緒に駆け下りる。

 傾斜が終わり、地面を踏む感覚が硬い感触から柔らかい感触へと変わる。そしてさらにその感触が沈み込むようになり、じゃりじゃりという音が聞こえた時。

 俺たちの眼前にあったものは。

「うわぁ……」

 青と……蒼。

 どこまでも続く自由で広大な青と、果てしない深みを携えた蒼。その二つの同色の狭間は、見惚れるほど美しくありありと輝いていた。

「……海……だ」

「うん……海だね」

 初めて見た海。俺たちは長い旅を経てこの場所へとやってきた。アリサが砂を踏みしめる音を立てながら海へと向かっていく。俺はそんな彼女の背を見つめながら漠然と感じていた。

 旅の終わりを。ここが、世界の果てなんだと。

 この世界の道は何故か一本道だけだった。目に見えるような道ではない。地形の影響や障害物で、そこしか通れない場所。しかし、最初の時は何も道は無かった。道を見つけたのは、アリサと出会ったあの丘。あの丘から道はずっと続いてきた。地形に沿ってグネグネすることはあっても、分かれ道や十字路のようなものは無かった。俺たちはいつも迷うことなく道を進んでいた。

 その長い長い一本道が、この海へ続いていた。いや、この海で途絶えていた。なら、この場所がこの一本道の終着点。俺たちの旅の終わり。

 この世界を踏破しても、結局誰もいなかった。これで本当にこの世界には俺とアリサだけだと確信した。

「これから……どうするかな」

 俺は思わず呟く。だが、そんなものはアリサの澄んだ声に容易くかき消された。

「ソウく~ん、どうしたの? 早くおいでよ~」

 ま、そんなこと、どうでもいいか。

「今行く!」

 俺もまた走り出し、彼女の隣へと来る。海に入った瞬間、波が俺の足を襲った。脚を持っていかれると思ってしまう程の衝撃。俺の足はそれにすっぽりと包まれた。

「あはは。冷たいでしょ?」

「ああ、予想以上だなこれは。でも気持ちいい」

 波がまた海へと引き返していく。その水流は意外と強かった。そのせいで、俺は体勢を崩してしまった。

「おわっ!」

「え……きゃっ!」

 二人で体をもつれさせながら浅い海へと倒れこんでしまう。

「悪いアリサ、大丈夫か?」

「う……うん。もうソウ君、気をつけてよね」

 俺は急いで上半身を起こし、彼女の安否を確認する。よかった。被害は軽微のようだ。俺は先に体を起こし、彼女を起こそうとした。が。

 大2波来襲。

 あはは~。

「………………」

「あ……あは……は」

 やばい。アリサ怖い。

「……ソウ君……?」

 アリサがゆらりと立ち上がり、こちらへと体の向きを変える。

 く……来る……? そう身構えた時、顔に何かがかかった。

「ぶへっ、しょっぱ!」

 ちょっと飲んだ。

「あはは。お返しだよ」

「む。このやろう~」

 手で海の水をすくい、アリサにやり返す。

「あはは。ソウ君ってば、冷たいよ~」

 そう言って水しぶきの中で笑う彼女はこの海よりも輝いていた。


  *


『はい。目隠し完了!』

『よ~し、さあみんな、こいつを回せ!』

『よっしゃ、任せい!』

『貴様への恨み、今ここで晴らさせてもらう!』

『恨みを買った覚えはないぞおおおおおおおおお~~~~~~~~~』

『さて、こんなもんかしら』

『まだまだ足りない気もするが、まあいいだろう』

『うあ~、フラフラする~』

『あっはっは。酔っ払ったおじさんがいる~』

『なんと無様で滑稽なことか』

『……かっこ悪い』

『うっせ! さっさと方角を教えろ』

『なんだ、少年。それが人にものを頼む態度か?』

『いや、そういうルールでしょ……』

『教えて欲しくば、すいません僭越ながらこの哀れな僕を奴隷の如く指図して無事にスイカを割らせて下さいと土下座して頼め』

『ルールに従えや、アンタ!』

『何言ってるんだ、早くやれよ』

『ここは大人しく言うこと聞いといた方が懸命やで?』

『土下座だ、土下座だ~』

『あはは。頑張って~』

『……これが下級民族との階級の差』

『くそっ! 分かったよ! やればいいんだろ、やれば!』

『何子供に土下座してるんだ! 俺たちはこっちだぞ!』

『ああ、もうめんどくせえな! 目隠ししてて分かりにくいんだよ!』

『ねえねえ、お母さん。変な人がいるよ~』

『シッ! 見ちゃいけません』

『……少年、今日も立派に生きてるな』

『死んだ方がマシじゃないっすか、これ?』

 でも、何故か付き合ってしまう。自分でも不思議だった。

『さあ、早くスイカを割れ! みんなが待ってるんだぞ!』

『あんたのせいで時間食ったんだよ!』

 やっぱり、大切なんだろう。この時間が。

 不思議と笑えた、こんな時間が。


  *


 俺たちがこの海に辿り着いてから、もう何日たっただろうか。そんなに多くは経っていない……とは思う。あれから俺たちは結局海岸線に沿って歩いていた。

 ただ、ここ数日何か違和感みたいなものを俺は感じていた。俺はこの砂浜と海は初めて見た。それなのに、何故か……。

 何かが足りないと感じている。

 それが何かは分からない。ただ、なんとなくそんな気がしているというだげだ。このきれいすぎる砂浜や海。聞こえてくるのは潮風のみ。そして海と青空しか見えない風景。この風景は初めて見たというのに……一体何故?

「あっ! ソウ君見て見て!」

 俺の少し前を歩いてた彼女が振り返り、嬉しそうに声を弾ませる。

「おっと、何だ。どうした?」

「ほら、リィルの実。久しぶりに飲もう!」

 彼女の指差す方を見ると、海とは逆方向の浜辺の外、小さな草原の台が見えた。その上に見るのも久しくなったリィルが実っている木々が立ち並んでいた。

「お、懐かしいな。何日ぶりだろ」

「ねー。あ、私ちょっとライカ探してくるね。近くにあると思うから」

 子供みたいにはしゃぐアリサを見送った後、俺は木に登り、リィルの実をもぎ取る。そして、それを持ってアリサを待っていようと砂浜に降りた時。

 ふと、あることをしたくなった。俺は近くにある太い木の幹をへし折り、リィルの実を砂浜に置く。そして俺は太い幹を剣のように構え、

 縦にそのまま振り下ろした。

 俺の打撃を受けたリィルの実は、その外殻を解き放ち、


 オレンジ色の液体をぶちまけた。


「―――――あれ?」

 そりゃ、そうだ。リィルの実の中身は液体だ。当然割ればこうなるのは当たり前だ。けど、俺は何を勘違いしたんだろう。何をこのリィルの実に重ねたんだろう。

 それは、確か……俺の大切な……。


『――。いつかお前も大切なもの、見つけるんだぞ』

『あらあら。大丈夫、――君? 体は大切にするのよ』

『おいおい、コゾー。何してんだよ。お前は自分のやりたいこと、分かってんだろ?』

『お前になら俺の秘蔵コレクションの1つを分けてやってもいいぜ!』

『あんはんなら、誰よりも上に行くことが出来る。何となくそんな気がするんや』

『お前がいなくなると、少し寂しくなるな』

『別に。あんたのそういうとこ、嫌いじゃないな……って思っただけよ』

『何を考えているかは知らないけど、オススメしない。――が悪いことをすれば、その分周りの人が悲しむ』

『少年、君は時たまどこか遠くを見つめているような表情をするな』

『……いなくならない方がいい。あなたは、多くの人に必要とされている。……私もその内の一人』

『――君、起きて。ほら、行こう? 今日も空は蒼く澄み渡ってるよ』


「う、が……あぁぁぁ……!!」

 突然頭、いや、眉間がひどく痛み出した。その激痛に俺はその場で頭を抱え込む。

「っ! ソウ君! どうしたの!?」

 どうやらアリサが戻ってきたらしい。砂利を踏みしめて来る音が聞こえる。俺は慌てて体にムチを打って立ち上がった。

「あ、いや何でもない。リィルの実を頭突きで割ったら思いの外痛くってさ~」

 まだ痛む頭痛を必死で無視しながら愛想笑いを浮かべる。

「……はい?」

 アリサは俺の話した電波的行動に驚いている様子。

「ちょっち効いたよ。いや~リィルの実も頑張って生きてるんだね」

「え? いや、ちょっと待って。 なんでそんなことしたの?」

「ああ、それは何となく。ほら、俺って気まぐれだから」

「え……え~」

「まぁ、そんなことより早く飲もうぜ。ライカはあったんだろ?」

「あ……うん。ここに、あるよ」

「なら、さっさと飲もうぜ。ホント久しぶりだから楽しみだ」

「う、うん……」

 アリサを待たずに、リィルの木の幹に座り込む。こうしている間にも、頭はドクドクと脈打つように痛みを増していた。

「ほ~ら」

 トントンと俺の隣を叩く。それを見たアリサは遠慮がちに俺の隣に座る。まだアリサは納得がいかないような顔で考え込んでいる。やはりアリサは何か違うとか思ってるみたいだ。

「ねぇ……ホントに大丈夫?」

「大丈夫だって、ちょっと痛むだけだよ」

 リィルの実を吸うと、あの味が込み上げてくる。少しだけ頭痛が和らいだ気がした。隣のアリサは俺が飲んでいるのにも関わらず、一向も口をつけようとしなかった。俺がどうしたのか聞こうとした時、急にアリサの口が開かれた。

「ソウ君、本当は何があったの?」

「え、いやだからリィルを頭突きで……」

「それだけじゃないでしょ。私が駆けつけた時ソウ君、泣きそうな顔してたもん。ソウ君は滅多に泣かない。自分がどんなにケガをしても、自分がどんなに死にそうな思いをしても、ソウ君は泣かない。ソウ君強いもん」

 間違ってる。間違ってるよアリサ。俺はアリサが思っているほど強くない。

「だから、だからね……ソウ君……さっき、何か悲しいことがあったんじゃないの?」

 真っ直ぐ俺を見つめてくるアリサ。その視線は俺にあらゆる妥協を許さないような視線だった。

「…………ふう」

 アリサには敵わないな。

「自分でもよく分かんないんだけど……」

 俺は話すことにした。

「……リィルの実を見たらな、なんか急にあることをしたくなったんだよ。……俺はリィルを砂浜に置いて、木の幹で叩き割ったんだ。なんでそうしたかは分からない。でも、それが普通な……当たり前な気がして疑問にも思わなかったんだ。でも、リィルはただ液体を撒き散らしただけだった。……ははっ、これこそ当たり前のことなのにな。リィルの中身は液体。それを割りゃあ液体が出てくる。普通に分かってたことなのにな。でも俺は、違う何かが出ると、思ったんだ。期待したんだ。だってその、違う何かが、俺にとって……何か、たい……せ……つな……ものっ……だった……はずっ……だから……!」

 最後の方は嗚咽交じりで、自分でも何を言っているのか分からなかった。アリサはそんな子供のように泣きじゃくる俺を、ぎゅっと抱きしめてくれた。俺はその優しさに、ただ泣いた。訳も分からず泣いた。ただ、自分の中から溢れてくる漠然とした強い悲しみを感じながら。


  *

      

『は~い、みんな~。焼けましたよ~』

 蒼い空の下、ほんわかとした声が響き渡る。それと一緒に香ばしい匂いも漂ってきた。

『お! 待ってました』

『やっぱり海っていったらバーベキューだよね~』

『海=バーベキュー。これ定番』

『……肯定』

『でも意外とやんないんだよね。ああ……この匂い懐かしい~』

『ふふふ……肉は全て僕が頂こう』

『なんや、えげつないこと考えんで下さい。ま、そしたら皆に首もがれて目ん玉ほじられて歯ぁ全部抜かれたあげく虫やカラスのエサにされて殺されるのがオチなんやろけどな』

『……君の方が数十倍えげつないと思うのは私だけか?』

 先ほどまでスイカ割り、砂の城作り、ビーチバレー、と「今年の夏!」を堪能していた面々は、バーベキューがかもし出す魅惑的な食の匂いと、じゅーじゅーと言っている懐かしい声に引かれて砂浜を上がっていく。

 俺を置いて。砂浜に埋められた俺を置いて。

 ああ、薄々気付いてたよ。そろそろバーベキューにしようかって言った時にあのおとぼけキャラ達が俺を砂浜に埋め始めた時から、ほんのちょっとだけ悪い予感がしたさ。でも気にしてなかった。まさかそこまで酷いことはしないと思ってたから。けど、あいつら俺の上を行きやがった。

 バーベキューの魔力なのか、俺が埋もれてるってことあいつら完璧に忘れてやがる!

 これならまだ故意に置いてけぼりの方がマシだよ! おかしいだろ!? 俺そんな影薄いキャラじゃなかったはずだよね!? しかも力ずくで抜け出そうとしても全然びくともしねえし。どんだけ無駄に力入れてんだよ!

『食べたいものがあったら俺に言うがいい。すぐに焼いてやろう』

『(ねぇ、――のお父さんって顔はすごく怖いけど、案外いい人なのかな?)』

『(いや、それはない。ああいう表顔が怖い人は「むふふのふ。この野菜と肉を料理した後は、この食べごろの娘どもをたっぷりしっぽり料理してやるぞ。グフフ」とか考えているに違いない)』

『(……いや、それ絶対考えてないから)』

『(……ふむ、だが別にあの人ならば料理されてもいいとは思わないか?)』

『(え、先輩ああいう威厳ある人が好みなんですか?)』

『(うむ。威厳が必要という訳ではないが、頼りになる男が好きだ。――少年にももう少しその要素があれば、惚れてるところなのだが)』

『(それは言えてる。――は見た目は野生なくせに肝心のところは弱気だから頼りがいが壊滅的にない。むしろ何故か頼られがいがあるのも男らしくない)』

『(え……頼りない……かなぁ?)』

『(………………)』

『(………………)』

『(え……何? なんで私をそんな眼で見るのよ?)』

『(ふう……これだからツンデレ君はめんどくさいんだ)』

『(ホントホント。一緒にいる時はツンツンしてる癖に内心メッチャデレデレとか正直付き合いきれない)』

『(ちょ……!。何よ、何なのよ)』


『お父さん、つくねはありますかな?』

『……ふん、貴様に父親呼ばわりされる筋合いはない』

『そうそう、私たちをそう呼ぶには、私たちの息子を嫁に貰ってくれないと……あら?』

『……息子は嫁にはなれんぞ』

『あらあら、そうねぇ。だったら……あなたがお嫁さん? きゃあ! ならうちに嫁ぎに来るのね』

『…………』

『確かに息子さんはとても魅力的な男性です。ですが、私も男のはしくれですので、添い遂げることは不可能かと……。駆け落ちを許してもらえるのなら別ですが』

『あらあら。水臭いわねぇ。そんなのバンバンしちゃってOKよ! 二人のこと、応援してるからね!』

『…………はぁ』

 今ではもう限りなく遠く感じる場所から騒がしい空気が流れて来る。

 ……さみしくないもん。さみしくなんか……。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 あれ、この暑い夏の日差しのせいかな? 眼から汗が出てきたよ……?

 と、俺がこの現状を嘆いていると、小さな足音が近づいてきた。

『――君、はい。バーベキュー、少しだけ持って来たよ』

 陽光を背に、亜麻色の髪を翻した少女が、頭だけしか地面に出ていない俺の顔を覗き込んだ。

『……ありがとう……ありがとう! 君は僕のオアシスだ!!』

『オアシスて……なんや、大げさやなぁ』

『……いつものこと』

『はっはっは。こいつは単純バカだからな』

 今度は複数の足音とともに声が聞こえてくる。

『な……なんだお前ら!? 俺は別に呼んでないぞ!』

『まあ、そう言うなって。ほら、俺たちも持って来てやったぞ』

 そう言って、俺の目の前に軽い焦げ目がついている野菜やら肉やらが載っている大皿をドン、と置いてきた。……いや、俺取れないんだけど。

『ああいう草むらで食べるんのも気持ちええねんけど、せっかく海に来たんや。やっぱ砂浜やろ』

 そう言って肉を皿から取っていく。……クソッ、俺も食べたい! でも手が出ない。

『……Am I a vagetable ? No,I love meet』

 今度は左から肉を取っていく。……わざとだ。こいつらわざとだ。

 俺の目の前でランチ食い尽くす気だ。

『くっ! 頼む!』

 もうこの状況を打破できるのは君しかいない!

 俺のアイコンタクトに、亜麻色の髪をした彼女はハッとした顔をした。流石だ。俺の視線だけで彼女は全て分かってくれたらしい。

 彼女は俺の埋められている場所に近づき、その場所にしゃがむと、

 バーベキューを俺に差し出して来た。

『はい、――君。あ~ん』

 ………………は?

『? どうしたの、――君? ほら、あ~ん』

『いや……あの……』

 違う! 違うぞ! 確かにバーベキューを食べるために助けを求めたけど、「あ~ん」がして欲しかった訳じゃない! 普通に体をここから出して欲しかっただけなんだ! 

『何だ何だ? ――の奴真昼間からラブコメ展開しやがって』

『羨ましい限りですな。ま、せっかくやし、じっくり見物と行きましょか』

 あ、あいつら……はなっからこれが狙いだったなぁ!!

『ねぇ、――君。食べないの?』

『え、いや……だからその……』

 俺が相手にしてくれないと思っているのか、少し潤んだ瞳で聞いてくる少女。っかぁー! そんなことされたら無下にに断れねぇじゃねぇか!!

 あ~ん、てのは見た目より凄く恥ずかしいんだぞ! 分かるのか!

『……私もやる』

『え?』

 皿の隣にいた少女も、すっくと立ち上がり、俺の場所へと移動してくる。そして、少し所在なさげにもじもじした後、

『……はい。……えと、あ~ん』

 恥ずかしげに焼き鳥を俺の口へと差し出してきた。

 だぁーかぁーらぁ! そういう反応とかされたらすげえ断れねぇんだよ! てかむしろがぶりつきたくなるんだよ! もぉ!

『……なぁ、何か知らんけど胸のあたりがすげぇムカムカしてきたんだけど……』

『……奇遇やな、俺もや。不思議やな、何か凄く暴れたい気分や……』

 ぴーーんち! 俺の命がぴーーんち! 何かあそこで死亡フラグが立ちかけてる!? てかこれ、見た目程いいもんじゃないぞ!

『ほらほら、私たちとだべってていいのか? ライバルに抜け駆けされているぞ』

『ほうほう、あれは男女間で恒例の『あ~ん』イベントですな』

『えっ、嘘!? あっ……あっ………………私もやるぅ!!』

 一見、不条理なイジメにしか見えないこの光景。だけど俺は、嫌じゃなかった。大切な人がいて、見守ってくれる人がいて、助けてくれる人がいて、一緒に歩いてくれる人がいて。このゴミだらけの砂浜が、俺にはとても輝いて見えた。大切なものに、思えた。

『ほら、――。はい、私のを食べなさい!』

『あ、ずるいよ~。私が最初だったんだから私が先だよ』

『……ふっふっふ。この隙に乗じて……』

『どれ、私も加勢するか』

『アーイキャーンフラーイ(揚げ物)』

『お前ら、ちょっ! そんなに食えないって! ってか熱! だっ、そんな押し付けんなー!』

 また、明日もこんな日が続けばいいと思った。この蒼穹の波打つ海のように。

 ずっとずっと。ただ……どこまでも。


  *


 哀しい。

 哀しい夢を見ていた気がする。

 眼を開けると、はるかな大空が少しぼやけて見えた。

「ん……」

 思わず出かけた震える声をのどの奥でこらえる。

「起きた? ソウ君」

 声のした方を見ると、アリサが俺の隣で手を繋いで横たわっていた。

「あ、ああ。俺昨日あのまま寝ちまったのか……?」

「うん。疲れちゃったみたいだね」

「そっか、悪かったな」

「ううん……別にいいよ」

 アリサはそう言って笑ってくれた。だが、何故か違和感を感じる。

 アリサの様子が少しおかしい。笑顔もなんとなくぎこちないし、俺と眼が合うと居心地が悪そうについ、と眼をそらす。いつもなら眼があったら無条件で笑顔をくれるのに……。

 俺のそんなちょっとした寂しさが表情に出たのか、俺の顔をみたアリサに少し陰りが見えた。俺は慌てて体を起こし、無理矢理明るい顔を造る。

「ほら、今日も行くんだろ? まずはリィルの実を調達しようぜ」

「うん……そうだね」

 ゆっくり立ち上がったアリサの足取りは、重いように見えた。


 リィルの実を飲んでいる間も、アリサは沈黙して、何かを考えていた。俺の昨日の一件のせいだ、とは思うが、それで何故アリサが黙り込むのだろう? 俺の話は彼女にとっては良く分からない話のはずだ。

 食べ終わると、アリサは小さい声で「行こっか」と一言言ってさっさと歩いていってしまう。俺も無言でついて行く。

「アリサ……? どうしたんだよ。なんか変だぞ」

「え? ……別に。私はいつもどおりだよ」

 そう言ってこちらも向かずに言う。いつものようなハキハキとした声はそこからは聞き取れない。いつもどおり……な訳がない。自分でも違うって分かってるだろうに。

「アリサ」

「え……そっ、ソウ君?」

 俺はアリサの前へ回り、その華奢な肩を掴む。

「この前のこと、もう忘れたのか? 一人で悩むくらいなら俺に話してくれ。そんなアリサは見たくないんだ。それとも俺はそんなに信用できないのか……?」

「そ、そうじゃない……そうじゃないよ……!! でも……」

 アリサは潤んだ瞳で俺を一瞬見た後、胸の前でぎゅっと拳を作った。そして……申し訳なさそうに俺から顔をそむけた。

「ごめん……ソウ君のことを信用してない訳じゃないの……。でも、こればっかりは……どうしていいか、分からないの……!」

 今にも泣きそうな声で、彼女は言った。俺はそれを聞いた瞬間、体中が熱く冷たいものに支配された。それは波のように俺の精神に強く、素早く、痛みを与えた。

「ソウ君……お願い。少しの間だけ……一人にさせて」

 そう言葉を俺に放つと、彼女は身を翻し、歩いていってしまった。

 眼から溢れそうになるものをこらえるのが、辛かった。

「俺は……俺は……」

 砂浜に食い込む足が鉛のように重く感じた。


  *


『なぁ……ちょっと聞いてもいいか……?』

『おや珍しい。――の方からこっちに来るとは』

『……何事?』

『あ、ああ……ちょっとな、悩んでる人がいるんだけど……どうにかして、その人を元気付けたいんだ。お前ら、どうすればいいと思う?』

『(…………これってやっぱりあれかな、病院の?)』

『(……十中八九その通り)』

『(なんかムカつく)』

『(……仕方ない。――はあの子にベタ惚れだから。……少し悔しいけど)』

『(……ふん)』

『え……えーと、二人とも?』

『うるさい。さっさとあの子のとこ行け。バカ』

『え?』

『……悩んでたり、苦しんでたりしてる人にとっては、好きな人にそばにいて欲しいもの。彼女にとってあなたがどんな存在なのかは知らないけど、あなたのすべきことはプレゼントでも励ましの言葉でもない。……分かった?』

