第7話


「一体、何なのかしらあの男」

 ジジは未だ怒りが覚めない。もし、政略結婚がなされても、あの男とは別居しよう。一緒にいなければならないと考えるだけで気が狂いそうだ。別々に暮らしてもらって、あの男には何人か女をあてがっておけば良いだろう。間違っても、自分に触れてほしくはない。世継ぎは人工的に作れば問題ないだろう。

 それにしても――晩餐会なんて聞いていない。

「私の手帳には書いてあるから、ジジ様は聞いていなかったのでしょう」

 ルルがスーツの胸ポケットをトントンと叩く。そこにはいつも手帳が入っていた。

 ルルが来ているスーツは男物であるが、とても良く似合っていた。ルル自身もまんざらではなく、自分なりにデザインをアレンジしている。女性らしい胸部の凹凸がないので、知らない者には男に間違われることもしばしばである。

「憂鬱だわ」

 ジジは深いため息をついた。

 時間になると、重たい足取りで食堂へ向かう。ちょっとしたパーティにも対応した広々とした食堂だったが、食事は二人分しか用意されていなかった。

「ブフ王は?」

 給仕係の女中に尋ねると、「ブフ王はどこかへお出掛けになりました」と答えた。最初からそのつもりだったに違いない。

 まさか、本当にあのフィリップとの縁を早急に結びたがっているのではないだろうか。今の所、婚約はしているものの、結婚の具体的な日取りなどは決まっていない。通例として、成人してからとなるが、来年には成人である。まだ一年以上の猶予はあると思っていた。

「おお、我が姫」

 すでにテーブルについていたフィリップが立ち上がった。ジジの椅子を引こうとしたが、ルルが先にその役目を担った。目線でフィリップが邪魔だと伝えると、ルルはジジの後ろに立つ。いくら二人の仲が良くても、ジジとルルは仕えらるれものと仕えるものだ。ジジと同じ食卓にはつけない。

「今夜はブフ王のはからいで、君と二人きりのディナーを楽しめるようだ」

 フィリップは満面の笑みで、ぶどう酒を掲げた。グラスの中でぶどう酒が踊る。

「乾杯」

 フィリップがぶどう酒を一気に飲み干す。ジジは早くこの場から立ち去りたかった。

 ジジの前にもぶどう酒が注がれていた。同じ形のグラスを、ジジは静かに持ち上げて口に運ぶ。

「乾杯というのは、もともと、お互いのグラスを打ち付けて、その中身がはねて相手のグラスに入っても大丈夫であると証明する儀式だったらしい。毒は入っていないと証明するためにね」

 フィリップが空になったグラスを持ち上げると、女中がボトルから注いだ。

 ジジは口をつけた瞬間、違和感を覚えた。それは人間の本能が備えている最大級の警報だった。すぐにグラスから口を離したが、遅かったらしい。

 ジジの様子がおかしいと最初に気付いたのはルルだった。七面鳥が絞められたときのような声が、ジジの喉奥から漏れ出る。

「どうしましたジジ様」

 ルルが声をかけるのと同時に、ジジは食卓に乗っていた皿をすべてなぎ倒すようにして倒れた。

 ルルの声が遠くに聞こえる。これは神経毒だ。この感覚には覚えがある。それに、盛られた毒の量は致死量に違いない。マリーに盛ったような、いたずらのレベルではない。極めて殺意の強い量を感じる。

「ジジ様!」

 ルルがジジの体を揺するが、ジジは感覚がない。口の中から泡があふれ、カニのように吹き出す。

 フィリップが卓の反対側から覚めた目でその様子を見ていた。女中が慌てて厨房へ人を呼びにゆく。

 これはマリーの仕返しだろうか、とジジは考えていた。もちろん、冗談である。これは彼女のやり方にそぐわない。彼女なら、もっとじわじわ痛めつけるだろう。こんな量の毒ではすぐに死んでしまって面白くない。

 フフ、と笑ったつもりだったが、実際は焼けた喉から血を吐いただけだった。こんな時でさえ、ジジは冗談を考えてしまう。なぜなら、この毒の解毒方法を知っているからだ。自室までたどり着ければ、それが可能である。もしたどり着けなければ――つまり、何者かによる妨害があれば――自分は死んでしまうだろう。

