第19話


 あんなに強く燃えていた虫は、すでに火が収まって虫の消し炭が積み上がっていた。集まってきていた使用人達は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。逃げたのだろう。

 サナギから孵ったものが想像と違い、ダークは悔しさで震えた。

「一体なんなの、それは」

 マリーの体を覆っていた光は消えた。羽だと思っていた光は跡形もない。

「わからない。でも、たぶんフランクライヒが助けてくれたのよ」

「へえ、意外と役に立つのね」

「ご先祖様に、ずいぶんな言い方をするわね」

 マリーがジジの体をギュッと抱きしめようとするが、力が入らない。

「せっかく生き延びたけど、状況が良くなったわけじゃないわね」

 力なく笑うマリーを見て、強がっているのがわかった。

「私が出来るのは、もうこれくらいね」

 そういうと、マリーがダークに向かって中指を立てる。

「挑発するのはやめなさいよ」

 ジジが笑った。いつものジジに戻ったな、とルルはホッとした。

 どの口が言うかーーそう言いたかったが、マリーも笑った。

 ジジは優しくマリーを寝かせると、ダークに向き直った。その目は殺意に満ちていた。

「貴方、殺すわ」

 改めて言う。

「やってみたらいいじゃない」

 ダークがにやけた笑いを口元に浮かべた。

 マリーは思い出した。そうだ、この女はトーデストリープ(死にたがり)なのだった。この女は昔から、何度も自殺未遂を繰り返しては周囲を困らせていた。この女に関する記憶が少ないのは、自殺未遂をする度に長期で休んでいて、最後は卒業できなかったからだったのではなかったか。

「この世界はもうすぐ終末を迎えるのよ」

 さらに終末論者へ成長していたとはタチが悪い。マリーは舌打ちをした。この手の奴らは定期的にわいてくる。叩き潰しても叩き潰しても、虫のごとくわいてくる。

 まさに、ダークにはうってつけの思想だ。虫女が虫のまねをしているのだ。

「もういいわ」

 ジジが静かに吐息をついた。

「貴方がしたいことをやってみたらいいじゃない」

「ジジ様、おやめください」

 ルルが慌ててジジを嗜めようとする。誰だってわかる。ダークはジジを殺したいのだ。

「良いの。貴方は離れていて。あの子の目標はワタクシなんだから」

「やめてください。ジジ様が死ぬなら私が」

 ジジがルルの目の前に掌を出す。

「ワタクシにお任せなさい。今まで、ワタクシが失敗したことがあって?」

 ジジが微笑む。この美しい微笑みを、ルルは他に知らない。主従関係に依らず、この人を守りたいとルルは心の底から思っている。

「何か、策があるんですか?」

 ルルが尋ねると、ジジは頷いて胸に手を置いた。

「グロスアルティッヒがね。言うのよ」

「何を?」

 ルルには訳がわからなかった。しかし、マリーには彼女が言っていることがわかった。きっと、国の英霊は、それぞれの性質に合った心からの願いに呼応するのだ。

「大丈夫よ」

 マリーがルルに向かって頷く。それを見て、ルルは渋々引き下がった。

「わかりました。でも、貴方が死んだら私も死にます」

 ジジが頷く。その瞬間、その微笑みが真っ黒な虫に覆われた。

「何を女同士で乳繰り合ってるのよ。貴方たちが死ぬ運命は変わらないわ」

 ダークがつばを飛ばす。

「ジジ様!」

 ルルが叫ぶ。

「やめなさい」

 虫の中に突っ込んでいきそうなルルを、マリーが止めた。

「止めないでください」

「馬鹿。貴方の飼い主の命令が聞けないの? ジジは貴方になんて言った?」

 ルルがマリーの瞳をじっと見る。マリーは、ルルのこんなに弱気な瞳を見たのは初めてだった。

 ルルは震えながら頷く。その間にも、虫はジジの体を覆って行く。まるで自分の体が犯されているみたいに耐えられない。

 ジジの体が虫に覆われたのを見て、ダークが大きな声で笑う。あの女はこんなに大きな声で笑えたのか。マリーはダークを見上げて唇を噛んだ。ジジは嫌なやつだったけれど、死なれては困る。それでも、心配はしていなかった。胸の裡にフランクライヒの存在を感じる。

 ルルはとうとう我慢が出来ずに虫をかき分けた。どれだけかき分けても、ジジに辿り着かない。手に伝わる感触が気持ち悪い。それでも手は止まらない。

「無駄無駄。あの女は虫の餌になったのよ」

 ダークの高笑いが止まらない。

「お似合いだわ。あんなに高慢ちきな女だったのに、最後が虫の餌だなんて」

 ダークの笑いがひときわ高まったとき、唐突に虫がサッと引いた。

「何?」

 ダークの顔が曇る。

 虫の塊の中から出てきたのは、ジジだった。顔や露出した肌が火傷のようにただれている。

「ジジ様!」

 ルルが走り寄った。

 ジジがニヤリと笑う。火傷はともかく、目立った怪我はなさそうだ。

「どうして」

 ダークが狼狽えた声を上げた。

「貴方は虫使いの能力。じゃあワタクシは?」

 ジジが笑う。手にはアトマイザー。ジジがアトマイザーの頭を押し込むと、そのたびに虫はジジから遠ざかろうとした。

「毒使い……?」

 ダークが唇を噛んだ。学生の頃、毒の実験台にされた苦い過去を思い出す。

 ダークの操作が切れたのだろうか、虫はそれまでの統率のとれた動きをやめて、好き勝手に動き出した。

 見ると、気持ちの悪いことに、一匹の虫の羽の裏あたりを、もう一匹に虫が舐めている。舐められている方の虫は、夢中になって舐めている虫と交尾している。あれは、雄が甘い汁を出すことで雌を夢中にさせている内に交尾するシステムなのである。ダークの操作が途切れたことで、虫の本能が復活したのだ。