『……ああ。分かった。……これから行ってみるよ。ありがとな』

『ふん、別に。てゆうか行くなら今すぐ行って来い』

『え、いや、でもこれからホームルーム……』

『一秒でも早く側に行ってあの子を安心させて来いって言ってる。HRなんてものは私達が誤魔化しておいてやる』

『……いってらっしゃい』

『お前ら……へへっ、サンキュ。行ってくるよ』

『…………』

『…………』

『……はぁ。何やってんだ、私』

『……まあまあ』

『ほんと、あいつって私の心を乱させる達人。あいつといるといつも胸のあたりが苦しくなって切なくなる。あいつなんか……大っ嫌いだ』

『…………』

『さぁ、HRを始めるぞ。ん? ――の奴はどうした』

『ああ、あいつなら休み時間に「ああ……感じる! 遠い宇宙に住むクラリオ○星人達の意思が!」とか叫んだ後に、いきなりリンボーダンスをしながら廊下を全力疾走したんです。そしたら股間と頭を強打して「う、生まれるぅうううううーーーー!!」とか絶叫しながら腹抱えて女子トイレに駆け込んだので多分今は女子トイレの個室とスッポンで腹キュルキュル鳴らしてるんじゃないでしょうか』


  *


 物思いに耽りながら砂浜を歩いていた。俺の脚に踏まれている砂利は一定のリズムを刻んでいる。

 どうすれば……どうしたら良かったんだろうか……。

 海から一陣の潮風が吹き抜けてきた。その風に俺の前髪は激しく揺れた。風が止むと、再び終わりなき波の音が俺の耳にこだました。

 砂浜を歩いても、蒼い海を眺めても、真っ白な雲を見上げても、

 答えは出なかった。見つけられなかった。

 俺には、何かを失ってしまった俺には。

 何も、何も見つけられない。

 砂利の刻む音が段々と遅くなり、やがて消えた。

 ふと真上の空を見上げた。そこには寂しく光る1点がある。

 ずっと、ずっとだ。ずっとこの場所にはあの太陽がある。

 最初の頃から、何も変わらずに、小さい光を放っている。

 俺と同じように、小さな光を出して何かに足掻き続けている。

 …………………………。

 ジャケットの胸の内ポケットからあるものを取り出す。

 色彩豊かなチューリップの花で彩られた花冠。

 これを俺にくれた日、彼女は泣いていた。泣きながら笑ってこれを作ってくれた。

 何故、彼女は泣いていたのだろう……。

 答えは、まだ分からない。ただ1つ、分かることは。

 アリサが俺の知らない何かを知っているということ。

 そしておそらく、それのもたらすものを恐れている。それと同時に、それが本来の正しい姿だと知っている。その二つの感情の狭間に彼女は苦しめられているのだろう。

 俺はどうすればいいのだろう。

 花冠を見つめる。

 潮風が吹き、色鮮やかな花びらが揺れた。

 瞬間、花冠がアリサと重なった。

 あの、見てるだけで幸せになってしまう笑顔と。

「……ははっ」

 馬鹿らしい。

「何を迷ってたんだ、俺は」

 ああ、馬鹿だ。馬鹿だ俺は。

 俺はアリサが好きだ。あの笑顔が大好きなんだ。

 そのアリサが……今、苦しんでいる。

 なのに俺は、何やってんだよ。

 こんなとこでさ。こんな……彼女のいない場所で。

 ……行かなきゃな。アリサの側に。彼女の隣に。

 アリサが苦しんでるなら、側にいてやりたい。俺がいることで、何かが変わるとは思えないけど。

 俺の見てない所で彼女が泣くのは嫌だ。彼女が一人ぼっちで泣いてるなんて嫌だ。

「アリサぁああああああ!!」

 駆け出す。踵を返し、彼女の下へ。

「怖がる必要なんてない! 俺はずっと、アリサの側にいるぞぉおおおおお!!」


  *


 波が浜へと打ち上げられていく。その光景を高い場所から見下ろしていた。

 視線を上げれば、そこには近いようで遥か遠い水平線が見えた。

 どうしたらいいんだろう……。

 ここはソウ君と離れてそう遠くない、少し海へと入った小高い岩の丘。

 この懐かしい場所、そこで私は悩んでいた。

 ソウ君に話すかどうか。

 ……この世界の秘密を。


 この世界は不思議だ。

 見た事の無いもので溢れている。

 そう思ったら見た事のあるものが出てきたり。

 世界の成り立ちがおかしかったり。

 ホント都合がいい。

 当たり前だ。

 何故ならこの場所は……ある一人の願いが現れた場所だから。

 海から風が吹いてきた。それは静かに私の髪をたなびかせた。

 耳をすませる。

 風が過ぎ去った後、波の音がゆっくりと息を吹き返してくる。

 風が止んだのだろうか。しばらくしても風の音は聞こえてこない。

 波の音のみ。

 波の音しか聞こえない。

 その小さな音は、揺りかごのように私を包んだ。

 ああ……穏やかだ。

 静かだった……。

 この世のあらゆるしがらみさえ凌駕するような悠久。

 けど違う。

 私が欲しいのは、こんな平穏じゃない。

 私が欲しかったのは、

 私がただ1つあって欲しかったものは、

「アリサーっ!」

 この声、なんだ。


「アリサーっ!」

 少し急な坂を登った先、海に面している崖に腰掛けている背中に声を投げる。

 その人物は素早く振り返った後、驚きに眼を見開いた。

「ソウ君……! どうして……? 私……一人にしてって言ったのに……。ソウ君にひどいこと言ったのに……」

 そうして彼女は揺れる瞳で俺を見た。それは、数少ない彼女の疑問の表情だった。

「……決まってるよ」

 俺は崖へと脚を動かし、隣に腰をかける。そして、まだ戸惑ったような顔をした彼女に話す。

「約束したからだよ」

「……え?」

「……ずっと、一緒にいようって」

 何故か気恥ずかしくなってしまい、前を見る。

 海と、空で溢れたこの世界を。

「ソ、ソウ君……」

 俺は無言で、華奢な体を俺の肩に引き寄せた。


 二人で肩を寄り添い合い、波の音に耳を傾けていた。そして一緒に、彼方まで続く蒼い海と空を見ている。今はもう、波の音しか聞こえないような淋しい静寂ではない。互いの心臓の鼓動が互いの体を通して伝わってくる、心地の良い静寂だった。

「…………」

「…………」

 互いに無言。不思議なものでいざ2人になると言葉が出て来ない。だが、何故か満たされたような気持ちで胸がいっぱいだった。

「ねぇ……ソウ君?」

 長い沈黙を破ったのは、彼女の遠慮がちな問いだった。

「……ん? なんだ」

「やっぱり……知りたい?」

 普段なら必ず意味が分からなかった言葉。だけど、今なら分かる。このことこそが彼女を苦しめていたものだ。

 だからこそ俺は断言する。

「いんや、別に」

「え……?」

 アリサが驚きに眼を見張る。まぁ、無理もない。

「俺にとって、アリサといることが1番だからさ。……アリサが話したくなったら言ってくれればいい」

「ソウ君……」

 大きな波がこの岩の丘へとぶつかってきた。微かにその振動が伝わってくる。

 この丘は綺麗な場所だった。前を見れば果てしない蒼。横を見れば長い砂浜。後ろを振り返れば森林が広がる高い山。全ての風景をこの場所から見下ろすことが出来た。綺麗だった。思わず泣きたくなるほどに。彼女が隣にいるだけでこんなにも世界が輝いて見える。綺麗に映える。

「……アリサ」

「……ん、何?」

「好きだよ」

「あ、はは。……初めて、好きって言ってくれたね」

「あれ、そうだったっけか?」

「そうだよ。ソウ君、一緒にいようとしか言ってくれなかったもん」

「……そっか、そうだったな。やっぱちゃんと言われると結構違うのか?」

 俺のそんな問いに、彼女は僅かに視線をそらし、

「……うん。好きって言ってくれた方が……嬉しい」

 幸せそうにはにかんだ。

「……アリサ」

 この世界は、ただ蒼かった。蒼色が果てしなく遠くまで続いていた。

 俺たち2人は、それをずっと、ずっと見つめていた。


「……そろそろ行こっか」

「ああ、そうだな」

 ゆっくりとどちらからともなく立ち上がる。そして手と手が触れ合うと、気恥ずかしそうに頬を紅く染める。

「……えへへ。そうだ」

 アリサはごそごそと服の裾に手を入れ、何かを取り出す。それは、

 俺があげた紫色のチューリップだった。

「…………」

 アリサはそれを慎重に海へと掲げた。それを見て、俺も内ポケットの中から入っているものを取り出す。

 アリサが作ってくれた花冠。

 それをアリサのすぐ隣で同じように海へとかざす。

 1つの花と1つの花冠は、白く光る海と空を背景にその輪郭を鮮やかに照らし出されていた。

「……綺麗」

「ああ、綺麗だな……そうだ」

 俺は花冠と紫のチューリップを1つに繋げる。そしてそのままアリサへとそれを被せた。

「ソウ君……?」

「…………やっぱり」

 アリサの1つの仕草にも白いワンピースはひらりとはためく。それは小さな太陽の光を受け、少し眩しいほどに瞬いていた。

 彼女特有の亜麻色をした髪が優しくたなびいている。それは風に吹かれ、ゆっくりと揺れる。この場所の蒼が、アリサの姿を光るように映し出す。

 光る海と澄み渡った蒼空を背景に、アリサは輝いていた。この世界にあるどんなものよりも淡く、美しく、儚く輝いていた。

 アリサを色鮮やかに飾った花冠と紫のチューリップは海から吹く静かな潮風に少しその花びらを揺らした。

「ソウ君……そんなに見つめてどうしたの?」

 アリサが恥ずかしさからか頬を染めて体を隠すようによじる。

「いや……アリサ。俺……」

 お前と出会うことが出来て本当に良かった。

 そう言おうとした時、

 一際強い風が丘の周りに吹き荒れた。

 そのあまりの風の強さに思わず体が浮きそうになる。俺は無意識に腕で眼を庇う。だが、吹き荒ぶ暴風の中、腕と腕の間で俺は見た。

「きゃあぁ!」

 視界の端にあった白いワンピースが段々と遠ざかり、落ちていく。アリサの声とともに。

 ここは坂を上った程度の高さだ。だが、その高さを侮ってはいけない。坂は中々急であり、急いでも何分かは必ずかかる長さだ。簡単には馬鹿に出来ない。しかも、落ちれば当然、下は海。だがここから落ちれば明らかに浜辺や崖に近い。水面に叩きつけられるだけでなく、海面下にある地面や岩に叩きつけられる可能性は十二分にある。

「アリサっ!!」

 足で思いっきり岩を蹴る。腕で風から庇いながら、しっかりとその白いワンピースを視界に捕らえる。それは、もう海面への落下を始めていた。

 足に力を込め、勇気を振り絞りながら下に跳躍する。一瞬でアリサのもとへ辿り着いた俺は、彼女の体をしっかりと抱きかかえる。そして、腕を力の限り上へと振り上げた。不規則な風の動きもあってか、アリサの体は無事、岩の丘の上へと上がることが出来た。

「っ! ソウ君!」

 あの動作のおかげで体は反転し、頭が下となってアリサの涙目と眼が合う。俺はそのどこまでも透き通る瞳を見つめながら、

「……ありがとな」

 そう呟いていた。

 そして、遠ざかって行く愛しい人の姿を見つめながら、

 俺は頭から水面に叩きつけられた。


  *


『あ、あの……あなたは……?』

『え、俺? 俺の名前はそう。まだかんじ分かんないけど、そうって言うんだ。君は?』

『え……私? ……私は……ありさ。漢字は有限の「有」に、さんずいに少ないって書く「沙」っていう漢字を使うの……』

『へーえ、よく分かんないけど、君の名前はありさって言うんだね。ねえ、ありさはどうしていつもこんなとこにいるの? 前に来た時も、その前に来た時も、この部屋の前を通ったことあるけど、ずっとこの部屋で本読んでたでしょ?』

『あ……私、ちょっと難しい病気みたいで……小さいころからずっとこの病院にいるんだ。退院も、外に出ることも滅多に無くて……』

『え、外に出ることも無いって……友達とかと遊んだりしないの?』

『……ずっとこんなとこにいるから……私、友達いないんだ……。だから、小さいころからお母さんやお父さんといない時は、ずっと一人なの……』

『ふ~ん。あ、じゃあ俺と友達になろうよ!』

『……え?』

『そうすればありさはもう一人じゃないよ。友達の俺がずっとありさの側にいるもん! 一緒に外で遊べるし、こうやって話すことも出来るよ』

『え……あの……』

『寂しくなっても、悲しくなっても、泣きたくなっても、これからは俺がいるよ! だから大丈夫! 一緒に遊べば自然に楽しくなるもんね』

『……これからは……あなたが?』

『うん。これからはずっと俺がありさの側にいるよ。だって友達だもん!』

『……友達……』

『うん。はい!』

『……この手は?』

『もちろん、よろしくの握手! これからは友達になるんだしね!』

『あ……』

『へへっ。よろしく、ありさ。』

『……よろしく。……その……そう……くん』


  *


「…………!」

 声が聞こえる。懐かしい人の声が。この声は、誰のものだっただろうか。

 ああ、なんて心地がいいのだろう。この人の声は。不思議と眠りにつきたい気分になってくる。

 もうこのまま起きることなく、ずっと眠りにつく。それもいいかもしれない。この驚くほど気持ちが良いまどろみの中にずっと。それはなんて幸せなのだろうか。

「……! ……!!」

 でも、何故だろう。俺は今、ここで眠りについてしまってはいけない気がする。この人を……今なお俺のことを呼び続けているこの人を、悲しませてしまうような気がするから。

 大丈夫。もう悲しまないで。俺はまだ眠っていないから。君の側にいるから。だからもう、安心だよ。

 ありさ。


「ソウ君っ!!」


 眼を覚ます。感覚全てが戻ってくる。気が付けば、アリサが俺の胸に抱きついて泣きじゃくっていた。彼女は俺の胸を濡らしてずっと俺の名前を呼んでくれていた。

「ソウ君……ソウ君!」

「アリサ……」

 俺の呟きに彼女は弾かれるように顔を上げ、俺の眼が開いている所を見ると、途端に顔を涙で溢れさせた。

「ソウくん……ソウくぅん……生きててよかった。生きててよかったよぉ」

「……心配ないよ、アリサ。俺は、ここにいるから」

 うん、うんと言うように俺の胸で言葉にせずに彼女は頷く。

 周りを見渡せばあの崖の下、岩の壁のすぐ近くにいた。頭からは大量の血が漏れ出ているらしく、俺のシャツを赤く染めている。

「俺は、生きてるのか」

「……ごめん……ごめんねソウ君」

「……だから何でアリサが謝るんだよ」

「だって、だってぇ……」

 座り込んでいる俺たちの体に、冷たい波が押し寄せた。その波は俺に振動を加えると、何事も無かったかのように海へと帰っていく。

「アリサが生きていてくれたら、それでいいよ。……アリサが無事で良かった」

 アリサは俺の言葉に上げかけた顔を、血が付くのも構わずに再び俺の胸へと押し付けた。そしてしばらく沈黙したのち、やがてゆっくりと顔を上げた。

 その顔は何故か決意に満ちていた。

「ソウ君……私、決めた。今までどうすべきか迷ってたけど、私やっとしなきゃいけないことが分かったよ」

「アリサ……?」

 今までに無いほど強い意思が言葉に込められていた。彼女のその初めての声に、俺はただならぬことを感じた。

「……終わりにしよう。この終わりのない悲しい旅も、命の無い寂しい世界も、なにもかも……終わりにしよ」

彼女は淡々とした声で言葉を紡いでいく。その瞳は海の向こうへと向けられていた。

「……どういうことだ?」

 俺の問いにも彼女は微動だにせず、海へと瞳を向けたまま俺に答えた。

「……ソウ君。今から話すことは、遠い昔の……私達がいた世界のことだよ」

「俺達がいた……世界?」

 あの……俺が夢で見ていた世界?

「うん……そう」


「私達はね。この世界に来る前……違う世界で生きていたの」


  *

 

「始まりはいつだったかな……」

 森の中、引き返す道の途中、アリサが感慨深そうに呟いた。

 植物で俺の血を止めた後、休む間もなくアリサは俺を連れて何処かへと向かい出した。

 俺たちはどこへ向かっているのだろうかという疑問が頭にあったが、そんな疑問はアリサから語られる昔話に吸い込まれていった。

「その世界はね、こことは何もかもが違うの。太陽は沈むし、気候だって頻繁に変わる。便利な物が沢山あって、いっぱいの命で溢れてる。……そして何より、時間とともに全てが移り変わってゆくの。これは、ソウ君も知ってるよね?」

「ああ……」

 俺の中に眠る知識。この知識は俺が記憶を失う前から持っていたものだ。彼女の言う元の世界と俺の知識が一致するということは、俺とアリサが本当にその世界にいたという事になる。

「その世界で私とソウ君が初めて会ったのは子供の時。その時、私は今よりも内気で本ばっかり読んでた。……ううん、本を読むことしか出来なかった」

 どういう意味だろうか。そう頭の中で思っても、口には出さなかった。俺が見たこともない瞳をアリサがしていたから、話の腰を折ることが出来なかった。

「その世界にある全部がつまんなくて、私が生きてる意味なんてあるのかな、なんてずっと思ってたんだ。でもそんな時、1人の男の子と知り合ったの」

「その男の子が……俺?」

「うん、ソウ君。2人ともまだ幼い子供だった。その頃を境に、私の中で段々と何かが変わっていったの。ソウ君が連れてくるたくさんの人たちと友達になって、心の底から『ああ、楽しい』って思えるようになって」

 俺の知らない俺が語られるのを不思議に思う気持ちと、俺が知らない彼女の過去を聞き、驚く。その他にも色々なものが俺の胸を支配して複雑に入り組んでいた。俺が内心戸惑っている間も、アリサは話を続けていく。

「何もかもどうでもよかったのに、急に世界全部が綺麗に見えるようになって……私、今生きてるんだなって実感して」

 漠然と、曖昧にだが彼女の言いたいことが分かった。

「けどね、人の命には必ず終わりがある。どんどん過ぎ去ってゆく。私の人生も。ソウ君の未来も。でも、そんなの……終わるために生きるなんて、悲しいじゃない? だから、こんな世界があってもいいんじゃないかって、この場所は作られたの」

「この……終わりの無い世界が?」

 俺たちが今いるこの世界とは違う世界があり、俺たちは過去にそこにいた。半ば予想はしていたが、いざ本当のことと言われると、やはり驚いてしまう。

「うん、この永遠に変わらない場所が。……でも、違ったよね。やっぱりそんなの間違ってるよね」

 いつしか森を抜けて、俺は真上から光を受けていた。その光に気付いて前を見ると、見覚えのある湖が広がっているのに気付く。

「こ、ここって……」

 あの、人によって作られた遺跡の裏にある湖だ。ここでの出来事さえ、もう遠い過去のように思えてくる。

 アリサは俺の前で振り返り、手を俺に差し伸べた。

「さぁ、行こう。この悲しい世界を……間違っていたものを終わらせる為に」

 俺はその手を優しく掴み、光る湖を背に立っている彼女の隣へと動く。

「ああ。2人で帰ろう。元いた場所へ」

 この世界を作ったと言っても、どうやって作られたのか、アリサはいつから記憶が戻っていたのか。まだ疑問に思う事は山ほどあるが、今はそんなことどうでも良かった。早く元の世界をアリサと一緒に見てみたい。そんな気持ちで一杯だった。

 手を繋ぎながら、2人で歩いていく。俺たちの未来はずっと同じ道を歩いていくのだろう。今のように手を繋いで。俺は、そう信じて疑わなかった。

 だが俺は気付かなかった。

 彼女の瞳の奥……一見笑っているようにしか見えない表情の裏で、

 深い悲しみの色が溢れていたことに。


 遺跡の前へとやってくる。以前のような堅固に閉じられた壁のようなものは見られない。何事も無かったかのように静かにそれの入り口は開いていた。

「ここにあるのか……?」

「うん、きっとあるよ。この遺跡の文献に書いてあったの。『汝が過去を望む時、帰還の門は開かれん』」

「前に一度来た時か……よし、行こう」

「……うん」

 何故か少し足取りが重いアリサの手を引いて中へと入っていく。中は以前と全く変わっていない無機質な風景。分かれ道を無視し、ただ真っ直ぐあの時と同じ道を通る。そう、帰還の門とは、おそらく……。