 ジジはフィリップを睨みつけた。フィリップは落ち着いた様子で、ジジに向かってグラスを掲げた。

 そういうつもりか――ジジは血走った目でフィリップを睨み付けると、力を振り絞って立ち上がった。

「我が姫、すぐに医師が来る。安静にしていた方が良い」

 フィリップが心配そうな顔で言う。ルルも同じように、ジジをたしなめた。

「違う」と言いたかったが、ジジは声が出せなかった。

 なるほど、ルルが妨害するように誘導するのか。ジジではルルに敵わない。ただでさえ、動くのがやっとの状態である。ルルに押さえつけられたら指一本すら動かせないだろう。

 ジジは辛うじて動く口をパクパクと開いた。

「何か伝えたいことがあるんですか?」

 ルルがジジの口元に耳を近づける。しかし、ジジは声が出せない。この神経毒は、意識は保つが、何も意思表示出来なくなる、拷問用の毒だった。マリーにプレゼントしようと思って作ったのだ。それが仇となるとは、皮肉なものだ。

「何ですか? 言ってください」

 ルルの声がうるさい。もし体が自由に動くようになったら彼女のことを殴ってやろうと思った。

「ダメだ、声が出せないみたいだ」

 ルルは焦って辺りを見回す。フィリップと目が合った。彼はわざとらしく心配そうな顔をして、こちらを見ていた。

「神経毒だな。彼女は毒のエキスパートだろう。間違って口に入れてしまったんじゃあないか?」

 頭が痛くなるほどの大声。今の状態のジジにとっては凶器のようなものだ。耳を伝って脳髄を痛めつける。

 それに、馬鹿を言うなーーそんなミスを犯すはずがないだろう、とジジは睨みつける。

「待っていられない、医者を呼んでくる」

 ルルは椅子をいくつか並べてジジを寝かせると、部屋から走り出ていった。

 こんなところにフィリップと二人きりにしないでーージジは叫びたかった。

 ルルがいなくなった食堂で、待ってましたとばかりにフィリップは立ち上がった。

「我が姫、お可哀想に。こんなことになってしまうなんて」

 ジジは近付いてくるフィリップをにらみつけた。

「おお、怖い。警戒しなくても大丈夫。僕は紳士だからね」

 その顔はまるで知らない人間のように見えた。自分の知っているフィリップではない。

 あれは誰ーー?

 ジジは混乱している。ただでさえ、毒のせいで頭が回らない。幻聴も聞こえてくる。亡き女王の声だ。彼女の口癖だった『グロスアルティッヒの福音書』の一節。「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます」

 ああーー神よ。いるのならば私の声に応えて欲しい。もし、いるのならば。

 柄にもない。人生で神の存在など信じたことはない。その自分が、こんな時だけ都合よく神に助けを求めている。毒に侵されていなければ笑ってしまうところだ。

 涙と鼻水で呼吸が苦しい。口からだらしなく唾液が溢れてしまう。涙なのか鼻水なのか唾液なのかわからない混合液が首筋を伝う。とても気持ちが悪い。その様子を、フィリップが見下ろしている。逆光で表情は見えない。彼はどうして突然、このような暴挙に出たのだろう。いや、彼がやったとは限らないが。この毒を手に入れられるのは、限られた人間だけだ。ジジの部屋から持ち出せる人間だけだ。

 使用人の仕業だろうか。それは不可能だろうと考える。何故なら、この毒物を貯蔵してある部屋の存在は、使用人には話していないからだ。ジジの秘密の実験室なのだ。

 その部屋の存在を知っているのはーーそこに考えが至った時、視界の端にルルが見えた。

「ジジ様」

 城のお抱え医師が後ろをヨタヨタついてくる。ダメだ、あの医師ではこの毒を判別することは出来ない。

 震える指先を、やっとの思いで持ち上げる。あの実験室に行くことができれば解毒薬があるはずだ。ルルなら気づいてくれるはず。いや、ルルが犯人だとしたら、気付かないふりをーーそんな馬鹿な。ルルが裏切るはずがない。

