第8話


 暗い廊下に、靴音が響く。カツンカツンとよく響くので、この廊下を歩くのが好きだった。

「待て」

 不意に声がかかる。振り返ると、ルルだった。

「おや、これは騎士様ではないか。我が姫は無事だったのかい」

「もっと、心配そうに言えないのか。嘘がバレるぞ」

 ルルはフィリップを睨みつける。いつも通りの爽やかな笑顔。もし、今二人を見た人がいたら、喧嘩とは思わないだろう。

「嘘とは心外だな。僕が君になんの嘘をつくと言うのだい」

 廊下に光を投げかけているのは、油に火を灯した照明だ。その炎が揺れて、フィリップの笑顔に影ができる。不気味に見えた。

「あんた、その手に持っているのは何?」

 フィリップは、今気づいたという風に、自分の手を見た。瓶が握られている。ジジの部屋に並んでいるものと同じものだ。

 フィリップはクスクスと笑った。

「なにがそんなに可笑しい」

「いや、別に。君に答える義務はないだろう。僕を誰だと思っている」

「フィリップ様だろ、馬鹿野郎」

 ルルはフィリップに飛びかかった。手には匕首が握られている。ルルが最も得意とする暗器だ。

「物騒だな。僕がこのことを国に帰って報告したら、君は即処刑だぞ」

「構うもんか」

 本気で殺すつもりだった。しかし、フィリップはルルの手を掴んでその攻撃を止めていた。ルルが力を入れてもびくともしない。女とはいえ、男にも負けないだけの鍛錬を積んでいる自信があった。

「あんた、普通に喋れるんじゃないか。普段からそれくらいの声量で喋りなよ」

 ルルのこめかみに汗が滲む。次の瞬間、骨の折れる鈍い音。

 ルルは低い声でうめいた。

「脆いな。それでよく護衛などと言える」

 おかしい。強すぎる。フィリップはこんなに強かったか。ルルが記憶を巡らす。それにおかしい。護衛も連れずに、どうしてこんなところを一人で歩いている。

 誘い込まれたーー?

「あんた、何者だ」

「さあ、なんのことだ」

「どうして、こんなことをする」

「さあ、どうしてだろうね。我が姫は毒がお得意のようだから、ちょっと真似してみたのさ。どうせ、死なないと思ったし。でも、危なかったみたいだね。どれくらいが適量がわからないから、入れ過ぎてしまったみたいだ」

 フィリップがゆっくりと近づいてくる。

「なあ、僕を殺すかい? 君ならできるだろうな」

 フィリップがルルに顔を近付いて囁くように言う。

「僕が本物のフィリップであれば」

 不用意に近づいてきたフィリップにルルは残った左手で拳を見舞った。しかし、フィリップはまるで柳のようにそれをかわし、カウンターでルルの顎に拳をめり込ませた。

「我が姫によろしく伝えてくれたまえ」

 フィリップが高笑いをした。ルルの意識があったのはそこまでだった。




 その日、長く続いた連合国の平和が突然終わった。正体不明の敵に、王族が襲われたのである。

 悲報が国中に広まるのに、時間はかからなかった。

 ブフ王は外遊先で何者かに襲われ行方不明になった。生きているかどうかさえ不明である。同行していた召使いや護衛の騎士は全員遺体が確認されたが、ルルの父の遺体は見つからなかった。同時に、スパニエン国でもフィリップ王子が襲われて、いまだに意識が回復していない。

「一体どういうこと? 私が会ったのは誰だったの?」

 ジジは新聞を投げ捨てた。新聞の報道を信じるならば、ジジがフィリップに会っていた頃、本物のフィリップは自国で生死の境をさまよっていたことになる。

 フィリップも重体だが、ジジも顔色はいまだ悪く、寝台から動けないでいる。真っ白な顔に、目の下のクマは病状の悪さを物語っていた。

「私達、同時に襲われたということ? 父は? 他の王族は無事なの?」

 ジジが金切り声を上げた。女中も怖がって近寄らないので、ルルが世話をしている。しかし、そのルルも手首が折れている。満足に世話をすることが困難だった。

「落ち着いて、ジジ様。今確認しているところだから」

 ジジが投げ捨てた新聞を拾って、ルルは机に乗せた。その新聞を見て、ルルはあの日のフィリップの偽物のことを思い出す。なめてかかったからだ、と自分に言い訳をする。とはいえ、一撃で意識を刈り取られた。不甲斐ない。父に知られたら殺されてしまうかも知れない。

 情報によると、他の王家も襲われたらしい。三人の王はいずれも重体である。その中で行方不明なのはブフ王だけである。四大王家の子息たち、すなわち王子や王女も襲われたが、フィリップを除き、あとの全員は軽傷で済んでいた。ジジは自分のことを軽傷だとする報道にも怒っていた。

「まったく、私がいちばんの被害者よ」

 ジジは小さな声で呟く。

 自分がマリーにしたことはすっかり忘れているようだ。このことをマリーに知らせたら小躍りして喜ぶに違いない。手紙で知らせてやろうか、とルルは思った。

「最近、町でおイタしているっていう賊が犯人かしら」

「それもまだわかりません」

「もうっ、何もわからないじゃない」

 ジジが金切り声で叫んだ。

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