 最後の部屋へと辿り着く。そこには、壁が崩れて出来てしまった瓦礫の山があった。

「はは、懐かしいな。これ。俺がボタン連打しまくったらこうなっちまったんだよなぁ……」

「あ、やっぱりこれ、ソウ君が壊したんだ! もう、駄目でしょ! 何が起きるか分からないんだからもっと慎重に行動しないと……!」

「何だ、別にばれて無かったのか……言わなきゃよかった」

「ソウ君!」

「わぁわぁ! 悪かったって! でも、ほら。俺が壊したおかげで隠し通路見つけられたし、結果オーライ! むしろ大手柄じゃね?」

「……もう、調子いいんだから」

 どちらからともなくプっと吹きだし、笑い合う。その静かな笑い声は少しの間、この遺跡に響き渡った。

 笑い声が静まったころ、隠し通路へと進む。

「……ねぇ、何で私が前なの……?」

「いや、だってこの先真っ暗だろ? 俺暗いの苦手でさ……」

「あはは。そんな所も昔と変わらないね」

「え、何が? あっちでも俺って暗いの駄目だったのか?」

「うん、そうだよ。さすがに成長してからは大丈夫になったけど、小さい頃はトイレの時に1人じゃ行けないって言うから、その度に私起こされたんだよ」

「……うわ、俺かっこ悪……」

「そうだね、かっこ悪いね」

「そこは嘘でも否定して欲しかった!!」

「ふふ、でも大丈夫だよ。それは昔の話だもん。今のソウ君は……時々……ううん、いつも……思わずドキッてしちゃう程……かっこいいよ」

「…………そういうのって言ってて何だか照れくさくなんない?」

「うわ、デリカシーの無い言葉! 別にいいの! 言ってる本人より、言われた人の方が照れてくれるから!」

「…………まぁ、そうだな。ぶっちゃけさっきから顔がすごく熱いし」

「……ねぇ、ソウ君?」

 一泊の間が開いた後、繋がっている手がぎゅっと握り締められた。

「アリサ……? どうしたんだ?」

「うん……その……」

 言い辛そうに、不器用に、彼女は言葉を紡いでいく。

「あっちの世界でも……私のこと、好きになってくれる……?」

 その言葉を言ったアリサの表情を目にした時、俺は目頭と胸が熱くなるのを感じた。俺は思わず強く握り締められた手を、もう二度と離さないかのように強く握り締め返す。

「馬鹿……そんなの、当たり前だろ」

「……うん!」

 アリサは本当に幸せのように、もういつ死んでも後悔は無いというような笑顔を浮かべた。その宝石はこの暗闇の中でも、俺にはしっかりと輝いているのが見えた。

 いつの間に辿り着いていたのだろうか。俺たちの目の前にはあの巨大な門があった。それはいつかと同じように蒼白く光っている。

「……よし、開けるぞ」

「うん……いいよ」

 2人、手を重ねて門へと力を込める。刺すような冷たさがあったはずの門は、今はとても暖かく感じた。

 門が開いていく。ゆっくりと。

 少し門が開いた瞬間、隙間風がビュウと吹き刺してくる。俺はアリサの体を支えながら、彼女と一緒に足を踏み締め、門を最後まで開け放った。

「大丈夫か……? アリサ」

「う、うん……見て、ソウ君……」

 風の中心部――――この部屋の最奥の部分にそれを確認する。

「あれが……『帰還の門』か……」

 様々な色が交じり合った混沌とした壁。そこには俺の記憶そのままに、違う世界のあらゆるものが映し出されていた。

「うん……きっとそうだよ……ソウ君」

「ああ……行こう」

 強い風が吹き荒れる中、ゆっくりと足を踏み出していく。彼女の手を握り締めながら。

「思えば、この世界で住んだ時間……すげえ長かったよな!」

 段々と門へと近づいていく中、俺は声を出す。

「うん。そうだね。私達まだ体は十代なのに、実質他の誰よりも生きてたんだよ!」

 後ろからも声。彼女は大きな声を精一杯出していた。俺も負けじと声を絞る。

「じゃあ、あっちに行ったら、俺たちじいさんばあさんか!」

「うん……お年寄りだ!」

 アリサの声は何故か震えていた。どうしてだろうと思いながらも俺は率直に答えを返していた。

「でも、アリサとなら本当にそうなっても間違いなく楽しそうだ!」

 やっと門へと辿り着き、門へと手をかける。触れた手は沈み込むように飲み込まれていった。

 これでこの世界ともお別れか、そう思った時、


「……アリサ?」


 アリサの手が俺の手から離れていた。

 その間にも俺の手は確かな力で門の中へと吸い込まれていく。慌てて振り向けば、彼女は少し離れた場所で佇んでいた。

「アリサ……? どうしたんだよ。お前も早く……」

 俺は彼女へともう一方の手を差し出す。だが彼女は俺の手を取る変わりに首を真横に振った。

「ごめんね、ソウ君。私は……ここまで」

「アリサ……? 何を言ってるんだ?」

「私は……ここから出られないの。だから、ソウ君……」

 俺の目の前にいる彼女はゆっくりと片手を上げ、

「バイバイ、だよ」

 瞳から一粒の雫をこぼしながらそう言った。

 その瞬間、まるでその言葉に呼応するかのように、門の力が大きくなった。俺はバチバチと鳴るそれに必死に抗うも、見えない何かによって段々と引きずり込まれていく。その力はまるで竜の顎のようだった。

「っ! アリサ!」

 彼女を見る。どれだけ手を伸ばしても、もう彼女には届かなかった。有紗が遠くなる。俺から離れていく。少しずつ、少しずつだけど着実に。

「俺は! 俺はお前と……!」

「ソウ君、良く聞いて」

 俺の言葉を遮るように、彼女は強い口調で俺に言葉を投げかける。

「私達がこの世界に来てから……312年もの月日が経ってるの。時間軸の進み方が元の世界とは違うから、あっちではおそらく数年しか経過してないと思う。…………数年もの時間、私のために使わせちゃって――――ごめんね」

 

「アリサ! 約束しただろ! 一緒に! ずっと一緒にいようって、約束したじゃないか! 嫌だ! 俺は嫌だ! アリサと別れるなんて……嫌だ!」

 俺の叫びを、彼女は微笑みながら聞き、そして。

「ソウ君……あっちの世界では、ちゃんと……本当に幸せになってね」

 儚く、笑った。

「アリサぁあああああああああああ!」

 世界が大きく揺れ動き、やがて……小さく閉じた。


  *


 8月4日。

 窓の外の眺めは眩しくなり、遠くに見える海はその煌きを増していた。波の音に混じって、セミの定型的な鳴き声が聞こえて来る。それは微かに歌っているようにも聞こえた。ここから感じられる『夏』は非常に気持ちがいい。気持ちがいいはずなのに、どうしてかそこにいる人たちの心は晴れることはない。

 学校の中、数ある教室の中の1つ。その狭いとも広いとも言えない一室に、集団はそれぞれの面持ちで時間を過ごしている。開いている窓に腰掛けている者、机の上であぐらをかいている者、机に突っ伏して顔を上げない者。無言で海を眺めている者。虚空をただじっと見つめる者と様々だ。ただ、その者たちが心に想っていることは――――心に想い浮かべている人物は同じだった。

「あれから……もう二年やな」

 窓から差し込む光と、波の残滓を背に体つきのいい少年は呟いた。

 誰に言った訳でもない少年の呟きに、同じ部屋にいる長髪の少女は何を言っているのか悟ったようだ。腕の間からくぐもった声が聞こえてくる。

「このままあの2人、ずっと目を覚まさないのかな」

 その言葉に、部屋にいた何名かのものはぴくりと体を震わせた。そして、何かを口に出そうとして……やめた。否定するわけでも、肯定するわけでもない。ただ顔を俯かせて沈黙した。

 その消沈した人物の1人が片手で顔を抑えながら泣きそうな声を出した。

「あいつが作った部活なのに……肝心のそいつがいないんじゃ、意味ねぇだろ」

 少し痩せた感じの男だった。その外見もあいまってか、その少年はひどく弱々しく見えた。

 その男の続きを紡ぐように、窓の外を眺めていた短髪の少女はゆっくりと話す。

「……私達も遂に高3。この夏休みが終わったら引退しなきゃいけない……なのに、後輩が1人もいないんじゃ、廃部は免れない。……彼が残したものを、私達で続けて行きたかったけど、もうそれも叶わない」

「……なんか、すごく懐かしく感じる。高校に入ってすぐ、『一緒に部活をしないか?』ってあいつに誘われた時のこと」

 今まで沈黙を保ってきたツインテールの少女が、一瞬だけ遠い目をしたその時。俯いていた長髪の少女が聞こえるかどうかぐらいのか細い声を鳴らした。

「やめて。そんな……そんな言い方、まるで想と有紗が死んじゃったみたいじゃない」

 その彼女の言葉に、部屋はまた静寂を取り戻す。

「なんで、なんやろな」

 静寂な空気そのままで、静かにその体つきのいい少年は言った。

「……何が?」

「なんで、よりによってあの2人がこんな目に遭わないかんのや。なんで、俺みたいな奴やなくて……おかしいやろ」

「………………」

 その少年の言葉に、静寂は1段と深さを増した。少年のその言葉は、ここにいる全員が抱えていたものだ。記憶にまだ新しい、二人の人物の残像。きっとそれをここにいるみなが浮かべただろう。あの2人は輝いていた。一緒にいるだけで自然と楽しく、元気が沸いてくるようになる不思議な、特別な2人だった。

 ピピピピピピピピピピ!!

 突然、静寂な空気にけたたましい程の音が鳴り響いた。

「あ……。俺の……か」

 痩せ型の男のポケットに入っている携帯だった。男が通話ボタンを押し、「はい……もしもし」とお決まりの言葉を口にする。部屋にいた者たちはまたそれぞれの想いに耽っていった。

 そう、今この瞬間までは。

「え……目を覚ました!?」

 この単語を聞いた瞬間、部屋の者たちはみな一斉に顔を上げ、立ち上がった。途中、イスを派手に倒して大きな騒音を生み出しても、今この時だけはそんな事はどうでもよかった。聞き耳を立てて、その痩せ型の男の続きを注意深く聞く。

「はい……はい!」

 男の声も気のせいか先ほどのようなか細い声ではなく、力のこもったものに変わっていた。そう、あの2人が隣にいた時のように。

 やがて、男がゆっくりと振り返り、同じ部屋にいる者たち全員を見る。男の目はうっすらと潤んでいた。

「皆……想が……今日の朝、やっと目を覚ましたって……」

 全員、外へと向かって走り出す。電話のことを詳しく聞くなんて時間が勿体無かった。


 Real world count down start


 鳥たちの軽快なさえずりにゆっくりと目を開ける。まず視界に入ったのは少し黒ずみの入った白一色。

 天井だ。そう気付くまでゆうに数十秒はかかった。

 ここはどこだろう。そう思い、静かに部屋を見渡す。

 白い部屋だった。1面真っ白な。ただそれは見ているだけで穏やかな気持ちになるような心地いい色だった。俺のベッドの脇にその背景の白と相まってか強烈な存在感を放つ花が2、3輪あった。その花の色は赤、黄、オレンジといった色をしていた。

 すぐに色の確認をした自分がおかしくて、少し笑う。かすかな風を感じ、振り返ると、これまた白色をしたカーテンが風に吹かれ音も無くはためいていた。

 やや重く感じるシーツを払って、立ち上がろうとする。そこで初めて俺に突き刺さっている様々な管に気付く。仕方なく、管の出所の棒を掴み、それと一緒に窓まで歩こうとした。だが、体が上手く動かない。かすかに目眩さえする。まるで何年も眠っていたかのように。

 疑問を感じながらも、おぼつかない足取りでハタハタと言っている窓の近くへと辿り着く。そして、カーテンをめくって、窓の外を見ようとした。その瞬間、驚くほどの光量に思わず声を上げる。慌てて目を閉じるも、それは腕、さらにはまぶたさえも貫通して俺の目を差した。

 しばらく硬直していたが、段々と慣れてきたのか、目を少しずつ開けていっても先ほどの痛い光はない。おそるおそる目を開け、前で覆っていた腕を降ろす。すると、

「う……わ……」

 音が聞こえた。何故か聞く者を安心させる音。

 それと同時に俺の視覚を独占したのは、自然と感嘆を漏らすような光景だった。

 空の蒼と海の蒼。それら二つを飾るように、俺の眼下には町が広がっていた。耳をすませると、波の音に混じり、海の上を漂う船の音やさらにその上を飛ぶカモメ達の鳴き声。町からは公園で愉快にはしゃぐ子供たちの声も聞き取れた。

 そしてその全てを抱くかのように広い海。それは眩しい太陽の陽光を受け、はためくカーテンのような光を見せた。ただ、きらめく。その光景がこんなにも美しい。

 一瞬、呆然としながらも俺はすぐに気付いた。この光景を見たのは初めてじゃない。この目の前に海が帯見える所や、町を見下ろす形で建っている建物。間違いない。俺の地元にある病院、三ヶ丘病院だ。町を隔てるようにある山の麓、小さな丘の上に建っていることから、その名前は完璧に合っていると言えるだろう。

 何故俺がこの光景を見た事があるのか。当然だ。この病院とは昔から長い付き合いだった。俺の小さい頃から、今まで頻繁にこの病院に通っていた。最初は祖父の入院から始まって、よく見舞いに来ていた。家が近いこともあってか、道を覚えてからはほとんど毎日と言っていいほど通い詰めていた。

「……なんで俺病院にいんだ?」

 まあ、この部屋を見た時から大体分かっていたことだが、実際俺は入院することなんて何一つしてないはずだ。

 ふと、過去を振り返る。俺が起きる前、俺が最後に眠りについた瞬間、意識が途切れた瞬間を。

「うー……う?」

 何故だろう。思い出そうとすればするほど頭がぼやけて何か変なものを食べた気分になる。思い出せそうで思い出せない。これほど気持ち悪いことは無いだろう。俺が頭の引き出しを何回も引っ張るが、必ずどこかで引っかかってしまい、一向に何も分からない。

「あー、駄目だ。頭いてぇー」

 軽い頭痛を感じ、ベッドに勢い良く倒れこむと、ふとある物が視界の隅に入った。

 ナースコールだ。

 俺は気付いた瞬間、迷わずそれを押した。自分で考えるのがめんどかったから。こういうことは事情を知っている人に聞くに限る。

 そして押してから数秒経って……気付く。そうだ、この三ヶ丘病院には、アイツが――――あのナースがいるじゃないか!

『な、何だとぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 そう心の中で絶叫した瞬間、ビリビリとした違う絶叫が聞こえてくる。それは病院の壁や地面を伝って俺の病室まで届いた。やばい、この迫力のある声、アイツだ。

 そう思ったのも束の間、病院全体が揺れるのを肌で感じた俺は、ドドドドドドドドドドドドという音を聞き、ちょっと鬱な気分になりかけていた。真っ直ぐにこの部屋へ向かってくるそれに、俺はもう逃げられない。

 バーン! と言っていいほどの効果音が俺の耳をつんざく。そしてその扉の向こうに立っている人物と目が合った。

「や……やっほー、荒島ナース」

「てめー……」

 俺の声にそのナースは低い声で答える。だが、その人物にしては小さい音量に愕然とした。もしかして心配とかしてくれてたりしたのかなー、とか思っていたら、突然その女性ナースは手を振りかぶり、

「今更どの面下げて目ぇ覚ましやがったぁああああああああああ!!」

「おぶふぉお!」

 俺へとその拳を突き出した。

 半端じゃない衝撃が俺の頭を襲う。事前に俺が拳の流れに沿って飛ばなかったら間違いなく逝っていた。うん。

「てめっ! 何しやがる!」

 壁へと叩きつけられながらもよろよろと立ち上がる。こちとら病み上がりだぞコラ! 今さっき目覚ましたばっかだぞオラ!

「うっせー、コゾー!!」

 そんなの関係ねえ! とでも言うように文字通り言葉をぶつけてくる荒島。この先も激しい言葉の嵐が来るかと思ったら、昔馴染みの荒島は急に見たことも無いような表情をした。

 目が悲しく伏せられ、その顔は女性特有のか弱いものとなった。そして、震える声を、思わず泣いてしまっているのかと思うほど震える声を俺に投げた。

「目ぇ覚めるんなら、もっと早く目ぇ開けろよ……この2年間、どんだけ皆が心配したと思ってんだよ……もう一生目を覚まさないんじゃないかって、皆、みんな胸が締め付けられる思いだったんだぞ……目覚めるんだったら、もっと早く起きて、心配して損しちまったって……笑わせてやれよ」

「あ、荒島…………」

 俺の呆気に取られた声に、荒島は「やべー」と言いながら目尻を拭き、

「と、とにかく! 今院長呼んでくっからおとなしくしてろよ!」

 早々に部屋を出てった。

 結局何しに来たんだろうか。

 あいつなりの心配だったのかもしれない。

 ただ……興味深いことを聞いた。

「2年……?」

 俺は2年もの間このベッドにずっといたのだろうか……? 俺の最後の時の記憶はは高1の夏。荒島の言葉が正しければ今は……高校3年の夏か。高校生活の大半を俺は時間に置いていかれたらしい。

 驚くことに、この時俺が懸念したのは、今年控えているだろう受験の事でも、半年しか行っていない学校生活のことでもなかった。

「あの子は今……どうしてるかな?」


  *


 しばらくすると、荒島が見覚えのある人物を連れてきた。ここの病院の医師、三井院長だ。この人も荒島と同じくこの病院に長くいる人物で、俺もよくお世話になっていた。三井先生は俺の「ちぃーっす」というラフな挨拶に持ち前の明るいニカッとした笑顔で「うむ」と返事してくれた。その年配で杖をつく様からは一見予想もつかないほどフレンドリーな空気を出している。

「久しぶり、じゃな。良く目を覚ましてくれた。想君」

「いやー、ご迷惑をおかけしてすいません」

 俺のこの言葉もお決まりの文句となっていた。小さい頃から破天荒だった俺は、良く大怪我をしてはこの病院に入院していたものだ。三井先生もいつものように、いやいや、こちらも商売じゃからな、と返してくるものかと思ったが、今回は違う言葉が返ってきた。

「そういうお礼なら荒島君にするがいい」

「なっ! ちょっ! おい、クソジジィ!」

 三井先生の意外な言葉に、俺だけでなく、荒島も驚いていた。

「荒島君は君がいつ目覚めてもいいように、毎日リハビリをしてくれていたんじゃよ。忙しい合間を縫ってな。……こういう言い方はなんだが、君が目覚める保障も無いのにじゃ。今君が問題なく動けるのも全て荒島君のおかげなんじゃ」

「荒島……」

 俺は荒島を見る。正直俺にとっては苦手な性格だが、時折患者に見せる天使のような笑顔と、その看護士である強い心意気を俺は尊敬していた。今回、荒島には多大な迷惑を掛けたと思う。人生の先輩として、今だけはありったけの敬意と感謝を込めて俺はありがとう、と頭を下げた。

「あっ、てめ! 勘違いすんなよ! あの、その、何だ? お、お前らには結構俺たちも助かってるからよ。お、恩返しだ! 恩返しっ」

「お前ら……ああ、ボランティア部か。いや、こっちは好きでやってることだからな」

 ボランティア部……俺が入学して即作った部活である。我ながらしつこい部活勧誘の結果、上級生2人と同級生6人の中々大所帯な部活になった。主な活動内容はその名の通り、地元の病院へ赴き、ボランティアをすること。うちの高校はこの丘を下った所にあるので、ボランティア活動は主にこの三ヶ丘病院でしていた。

 今では上級生2人は高校を卒業してしまったのだろうか。

「そう言えばボランティア部で思い出したが、荒島君。もうご家族やお仲間には電話をしたのかの?」

「あ、いけね。まだだった。急いで連絡してくる」

「うむ。頼むぞ」

 荒島と先生の会話を背に、窓から俺の通っている三ヶ丘高校を見下ろす。俺の身近にあったその高校は、小さい頃から良く目にしていた。あの高校を登下校している高校生に、俺は子供心ながらに憧れていたのを今でも覚えている。だが、いざ試験! と思って調べたら意外に偏差値が高く、俺にしては熱心に勉強したと思う。これからもうあんなに勉強することは無いだろう。

「あの、先生……俺は、本当に2年間眠ってたんですか?」

 俺の神妙な問いに、目の前の医師は持ち前のヒゲを2、3回撫でた。

「……うむ。残念ながら、な」

「そうですか……」

 俺はまた高校を見る。何故か、もうその高校は俺の知る高校では無いもののように思えた。

「あの……でも、どうして? 何も事故や病気にあった覚えもないのに……どうして俺は2年間も植物人間状態だったんですか?」

「なんと……覚えとらんのか?」

「何を、です……?」

 俺のきょとんとした声に、また考え込むような表情をする三井先生。

「ふむ……想君、今から簡単な質問をさせてもらうぞ」

「あ、はい」

 それから先生は何かを紙にメモしながら俺に簡単な質問をした。だが、俺はあれ? と思うような質問が分からない時があったので、その時は正直に分かりませんと答えた。

 全ての質問が終わったのか、先生はしきりにヒゲを撫でながら黙り込んだ。

「ふむ……記憶喪失ではないが、色々と忘れている時間があるようじゃな。それも曖昧に」

「あの……先生?」

「ああ、うむ。おそらく2年間眠り続けたせいで、記憶が混乱しているだけのようじゃ。その記憶に関連する物や場所を見ればすぐに思い出すじゃろう」

 そう言った途端、先生はメモをポケットにしまい込み、席を立った。

「あ、、はい。分かりました。それはともかく先生、俺の眠り続けた原因は?」

 不思議で不思議で仕方が無いのだ。

「それはまた後にしよう。ほれ、お友達が来なすった」

「え?」

 三井先生は急に窓の外を見るとそんなことを呟いた。俺も先生にならって窓の外を見る。

 すると、全力疾走でここを目指している何人かの男女がいた。俺の部活仲間だ。

「お~い、みんな~!」

 思わず手を振る。すると、みんなは俺の声に顔を上げ、姿を確認した後、顔に笑みを浮かべながらさらに加速して病院へと入った。

 ……いや、手振り返そうぜ。

 俺は半ば引き返しのつかなくなった手をゆっくりと下げた。


  *


「想っ!」

 1番乗りは長いロングヘアーの少女だった。彼女はその透き通った黒髪を背中まで垂らしている。俺の幼馴染、永井朝美だ。いつもは鋭い顔つきが、今はくしゃっと歪められている。

「よ、おはよう。朝美」

「……馬鹿っ! おはようじゃないわよ!」

「にゃう!」

 聞いたこともないような高い声に思わずびくり、とする。いつも入院した時は「もう、無駄な心配させないでよね」と明るく返事していた彼女がこんな声を出すとは思わなかった。