「おお、我が姫。どうしたんだい」

 ジジが持ち上げた手を、フィリップが両手で包んだ。指先は彼の手の中に隠れてしまった。

 もうダメだ。医師がジジの体をまさぐって首を傾げる。

 やめろ、私に触るなーー。

「ジジ様」

 ルルの目の縁いっぱいに涙が溜まっているのが見える。あの気丈なルルが涙を流すところを見た最後はいつだろう。やはり、彼女が犯人であるはずがない。

 徐々に意識が混濁してくる。

 きっと、もうダメだろう。

 先程、頭をよぎった考えをジジが振り払うように頭を振る。

「あんた、気安くジジ様に触らないで」

 ルルがフィリップの手を払った。

「あれ?」

 ルルがジジの指の形に気づいた。

「ちょっと失礼」

 ルルは医師を押し除ける。一瞬深呼吸をすると、唸るようにジジを持ち上げた。拍子抜けするほどジジの体は軽い。勢い余って放り投げてしまいそうだった。ルルも同じように混乱しているらしい。ジジの体がどれほど軽いのかわかっていたはずなのに。それでも、走って部屋を飛び出した。

「頑張って、ジジ様。すぐ助けるよ」

 ルルの涙が、ジジの頬に落ちた。


 ルルは幼い頃、初めてジジと会うまで、気に入らない女だと思っていた。どうして、この女のために自分の人生を捧げなければならないんだ。生まれた場所が違うだけで、こうも格差があるものか。

 同い年でありながら、身長はルルの方がずっと大きかった。ジジは同じ年代の中でも小さい方だったから、まるで姉と妹ーーいや、男らしいルルは兄で、可愛らしいジジは妹のように周りの目には映った。

 初めて会ったジジは、物怖じしない子供で、体格差があるのに、いつでも挑戦を受けて立つといった生意気な子だった。その様子が可愛くて、ジジに抱いていたどんよりとしたモヤモヤはなくなった。それどころか少し好きになった。

 ルルはジジの護衛だったはずだが、ジジは自らに降りかかる火の粉は払う主義だった。学校でも、出自を妬まれて嫌がらせを受けることが多かったが、一度だって折れたことがない。ルルが守らなくても、彼女は自身の力で目の前の悪意を蹴散らして行った。ルルはジジが一度くらい痛い目に遭えばいいと思っていたので、故意に助けないこともあった。しかし、ジジは殴られて鼻血を出しても、決して後ろに引いたことがなかった。そして、ルルに助けを求めたこともなかった。

 ある程度の年になれば、どうしても勝てない敵が出てくる。恐らく、一般人が通う学校よりも、貴族ばかりが集められた寄宿舎の方が、いじめの程度は苛烈だろう。体格の大きな男の子には、ジジも歯が立たない。しかし、ジジは諦めなかった。初めは手近にあるものを武器にしたりしていたが、そのうち毒に興味を持ち、それを自分の武器とした。ジジにちょっかいを出したものは、後日原因不明の体調不良に悩まされるようになった。それから、ジジに嫌がらせをする人間はいなくなった。

 ルルはジジという王女を尊敬するようになった。この世界で最も大きな国の王女として生まれ、その立場を理解している。彼女のような強い人間は見たことがない。

 そんなジジでも、やはり老獪な城の人間には組み敷かれるほかなかった。何度となく命を狙われた。そんな時は、ルルがジジを守った。そのための訓練を、生まれた時から叩き込まれていた。隠密行動や諜報、拷問や毒への耐性もある。自分の命は王女を守るためにある、物心ついた時から心に刻み込まれてきた言葉である。最初は反発していたものの、やがて大人になる頃には受け入れていた。それは相手がジジという人間だったからである。

「大丈夫、私が守るから」

 ルルはジジを担いで、ジジの実験室へ向かっていた。彼女はルルにサインを出していた。2人で決めたサインだ。人差し指と中指をクロスしたら、緊急事態。それを下に向けたら実験室へ。