 地獄のように気持ち悪い光景である。

「破廉恥な虫ね。あの女にそっくりだわ」

 ジジがそう言ってあざ笑う。

 ダークは髪の毛を掻き毟った。長い髪の毛が両手いっぱいに抜けた。それを見て声にならない声を発する。

 虫たちの動きが止まった。再びダークの支配が始まったのだ。

 虫は震え始めたと思ったら、重なっていった。見ている内に、虫は寄り集まって巨大なひとつの虫になった。

「気持ち悪い」

 マリーが呟く。

 ダークの声は、もはや人間のものには聞こえない。虫笛だ。

「ルル、あれを取ってちょうだい」

 ジジがルルに向かって手を差し出した。

 ルルが篝火の中に松明を突っ込んで火をつけた。いつの間にそんなものを手に入れていたのだろうか。

「そんな小さな火で、このサイズの虫と戦えるかしら」

 ダークが鼻で笑う。

 ジジは彼女のことを無視して、アトマイザーを取り出した。虫を撃退したやつだ。

「そんなもの、どうするつもり」

 ダークはまだ余裕の表情だ。ジジはアトマイザーの中身を松明に振りかけた。そして、それをルルに手渡す。

「思い切り投げて」

「合点承知」

 ルルが虫に向かって思い切り松明を投げつける。その瞬間、ダークがまた金切り声を上げる。それに呼応するように、虫は松明を避けた。あんな図体で、よく動けるものだ。

 ダークがホッと息をついた瞬間、城の中から叫び声を発しながら黒い塊が走ってきた。ギョッとしてみていると、それは落ちた松明を拾って虫の塊へ投げつけた。その勢いで、黒い塊は霧散した。黒い塊の中から出てきたのはバトラーだった。獣のように吠えている。バトラーの咆哮だったのだ。

「貴方、生きていたのね」

 バトラーは振り返り、歯を剥き出して笑った。虫に食い破られた体はピンク色の肉が見えていた。

 バトラーの投げた松明は、虫に当たった。その瞬間、虫はバラバラに散っていった。もはや、どんなにダークが声を上げても虫は戻ってこなかった。

「マリー様!」

 バトラーがほとんど裸の状態で走り寄ってくる。肉が見えているのは良いが、下半身にグロテスクなものがぶら下がっているのが見えて総毛立った。

「こ、こないで! 生きていたのはよかったけれど、それ以上近寄らないで!」

 マリーに拒絶されたバトラーはシュンとした顔をした。

「さあ、観念なさい」

 仰向けに倒れているダークにジジは歩み寄った。この世の憎しみを煮詰めたような顔で、ダークは空を睨んでいる。

 ジジがダークの額をピンヒールで踏んだ。ダークが「ギャ」と悲鳴を上げた。

「やめてください」

 走り寄ってきたのは、弟のリブスタである。今まで隠れておきながら、よくのこのこと姿を現したものだ。

「貴方、今までどこにいて?」

 尋ねるも、リブスタは首を振るばかりである。

「人畜無害な顔をして、貴方、本当は全部この女に背負わせて逃げているだけではないの?」

「まさか……僕はいつも姉を支えて……」

「いつも、この女が言うことを伝達するだけで、肝心な時は隠れている。貴方の意見も力も、何一つこの女のために使っていないじゃないの」

 ジジがダークの額から足を上げて、リブスタの綺麗な頬を蹴った。

「それが支えているといえるのかしら?」

「だって、それが弟の役目でしょう」

「役目ですって? それは貴方が勝手に決めているだけじゃないの」

「勝手にだって?」

 リブスタはジジの足を振り払って立ち上がる。

「こんな社会不適合者の姉が次期国王で、それを支えなくちゃいけない僕の気持ちがわかりますか?」

「ひどい……」

 ダークが呟く。それを無視してリブスタが続ける。

「この人を女王にするために、僕がどれだけ自分の人生を犠牲にしてきたか。この人は僕がいないと何もできないんですよ」

「貴方のお節介が、そうさせているだけではなくて?」

「そんなことない」

「放っておいたら良いのよ。そんなに嫌なら、放っておいて野垂れ死させたら良いじゃないの」

「ひどい……」

 ダークが何度か呟いているが、誰も彼女に気を払わない。

「それができたらどれだけ良いか……貴方だって知っているでしょう?」

「地下のこと」

 彼らが言っているのは、例のカギを使った先にある部屋のことだろう。スウィーテンが選んだのがダークだったということだろう。

「そうですよ。僕が選ばれたなら……何度そう思ったか知れません」

「それでも、あの女が死ねば次は貴方が選ばれるでしょう」

「ひどい……」

 ダークは腕で両目を覆った。

「そんな……だって、実の姉ですよ」

「それがどうしたの。ワタクシ達王族は、幼いころからそんな競争には慣れっこじゃない」

 マリーにも覚えがある。ほかの王族や貴族に恨まれる日々。

「だからって……姉は別です。僕はこの人を支えたい」

 リブスタがダークを助け起こす。

「リブスタ」

 ダークはリブスタを見た。

「不細工ね。早く顔を洗っていらっしゃい」

「許してくれるの?」

 ダークがジジを見上げた。まるで神でも見るみたいにキラキラした瞳だった。

「それとこれとは別」

 ジジがピシャリと言い放った。

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