「本当に……今回ばっかりはホントに心配したんだから!」

 肩を震わせ、手を拳にし、僅かに前髪から除かせている表情は悲痛一色だった。

「あ、その……すまん、な」

「すまんじゃないわよっ!」

 未だ狼狽している俺に追い討ちをかけてくる彼女。

「ずっと、このままもう……想の声、聴けないんじゃないかって……」

 知らなかった。彼女にとって俺は何でもない存在だと思っていた。だが、彼女のわななく声から、痛い程俺を心配してくれたことが分かる。

「あ……大丈夫だって。俺はちゃんと起きたし、またいつでも声、聴けるようになっただろ」

「……もう、嫌だよ。こんなこと」

「ああ、もうしない。約束の印に今度寿司おごってやるよ」

「俺たちみんなに、だぞ」

 その声に振り返ると、息を切らしたボラ部の面々が入り口に立っていた。その顔は忘れたくても忘れられない者たちだ。

「祐二と暁! 結花に皐月! みんな、元気だったか!」

「阿呆。元気な訳あるか。みんなを悲しませおって」

「ははっ、こいつめ。起きるのが遅いんだよ」

 スポーティな笑顔を浮かべた暁が俺の脇腹を小突くと同時に、人懐っこい猫のような顔をした祐二が、俺の頭をくしゃくしゃと鷲掴みにする。

「はは、悪かったな。……皆にも心配かけちゃったか?」

 俺の言葉にずい、と前へ出てくる頭1つ分小さいツインテールの女の子。高見沢皐月。彼女は人指し指を俺に向けてちょいちょいとすると、相変わらず地の高い声である注文をしてきた。

「おお、おお。心配したぞ。という訳で想、ちょい顔出して」

「ん、こうか?」

 俺は注文通り、少しベッドから乗り出し、顔を前に出す。

「ふんっ!」

 何をするのかと思っていると、いきなり鼻ッ面に衝撃が来た。

「ごふっ、鼻が、鼻がぁああ」

「うわ、容赦ねぇ」

 どうやら拳で殴られたらしい。涙で視界が滲む。てか、俺なんもしてないのに何でこんな目に……。

「……想」

「は、はひ? 何だ結花」

 見た目はボーイッシュなくせにやけに無口な同級生、結花が目の前で俺に話しかけてきた。俺は慌てて目尻を拭い、振り返ると……。

「私も……せいっ」

 さらに衝撃。今度は鳩尾。

「がはっ!」

「うわ……痛そう」

「今のはモロいったやな~」

 そうだった……こいつ何気に空手三段だった。ていうか、みんな酷すぎだろ……。俺が何をしたっていうんだ……。

 俺は呼吸が整うまで数分かかった。


  *


「これでボランティア部の1年生が勢揃いしたな……いや、もう3年になったんだっけ。それじゃあ、皆はもう受験生か」

 かつての同級生たちを見回す。かつての面影はちゃんと残っているが、やはり容姿は変わっていた。劇的な変化はないが、纏う雰囲気とか顔つきとかが大人っぽくなっていた。わずかに置いて行かれるという感覚が俺の胸を抉る。

「想……あなたの両親が休学届けを出してたけど、やっぱり出席日数とか単位のせいで、まだ想は1年生のままなの。これから……どうするの? 学校、辞めないよね?」

 朝美が心配そうにこちらを見る。その表情は2年前のあのあどけなさよりも遥かに大人びて見える。

「正直、分かんね。ま、ゆっくり考えるさ。……それよりお前、髪伸びたよな」

「えっ、そう? 自分じゃよく違いって分かんないんだけど……どう?」

「ん。いいんじゃないか? なんとなく、大人っぽくなったよ」

 本当に……綺麗になった。

「あ……はは。そっか。ありがと」

 そう言って微かに顔を俯かせて頬をかいた。

「あれ? そう言えば俺はあんまり髪伸びてないよな」

 そのふとした疑問に、今は遠い場所にいる三井先生が答える。

「ああ、それも荒島君が定期的に切って……」

「ばっ、じじい! あーあれだ、コゾー。勝手に抜け落ちてったんだ。抜け毛だ。俺はそれの片付けをだなぁ……」

 その慌てふためく荒島の姿に、ここにいる皆が笑ってしまう。それに顔を赤くした荒島が「あーいづれぇココ!」と言ってから部屋を出て行ってしまった。

「それで、ちゃんと勉強はしてるのか?」

 こいつらのことだ。遊んでばっかで、受験勉強なんて全然してないんじゃないのだろうか。

「これからや。今まではお前のせいでろくに勉強が手につかんかったんや。責任取って、めっちゃうまいもんご馳走するんやで」

 俺の疑問に答えたのは暁だ。暁は祐二や朝美とは違い、高校で知り合った中だった。同じクラスだった俺はその気取らない性格や気さくな雰囲気を持つ光橋暁とすぐに打ち解けた。

「はは。悪かった。じゃあ、俺のとっておきをご馳走するよ。けど、懐寒いから程ほどにしてくれよ。……暁は背が伸びたよな。入学した時は俺と同じくらいだったのに」

 パッと見で180はいってるだろう。

「へへ、まあな。こっちはあんさんが学校さぼっとる間にちゃんと飯食ってたさかい。差つくのも当然やろ」

「ちぇ、好きでさぼってたんじゃねえよ」

 そう言って二人ではははと笑った。こうしてると、昼はよくこいつと食ってたのを思い出す。弁当の時も学食の時もこんな笑いが絶えなかったっけ。

「……それに比べて、お前は全然伸びてないよなぁ」

 そう言ってポン、と皐月の頭に手をのせる。のせられた人物は頭の上にある手を素早く振り払う。

「うっさい。ほっとけ」

 そう言ってそっぽを向いてしまう。この小動物的な可愛さに俺はついちょっかいを出してしまっていた。ボランティア部に誘ったのも、こいつがいれば、俺も病院の人も楽しくなりそうだったのが理由だった。

「結花はちょっとは伸びたんだろ?」

 皐月の上にポンポンと手をのせながら聞く。その間皐月は「うが~」と言いながら手を振り回していた。

 この皐月と小さいころからの付き合いらしいのが結花だ。一見共通要素が無さそうに見えるのだが、掴み所が無いような雰囲気があると言えば2人ともある。皐月はいつも腕を組んで気丈な態度で。結花はいつも目を閉じて無関心そうな感じで。本人曰く熱い魂のリビドーを抑えるためらしい。

「……5㌢」

 そう言ってビッと親指を立てる結花。いや、親指立てられても……2年で5cmって意外と伸びてないよな……?

「……想は、伸びてないの?」

 突然の質問に、俺は頭を抱える。

「う~ん、どうだろう。でもま、コイツが未だあの身長ってことは多分ちっとは伸びてるぞ」

 そう言って、俺は顎でそいつを指す。片谷祐二。俺のもう1人の幼馴染兼悪友だ。見た感じコイツは俺の最後の記憶と全く変わっていない。ずっとひょろいままだ。俺としては何だか安心する。

「な、なんだと! 確かに身長はあまり伸びなかったがな、力はついたぞ。ふっ、もうお前に守られている俺じゃない」

 俺とコイツはガキのころから暴れまわっていた。ケンカやイタズラ。どれもしょーもないことばかりだ。その中で1番気に入っていたのが探検だった。俺と祐二で夜遅くまで探検して、結局祐二がドブにはまったりしてケガしたりして俺が背負って帰っていた。あの頃の冒険は胸が躍っていたのを覚えている。

「じゃあ、確かめようぜ。腕相撲で」

「ふっ、吠え面かくなよ」

 バァアーン!

 信じられない。圧勝だった。

 ……俺の。

「ば、馬鹿なぁ! この俺が!」

「うっわ……よわ~」

「貧弱」

「……ザコ」

 女性陣からも非難の嵐だ。

「……お前ほんとに大丈夫か? 二重の意味で。俺2年間寝っぱなしで荒島にリハビリさせてもらっただけなのに……」

「いや、想も結構力あるで。とても寝てたとは思えんくらいや」

「ん、そうか?」

 コイツが弱すぎるだけな気がするが……。

 そう思っていると、病室のドアが開いた。見れば、荒島が帰ってきていた。

「おう、あの2人にも連絡しといたぞ。眼鏡の男と生徒会長だった女生徒」

 荒島の言葉に俺と朝美が反応する。

「あの先輩たちにですか?」

「喜んでたでしょ?」

「ああ、今にもここに来そうな勢いだったぜ。まあ、あいつらは今都心だから早くても明後日くらいには顔を出すだろ」

「あ、そっか。今2人とも大学生なんだっけ……」

 そう口に出してしまった時、この部屋に居た者たち全員が一瞬だけ悲しそうな顔をした。分かる。ここにいる奴らは皆優しい。みんな俺のことを自分のように思っていてくれるから、一緒に悲しんでくれるのだ。

 そんな空気を打ち消すように俺はわざと明るい声を出してみなに聞いた。

「そういや、ずっと聞こうと思ってたんだけどさ……有紗は? やっぱまだ202号室にいるのかな……だったら、顔見せとかないと」

 その瞬間、


 感情が消えた。


 俺の言葉に、ここにいた全員の感情の一切が表情から消え去った。

 ただ1人、三井先生を除いては。

 事情が飲み込めなかった。何が? 何故? どうしたんだ皆?

 遠くから波の音、潮風の鳴り、海鳥達の泣き声と子供たちのはしゃぎ声。それら全てが思い出したように俺の耳に……いや、この病室にこだました。

 数秒、いやもしくは数十秒、経った後、俺は今なお変わらない眼光を放つヒゲを生やした院長に聞いた。

「あの……三井先生……?」

 良く見知っている先生は相変わらずの飄々とした態度でヒゲに手を当てた。

「ふむ……知らないのなら、知らないままがいいと思ったのじゃがのぉ……流石にそれも叶わんか」

 そう言うと先生はゆっくりと席を立ち「来なさい」と俺を視線で招いた。俺はすぐに教室を出て行った先生の後を慌てて追う。

 病室に感情はまだ戻らなかった。


「あの……先生。どこに行くんですか?」

「……特別患者病棟じゃ」

「特別……患者」

 俺たちの会話を背に子供たちの声が聞こえた。だがそれは段々と遠ざかり、やがて、俺たちの前に大きな鉄の扉が立ちふさがった。

『特別患者病棟』

 先生は何やら扉の横にあるボードに番号を打ち込み始める。飾り気のない音が止むと同時にその文字の入った扉が開いた。

 その先には途中1つの照明のみで照らされた通路が続いていた。暗い。まるでここが異空間のように、そこは違った。空気が重い。あの白い部屋があるような病院だとは思えない程に。

「行くぞ、想君」

 先生の感情のこもっていない言葉に、俺は返事が出来なかった。


 先に行けば行く程、通路から光が遮断されていった。しかもどれだけ続くのだろう。微かに足の筋肉が痛くなってきている。こんな場所が、いつもくる病院にあったなんて知らなかった。こんな異世界みたいな場所が。こんな所に、有紗がいるのだろうか。いるとしたら……何故?

「せ、先生……」

 ここの空気に耐えられなくなった俺は、言葉を発していた。しかも何故かその声は泣きそうなほどに震えている。

「有紗は……有紗は、どうしたんですか……どうなったんですか? 有紗は……死んでないですよね? 元気なんですよね……」

 俺の言葉に、先生はただ沈黙を返した。ただ歩を進めただけだった。

 それからまたどれくらい歩いただろうか。先生の「着いたぞ」という言葉に、俺は緩慢とした動作で顔を上げる。扉の向こう、僅かに白い光を放つ部屋を見る。

 スタスタと歩いていく先生の後ろを、ゆっくりと、自分でも驚くほどゆっくりとついて行った。

 そして、見た。

 その白い光を放つ部屋の中央、こことガラスで隔てられた向こう側の中心を。

「あり……さ……!」

 有紗がいた。その部屋の中央にある寝台のようなものに。それは俺の記憶と同じく白いワンピースを纏っていた。

 だが、同じなのはそれだけだった。俺の記憶にあるあの笑顔は無い。口に何本もの管が詰まった呼吸器のようなものをつけている。その表情はただ無。なんの感情もそこには無い。まるで錆付いた銅像のように。

『想君』

 思わず頭の中で有紗の声を思い出す。あの太陽のような笑顔から発せられる、元気な声を。だが、それもここには無い。ただ、腕や足に繋がれている数多の管のもと、大きな箱型の機械がぴっ、ぴっ、と鳴っているだけだった。

「……死んではおらん。ずっと意識を失っておる。君と同じ2年前から、昏睡状態のままで、な。いつ病状が悪化してもおかしくない状況じゃ」

 これ以上……悪化……? それは、つまり……。

 無意識に俺たちを隔てるガラスに両手をつける。有紗が動かないその部屋で、周りの女看護士たちがせわしなく動いていた。

「……だが、病状が正常化――――良くなる可能性は、皆無じゃ。例え、想君、君のように目が覚めたとしても、じゃ」

 先生の声が、どこか遠く、とても遠くから聞こえていた。


  *


 がこん。

 遠くでそんな音がしたのを何となく聞き取る。

「……君がこの病院に初めて来たのはいつだったかのう」

 杖を突く音。それが椅子に座っている俺の所まで来たかと思うと、何かを差し出された。林檎ジュースだ。俺は何とか礼を言い、手に取る。冷たかった。驚くほどに。何もかもが、冷たかった。

「有紗君は生まれつき重い病気を患っておった。その治療費を稼ぐため、宮島夫妻は懸命に働いたのじゃ。そのため、ずっと病院にいた有紗君はいつも1人で本を読んでいたの。荒島を初めとした看護士たちもあの子を笑わせようとしたが、あの子は一向に笑わなかった。じゃが、君がここに通うようになってからは、あの子が段々と元気になっていった。担当の女医師が自分のことのように教えてくれたよ。あの子が本当によく笑うようになった、とな」

 先生のややしわがれた声で紡がれていく話を、俺はどこか異世界の出来事のように聞いていた。

「後から聞いた話じゃと、君が毎日のように友達を連れて来て、皆で遊んでくれたのじゃろう。わしも通りすがりその風景を見ていたよ。想君を中心とした何人かの子供たちの中で笑っていた彼女は確かに生きておった」

 ……やめてくれ。生きていた、なんて、言わないでくれ。

「そして時が過ぎ……高校1年になったある夏休みの日じゃった。有紗君の海に行きたいという唐突な願いを、想君たちは叶えるために、皆で一緒に海へ遊びにいったのじゃったな。そして、その日の夜……有紗君の病状は悪化した」

 俺の手から、カランと音を立てて何かがすり落ちた。

「昏睡状態に陥った有紗君の前で君は自分を責めておった。自分が海に連れて行ってしまったせいだ、とな。後から来た宮島夫妻にも泣きながら謝っていたのお。だが、誰一人として君を心の底から責めていた者はいなかった。何故だと思う?」

「……わかりっ……ません……」

 その嗚咽交じりの声で、自分が今泣いているのだと悟る。

「君はこの事実を知らなかっただろうがの。それは有紗君が中学3年にはなれないと診断されておったからじゃ」

 浮かび上がってくる記憶の中で初めて聞いた事実に、顔を上げる。

「え……でも、……有紗は……」

「うむ。高1まで堂々と生きた。何故かは知らん。医者にとって、これは奇跡としか言いようが無かった。そしてそれを伝える前に、君も後を追うように意識を失って発見されたのじゃ」

 そう言うと、隣にいる老先生は自分の缶を開け、チビチビと飲み始めた。

「ほれ、何をしておるのじゃ。お主の部屋にはまだ君を待っている人がおるじゃろう。そんな泣き顔を見せるつもりか。その缶を飲んだら、いつものように笑顔で元気な君の姿を見せて来い」

 俺はいつの間にか落ちていた缶を拾い、プルタブを開けると、ぐいっと中身をあおった。この病院に来るといつものように飲んでいた林檎ジュースは何故かしょっぱく、苦く、そして甘酸っぱい味がした。


  *


 俺が戻るころには夕方になっていた。

 304号室と書いてあったプレートの下を通ると、ボラ部の面々と1人のナースが心配そうに俺を見据えた。

「想……記憶が少し混乱してるんだって? 荒島さんから聞いたよ。大丈夫なのか」

 俺がベッドまで来ると開口1番、祐二安心出来無いといった表情で聞いてきた。

「ああ、少しぼやけてる所はるけど……ま、少しずつ思い出してくさ」

「そうかい。あんさんがそう言うなら大丈夫やろ。なら……遊ぼか!」

 そう言ってトランプの束を取り出す暁。持ってきてたのか。

「ふっ。トランプとはまたおこちゃまなものを。ま、付き合ってあげますか」

 何やら笑顔で俺のベッドに座ってくる皐月。コイツトランプやりたがってるな……。

「……異議なし」

 そしてその隣に結花が腰掛ける。いや、何でお前ら目の前の椅子に座らねぇんだ。

「こらこら、お前たち。面会時間ってものを忘れてないか?」

 はしゃぐボラ部のメンバーに荒島がナースらしく注意した。

 そのナースの言葉に、皐月が親指で自分の鼻をパチンと弾き、フっ……と呟いた。

「何を言っている。この世のありとあらゆるルールは……破るためにあるっ!」

「あん?」「すみません、冗談です」

 速攻で謝っていた!

「ほら、諦めて行こ皐月ちゃん。怒らすと荒島さん怖いんだよ~」

「……引き際が肝心。でないと死ぬ」

 まだぶーぶー言っている皐月を連れ出して行く女性陣。部屋を出る時に一人一人俺に軽い挨拶をして出て行った。

「全く、あいつらも子供だねー。面会時間破ってることにも気付かないなんて」

「あっははは。まぁ、仕方ないやろ。今日やっと想の奴が目を覚ましたんやからな。さあさ、俺たちは俺たちで大貧民でも……」

「お前らもだっ!!」

 ぽーい、と摘み出される大男2人。そのうちの片方が「なんでやねーん」と叫ぶのが聞こえた。

「ったく、あの男どもめ……」

「ははは」

 荒島はぱんぱんと手を払って戻ってくると、次に俺を指差した。

「お前もまだ寝てろ! 明日検査して問題が無いようならすぐに退院出来るから」

「……でも俺、まだ寝れない気がする」

 ふと窓の外を眺めた俺を見た荒島は不意に声のトーンを下げた。

「……そっか、そうだよな」

 そう言うと、荒島も窓の外を眺めた。外には、紅く照らし出された海が広がっている。

「なあ、お前。記憶が混乱してるんだったよな? なら……」

 荒島にしては控えめな声。だが迷わずハッキリと、それは告げられた。

「202号室、行ってみるか?」

 有紗の病室。

「……面会時間終了ってことは、入院してるやつはおとなしくしてた方がいいんじゃないのか?」

「んなもん、俺がついてりゃ問題ねえだろ。……行きたいのか? 行きたくねえのか?」

「……なら、頼む」

「へっ、任せとけ」


「懐かしい……」

「ああ……俺ももうこっちにはあんまり顔出さなくなったからな」

「ナースなのに?」

「担当とか、色々あんだよ」

 揺れているカーテンの隙間から、夕日の光が差し込んでいる。その光は、この部屋にある壁、ベッド、床や天井までもを紅く、茜色に染め上げていた。

 思い出していく。ぼやけて思い出せなくなった記憶が、一つ一つ輪郭をあらわにしていく。

 有紗の面影を思い出す。彼女は良く本を読んで勉強していた。俺よりもたくさんのことを知っていた。この世界の成り立ちとか、色々な動植物に花言葉。俺はそんな物知りな有紗に質問をした。しまくった。なんでそんなに勉強してるの? と聞いたら、笑って将来看護士さんになるためと言っていた。

「そういや、有紗と初めて会った日も、こんな感じで夕明けが綺麗な日だったな」

「へえ、そうなのか?」

「ああ……有紗、いつも本読んでただろ? でもあの日はぐっすり眠ってたんだ」

 窓から吹き込んでくる風が気持ちよさそうに彼女の髪を揺らして。

「それから、初めて言葉を交わしたよ。2人ともまだ、小さかった。でも、あの頃はこんなに長い付き合いになるとは、思わなかった。……そして、こんな終わり方になるとも」

 思わなかった。ずっと、ずっと続いていくと思っていたのに。こんな……こんな悲しい結末。

 思わずここにいた有紗の温もりを確かめるかのように、俺は有紗がいたベッドの傍らにしゃがみこむ。

「なあ……一体有紗が何をしたんだ? 何も悪いことなんてしてないだろ! ずっと、ずっと苦しんでたじゃないか! 小さい時は……一人ぼっちで! 大きくなっても、学校に通えなくて……ずっと病気と発作で苦しんで……なのになんで……なんで、幸せに、させてくれないんだ……」

 喉を突いて出てくる言葉が溢れ出す。それを押さえ込む強さは、俺には無かった。

 すっと……荒島が動いた気配がした。その気配は窓際へ行くと、カーテンをどけた。

「ああ……あの子はいつも健気で……驚くくらい真っ直ぐだった。俺たちが慰めなくちゃいけないのに、逆に慰められたりして……本当にいい奴だったよ。……あの子のナースの間でのニックネーム、知ってるか……? 『天使』、だってさ。由来は簡単。笑顔が……天使みたいだから、だとよ」

 今にも泣きそうな声を聞き、顔を上げる。荒島は窓際で、窓の外を眺めて佇んでいた。その向こうには夕焼けの光を浴びて悲しい程綺麗に映える緑が見えた。

「お前らが昼に有紗と遊ぶようになってからな、俺たちも対抗して、夜にここの部屋に押し入って、トランプとかしたりして遊んだんだ。十人単位で、担任の医師とかも混じって。皆忙しい時間の中、スケジュール詰めて、さ。あの子といる時間を作って、遊んだんだ。『もう、就寝時間ですよ~』ってあの子が言っても、一向に俺たち辞められなくてさ。知ってるか? 有紗トランプ意外と強いんだぜ」

「……知ってる」

 昔の日を思い出して笑ってしまう。……ああ、知ってるよ。俺たちもよくトランプして遊んでたから。

「それで夜遅くまで長引いて、結局俺たちがそのまま眠くなってこの部屋で夜を明かして。そんで朝、仕事の時間になると、有紗に「朝ですよー」って皆起こされて、慌てて戻るんだ」

 その場面を頭の中で思い浮かべ、思わず笑ってしまう。

「皆、嬉しかったんだよ。有紗が笑ってくれることが。笑顔でいてくれることが。……だから、ナースの皆、お前には感謝してるんだぜ。あの子を笑わせてくれて、ありがとうってさ」

 いつの間に振り返っていたのか、荒島はもう窓の外を眺めてはおらず、ただ穏やかに俺の顔を見ていた。その目や表情に、何故か親のような愛を感じてしまう。

 ふと、荒島が視線を移し、そちらを指差した。それを辿ると、有紗のベッドの横にあるタンス。その上にあった花を見つける。

 それは紫色をしたチューリップだった。

「これ……ドライフラワー?」

 俺がそう聞くと、荒島はまた窓の外を見つめながら、

「それ、持ってけよ」

 ぶっきらぼうにそう告げた。

「え……いいのか?」

「へっ、何言ってやがる。それは元々お前のモンだっただろ」

「……?」

 いまいち何のことか分からない。頭の中では何かが俺に思い出すように急き立ててくるが、俺はただもやもやとしたものしか出て来ない。

「何だ、そこも覚えてないのか……? 一昨年の夏休み前、有紗の最後の誕生日。お前がプレゼントしたのがそのチューリップだったろ」

 もやもやとした霧が晴れてくる。そして、記憶を思い出した。ハッキリと、その光景まで思い出せる。

「あっ……そうだ。そうだった」

 皆で開いた誕生会。俺たちボランティア部はもちろん、三井先生や担任の女医師、荒島や他のナース含めこの病院にいる他の患者たちが参加した。もちろん、そんな大所帯が、ここに入りきるはずは無く、病院のバルコニーを貸し切って皆ではしゃいだ。トランプや人生ゲーム、時間を忘れて大騒ぎした。

 そしてその日の最後、十二時になる前に、皆で順番に有紗にプレゼントを渡していった。『こんなにたくさんプレゼント貰ったの初めてだよ~』と有紗は少し泣きながら喜んでいたのを覚えている。

 その時俺があげたのが、この紫のチューリップだった。自分でも、もっと気の利いたものをあげれば良かったと思っていたけど。

「俺にしては何で有紗に似合いそうな赤色や黄色じゃないのかって思ったけどな。有紗が泣きそうな程喜んでたから何かあったんだろ」

「ああ……約束してたんだ。ここの近くに赤や黄、白色のチューリップはあるけど、紫色のチューリップは無いだろ? だから俺、1度見てみたいって有紗が言った時、持って来るって言ったんだ……でもまさか、ドライフラワーにしてたなんて……何でお見舞いの時、気付かなかったんだろ」

 ボラ部を作ってからは毎日この病院に通って、この部屋に見舞いに来たのだ。こんなに目立つ花があったら、普通に気付いただろう。

「ああ、お前の見舞いの時だけは、『恥ずかしいから』って言ってしまってたんだよ。……ってか、あれ? 確か有紗にドライフラワーにしてって頼まれた時、嬉しそうに何かを俺に教えてくれたような……はな言葉、だったっけ……」

「花言葉……ありがとう、荒島。これ、貰うな」

 俺の言葉に、顎に手をつけてうーうー唸っていた荒島は、驚くほど穏やかな笑みを浮かべた。

「……ああ。その方が有紗も喜ぶだろ」

 はは、と思わず愛想笑いをしてしまう。

「……そうだといいけど」

 俺の言葉をどう取ったのか、窓を閉め、カーテンで光を遮断した。

「……じゃ、戻るか。日も落ちてきたし、これから冷えるぞ」

「なんかそれジジくさい」

「な、何だと!!」

 俺は有紗のチューリップを、そっとパジャマの胸ポケットに入れた。


  *


「少年!」

「はえ?」

 翌朝。

 誰かがいきなり入ってきた。ドアを開けっ放しにしたのが功を成したのか、ドアのパァアアアアンという音は聞こえなかった。そのため、その凛と響き渡るその心地のよい声に、俺はつい生返事をしてしまった。

「このっ! 馬鹿者! 2年も……2年も心配させおって……!」

「おふっ、ナウホっ」

 その人物に、俺は思いっきり抱きしめられる。俺がベッドに座っているせいか、俺の頭が物凄い場所に包まれた。やばい……! この感覚は俺の理性を崩壊させる……!