 実験室に到着した時、すでにジジの瞳は虚になっていた。

「ジジ様、着いたよ。解毒薬があるんだろう? どれだ? どれなんだよ」

 ルルがジジの肩を掴んで前後に揺する。ジジの口から、溜まっていた唾液が溢れた。

 辛うじて動く指が、薬品棚を示した。

「これか? こっちか?」

 ルルが一つずつ見せる。いくつ目かの瓶を見せた時、ジジがゆっくりと瞬きをした。

「これなんだな? 飲ませるぞ」

 ルルがジジの後頭部を支え、ビンを口元に添えた。中身が何であるか、どうやって服用するものなのかわからないが、全てジジの反応に任せた。もう充分なら合図があるはずだ。

 ジジは瓶の中の液体を全て飲み干した。よくわからないが、こういうものは瓶一本分も飲んで大丈夫なものなのだろうか。

 少しすると、ジジの体が痙攣を起こした。釣り上げられた魚のように、バタバタと暴れる。これ以上暴れたら骨折しかねないと思ったので、ルルはジジの体を押さえつけた。どこにこんな力があるのかわからないくらいの力だった。

 ジジが目をまん丸に見開いて口から泡を吹く。次いで、嘔吐。また魚のように跳ねる。

「本当にあれで良かったのかよ」

 ルルは心配になってきた。ジジの意識が混濁していたので、間違った判断をしたのかもしれない。それに、解毒するにしては、摂取した量が多すぎるような気がした。

 激しかった痙攣が、少しずつおさまってゆく。先ほどまでとは打って変わって、死んでいるみたいに大人しくなった。ルルは心配になって、何度も胸に耳をあて、手首から脈をとった。

 呼吸が浅い。時計を見ると、ジジが毒を飲んでから一時間も経っていた。

「なに情けない顔をしているの?」

 ジジの唇が震えるようにか細い声を絞り出した。

「ジジ様……」

 ルルはジジに覆い被さってワンワン泣いた。

「悪くない判断だったわ」

 ジジがルルの頭を撫でる。まだ顔面は蒼白だったが、呼吸は普段通りに戻っていた。

「そりゃあ、二人で決めた合図ですから」

「覚えていてくれて助かったわ。それに毒を入れたのが貴方じゃなくて良かった」

「なんですか、私がそんなことすると思ってるんですか」

「だって、この毒を持ち出せるのは貴方くらいなんですもの」

「ひどい」

 ルルがジジを小突く。

「この毒、間違いなくこの部屋にあったものだわ」

 薬品棚を見て、ジジが言う。思い当たる薬品が一つなくなっている。

「解毒薬があって良かったですね」

「あれは別に解毒薬ってわけじゃないのよ。おそらく私が盛られたのはヒ素のようなもの。その中でも毒性の強い三酸化ヒ素自体の致死量は300mg。でも、私はほんの少し葡萄酒に口をつけただけ。それでピンときたの。あれは亜ヒ酸の毒性を強化した、私のオリジナルだってね。ヒ素は人体に入ると、酸素を阻害するから、酸素投与や人工呼吸、昇圧薬の静脈注射が必要なの。その瓶に入っているジメルカプロール化合物は本当なら注射するんだけど、貴方は静脈注射の心得がないでしょう。飲んで効果があるかわからないけど、胃酸に壊されないくらいたくさん飲めば大丈夫かなと思ったのよ。だから、胃から吸収できるように多めに飲んだわけ。そうすることで、血液や内臓で毒が中和されるはずだったんだけど、ちょっと飲み過ぎてしまったようね。危うくそれで死ぬところだったわ」

 思わずジジは喋り過ぎてしまった。ほとんどルルは理解できないだろう。実際、彼女は理解できていなかったが、ジジが助かったということだけはわかってその場にへたり込んだ。普段は男勝りな性格だが、こういう時に女らしさが出てしまうところが可愛らしい。

「笑い事じゃないですよお」

 言われて、ジジは自分が笑っていたことに気付く。頬を触る指が冷たい。

「体を温めてちょうだい。このままでは凍死してしまうわ」

 ルルは慌てて辺りを見回す。

「なにをしているの。早く服を脱ぎなさい」

「エェッ?」

 ルルが素っ頓狂な声を上げた。

「バカね。あなたの体温を私に寄越しなさいと言っているの」

 ルルは頬を赤く染めた。モジモジしながらも、ジジが緊急なのよと言うと、それに従った。

 ジジはルルと抱き合いながら考えていた。

 一体誰が、毒を盛ったのか。

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