第17話


「書簡は届いているはずね?」

 三人はゆったり座れるソファに、ジジは一人で深く体を沈めた。リブスタが向かい合って座っている。ダークはリブスタのソファの後ろに隠れていた。

「ええ」

 相変わらずリブスタは笑顔である。

「返事は?」

 ジジがイライラしたように指を膝でトントンと叩いた。

 リブスタの後ろから何か聞こえる。それに対して、リブスタはうんうんと頷いた。

「嫌に決まっているでしょう。貴方たちに、私がどれだけ嫌がらせをされたと思っているの、と姉は言っています」

「はあ?」

 思わずジジが声を上げた。

 ジジには何も思い当たることがなかった。ほんの少し、ダークのことを汚いだの臭いだの言ったことはあった。たまに蹴ったこともあったか。食事に毒を入れたり虫を入れたこともあったような気がする。でもそれだけだ。

 今すぐにソファに後ろに回って、ピンヒールで顔面を踏みつけてやりたい気持ちを抑えて、ジジは目をつぶった。深呼吸をして、七秒数える。アンガーマネジメントである。どうだ、大人になっただろうと言いたい気持ちを抑えて、ジジは目を開けた。

「知らなかったわ、ダーク。貴方がワタクシ達のほんの遊びをそこまで不愉快に思っていたなんて。謝るわ、悪かったわね」

 猫なで声とは裏腹に、こめかみに血管が浮いているのが見える。今にも飛びかかりそうだ。とはいえ、ジジの成長にマリーは感心した。昔の彼女なら、たとえほんの少しも思っていないことは言えなかった。ブフ王が行方不明になって、王族としての自覚が芽生えたのかもしれない。

 ジジは立ち上がり、ソファの裏に回ってダークに向かって手を差し出す。ダークの顔を真正面から見たのは久しぶりだった。脂ぎって鬱陶しい前髪。見ているだけで悪臭がしてくる。

 しばらくダークはその手を見ていたが、おずおずとジジに向かって手を伸ばした。

 ダークも成長したのだな、とマリーは感動した。もはや、我々は国の頂点に立つ。つまり、この大陸の頂点である。これから自分たちがこの連合国をより良い国へーー。

「なんて謝るはずないでしょう。バカね!」

 差し出された手を掴むと、ジジはダークをソファの陰から引き摺り出した。倒れ込んだダークの頭に足を乗せる。ピンヒールが頭頂部に刺さって痛そうだ。

「あちゃー」と声を出して、マリーもルルも目をつぶって天井を仰いだ。バトラーは笑っていた。

「なんでこのワタクシが、貴方如きに謝罪をしなければならないのかしら。貴方、いつからそんなに偉くなって? ねえ、聞いている? 聞こえているのかしら? その耳は耳垢で塞がっているのかしらぁ〜?」

 慌ててリブスタがジジからダークを引き剥がす。ダークは奇声を上げてソファの後ろに隠れた。

 彼女が成長したなんて思った自分がバカだったな、とマリーは反省した。あの女は女学生の頃から何も変わっていない。それどころか、子供の頃からずっとだ。ずっと子供のままなのだ。

 ダークからジジを引き剥がした瞬間、リブスタは吹き飛んだ。何が原因だったとしても、ジジに触れたリブスタをルルは許さない。リブスタはルルに蹴られて吹き飛んだのだ。

「ジジ、ルル、貴方たち、やりすぎよ」

「うるさいわね、ワタクシに意見しないでちょうだい」

 ジジがマリーを鋭く睨む。

「それとそこの貴方。気持ち悪い声を出さないでちょうだい。耳が汚れるわ」

 ダークはリブスタにすり寄って、悲鳴とも奇声ともつかないような声を上げ続けている。

「大丈夫だよ、姉さん」

 リブスタが彼女を犬を撫でるみたいに撫でた。

「やめてください。どうしてあなた方は姉にそうやって嫌がらせばかりするんですか」

 リブスタが泣きそうな顔でジジを睨みつける。

 あなた方、と言ったかーーマリーは何もしていないのになと言いたかった。

 マリーも、学生の頃は少しばかりダークにちょっかいを出したことがあるのは認める。ちょっと針で刺したり、逆さづりにしたり、拘束したまま放置したりしたことがあった。でもそれだけだ。ジジよりずっとマシだと思っていた。

「誰に向かって口を利いているのかしら」

 ジジがリブスタの目の前まで歩いて行って見下ろす。彼女の足音は、明確に怒気を孕んでいた。

 そうだ、すでにここにくる前、いや、フランクライヒに来る前から彼女は怒っていたに違いない。それをここまで我慢していたのだ。ダークを痛めつけるために。

「バカにしないで!」

 唐突にダークが叫ぶ。ガラガラに割れた酷い声だった。

「殺してやる」

 半狂乱になって、ダークは袖から何か出した。刃物かと思って、ルルとバトラーがそれぞれジジとマリーを庇うように立つ。しかし、ダークの手には何も握られていない。バトラーの眉毛がピクリと動く。何か嫌な予感がした。数秒後、視界の隅を黒い何かが動くのを見た。

 なんだ、と思ってマリーが黒い影を目で追った。

「あれは……」

 虫だ。

 マリーは思い出した。ダークは虫使いなのだ。

「もしあなたたちが犯人を捕まえるというなら、私は犯人の味方になってやる。お前たちを全員殺してやる! こんな国、滅ぼしてやる!」

 獣のような表情で、ダークは叫んだ。

「ちょ、ちょっと。やめなさいよ。私たちは、何も喧嘩しに来たわけじゃないのよ。貴方を説得しに来たの」

 マリーが言う。しかし、怒りに支配されたダークの耳には届いていなかった。

「貴方のお父様だってやられたのでしょう」

 一瞬、ダークの動きが止まった。効果があるのだ、とマリーが次の句を継ごうとしたとき、グルリ、とダークの首が回ってマリーを見た。

「あんなクソ爺一匹死んだところで、なんとも思わないわよ」

 彼女の声が、だんだん別の声に聞こえてくる。

「マリー様」

 バトラーの声にハッと我に返った。いつの間にかマリーは膝をついていた。一歩後ろに下がったとき、小さな虫がマリーの足の下に滑り込んで潰れて虫の体液で滑ったのだ。

 ダークの奇声だ。あの声は虫のような小さい生き物の神経を操る。それに、彼女が虫を操る手法はもう一つあったはず。あれはなんだったかーー。

「マリー様、走って」

 バトラーの声で顔を上げると、大量の虫がこちらに向かって走ってくるところだった。背筋がゾクッと震えた。生物的な本能が逃げろと警告している。記憶を辿るのは後にしなければ危ない。虫に食われて死ぬなんて真っ平である。

 無数の小さい虫がやってくる。バトラーはマリーに近づいてきた虫を踏み潰したり叩き落としながら、マリーを守って逃げる。バトラーの顔や手から、血が流れていた。

 流石のルルも、虫には弱いようだ。青い顔をして逃げていた。いつもの軽口も聞こえない。彼女はジジを担いでいるが、ジジはルルに担がれながらも、ダークを睨みつけていた。

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