 俺は崩壊前に慌てて顔を引き離し、紅頬しているだろう頬を腕で隠しながら、その人物に話しかけた。

「美咲先輩……! そのすぐ抱きつく癖、治ってないんですか?」

「いや~だってな、少年。久々に会ったんだ。そりゃ抱きつきたくもなるだろう。それに、安心したまえ。こういうことは、君にしかしていないしするつもりもない」

 なら、あの感触はずっと俺だけのもの……って危ねぇ!! 今欲望に身をゆだねそうだった!!

「おや~? 少年、何だか顔が赤いぞ。一体何を考えたのかな~?」

「んぐ、そ、それより先輩。大学はどうしたんですか? やっぱり大学も今夏休みなんですか?」

 先輩はクスクス笑いながら俺を見つめる。くそ、何だか負けた気分だ。

「いや、うちの大学はまだ夏休みは先だよ。だからサボってきた」

「え~! 先輩の成績だと、大学でもトップクラスでしょ!? いいんですかエリートが学校休んで」

「馬鹿者。よく考えろ。エリートだから良いのだよ。学校を3週間休んだところで何も問題はない」

 いや、さすがにそれは問題あるだろ、と心の中で思ったが、この人のことだ。本当に問題無いのかもしれない。

 神楽坂美咲。この人は俺の家のすぐ隣だった事もあり、幼馴染と一緒にいじられてはよく遊んでいた。だが、その不敵な性格と何でもきっぱりと断言することから、俺たち幼馴染1同は心の中ではリーダーとして頼っていた。小学校に入って、学年が1つ違いだと初めて知った時は結構不安になったものだ。

「それで、先輩。2年で何か変わったことありましたか?」

 俺は朝煎れてもらったコーヒーをずずずとすする。

「うむ。聞いて驚け。バストのカップがまた上がったぞ」

「ぶっ!」

[おっと、何だ? 危ないじゃないか。いくら自分の液で私を染めたいっていってもコーヒーでするもんじゃないだろ」

「げ……ごほっ……好きで、やったんじゃありません」

 マジ息苦しい。

「ふむ……年頃のおのこというものは実に理解し難い」

「あなたの方が理解出来ませんって」

 黙っていれば、百人中百人が『美人です!』って言いそうな容姿のくせに。

 朝美と同じ黒髪ストレート。だが、その外見から発する雰囲気は朝美とは真逆だ。

 一言で言うなら大人。

 朝美にはない色気が圧倒的にある。だが、近づくと大怪我をするトゲトゲした色気だが。

「想っ!」

 誰かの声がした。だが目の前にいる先輩とは違い、低く澄み渡った声だ。

「この、馬鹿野郎! 2年も……2年も心配掛けやがって!」

「おふっ、ウゲエッ」

 その人物に、俺は思いっきり抱きしめられる。俺がベッドに座っていたせいか、俺の頭が物凄い場所に包まれた。やばい……! この感覚は俺の理性を崩壊させる……!

「先輩……その汗臭い胸板をどけてくれませんか?」

「……それもそうだな」

 ゆっくりとどけられる腕と胸。いや、早くどけてくれ。

「あー気持ち悪かった」

「やぁ、佐々木君。朝っぱらからムサ苦しい絵をありがとう」

「いやぁ、どういたしまして」

「先輩、相変わらずキモいくらい逞しい胸板ですね」

「おいおい、どうした? お前らそんなに俺を担いでも何も出ないぞ」

 ……駄目だ、この人には何を言っても通じない。

 目の前の男、佐々木雄介。一見すると優男だが、実は筋肉もりもりなお兄さん。そのニヒルな目にかけたクールな眼鏡が結構女子にモテる秘訣だったりする。ちなみに本人に自覚はない。

 すると突然、そのニヒルな瞳に真剣な光が宿った。

「想、話は聞いたぞ。全て……な。……それと花井って誰だ」

「帰って下さい」

「いや、すまん。これをお前に聞くべきじゃないってことは分かってるんだ。けど、お前って昨夜花井と『アッー』したんだって?」

「なんすかそれ!」

「想……初めては俺にくれるって約束だったのに……」

 俺はここで初めて何故世界から殺人が無くならないのか、漠然と理解してしまった。

「…………」

 あ、やばい! 美咲先輩がマジでひいてる!

「雄介先輩。ちょっとお使い頼まれてくれません?」

「ん? 来たばかりだが、まあいいだろう。で、どこに行ってくればいいんだ?」

「あの世に」

「…………」

「あれ? どうしたんですか? 早く逝ってきて下さい」

「あれ? 想君てばちょっとマジ切れしちゃってますか?」

「いいから早く逝って下さい」

「ごほん。……まあ、何だ。朝から花井の残像が消えなくてな。……怒らないで下さい」

「いいから早く逝け」


「それで……我らがボラ部の後輩はどうしてるんだい? 今ここにいるんだろ?」

 長い黒髪を風にはためかせながら、まだ若干俺と先輩に距離を取って聞いてきた。

「ああ、はい。最後の部活動をするって言ってます。夏休みが終われば、あいつら引退しますしね……」

「そうか、それは寂しく「雄介先輩は黙ってて下さい」

「…………」

 雄介先輩と俺の様子を見て少し笑った後、遠慮がちに美咲先輩が聞いてきた。

「……想、有紗のことは……大丈夫なのか?」

 その問いに、未だ答えの出ない俺は、少し迷った後、答えた。

「……はい。今は無理ですけど……いつかは、ちゃんと、心にケジメをつけます」

「ん……そうか」

「……そうだな。いつかは、乗り越えなければいけ「だから黙ってろメガネ」

「…………」

 美咲先輩がプッと吹き出した。それから3人で不思議と笑いあった。

「さて、せっかく病院に来たんだ。私も久しぶりに活動をしていこうか」

 ある程度談笑した後、美咲先輩は緩やかに席を立った。

「我が後輩の顔も見ておきたことだしな」

 そう言った後、ポン、ポンと俺の頭に手を乗せて部屋を出て行く。

「雄介先輩は活動していかないんですか?」

 窓の脇。カーテン越しの光を陰に立つ雄介先輩に聞く。

「ん? ああ。俺はいいさ。……ところで、お前はいつ退院するんだ?」

「朝食前に検査して、許可貰いました。親が来ればもういつでも退院出来ます」

「はっはっは。2年も寝てたっていうのに、元気な奴だな」

 俺はそれについ愛想笑いをしようとして、気付く。雄介先輩が、メガネの中央を中指でクイっと押し上げたのを。雰囲気が一変する。あのおちゃらけた雄介先輩が消え、新たに現れたもう1人の雄介という人格。メガネを押し上げたのはスイッチ、みたいなものだ。

 思い出す。そうだ。いつもの雄介先輩は馬鹿なキャラを演じ、何かを見ている。いや、観察しているのだ。何故そうしているのかは知らない。ただ、こうなった時の先輩は威圧感が半端じゃない。何者なんだ、とさえ思う。これが、雄介という名の本当の人格。

「お前と有紗の意識が戻らなくなった時、部から笑顔が激減した。いや、消えたとさえ言っていい。ここに来てお前を見つめる部員たちは、端から見ても辛かったぞ。そんな部を、神楽坂は空元気で1年間引っ張っていった。部がある程度立ち直れたのも、全てあいつのおかげだ。俺は引っ張っていくようなリーダー気質じゃないからな」

 雄介先輩の表情はその白く光る眼鏡に隠されていて、読み取ることは出来ない。

「内心、あいつも他の皆と同じくらい、いや、他の皆よりも悲しんでただろうな。あいつは昔からリーダーやってるせいか、仲間は皆本当の兄弟と同じくらい愛してる。そんな奴が、幼馴染2人を失って、他の仲間も意気消沈して……辛かっただろうな」

 カーテンが風でめくれ、隙間から光が差す。ここで初めて、雄介先輩の表情が見えた。

「ま、だからと言って何だ、って訳じゃないけどな。でも、お前のことだ。俺が何を言いたいか、分かっただろ?」

 慈しみの表情だった。俺のベッドに視線を落としていたそれは、次に俺を包み込んだ。

「……はい、分かりました」

「ふっ、ならいい。……さて、俺はそろそろ帰るとするかね」

 次にカーテンが舞い上がった時、雄介先輩の表情はいつものものに戻っていた。

「……皆の顔、見ていかないんですか?」

「……俺の役目は無さそうだからな。それに、こう見えて俺は結構忙しいんだ」

 そう言ってびっしりと予定の入ったスケジュール帳を見せてくる。

「でしょうね」

 この人は器用貧乏だからな。

「そんな爽やかそうな笑顔で言うなよ」

 そう言い、踵を返して部屋を出て行く。その足音が遠ざかる。

「あの……先輩、ありがとう、ございました」

 足音が聞こえなくなる前に、俺はその足音に礼を言った。

「……お前、ホントに俺の言った事分かったのか? 礼言う相手、間違ってるぞ」

「美咲先輩にも、言いますよ。でも、それなら、雄介先輩にも、お礼を言わないと……」

 足音が鳴り始める。それはまた段々と遠ざかって行った。ただ、1つの言葉を残して。

「馬鹿な奴だよ、お前」

 顔を上げれば、もうその姿は見えなかった。

 俺は部屋にまだ残っている残滓に、過去を思い出そうとして―――中断された。

「ぐへぇええええええ!!」

 その思い出そうとした人物の悲鳴が聞こえたからだ。その声からワンテンポ遅れて、部屋の前にキキィイイイーーー!!と足でブレーキを踏んで皐月が現れた。

 ……こいつの仕業か。

「想ー! 聞いて驚け。ここの花屋の婆やから花を貰った」

 その花のせいで俺の心地いい余韻が壊されたのか……。

 皐月の元に、結花が息を切らせて辿り着く。

「……皐月、あなた今人を轢いた」

「む、誰だ? この病院の人か?」

「……ううん、佐々木先輩」

「何だ、良かった」

 良くない。

「それで、その花がどうしたんだ?」

 トテトテと寄ってくる皐月に聞く。皐月はパンジーのような花を片手に持っていた。結花は静かに俺のベッドに腰掛ける……ってだから何故そこ!?

「うん。この花がな……何だっけ」

「……花言葉」

「うん、そうそう。で、この花の花言葉が……何だっけ」

「……愛の訪れ」

「そうそう。それ」

 一瞬、愛という言葉に俺の体がビクンとした。

「へえ、花の名前は?」

 慌ててそれを悟られぬよう質問する。

「えっとー、何だっけ。耳と目が?」

「……ミルトニア」

「あー惜しい」

 惜しくないと思うよ、皐月。

「しかし、愛の訪れって花言葉がある花を貰ったということは、私にも愛が訪れるのかな」

 そう言ってルンルンといった感じで皐月は笑った。

「へぇ~、皐月は好きな人でもいるのか?」

「はうあ! ……い、いない……こともないけど……」

「へぇ~、そっか~、いるのか~」

 そいつは後で体育館裏に呼び出す。

 ふと、改めて花を見る。パンジーに似ているそれはうっすらとオレンジ色を帯びていた。砂漠に咲く1輪の花。それは道を失った者たちに希望の道を照らすような、ふとそんなイメージが頭に浮かんだ。

「愛の訪れ、か。その花言葉も婆やから聞いたのか?」

 って婆やって俺は知らないぞ。言っててなんだが。

「ん~ん。結花が知ってた」

「……花には結構思い入れがある」

 そう言ってしみじみと頷く結花。

「へえ、意外だな。結花って何だか暴力的なイメージしかないから、花が好きなんて夢にも思わなってごめんなさいほんの冗談のつもりでしたほらあのあめりかんじょーくってやつだから気にしないでくれるとありがたいなそう言えば名前にも花って漢字入ってるもんなははは似合わねえけどゴフゥ!」

「……殴るよ?」

「もう殴ってるよ、結花」

 答えられない俺の代わりに皐月がつっこんでくれた。

「……な、ならさ。この花の花言葉、知ってるか?」

 よろよろと体を起こしながら、胸にあるチューリップを取り出して聞く。

 それはミルトニアとは違い、やや暗色の入った花だ。

「それ、想が一昨年有紗にあげた……」

「……紫色の、チューリップ……」

 微かに息を呑む音。皐月も俺も、結花にしては珍しいこの反応に、ただ彼女の言葉を待っていた。

「……知ってる」

「ホントか? なら……」

「……でも教えない」

 その二の句に、俺は絶句した。

「そんな……どうしてだ?」

 結花が無意味なことをするはずが無い。そう思っていても、今回ばかりは納得がいかなかった。俺はどうしても有紗の形見であるこの花の花言葉を知りたい。

 そんな俺の表情を読み取ってか、結花は小さな溜め息をついて話を続けた。

「……その花言葉を想は既に知ってる。……いや、知ってた、かな。……そしてその言葉は想自身の手で思い出さなきゃいけない。誰かに聞くのでもなく、本を読むのでもなく、想。あなた自身の手で思いだしてあげて。今もまだ絶望の淵にいる、彼女の為にも」

 結花にしては長い言葉を、しっかりと俺に突き刺した。突き刺さったその言葉は、ゆっくりと沈んでいくかのように俺の胸に染み入った。

 有紗の大切な何か。それがこの花に詰まっているのだ。

「結花……」

 思わず感謝の言葉を言おうとした俺を見て、結花は何となく分かったのか、

「……私、これでも女の端くれだから」

 ややトゲのある言い方で返してきた。

 ……さっきのこと、まだ根に持ってるのかな……。

「…………」

 気が付くと、皐月が無言で自分の手元にあるミルトニアの花を見ていた。

「皐月?」

 俺が問うと、急に皐月はミルトニアを俺の顔の前に差し出して、

「想。このミルトニア、持ってけ」

 そう言った。

「え、……何で?」

 皐月が珍しくはしゃぐくらい喜んでたのに。

「何となく。想にはそれが必要な気がしたから」

 普通の人からしてみれば、なんじゃそりゃ、と思うだろう。でも何故か、俺はそれを否定出来なかった。

「でも、いいのか? これ持ってないと愛が訪れないかもしれないぞ」

「嫌なこと言うな。自力でなんとかする。……私のことはいいから、さっさと貰え」

 しばし迷った後、俺は静かにそれを小さな手から受け取る。それを見た皐月は「ん」と頷いて、「行こ、結花」と結花と一緒に出て行った。その小さな背中は、2年前と変わっていないはずなのに、不思議と大きく見えた。

「…………」 

 微笑を浮かべてしまいながら、俺は手元の花を見る。それは陽の光を浴びて、さらに輝きを増していた。

「ワイが阿呆やってん……」

「うわ、なんだコイツ!?」

「……皐月の被害者」

「いや、違うぞ。きっとこいつは当り屋って奴だ」

 廊下からはまだ変な言葉が聞こえた。


  *


「ほらよ、これでどうだ」

 荒島が花瓶を手に戻ってくる。その薄紅色の花瓶に先ほどもらったミルトニアがささっていた。荒島はきびきびとした動作で備え付けの木造タンスにそれを置く。俺が「サンキュ」と言うと、「よせやい」と返してきた。

 鮮やかな百合の花が描かれているその花瓶は、淡いオレンジの光を放つミルトニアによく合っている言えた。まるで片方が翼で、それが今両翼と化したかのように。

「それにしてもあいつら、もう帰ることないのにな。昼飯なら俺が自腹で出してやったのに」

「気を使ってるんだよ。荒島とか、俺とか」

 今日の昼、俺の両親がここに来る。昨日連絡したが、2人は丁度出張していて居なかったらしい。

 俺の父親は剣道師範をしていた。久保田道場。田舎の中で顔が広いこともあってか、門下生はまずまずだ。ただ、腕は素晴らしいの1言らしく、良く他の道場へ出張し剣道の講習をしていた。

 対して母親は、至って普通の主婦だ。いつも家事を一生懸命やってくれている。何故かいつも笑顔で。母曰く、「お父さんがあんなに怖い顔してるから、初めてお父さんを見る人はいつも尻込みしちゃうのよ。だから、私があの人の横でずっと笑ってるの。そうすれば、なんだか空気が和むと思わない?」とか、さらには「私がいるからあの人はここにいる。あの人がいるから私はここにいる」とか。小さい頃に色々語られた、いや惚気られたのだが、幼い俺は当然何を言っているのか分からない訳で。

「なんだ? にやけちまって。さてはお前マザコンか何かか?」

「ばっ! てめ、何言ってんだよ」

 俺がにやけてた? そんな訳が無い。あんな無茶苦茶な父親と母親……。

「さて、と。俺もお邪魔だろうからどっか行ってるわ」

 と、荒島は止める間もなく通路へと消えていった。みんな気ぃ使いすぎだと思う。

 だが、実際どうなのだろう。荒島や先生、ボランティア部の皆は俺や有紗のことを心の底から心配してくれた。本当に、いい人たちと出会えたと思う。俺には勿体無いくらいだ。

 なら、母やあの厳格な父までもが俺のことを心配して心を痛めてくれていたのだろうか。……してくれたんだろうな。あの2人のことだ。涙を流してくれたに違いない。

 タッタッタッタッタ……!

 足音が聞こえる。変な音だった。普通の靴ではこうはならない。

 これは多分……父の草鞋の音だ。

「想……!」

 廊下から姿を見せたのは、いつもの袴姿をした父だった。細く、だが折れない厳格な父の顔は、今はみっともない程歪められていた。道場から直接来たのか、手には竹刀、足には草鞋、髪は後ろで無作法に縛られている。

「想くんっ!」

 遅れてきたのはいつもエプロン姿をしていた母だった。今はエプロンは着けていないが、その慈愛に溢れた顔は変わっていない。慌てて来たらしく、いつも綺麗に纏められていた長い髪は凄いことになっていた。

「あ~、え、と……」

 見るのも懐かしい2人に会い、俺は何を言うか迷った。しばし、頬をかく。

 だが、俺はすぐに笑顔で、

「父さん、母さん……ただいまっ」

 と、言うことにした。

 瞬間、2人は俺に抱きついてきた。


  *


「念の為1週間は自宅で大人しくしておれ……と言いたいところじゃがの、どうせ今は夏休みじゃ。たっぷり遊んで来い」

 病院の前、三井先生と荒島は退院する俺を見送りに来てくれた。外には緑や花に包まれた駐車場がある。その脇にある噴水公園で子供たちがはしゃいでいた。自然と笑ってしまう。

「ええ、夏休みですもんね。たっぷり遊びます」

「うむ。それがええ」

「それと、荒島。これ、ホントに貰ってもいいのか……?」

 俺はバッグ横のポケットを見せる。そこにはミルトニアが挿されている花瓶が入っていた。

「ああ、気にすんな。どうせ俺のだしな。あ、あとその花暑さに弱いらしいからそこんとこ気をつけとけよ」

「……ああ、サンキュ」

 俺はそう言うと脇にある大きな荷物を肩に抱え、両親の待つ車両へと歩き出す。

「想」

 呼び止められた。振り向けば、荒島が親指で横を指していた。

「ちょっと時間、あるか?」

 少し笑って、そう言った。荒島の指差した方向、たしかそこは……。

「……また、昔話か?」

「そんなとこだ」

 俺は荷物を抱えたまま、荒島と共にその方向へと向かった。

 歩き出してすぐに、それを見る事が出来た。

「……久しぶり、だな」

 花畑、だった。今は黄色く光る眩しい向日葵が咲いている。それは限りが見えない程遠くまで、遥か遠くまで、続いていた。左を見れば、緑に包まれた生い茂った森の山々。右を見れば、病室から見えるように煌く海を眺めることが出来る。

 ゆりかごのような波の音とざわめく木々の音の中に身を委ねながら、この絶景を視界に収める。風に乗り綺麗な空気が俺を吹き抜けていった。それは気のせいか向日葵の……夏の香りがした。

 俺はここが好きだった。この、どこまでも広い世界。限りの見えない場所。

 ここは三井先生の祖先が病院を建てた時に、病院の土地と一緒にここを買い、それ以来ずっと花畑にしているらしい。大昔からこの花畑はここにあって、今の俺たちのように見る者を癒していたのだろう。

 過去を思い出し、ふと脇にある通路を見る。1人で病院に来た時は、いつもあの道を通って来ていた。しかしそこは子供しか通れないような場所で、中学になってからは通らなくなった気がする。

「まだ、あんたが世話してるのか?」

 ふと、ここの通路を通ると、水撒きをしていた荒島の姿を思い出し、聞く。

「いいや。世話したいんだけどな。先輩のナースが引退して、仕事がこっちに回って来たから、結構忙しくてな。今は後輩にやって貰ってるよ」

「そっか」

 また、花畑の中へと視線を移す。その向日葵の中に、かつての自分と有紗がはしゃぎ回る姿を垣間見た。

 有紗と友達になってからは、毎日のように病院に通い、そしてここで遊んだ記憶がある。あまりに遊びすぎて、良く三井先生に怒られていた。幼馴染である皆を連れてきた日は、さすがにここでは遊べなかったが、またこっそりと病院に来ては、この花畑へと赴き、2人で遊んだものだ。

「向日葵もいいけど……やっぱり俺はチューリップがいいな。次の春は何ヶ月か先か……」

 有紗の……1番好きな花が、チューリップだったから。

「そうだな。お前ら良くここに来て遊んでったもんな。はしゃぎ回ったりして……2人で何か作ったりして」

 そうだ。2人で花を使って色々使った。その時使ったのはチューリップじゃなかったけど。花の腕輪とか、ミサンガとか、あと……。

 あと……なんだったけ? 良く思い出せない。

 微かに目眩がして俺はかぶりを振る。

「さて、来たばっかだけど、そろそろ行けよ。両親が待ってんだろ?」

「ああ……だけど、その前に」

 俺は静かに荒島へと振りかえった。

「……有紗の病室って、どこらへん?」

 後から聞いた話だと、あの病棟は特別で、普段は一般人や普通のナースは絶対に入れないんだそうだ。俺は特例中の特例と言われた。そして、もう2度とあの中へ入れる許可は出来ないとも。

「…………多分、ここらへんだと思う」

 荒島の指が花畑の隣、病院の壁の一角を指した。俺はそこへ近づき、片手で触れた。

 壁で隔てられている。2人の距離はそんなに離れていないだろう。もしかしたら十メートルも無いかもしれない。けど、この壁がある限り、俺は彼女に近づけない。手を握ることさえ出来ない。もう2度と、顔を見ることも。 

 この世界はいつだって理不尽だ。良い奴が酷い目にあって、悪い奴が得をする。そんなおかしな法則さえも存在してきた。良い奴は早死にする。そんな話も度々耳にしてきた。有紗は良い奴すぎたのだ。だから、こんな……。

 その白い壁は、夏の日差しを受けているだろうに、とても冷たかった。この現実のように。

 荒島は俺の隣で、ただ壁に寄りかかり空を見ていた。


  *


「父さん、ありがとう。待たせてばっかで悪いね」

「……気にするな。……俺たちはここで待ってるぞ」

 青い車の戸を閉め、砂浜へと向かう。遠い場所では、皆がビーチバレーをしていた。わーい、きゃははーという声が陽炎の中から聞こえる。

 それを遠くで眺める1人の華奢な少年。俺はそいつの隣に座る。熱い砂が俺の体を焦がした。

「よっ」

「遅かったな」

「まあな。……お前は遊ばないのか?」

「想を待ってたからな。……記憶、大体戻ってきたか?」

 祐二はこちらを見ずに聞いてくる。

「ああ。まだ思い出せないことはあるけどな」

「そうか」

 そこで不意に祐二は言葉を止めた。そこにどんな意図があったかは分からない。

 それを理解する前に、祐二はまた、俺に聞いてきた。

「一昨年の夏、最後にここに来た日は、忘れてないよな」

「……ああ。あの日も今日みたいに日差しの暑い日だった」

 今のように陽炎漂う意識の中で、俺はそれを見る。

「楽しかったな。スイカ割りして、バーベキューして」

 祐二が懐かしむようにあの日の出来事を並べていく。

「ああ、それで皆で日曜大工したんだよな」

「びっくりしたよ。有紗が急にあの岩の丘に登りたいなんて言うなんてな」

「すぐに実現させた俺たちも凄いと思うけどな」

「木とか切ってそれ繋げて人力エレベータとか、先輩良く考えたよ」

 遠い昔、俺たちが皆で力を合わせて作った木造エレベータ。原動力は人力だ。岩の丘の海の方に向かって立てられていた。ここからも、小さくだが、その岩の丘が見える。ただエレベータはあるかどうか分からなかった。

「あれ、まだあるぞ」

「え、嘘。まだ残ってんの? 役人さんが撤去したりはしてないのか」

「ああ。なんか上手い具合にいい場所に設置したみたいでな。まだ見つかってないんだ」

「ははは。先輩たち、それも考慮に入れてたのかな」

 2人で笑う。笑い声は、遠いさざ波の音と混じり、やがて消えた。

 また、残像が重なる。この蝉の声に、あの夏の日を思い出していく。皆で笑いあっていた、あの夏の日を。そこに、亜麻色の髪をした少女がいた。

 彼女は笑っていた。屈託無く、純粋に。その砂浜の上で、皆の中で、ただ笑っていた。焼き鳥を食べるにも、一生懸命な感じで。そんな彼女を見ていると、何故か皆笑えることが出来た。彼女の笑い声は、不思議と胸にまで響いて、霧が晴れるかのように不安とか嫌悪とかそういう感情を無くしてくれた。

 ふと、思う。

 遠くにいる皆の声。何故今あそこに有紗がいないのだろうか、と。

「想……お前、何だ、その……」

 隣を見る。祐二は何故か言葉に詰まって頬をかいていた。

 そしてまたあー、と呟いた後、言った。

「……生きていてくれよ」

 小さな声が聞き取れた。祐二は俺と同じ海を見る。

 俺は一瞬だけ息が止まった。

「お前は、生きててくれよ。俺たちのために」

 生きる。生きるさ。

 人生を奪われた彼女の為にも。俺の事を大事に思っていてくれる馬鹿な奴らの為にも。

 俺は生きなくちゃいけない。生きるべきなんだ。

「……それを言うなら、お前も……皆もだろ」

「そうだな。……どうでもいいけど、こういうの口にするのって結構恥ずかしいな」

「慣れない事するからだ」

「ああ。悪かった」

「別に……」

 本当、馬鹿な奴。祐二はいつも単細胞バカな癖に。

 訂正。害虫並の頭の癖にだ。

 何で俺みたいな奴のことを……。

「祐二」

「何だ?」

「お前って馬鹿だよな」

「良く言われる。主にお前にだけど」

「でもさ」

「うん?」

「いないよりはマシだよ」

「それは褒めてるのか?」

「俺なりに」

「そうか、お前なりに褒めてるのか。ならいいや」

「蟻、頑張って生きてるなぁ、と同じくらいだけどな」

「俺蟻と同等かよ」

「いや、同等じゃない」

「想……お前ってやっぱなんだかんだ言って「お前より蟻の方が偉い」

「…………」

「…………」

「冗談だ」

「ホントか?」

「嘘」

「…………」


  *


「ただいま」

 見覚えのある家屋の戸をくぐった瞬間、ある匂いが俺の鼻孔をくすぐった。懐かしい匂いだ。僅かに埃っぽい匂いも混ざっている。だが、中核を占めていたのはそれではない。

 窓から差し込む日溜りとそれを受けてすっかりと古ぼけてしまった木の匂いだ。今朝はトーストだったのか、微かに香ばしい匂いもした。

 小さい頃と同様に靴も揃えず中へと上がる。渡り廊下を渡った先、道場を抜けてリビングへと入る。

他の部屋と比べれば明らかに小さい部類に入るだろう狭さ。真ん中に子供用と思える程のちゃぶ台。その脇に座布団が2、3枚転がり、掛け軸の隣にあるテレビはアンテナがはねている。

 この部屋でいつも俺たち3人は体をくっつけあって冬を過ごしていた。夏の日は風鈴を飾って、水を入れた桶に足を突っ込んだ気がする。何故か3人で1つの。

「すぐにご飯を作るわね。想くんは何が食べたい?」

 遅れて母親と父親がリビングへとやってくる。途端にこの部屋が一層狭くなる。だが俺たちはそんなことが嫌だとは思わなかった。

「……コロッケが食べたい、かな」

「あら、私の得意料理ね。よ~し、腕によりをかけて作るからね」

 いそいそと料理の準備を始める母。小さい頃から作ってもらっていたコロッケは、俺のお気に入りだったりする。店舗とかで食べたりするコロッケとは何かが違う。間違いなくお袋の味みたいなものがそこにあった。

 父は座布団をちゃぶ台の横に移動し、そこに座る。そして握られた新聞を広げ、おもむろにそれを読み始めた。

「父さん、肩揉もうか?」

「……なんだ? 藪から棒に」

「……なんとなく」

「……変な奴だな。丁度いい。昨日にあった講習会の疲れが取れなくてな。やってもらおうか」

「……それじゃ、失礼して」 

 父の後ろに移動し、膝で立つ。道着に包まれた肩を掴み、込める。

 父はしばらく経ってからふむ、と呟いた。

「いい力だ。2年間経ってもまだ力は衰えていないようだな」

「父さんの子だからね。力はあると思う。それに、病院にはお節介さんがいたからね」

「あのナースか。想、いい人と知り合ったな」

「うん……そうだね」

 最後に父の肩叩きをしたのはもういつだったか覚えていない。ただ、俺は中学、高校になって段々と恐れていったのだ。父の持つ、俺には無い何かを。

 俺には無い何か。そんなの持っている人は大勢いるだろう。ボラ部の皆や先輩たちとか。俺にだって誰かに無い何かを持っているのかもしれない。ただ、俺は父のそれが欲しかった。そして一緒に生活する内に、直視するのが怖くなったのだ。それを見る度、それを見せつけられる度、俺は悔しさに負けそうになるから。

 でも今は何故か、そんな怖さは無い。父のことを凄いと思い、尊敬している自分がいる。この肩叩きも、父になんとなく親孝行したい、と思ったからだ。2年の間に、生まれ変わったかのように見方が変わったな、と自分で思った。

 いつの間にか、コロッケが揚がり終わっていた。 


  *


 2階にある自分の部屋へと階段を上っていく。コロッケの味の付いた唇をなめながら、ドアノブをひねる。部屋へと入る。実に2年ぶりだというのに、それは正に変化なし。何も変わっていなかった。2年間も使っていないのだから、埃が溜まっていいはずなのに、その気配もない。母が掃除していてくれたのだろうか。

 微かに頭が痛い。俺は欲望の案内板に導かれ、布団へばふっとダイブする。昨日、今日と色んなことがあったからだろう。頭の中で俺の今までの記憶が交差している。

 でも、なんだろう。俺はまだ何か忘れてるような気がする。それも大切な何か。思い出さなくちゃ、いけないことだ。

 俺はそう思ったが、次々に降りてくる睡魔に、俺は眠りへと落ちていった。

 久しぶりの俺のベッドは、太陽の匂いがした。


  *


 ヴーヴー、ヴーヴー。

 携帯のバイブレーションで目が覚めた。昨日いつの間に入れていたのだろうか。携帯はズボンのポケットに入っていた。目覚ましやメールかと思ったが、一向に振動が止まない。電話だ。着信だ。

 俺はむくりとベッドから体を起こし、まだ重たいまぶたを擦りながら、電話に出た。俺は多分、もしもしと言ったと思う。

『コゾーっ、大変だ!』

「荒島……?」

 電話の相手はお馴染みのナースだった。俺が高校に入って携帯を買って貰った時、無理矢理電話帳に登録させられたのだ。いや、今はそんなことどうでもいい。

「どうしたんだよ、こんな時間に」

 時計を見ると、小さい針は5の数字を回ったところだった。朝5時。こんな時間に起きるのはヨボヨボな年寄りくらいだ。

 だが、次の言葉は、俺の頭の中にあるあらゆる思考、感覚を吹き飛ばした。


『有紗の病状が悪化したんだ!』


 耳の奥が貫かれた。その見えない鋭利な刃物に、俺は頭を切り刻まれる。甲高い効果音が俺の頭の中で響いて止まない。

 なん……だって?

 なんて言ったんだ? 荒島は、今なんて。

『昏睡状態がさらに悪化した。今まで現状維持だった血圧、心拍数が低下し始めてる。ゆっくりとな。ゆっくりと有紗は死の方向に進んでる。医師がこのままなら有紗は1週間ももたないだろうって!』

 手が重い。足が重い。顔を支える首が重い。体の中心が重い。この部屋の空気が重い。のどから搾り出す息が重い。重い、重い、重い。なにもかもが重い。この世界が重い。

 汗で、俺の手の中にあった銀色の携帯が滑り落ちる。地面に落ちたそれは、まだ何か音を発していた。


  *


 外を歩いていた。

 いつの間にか。

 記憶が無い。部屋を出た記憶が。家の戸を開けた記憶が。歩いていた記憶が。生きてきた記憶が。笑っていた記憶が。今までの記憶が。全て、空白部分へと化していた。

 人とすれ違う。肩がぶつかった。相手が何か罵声を言ってきた。うざい。黙れ。

 ぼんやりと足を見ている。その先に猫がいた。それは踏みつける寸前に避けた。邪魔だ。消えろ。

 白い横線の入った道路を渡る。何故か通りの車が止まった。車の中から声が聞こえた。

 死にてぇのか。

 分からない。俺には分からない。死にたい。生きたい。どっちだかわからない。

 彼女はどうだっただろう。死にたかっただろうか。生きたかっただろうか。

 生きたかっただろう。当たり前だ。この世の中の大半はみな死ぬことが怖い。

 俺はどうだろう。どっちでもいい。死んでも、生きても。どっちみち、辛いことには変わりない。

 道を歩く。脇にあった自転車を倒す。子供がぶつかってくる。そのまま歩く。踏んだ時、変な音がした。女性が何か言ってくる。俺の前に立つ。構わず前に進む。女性が横に跳ね飛ばされた。真ん中を歩く。坂道を登る。向こうから自転車に乗った学生がやってきた。だから何だ。めんどい。自転車が近づいてくる。学生は慌ててハンドルをきった。ガードレールに突っ込むのをぼんやりと眺める。学生はそのまま道路に吹っ飛んだ。頭が紅くなっていた。

 何だ、こいつら。

 これがこの世界か。

 醜い。汚い。怖気が走る。虫唾も走る。なんて禍々しい。

 こんな場所が、有紗のいた世界か。こんな場所が、有紗といた世界か。

 彼女の声を思い出そうとする。聞き耳を立てる。ノイズが入ってきた。

『だからさぁ~、お小遣い頂戴よ~。俺この世界が退屈でさぁ。暇だから遊ぼうと思って。だからその金をおくれよ。どうせ君みたいなガリ勉君は、生きてても仕方がないの。なら君の金、俺が使った方が有意義になると思わな~い? 君もねぇ、さっさと勉強なんかやめて、遊んだ方がいいよ。こんないつ死ぬかも分かんない世界、生きてる内に遊ばないと損だよ~』

 顔を上げる。辺りを見回す。裏路地。そこに何人かが集まっていた。

 なんだ、こいつら。お前ら、一体なんだ?

 ふらりと歩く。裏路地へ。

『ん? なぁに、兄ちゃん。君も僕らにお小遣いくれるのぉ~? それとも一緒に遊ぶ? そうだよねぇ。退屈だもんね。この世界で生きてる意味なんてないし。遊んだ方がいいもんね』

 殴っていた。目の前のモヒカン頭が吹っ飛ぶ。他の奴らが奇声を上げた。襲い掛かってきた。腹を殴られる。顔を殴り返す。サングラスが割れた。目から血を出していた。後ろから殴られた。バットだ。金属。そいつがもう1度振りかぶった。急所に蹴りをぶち入れる。バットが音を立てて落ちる。拾う。振りかぶる。頭を殴った。変な音がした。何かが割れる音だ。気持ちが悪かった。だから腹を殴った。そいつがうずくまる。背中を殴る。背中を殴る。背中を殴る。

 気が付くと、そいつらはもう起きてこなかった。

 くだらない。

 裏路地から出る。誰かに声をかけられた。

 怪我してるじゃない! 救急車呼ぶ!?

 無視した。歩き出す。通りを歩く。


 部屋にいた。記憶がない。

 暗かった。だが部屋は白かった。

 なにもかもが白く感じた。

 脆く、儚く、すぐに壊れてしまうもの。現実味のない、曖昧なもの。

 全てが、どうでも良くなった。この世界にある全てが現実だと思えなくなった。

 有紗が死ぬ。

 たったその一言は、俺からなにもかもを奪っていく。

 分かってた。ああ、分かってたさ。

 いつか有紗は死ぬ。病状が絶対に良くならないというのはそういう事だ。

 でも、彼女は生きていてくれた。

 その腕が動かなくても、もう目を開けることさえ出来なくても。

 有紗は生きていてくれたんだ。

 俺は、このとき初めて、知った。

 有紗が、いつの間にか俺の全てだったと。

 でも、有紗は死ぬ。俺にとって、有紗が死んだ世界を生きることは、地獄だ。

 辛いことしかない。生きる意味なんてそこには無い。

 有紗が死ぬ。俺はどうしようか。

 俺も――――死のう。

 こんな虚無感を抱えて生きるのは無理だ。ありえない。

 苦しくて死にそうだ。だから死のう。

 無になろう。


 人ってものは俺が思ったより単純だった。1度決めてしまえば、後はもう迷うことすらない。なんだか気持ちが良かった。

 立ち上がる。眠気や絶望感など、人間臭い感情はもう俺には残っていない。軽い笑みを零しながら、俺は部屋を出て行こうとする。

 どこで死のう。どうやって死のう。どのくらい時間をかけて死のう。

 そんなことばかりが、俺の頭の中をぐるぐる回っていた。それしか頭に残っていなかった。

 だが、何故だろうか。

 ピピピピピピピピピピピ。

 携帯。メールの着信音。

 死ぬことしか頭に無かったはずなのに、俺はこの音を、無視することは出来なかった。

 暗い部屋の中で、淡い光を放つその携帯。

 落ちてあるその物体を拾い、手の中で広げる。

 

《光橋 暁》

『想、聞いたか? 荒島はんのことや、もう聞いとるやろな。

 お前、大丈夫か? 辛くないか? 頑張れるか? もし無理や思たら、電話かけてくるんやで。ワイはいつでも話聞いちゃるから。ま、それしかでけへんてだけやけど』


 ピピピピピピピピピピピ。

 また着信音。


《梓沢 結花》

『……ハロー。……なんちゃって。……こほん。想、私は宮島有紗じゃない。知り合ったのも、高校1年の時。もちろん、彼女のことなんて詳しくは知らない。でも、今有紗が話せるとしたら、想に言いたいことは何か。……それくらいは分かる。……ごめん。そして……ありがとう。……多分ね』


 ピピピピピピピピピピピ!

 連続で、次々と着信音が鳴り響く。


《高見沢 皐月》

『……メール出そうと思ってなんだが、何書くか考えてなかった。……どうしよう。

 取り合えず、想、今泣いてるか? 私泣いてる。おかしいと思う? 1年も付き合ってもいないのにって。

 でも、そんな短い付き合いの私がこんなに悲しい思いをしてるんだ。想はもっと悲しいだろう? そんな時は泣け。思いっきり泣いて、そして考えろ。彼女の為に何が出来るのか。だから今は泣け。泣かないと許さない』


《佐々木 雄介》

『いつかこの日が来るとは思っていたが、まさかこんなにも早く来るとはな。……覚悟していたつもりだったというのに、いやはや人間の心理とは分からん。

 本題に入るが……想、間違っても死のうなどと思うなよ。お前は脆いところがあるからな。もし一瞬でも思ったのなら、謝れ。有紗に、両親に謝れ。あと俺』


《片谷 祐二》

『よ、元気か? ……元気じゃあ、ないだろうな。お前ら、小さいころから無茶苦茶仲良かったもんな。

 あー、俺馬鹿だからさ。こんな時なんて言えばいいか分からね。だから、俺悩むな。ずっと悩み続ける。有紗の為にも、お前の為にも。生きるって案外、こういうことかもな』


《永井 朝美》

『想? 今、落ち込んでる? 傷ついてる? 私も、傷ついたんだよ。

 想と有紗が意識を失って、2度と目覚めないかもしれませんって言われた時、すっごく、悲しんだ。一杯泣いた。泣きじゃくった。

 私、あれからずっと考えたんだ。想が意識を失った日から、今まで。生きるってなんだろうって。有紗が生きられなくなって、想がまた生き返って。

 生きてる内には、辛い事も、嬉しい事もある。生きてるって、どういうことかまだ私には分からないけど、どうせなら、辛くて泣いて、悲しくて泣いても。いつかは、きっと最後には笑っていたい。

 だから想も、笑ってね。今は無理かもしれないけど、いつかはちゃんと笑ってね』


 液晶に水滴が落ちる。それは画面の文字を色褪せて見せた。

 嗚咽が止まらない。手で目をおさえ、子供のように泣きじゃくった。

 携帯の画面に、瞬く間と水滴が落ちていく。

 それは画面全体を覆い、薄い水の膜を形成した。

 何もかもが、馬鹿らしかった。

 死のうと思ってた俺が馬鹿らしい。こいつらが馬鹿らしい。

 俺と同じ報告を受けて、自分たちも悲しい癖に。

 こんな、恥ずかしい台詞を臆面も無く送ってきやがって。

 後で馬鹿野郎って言ってやる。

 絶対に。


 ピピピピピピピピピピ。


《神楽坂 美咲》

『さて、私も少年に言葉を送りたいが、おそらく他の子たちが皆しているからいいだろう。私からは、1つ、忠告を。有紗君との約束……忘れていまい。それだけは必ず守り通せ』


 有紗との、約束。その文字で、今までしてきた数々の約束を思い出す。有紗はやたらと心配性で、何をするにも約束をせがんでいた。

 その内の1つは、確か……。

『これ、ずっと持っててね』

 有紗の残像が霞む。確か、あの病院の横にある花畑で俺は何かを有紗から貰って……。

 涙を拭き、顔を上げる。少し目が痛かった。

 カーテンを開ける。もう太陽は顔を覗かせていた。太陽の光は、この町を、空を、海を照らしていた。朝が来た。夜が明けて、朝がきた。朝の眩しさに、思わず俺は目をすぼめる。

 俺は空気の入れ替えをすると、手早く部屋をあさり始める。貰ったものが何なのか思い出せないが、多分有紗からのものならば、押入れとかではなく、案外近い場所にあるはずだ。

 探し始めて15分。

 全てのタンスを開け、引き出しを開けた。後は――――。

 勉強机だ。机の横、小さな引き出しを開ける。

 1段目。テスト用紙しかない。しかも赤点。

 2段目。写真があった。俺と有紗のツーショットだ。花畑の中、小学生くらいの俺と有紗が手を繋いで笑っている。おそらく撮ったのは荒島だろう。有紗は手首にミサンガを。俺は……。

 花冠をかぶっていた。

 瞬間、ノイズが鳴る。頭の中を巡るのは砂嵐。

 頭痛がする。耳鳴りがする。何かが見える。砂嵐の向こう側だ。

 ザー……ザー……。

 頭に響くその背景の向こう、誰かが笑っている。亜麻色の髪の少女。彼女の周りを名前も知らない植物や花が彩っていた。

「まさか……」

 頭を抑えながら、写真を握り締める。そしてそのまま3段目に手を伸ばす。


 3段目――――――花冠。


「――――――思い出したっ!」

 

 見たことの無い世界、失っていた記憶、場所によって変わる天候、動かない太陽、アリサとの出会い、あの丘から見たあの世界、初めて見た風景、初めてみた植物、彼女との旅、長い時間、永遠または悠久、リィルの実、ライカの茎、チューリップ畑、紫のチューリップ、アリサが作ってくれた花冠、恋人の約束、森の開けた場所、初めての人工物、壊れた壁画、暗黒の道、混沌とした門、夢で見た記憶、湖でのアリサ、高い岩山、2度目の約束、人工トンネル、脱水症状、流れていく通路、奈落の底、出口の小川、森で溢れた斜面、波の音、空の蒼、海の蒼、リィルと何か、1人の砂浜、岩で出来た丘の上、突風、違う世界の物語、遺跡、帰還の門、アリサの笑顔。

 砂嵐が去っていく。暴挙の限りを尽くしたそれが覆っていたものは、記憶だった。

 記憶が溢れ出す。約300年もの記憶。彼女と過ごした、長い、長い旅の日々を。

 何故今まで忘れていたんだろう、こんな大切なこと。

 過去の記憶を思い出し、しばし感傷に浸る。

 だがそれも数秒。俺は急いで仕度をする。彼女を繋ぐものは彼女の命。早く会いに行かねばならない。まだ彼女が待っているだろうあの場所へ。

 俺は手早く服を着替え、傍らにバッグを携えて急ぎ足で階段を下りる。リビングを見ると、朝食の用意をしているエプロン姿の母がいた。時計を見ると7時15分。外はもう明るくなっていた。父はまだ寝ているのか、父の寝室のふすまは閉じられたままだった。

 俺が母を呼ぶと、母はおはようと言った後、俺の顔を見た。俺の表情を見て何を読み取ったのか、エプロンをはずすと、ゆっくりと座布団に座った。合図で向かいを指す。俺は母と向き合う形で座布団に腰を掛けた。

 2人とも黙ったままだった。いや、母が俺の言葉を待っていて俺が何も言い出さない、という感じだ。俺は心の中で深呼吸する。

「……俺、ちょっと出かけて来るよ」

 俺のやっと言い出した言葉に、母はその言葉を頭の中で噛み砕くように目を瞑った。その後、10秒くらいして、母は言った。

「そう。いつ、帰ってくるの?」

 帰る。帰ってくる。帰還。それは俺にとってとても難しい難題にも思えた。

「分からない。でも……」

「でも……?」

「必ずまた、2人の所に帰ってくるよ」

 帰ってきたい。この場所に。この古ぼけた家に。

 母は俺の言葉に、ただゆっくりと自分の指を絡めた。

「……わかったわ」

 母は穏やかに笑いかけてくれた。俺はちゃぶ台の上に、荒島から貰った花瓶と皐月から貰ったミルトニアを置いた。

「なぁに、これ?」

「……ミルトニア。花言葉は愛の訪れだってさ。これ、母さんと……父さんにあげるよ」

「いいの? 大切なものなんじゃないの?」

「うん、でもいいんだ。大切なものだからこそ、2人に貰って欲しい」

 母は少し笑った。

「分かった。これは貰うわね。結婚記念日として」

「うん」

 俺はゆっくりと立ち上がる。バッグを肩に担ぎ、もう1度部屋を見回してから、

「母さん。……行って来ます。父さんにも宜しく」

「ええ、行ってらっしゃい」

 俺は部屋を……家族を後にした。


  *


 走る。実を言うと、まだ足の感覚が危ういのだが、初日よりかは大分よくなっている。風を受けながら、バッグから携帯を取り出す。ややもたついたものの、安全に取り出せた。電話帳から、古き友人へと電話をかける。そいつは、俺の「頼みごとがあるんだ」という言葉に、冒険の時によく耳にした、『サー、イエッサー』という声を返して来た。

 通話を切る。これで大丈夫だ。後は、俺自身のケジメのみ。俺はまた電話帳を開く。今度はあの微笑ましいナースへ。

 数回のコール音がした後、そいつはいつも通り元気な声で出た。

『よう、いきなりどうした。こっち来るんだろ? でもな、俺が何回言っても、あのジジイ特別患者病棟に入れてくれねえんだよ。どうする? 強行突破するか?』

 いきなり笑いそうになった。

『な、なんだよてめぇ。俺はお前のことを思ってだなぁ……!』

「分かってるって。笑って悪かった」

 俺の謝罪に「ならいいけどよ」と少々悪態をつく荒島。こんな時でもこいつのマイペースは俺を元気付けてくれる。本当にいい奴だ。本人はそのことに気付いているのだろうか。

「なあ、荒島」

 俺の呼びかけるような声。それにも荒島は「あん? なんだよ」と不良っぽい口調で答えた。

「今までホント、ありがとな」

『……はあ? いきなり何言いやがる。それじゃ、もう2度と会わないみてぇじゃねぇか』

 荒島がガハハと言った風に笑う。

「………………」

 俺はそれに、何も返せなかった。ただ、鼻をスンと鳴らした。

『……? おい、お前まさか……』

「俺が入院してた部屋、カレンダーがあったよな。あの日にちが変わると1枚ずつ破ってくやつ。あれ置いたの、荒島だろ。いつ起きても今がいつか分かるように。あんなすごく細かい気遣いはあんたしかいないからな。……でも、その気遣いのおかげで今まですげえ助かった。マジ、サンキュな」

 俺が通話を切ろうとする際、ただ1人だけが使う特別な呼び名が聞こえた。通話を終了する。そのまま電源を切ってバックへと押し込み、近所のゴミ捨て場へと投げ入れた。

 俺の目前には、あの岩の丘が見えた。


 岩の丘の前、砂浜の残光を背に、ボランティア部と旧ボランティア部の面々が立っていた。俺が祐二に頼んだこと。それが皆をこの岩の丘に召集することだった。俺は祐二にサンキュ、と声をかけると、あいつは黙って右手を上げた。俺は少し笑って、俺も右手を上げる。次の瞬間には、2人の右手は交差して、弾くような音を出した。

「想、もう大丈夫なんか?」

 暁が聞いてくる。俺は元気良く笑いながら、ああと言った。俺はその後、皆の顔を見回す。皆は俺の言葉を待っていた。

「みんな、最後の頼みがある。俺を、この上まで連れてってくれ」

 その言葉に、少し、ボラ部の面々に陰りが見えた。それはそうだろう。一昨年の夏、俺が意識を失った場所がこの岩の丘だったからだ。

 有紗が昏睡状態に陥った後、俺はここを人力エレベータを使わず、1人でよじ登った。この丘はやはり高く、その時は登るのに大幅な時間を消費した。そして、この丘の上で、俺は意識を失ったのだ。俺はまた、その時と同じ行為をしようとしている。

 皆は何も聞いてこない。心の中では分かっているのかもしれない。俺の意識が失ったのと、有紗の昏睡状態の石化が偶然ではないことに。俺が有紗の後を追うように意識を失い、そしてまた、俺が意識を回復したと同時に有紗の病状が悪化。誰がどう見ても何か関係があると思うだろう。

 それでも、皆は何も聞いてこない。俺のこの表情や言動から、空白の2年間、何かがあったと気付いていながら聞いてこない。それが優しさからなのか、内心バレているからなのかは分からないが、とりあえず俺はコイツらを馬鹿だと思った。

 俺は目を伏せている皆に、1人ずつ声をかけていく。

「暁。短い付き合いだったけど、サンキュ。お前のおかげで少しだけ過ごした高校生活。めっちゃ楽しかったぜ」

「アホ。ワイはあんさんのせいで仰山高校生活を無駄にしたんや。幸せにならんと、許さんからな」

 俺が拳を掲げると、暁もニッと笑いながら拳を掲げる。

 こつ……。

 合わせた拳は小さな音がした。

「結花、お前無口なの、どうにかした方がいいぞ」

「最後に言うのがそれか」

「そうそう、そんな感じ」

 俺はポンポンと小さな頭に手を乗せた。

「雄介先輩」

「……一昨年、有紗と想がここにを昇って行った時は、何にも無かったのにな。今ではこのエレベータ、作らなきゃ良かったと思ってるよ」

「俺は先輩に感謝してますよ。これ作ってくれて」

「ふっ。この上に何があって、何があったのかは知らん。お前たち以外はな。聞きたい気持ちもあるが、急いでるんだろう? 達者でな」

 驚いたことに、先輩は手を差し出してきた。俺は気恥ずかしくなりながらも手を握り返し、初めて雄介先輩と握手をした。

「皐月。好きな人と結ばれろよ。応援してるぞ」

「絶望的だけどな」

「何言ってるんだよ。大丈夫だって。お前可愛いから」

「……そ、そう?」

「ああ。可愛いよ」

 俺はわしゃわしゃと頭を撫でる。皐月はうーと言いながら頭を押さえていた。

「朝美。メールありがとな。俺、また笑えるようになったよ」

「笑えるようにしたのが、私じゃないのが残念だけどね。……あの子の所に、行くんだよね」

「……ああ。朝美のことよろしく言っておくな」

「別に。いいわよそんなこと。その代わり、ちゃんとあの子を幸せにしてね」

「ああ。絶対に」

「よし、行ってこい」

 朝美が俺の背中を優しくはたいてきた。

「美咲、先輩……」

「少年……また、行くのか。淋しくなるな。有紗君との約束は、守れたか?」

「いいえ。……これから、最後の約束を果たしに行きます」

「……そうか」

「……美咲先輩、今まで色々と、ありがとうございました」

「なんだ、いきなり。照れくさいじゃないか」

「先輩がいなかったら、俺、今ここにいない気がします。それくらい、助かってるんですよ」

「ふふ。君に言われると、悪い気はしないな」

「素直に喜んで下さいよ」

「はっは。私は天邪鬼なんだ」

 一瞬顔を見合わせた後、2人で笑いあう。この人の隣にいるとホントに何でも出来る気がする。

「さ、そろそろ行くがいい。彼女が待ってるのだろう」

「はい」

 気で作られたエレベータの床へと乗る。皆が暖かい顔で俺を見守ってくれていた。

「よーし、回せ!」

 雄介先輩の合図で、皆の手元にあるハンドルが一斉に回される。機械的な音を発しながら昇っていく床。皆の顔が下へと移動し、やがて見えなくなった。

 地上や海から離れ、空が近くなっていく。

 俺は皆の顔を見ずに、蒼く広がる空を見ながら、叫ぶ。

 ありがとう、と。


  *


 エレベータが、一瞬の振動と共に止まる。俺は3度目となるこの場所に足を踏み入れた。木造の床から足を踏み出し、無機質な自然の産物へと赴く。1つのビル程もある岩の丘の中央。そこで俺は足を止め、目を閉じる。

 思い出す。一昨年の夏、彼女と共にこの場所を踏んだ時のことを。

『真に望みを持つものよ。願え。さすれば、奇跡の鷹が汝を導き、願いの場所へ案内するだろう』

 彼女は言っていた。言い伝えとして残っているこの丘の伝説を。一昨年、彼女と共に来た時は、その奇跡の鷹は現れなかった。今思えば、彼女は望んでいなかったのだろう。あのまま死んでもいいとさえ思っていたんだと思う。有紗はあの時、幸せだったんだ。

 不意に、俺の体が浮かぶ。どこにいるか分からない、宇宙のような感覚だ。無限にも続いたようなその時間の後、俺の足がついたのは砂浜だった。

 丸い円筒状の場所。地面は砂浜、周りは岩の壁。空を見上げれば丸く狭まった空が見えた。

 そこに、1羽の鷹が現れた。その鷹は、片方の赤い眼で俺を見ると、声だかに鳴いた。

 瞬間、世界が白く染め上がった。

 あの時のように。


 New world between broken and birth


『まさか、君がまたここに来るとは思わなかったよ。3回目。僕と会うのは2回目か』


『ご無沙汰だな。2年前以来か』


『何故またここに? 君の願いは叶えたはずだ。そして君は自身でそれを放棄しただろう』


『あれは、知らなかったんだ。彼女を連れ出せなかったから』


『当たり前だよ。彼女を現実世界へ戻すのは不可能だ。彼女はもう実質死んでいるからね』


『何故だ? 俺の願いが叶うと言うのなら、彼女を連れ出せるはずじゃないのか?』


『それは違う。君が2回目にここに来た時の願いが彼女の命だったのなら別だが、君が願ったのは彼女との永遠である世界の形成だった』


『く、そんな……。じゃああの世界に、夜が無いのも、見たことがない植物がたくさんあったのも、やけに広かったのも、全部俺がそんな世界を望んだからなのか……?』


『そうだ。厳密に言えば、君が彼女との世界を望んだから、と言った方がいい。君の彼女への想いや彼女との思い出。君の心、深層心理までに及ぶ彼女に関連がある思いを全て具現化したのがあの世界だよ』


『……なあ、アンタが俺の前に現れたってことは、もう1度俺の願いを叶えてくれるんだろう?』


『それは無理だ。君はもう、1度願いを叶えてる。僕が君の前に現れたのは、君が願いを叶えたよしみみたいなものだ』


『そんな……じゃあ』


『ああ。彼女は今もあの世界で、世界と共に滅びの時を待っている』


『……? まだ、あの世界は残ってるのか!』


『ああ、残っている。彼女の死と共にあの世界は崩れる』


『なら、俺をあの世界へ戻してくれ! 俺の願いが世界の形成なら、俺はその世界に自由に出入り出来ることになるだろ』


『……しかし、いいのかい? あの世界で滅びを迎えるということは死ぬことと一緒だよ』


『構わない。頼む!』


『……分かった。もう何も言わない。この扉をくぐれ。その先に君の世界がある』


『俺の世界。……ありがとう』


『言っておくが、世界間移動はこの世の業ではない。君の意識――――精神に多大な負荷がかかる。何が起こるか、何が君を襲うのか分からない。それでも君は行くのかい?』


『ああ。彼女が、俺を待ってるんだ』


『そうか……君の旅の幸運を祈る』


『……礼を言うよ。奇跡の鷹さん』


  *


 世界が色を取り戻す。

 不可思議な空間。それが第1印象だ。

 空間が歪んでいた。いや、違う。この歪みがこの空間での姿そのものなんだ。

 目が痛い。それほどまでにこの空間は気持ちが悪いものだ。

 地面の無いその混沌とした色彩豊かな空間を歩いていく。

 不意に、電撃が向こうから姿を現した。

 それは俺の頭目掛けて直撃した。瞬間、頭の中が焼き切れるかと思う程の激痛が走る。

 声にならない声を上げる。

 もう1撃やってきた。俺はそれを避けようとする。が、それは瞬時に軌道を変え、俺の頭へと直進する。脳に激痛。細胞が潰された様な感覚。さらに声を上げる。

 そして、気付く。

 記憶が消された。俺の何年、何十年もの記憶の1つが、潰された。

 もちろんそれは俺の記憶の中では小さいものだった。例えるなら米粒、パンのクズだ。 

 だが、俺はそれをもう思い出すことが出来ない。今までの2回の世界間移動をした時のような思い出せないじゃない。忘れてしまう。無かったことにされてしまう。

 記憶喪失じゃなく、記憶破壊。

 これは俺が俺の世界を捨てたから、俺の世界からの復讐なのか。それとも、3度目の禁忌を犯そうとしている俺に神から天罰の雷が下ったのか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 走り出す。見えない地を蹴る。その瞬間、電撃の嵐が俺を襲う。

 激痛。激痛。激痛。激痛の連続。

 その度に、俺はまた絶叫する。記憶が1つ1つ消されていく。それでも俺は走る。俺の中にある慟哭が俺を突き動かす。

 目の前が見えない程の電撃の数。潰されていく。段々と俺の大切な記憶までもが。

 潰せばいい。俺の記憶を好きなだけ壊していけば良い。

 ――だが俺は忘れない。もう2度と忘れてやらない。彼女の事を。彼女の全てを。

 潰せばいいさ。俺の記憶を、脳細胞をありったけ破壊すればいい。

 それでも俺は思い出す。必ず思い出してやる。記憶を破壊されても、絶対に彼女の事を思い出してやる。

 絶え間ない電撃の隙間から、白い光が見えた。俺はそれに向かって突き進む。

 その隙にも潰されていく。親友の名前、尊敬する人の記憶。肉親との思い出が。

 それでも走る。走らない訳にはいかない。俺は。

 やがて光が大きくなり、俺を包んだ。


  *


 気付けば草を踏んでいた。

 ハッとした俺は辺りを見回す。見たことも無い草原にいた。しかも植物は見たことのないものばかりだ。帰ってきた。俺は帰ってきたのだ。

 そうだ、と思い、俺は記憶を探る。大丈夫だ。記憶は残っている。彼女との、500年以上の記憶が全て、残っていた。俺は安堵した。安心して涙が出そうになった。

 ただ、それ以外の記憶が全て吹っ飛んでいた。思い出そうとしても、頭に激痛が走り、思い出すという行為そのものを中断させられてしまう。漠然ともう1つの世界があったということは覚えているが、その中での記憶を全て忘れてしまっていた。俺はその大切なことを忘れて、思い出せないことを悲しく感じた。

 だが、何はともあれ俺はここに帰ってきたのだ。この場所のどこかに、おそらくはこの世界の果てにある海か、その近くにいるはずだ。

 有紗が、ありさが、アリサが。ここにいるんだ。

 俺は顔に笑みを浮かべながら走り出す。すぐにまた彼女に会える。そのことが俺を突き動かしていた。

 走る。どこまでも走る。だが、一向に景色はあの海へと近づかない。それどころか、雨さえも降ってきた。場所によって変わるというこの世界特有の悪天候。大量の鋭い雨。

 俺はこの雨に内心驚いていた。この世界では、雨は全くと言っていいほど降らない。彼女との旅でも手で数えられるかどうかという回数しか雨は降らなかったのだ。

 そんな時、俺の頭を、何かがよぎった。

 待てよ、この風景……この雨、どこかで……。

 覚えがある……?

 そう思った瞬間。

 絶句した。

 まさか、ありえない。ここは……。

 彼女との旅が始まる前、俺がいた場所だ! この世界の始発点。俺が初めてこの世界に来た場所がここだ。

 俺はもっと違う場所にいるのかと思った。旅の終着点である海の近くに。アリサの近くに。だが実際は違った。そんな場所とは天と地ほども遠いこの場所。遠く離れた、俺とアリサが歩いて312年もかかった程遠いこの場所に、俺はいる。俺のご都合主義的な予想を一笑に付すかのように。

 こんな場所にいるのなら、俺は走っても彼女と会うには何十年も先になってしまう。すぐに会えると思っていたのに。

 いや、待て。確か時間制限が無かったか……? 確か……。

 思い出そうとして頭にまた激痛が走る。先程の大安売りで耐性がついていたのか、激痛は我慢出来ない程では無かった。

 無理矢理にでも思い出す。そして、ある数字を引っ張り出すことが出来た。

 ――もう1つの世界で1週間。

 それは、どのくらいだろう。この世界での312年がもう1つの世界では2年。つまり約700日かかった距離を7日でいかなければいけないということ。

 自分で出した数字に愕然とした。時間にして100分の1.速さにすれば100倍の速さでなければ駄目だ。間に合う為には、俺とアリサが歩いて100日かかった距離を俺は1日で歩かなければいけない。その数字は俺の体のあちこちに重くのしかかった。

 泣きそうになる。そんなん、物理的に無理だろ。俺がアリサと会う前に、アリサが死に、この世界は崩壊する。

 どうにもならない。倒れこむ。もう手、足、全てが動かない。

 ここでもか、この世界でも、俺は理不尽な世界に負けるのか。

 体を投げ出して仰向けになる。冷たい雨の中に身を晒したまま目を閉じる。今も頭に思い浮かべるのは、遥か遠くにいる彼女のことだ。

 彼女は生まれながらにして死を運命付けられていた。何故だといっても仕方が無いことだ。それが運命ということ、それが世界っていうことなんだから。

 ……だから? だから、なんだ。

 だから俺は諦めるのか? そういうものだから、そんなもんなんだから、仕方が無いって?

 彼女の命が、人生が、夢が、むざむざ世界にむしり取られるのが、仕方がないと?

 ……思いたくない。そんなの、虫唾が走る。

 ふと、思い出す。

 彼女が良く呟いていた。いつも海を見ていた彼女が。

 独り言のように、

 仕方ないんだ、と。

 

 嫌だね。彼女がそんなことを思うなんて、俺は嫌だ。

 仕方ないなんて思わせない。ごめんなさいなんて絶対に言わせない。

 苛立ちが俺の中で燃え上がる。彼女を救えなかった俺に、この世界を形成してしまった俺に、簡単に諦めてしまいそうになる俺に。そして何より、俺が今ここにいる、俺を生んだ世界に。

 世界が彼女を生み出し、世界が彼女を奪う。親が子供を自由にするように。そんな世界、間違ってるさ。

 けど、良くも悪くも俺はその世界の住人だ。世界のすることには逆らえない。

 それでも、俺は……嫌だ。諦めたくない。

 どうしても世界が彼女を不幸に陥れたいのなら……俺はそれを捻じ曲げてやる。

 俺と有紗を物理的な距離で離したこの世界と、残り1週間という時限爆弾をプレゼントしたもう1つの世界。

 俺は有紗との約束を果たすためにも、この2つの世界に打ち勝たなきゃいけない。

 俺は雨の中、また走り出す。水しぶきを上げ、泥だらけになりながらも。

 微かな彼女の笑顔を頼りに。

 俺は走る。

 走り続ける。

 この世界を。


  *


 もう、どのくらい走っただろうか。そう思いながら、かつて同じことを思ったな、と心の中で気付く。

 走り続けて、あれからゆうに三日は経過していた。

 寝る間も惜しんで走り続けた結果。俺は心身ともにボロ雑巾のようだった。体は濡れた草で転びまくって傷だらけ。頭の中では今も、疲れたろ? もう諦めようぜ、という悪魔の囁きが聞こえている。

 雨はまだ降り止まない。それは俺の二つの体力を奪っていく。

 進んでいくと、道が変わって行った。

 崖だ。その崖の横を、網状の葉をした木々、森が包んでいる。

 下を見ても何も無い。奈落のみだ。以前来た時はこんな場所は無かったはずだ。

 道を間違えた――? とも思ったが、今までが見覚えのある道だったため、その線も薄い。

 ならこれは、この世界の崩壊の前触れか。

 俺は数秒、回り道をするが迷うが、一旦道から外れると、また戻れるか心配だ。

 落ちるかもしれないという恐怖を振り払い、俺は網状の葉の中を進んでいく。葉は雨で濡れていて非常に滑るようになっていた。

 崖は何百メートルも続いていた。俺はこれにもたついているのがもどかしくなり、歩く足を速めていく。それは段々と走るようになっていった。

 そして終わりが見え始めた頃。俺はこれまでにもなく強く葉を蹴り、走った。

 それが間違いだった。

 足が大きく滑り、体が傾く。そのまま背中が葉に激突し、背中までもが滑る。

 落ちる。落ちていく。このまま、奈落の底へと。

 俺は闇雲に手を伸ばした。それは偶然にも、無残に破れた葉を掴んだ。

 俺の落下が重力に逆らい、止まる。ガクンと音がしたように感じた。ひとまずは助かっていた。だが、片手でぶら下がっている状態だ。すぐに代償がくる。

 間に合う為に寝ずに走ったこと。道に迷わない為に回り道をしなかったこと。全てが悪い方向へと傾いてしまった。

 もう体力は限界だ。片腕にももう力が入らない。片手から少しずつ葉が抜けていくのが分かる。

 ここで、先刻から続いていた悪魔の囁きはピークに達した。


 ――辛いだろ? 苦しいだろ? その手を離せば、そんな嫌なものから解き放たれるぜ。


 五月蝿い。黙れ。彼女に会えると思えば、こんなこと、辛い内には入らない。


 ――何言ってんだ。そもそも、会えるかどうかが怪しいんだぜ。もし、このまま何年も走り続けて、結局間に合いませんでした。はい、世界崩壊。ってなったら笑えねえぞ。


 黙れって……言ってるだろ。


 ――確率的に言ったって、間に合うのは絶望的だ。そんなの、お前だって分かってるだろ? 


 ………………。


 ――ならいっそ、手を離してさ。色んなものから解き放たれようぜ。お前の使命感や約束のことも分かってる。でも、それを成し遂げた後でも、どうせすぐに死ぬんだ。そんなの、やるせないだろ。ムカツクだろ? それがこの世界なんだ。お前もこんな世界、嫌ってただろ? この世界を生きてくことに、意味なんて見出せないだろ。

 

 ……そうだ。こんな理不尽な世界。俺は嫌いだ。いつもいつも俺から何かを奪って、そのまま生かせようとする。この世界を生きてくってのは、この世界にあり続けるってことだ。それは、なんて辛いんだろう。


 ――お前の罪悪感だって消えちゃいないだろ? お前が馬鹿な願い事をしたせいで、有紗は人生を全うすることが出来ずに死ぬんだ。周りの人に多大な悲しみを与えてだ。そんなこと、もう考えるのさえ、嫌だろ? ならもうこの手を離してさ、楽になろうぜ。


 ……ああ。

 俺は手に入った葉を離そうとする。手の力をゆっくりと緩めていく。


 ――瞬間、声が聞こえた。いや、何かが見えた。


 俺は目を見開き、その残像を追う。

『……! ……!』

 誰かが何かを叫んでいた。俺に向かって。名前も知らない誰か。いや、俺はこいつらを知っている。知っているはずなのに、何も思い出せない。ただ、その誰か達が、俺に口々に言う。

『……! ……!』

 頭の中を激痛が走る。それは瞬く間に全身に回った。思わず手を離しそうになる。でも、駄目だ。今はこの人たちを、この言葉を思い出さなくちゃいけない。

 ノイズの向こう。俺はそれを見つめる。激痛に耐え、それを引っ張り出す。

 それは――――。


『間違っても死のうなどと思うな!』『あの子を幸せにしてあげてね』『幸せにならんと、許さんからな』『考えろ。彼女の為に何が出来るのか』『彼女との約束……それだけは守り通せ』

 

 『お前は生きていてくれよ。俺たちのために』


 瞬間、俺は崖に飛びついていた。

 不器用な手つきで、垂直な壁に張り付く。体の中心から力を振り絞って、よじ登った。息が荒かった。雨が冷たかった。

 信じられない。見えない何かに突き動かされた。それが先程捨てかけた使命感や約束だと気付くのに数分、かかった。

 もうノイズは止んでいた。ついさっき何を見たのかも、何が頭の中に響いたのも覚えていない。ただ、漠然と俺の中にあった大切な何かが蘇ったのが分かった。

 息が整ってきたころ、俺は立ち上がろうとした、そんな時、

 何かが、俺の胸内ポケットからはらりと落ちた。いつの間に入っていたのだろうか。俺はそれを拾う。

 それは、紫色をした名も知らない花だった。

 これを見た瞬間、また頭にノイズが走る。

『思い出してあげて。彼女の為にも』

 たしか、花言葉は――――。


 《永遠の愛》


 花が、彼女の笑顔と重なった。


 駆け出していた。無我夢中で。さっきまでもう走れないと思っていたのに、何故か、今は体中に力がみなぎっている。

 俺は走れる。まだ走っていられる。この世界を。

 気付けば、雨は少し勢いを失くし、遠い空から一筋の光が差してきた。

 見覚えがある。この光景も。

 俺はその天啓のような光を求め、向かう。丘を登っていく。

 草の上を走る。乾いたそれは、俺の脚に踏み出す力をくれた。空が晴れてくる。それは、俺に進むべき道を指し示してくれた。風が吹く。それは、俺と競い、ライバルとなって励ましてくれた。

 暗雲が晴れ渡っていき、やがて世界がその全貌を映し出す。

 世界が、光で溢れていた。

「……ああ、世界って……」

 こんなにも綺麗だったんだな。

 俺は過去に見たこの景色を、彼女と見た日を思い出す。

 この丘で、彼女と再開し、何百年も旅をした――――。

 この丘が旅の始まり。俺と彼女の新たな旅の始まりだった。

 今ここに彼女はいない。けど、俺は旅をやめない。彼女に会うために、彼女と同じ時を過ごすために、彼女の隣にいるために、俺はまだ、旅をする。

 この世界の果てを目指して。


  *


 目が覚める。吹き抜けてくる風と共に、チューリップの匂いが運ばれてきた。視線を巡らせると、真上にある蒼い空に、小さな太陽。そしてそれを彩る様々な色のチューリップがあった。

 もうかれこれ何年も見ている風景だ。

 ソウ君と別れた後、すぐにここに戻ってきて、それからずっとここにいる。自分でも何故だろう、と思う。

 多分、忘れたくないんだ。想君と過ごした、あの日々を。互いに成長していったあの時間を。

 もうすぐこの世界は消えていく。願い主である想君がここを出て行ってから、止まっていた時計の針が進みだしたのだ。別にもう、生きることに未練はない。300年以上好きな人と一緒にいることが出来た。これ以上はもう、我侭になってしまう。だから、仕方が無い。

 仕方がないんだ。

「なのに、なんでかな……」

 なんで、私の心は。

「ソウ君……」

 あの人の声をこんなにも聞きたがっているのだろう。

「会いたい……会いたいよ」

 ソウ君を帰還の門へ送り出してから毎日こうだ。ソウ君は向こう側で必要とされているんだ、待ってる人たちがいるんだ、と何度言い聞かせても一向にこの想いは止まらない。 送り出した時は私は十分幸せだ、普通の人生よりももっといい日々を過ごせた、と思っていたのに。

 未練がましいったらありゃしない。

 私は正しい行動をした。そして300年以上も生きた私はこのまま滅びを待つ。だからもうソウ君と会えないのは仕方がない。そう自分に必死に言い聞かせ、無理矢理納得させた。

 そう言えば、向こうの世界でも、よくそうしていたのを思い出す。自分の中にある何かが、現状を嘆き、感情が何故だと暴れ狂う。私はそれを、理性で無理矢理納得させたのだ。

 仕方が無い――と。

 むくりと体を起こす。広がるチューリップ畑に、かつての自分ともう1人の少年を垣間見た気がして目をこする。次に見たときには、それは跡形も無く消えていた。

 彼は今、どうしてるだろうか。向こうの世界で元気に暮らしているのだろうか。皆に囲まれて笑っているのだろうか。私のことを考えて心を痛めてくれているのだろうか。

 ――笑っていて欲しい、と思う。私のことで心を痛めて泣いてしまっても、彼にはずっと笑っていて欲しい。

 空を見る。蒼かった。自分の存在よりも遥かに大きいそれに、やはり人の命は儚いものだ、と思わされる。

 私の旅はもうすぐ終わる。世界のあちこちが、少しずつ、見えない程少しずつ、崩れ始めていくのが分かる。空の外殻が剥がれ落ち、海の幕が引いていき、大地が奈落へと化していく。

 ふと、こんなことを思った。


 私の人生は幸せだったのだろうか、と。


 幸せだった、と思う。他の人よりも幸せだと言える自信と思い出を、私は持ってるから。大切な人と出会えた。大切な人とはしゃいで、大切な人と旅をして、大切な人と別れた。私はこの人との記憶があるだけで、泣きたいほど幸せだ。

 ただ、もう1度わがままを言わせて貰うのなら――。

 やっぱり、あの声を、もう1度聞きたい、と思ってしまう。

 今も鮮明に思い出すことが出来る、あの低く、聞いている人を落ち着かせるような声色。あの声で、もう1度、ありさ、って私の名前を呼んで欲しいな。

「アリサぁーーー!」

 そうそう、こんな風に……ってあれ?

「アリ……サぁーーー!」

 これマジで聞こえてない? やばいなー私。妄想癖もここまで来ると末期だよね……幻聴聞くなんて。ああ、これも未練たらたらな証拠だなー。忘れろ、忘れろ。

 だが、その声はいくら頭を振っても、聞こえなくはならなかった。むしろ、段々とそれは大きくなってきた。気のせいか、駆けてくる足音まで聞こえてくる。

 まさか……本当に?

 ゆっくりと……振り向く。

 視界内を隈なく探し、視線を追う。

 遠い草原の中央に、その人はいた。


  *


「アリサ……アリサ……!」

 名も覚えていない花畑の中央、そこに彼女はいた。見るのも懐かしい、記憶通りのワンピース姿で。

「ソ……ソウ君、きゃっ!」

 抱きつく。走るスピードそのままで彼女を抱きしめる。勢いは止まらず、彼女を花畑に押し倒す形になってしまった。

「アリサ……良かった、やっと会えた……やっと……辿り着いた」

 腕の中で彼女の存在を再確認する。だが、腕の中の彼女は、意味が分からないというように首を振り、俺に聞いてきた。

「ソウ君……何で? 何でまたこっちに来たの? もうすぐここは消えちゃうよ。ソウ君も死んじゃうんだよ! なのになんで……? どうして?」

 俺はポリポリと頬をかく。気恥ずかしさからか、自然と彼女から目を反らした。何故今になって恥ずかしさが込みあがってくるのか意味が分からない。今まで恥ずかしい思いはたくさんしてきたはすなのに。

「だって……約束、しただろ」

「約束……って?」

「……俺、こっちの世界にある岩の丘でも言ったぞ」

 彼女が驚きに目を見開く。俺は彼女に呟くように言った。

「……ずっと一緒にいようって約束。忘れて、ないだろ」

「……うん! うん……! 忘れてない……よ!」

 彼女の目に一瞬で涙が溜まる。それを見て俺はなんとなく花畑に体を投げ出した。大きな空を、取り囲む様に花が咲いて揺れている。

「あー……2、3年も走りっぱなしだったから、体が痛い」

 だがこの疲労と達成感は、今までにないほど心地のいいものだった。だが、彼女は俺の言葉をどう取ったのか、何やら慌てふためいて、こんなことを言った。

「あっ! そ、その……ごめ」

「ストップ!」

 俺は手で制していた。彼女は俺の手を見つめてキョトンとしている。

「俺は別に責めてる訳じゃないよ。……それに、こんな時は別の言葉が聞きたいな」

 彼女は俺の言葉に、少し困惑したのち、やがて思い当たったように元気な声で言った。

「あ……ソウ君、ありがとう!」

 極上の笑顔を俺に向けて。

「ほらよ」

 俺は寝転がったまま、片手を彼女に差し出した。彼女がそれを優しく掴む。俺は弱い力で彼女の手を引っ張り、花畑に倒れさせた。

 彼女は小さく悲鳴を上げた後、少し笑った。

 彼女の笑い声は不思議だ。聞いているだけで、心のつっかえが簡単に取れていく気がする。安心できるような、声。まるでゆりかごだ。

 そんな声を聞いてしまったからだろうか。俺は不意に手に力を込め、この空に疑問を放った。

「なあ……アリサ」

 俺の最後で1番の不安。

「俺とこの世界を旅することが出来て、良かったか?」

 俺がこの世界を自分勝手に形成して、無理矢理に彼女を巻き込んでしまった。彼女はどう思っているのだろうか。それが心配だった。

「何言ってるの」

 俺の言葉に、彼女が俺の手を強く握った。

「当たり前、だよ。想君と旅が出来て……ううん、想君とこの世界で出会えて、私本当に良かった」

 胸が、晴れ渡っていくような感覚があった。俺の心を覆っていた霧が、すっかりと晴れていく。

「私は、確かにこの世界を呪ったことがあるよ。でも、……今は感謝してる。想君と、出会うことが出来たから」

 霧の向こう。今は晴れたその道の向こうに、名前も覚えていない誰か達が見える。

「……そうだな」

 俺の視界が、微かに滲んだ。それはこの曖昧な世界に生まれた者の、確かな慟哭だった。

「……でもね、そう思ってもやっぱり残念なことがあるんだ」

 彼女が感慨深そうに呟いた。

「……それは?」

 俺が聞くと、彼女は数秒の後、やがて静かに言葉を紡ぎ始める。

「……ソウ君と一緒に、住んでみたかったなぁって」

 俺は彼女の言葉に、少し絶句した。

 ふと、考えたことがある。何回も。もし俺たちがもっと、いい方向に、幸せな方向に進んでいたら、と。その先、その未来はどうなっていたかと。

「そうだな。結婚って奴もしたかったよな。娘さんを僕に下さいって言葉も言ってみたかったし。……何より、アリサのウェディングドレス姿が見てみたかった」

 綺麗だろうな。シンクのヴェールを着けて、化粧もして、俺が見に行くと、恥ずかしそうにアリサは身をよじるんだろうな。でも、それも俺は可愛いと思えて……。

「うん。私の晴れ姿。ソウ君に見てもらいたかった」

 彼女が遠い夢を追うような口調で言った。

「それで、その後は新婚生活か」

「新婚旅行もあるよ。どこに行く?」

 旅行という単語を聞き、俺はゲッと音を鳴らす。

「もう、旅はこりごりだよ。……でも、行くとしたら海が綺麗な場所に行きたいな」

 正直な感想だった。綺麗な景色を、綺麗な世界を見て回りたい。

「うん、いいよね。旅行から帰ってきたら、子供と一緒に3人で新しい家に住んで……」

「どんな家だ? 森の中にある家か?」

 くまさんとか出てくるのか?

「それもいいけど、湖のほとりもいいよ。どっちみち、田舎に住みたいね。家族でひっそりと」

「そうだな。朝はいつもアリサが俺と子供を起こして、3人で朝食を作って、俺だけパンこがしちゃったりするんだ」

 思わずその光景を思い浮かべて苦笑いをしてしまう。

「仕事と学校に行く2人を私が毎朝見送って」

 ああ、それはどんなにいいことだろう。彼女の為ならば、どんな仕事だって頑張れる気がする。

「休日は皆でバーベキューしたりするんだよな。それでもし兄弟姉妹が欲しかったら妹か弟どっちがいい? って子供に聞いたりするんだな」

 俺的にはアリサ似の女の子がいい。

「それで、私達頑張らないとねって、恥ずかしそうに笑うんだね」

 笑う。そうやって笑いあう。どこまでも、彼女と――――。

「そうそう、それで段々年取っていって…………」

「……ずっと、最後まで一緒にいるんだよね」

 最後まで。ずっと先にある終わりまで。

「……ああ」

 彼女といたい。ずっと、ずっと、どこまでも。

 ずっと彼女の隣にいて、彼女の笑顔を見ていたい。彼女の声を聞いていたい。彼女の手を握っていたい。彼女の温もりを感じていたい。ずっと、ずっと。彼女の側で。

「でも、それも。出来ないんだよね」

 だから、そうアリサが言った時、

「出来るさ」

 自然と、そう口にしていた。

「生まれ変わって」

 俺のことを不思議に見ている彼女に、また、夢を語る。

「またこの世界に生まれ変わってさ、またお互いを好きになろう。そしたら、結婚だって、新婚旅行だって、何だって出来るさ」

 俺の言葉に彼女が息を呑むのが分かった。それと同時に、彼女の不安も伝わってきた。

 俺はそれを振り払うように言う。

「俺、生まれ変わっても絶対、アリサのこと好きになるよ。なんたって俺は、アリサにメロメロだからな」

 俺のおちゃらけた言葉に彼女は笑いながら、

「ソウ君の……馬鹿」

 涙声で、そう言った。

 気付けば空の大半が崩壊していた。蒼い空は次々に光の粒子へと形を変え、そして散っていく。その後はそこに何も残らない。ただの白い空間だ。

 目の前に、いくつもの光が飛び交った。もう、タイムリミットがやってきたようだ。

 体を見れば、所々から俺も光の粒子へと形を変えていっていた。こんなことでも、実感してしまう。俺たちも、この世界の1部なんだと。

「アリサ」

 彼女に呼びかける。愛しい人の名を呼ぶ。

「なぁに、ソウ君」

 彼女の視線が俺へと向く。彼女も、体のあちこちが光の粒子と化し、無になっていた。そんな状態でも、彼女の美貌は変わらず、美しい。

「あの花、まだ持ってるか?」

 それだけで彼女は察したらしく、懐から紫色の花を取り出した。

 俺も内ポケットから同じ花を取り出して、空――いや、もはや何もない頭上へと掲げる。

 彼女も同じようにした。2人の手が持つ二人の花が静かに触れ合う。

 ――この花の花言葉、まだ覚えてる?

 声でない声を聞く、もはや俺の体は花を支える腕だけとなっていた。だが、聞こえる。見える。彼女が。彼女の存在が。

 ――ああ、覚えてるよ。

 視界が段々と狭まっていく。白くなっていく。周りの花も、空も、大地さえも全て消えていた。それでも、俺は、俺たちは今をこの世界に刻み続ける。今この世界が終わりを迎えようとしていてもそれは変わらない。

 ――じゃあ、2人で花言葉、言よっか。

 彼女の言葉。思考までもが白くなっていく。消えていく。記憶さえも。だが俺は、この1つだけは最後まで覚えていた。愛しい人の、顔や名前を、思い出せなくなっても。

 ――せーのっ。

 2人の声が、静かに重なった。


 The world to be continued


 少年がいた。草原に寝そべって空を見ている。

 年は私と同じ15、6歳といったところだろうか。

 不思議な少年だった。

「何してるの?」

 思わず話しかけていた。

「んー。……空を見てる」

 少年はこちらを見向きもせずに答えた。

「いや、見れば分かるけど……」

 私の言葉に、少年は意味が分からないといった様子で、またんー、とのどを鳴らした。

「……なんで、空を見てるのかって」

 私が少し唇を尖らせて言うと、少年は何も言わず、寝そべっている自分の横を指差した。

「……何よ」

「あんたもしてみればわかる」

 その言葉を咀嚼した後、疑心を抱えたまま、とりあえずやってみることにした。

 寝そべる。草原のベッドに体を委ねる。

 風が私の長い髪を揺らした。何故か太陽の匂いさえする。

 蒼かった。空一面が。

 雲1つない快晴。それが目の前に広がっていた。

「……な?」

 少年が簡素に問いかけてくる。

「……うん」 

 なんとなく、分かった気がした。

 彼が、空を見ていた理由。

 空が蒼いから、とかそんな理由なのだ、多分。

「ねえ」

 私の問いかけにも、彼はまたんー、と気のない声で返事をする。

「君、名前は?」

 ここで初めて、彼は私を見た。驚く。透き通るほど綺麗な瞳をしていた。

「……人の名前を聞く時はまず自分の名前を名乗るもんだろ」

 だが、性格と瞳は関係ないな、とこの時ほど思ったことはなかった。

 この人明らか普通じゃない非常識な人間の癖に常識持ち出して来たよ。

 ……でも、まあいいか。そんな小さいこと。

 そう、この空に比べたら、私達人間の人生なんてちっぽけだと思う。

 ちっぽけだからこそ、精一杯、今を生きるんだ。

 この、私達の人生を。

「私の名前はねー……」

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