第12話

「キャハハハハハッ!」

 理科実験室の黒板前で、高笑いを続ける女子が一人。

「キャハハハハハッ! 志木城雪臣! 覚悟なさい!!!」

 白に近いブリーチ全開の金髪ツインテール。切れ長の大きな瞳に、整った小顔は強めのメイクを差し引いても充分に『美人』や『可愛い』というレベルであることが分かる。

 両耳合わせて七つのピアスは、イイ感じにオカルトパンクなデザインで禍々しく、爪も黒と赤と紫が黒魔術的な感じに彩られていた。

一瞬、ネグリジェとか、ベビードールのような下着ではないかと思うほどに心許ないキャミソールドレスはビックリするくらい胸元の開いていて、辛うじて羽織っている黒の革ジャンも、二の腕あたりまでずり下がって肩が露出してる。

 スカート部分は事故にでもあったかのように、びりびりのスリットが入っていて、よもやパンツが見えてしまうのではないか、と思ったら、ぴちぴちのマイクロミニホットパンツを穿いていたことに、安心したやら、残念だったやら、ではあったが、とにかく目のやり場に困るのが胸元だけで済んだことに胸を撫で下ろした俺だった。

「キャハハハハハッ! 血が! あたしのビッチの血が疼くわぁ!!」

 少し顎を上げて、無理やり見下すようにこちらを見るツインテ少女。目まで力いっぱい見開いてて、ちょっと怖い。結果的に首を少し出しだすような形になり、トゲトゲスタッズのチョーカーが妙に主張を始める。パンクロックにゴシックをあしらった、なんとも荒廃的で退廃的な世界観の衣装は、この少女が間違いなくイカれたメンヘラ女であることを物語っている。……いや、偏見だったら、すまない。

 と、それはいいんだが、この時間、何の時間なんだ?

 若干時間を戻した状態から説明すると、シャルロッテからの要請を受けて、学校へと向かった俺と東雲は、すぐさま人質立てこもり現場と化している理科実験室へと辿りついた。

 まぁ、そこだけ例のごとく空間湾曲系の結界で覆われており、中で人質になっている人間以外は、そこが歪んでいることにすら気づかない状態という訳なのだが……

 ちなみに――

「雪臣!! これどういう状態なんだ? なんか突然ここから出られないし、動けないし、その子、めっちゃ可愛くてエロいんですけど……めっちゃ可愛くてエロいんですけど!!」

 着いて早々、しょうもないことを俺に訴えかけたのは、悪友よろしくの山沢だった。

 そして山沢がいるということは、

「雪臣、今日は休んでたのに、授業終わってからわざわざ登校するとは、流石だね。……それで、雪臣はこの状況、なんかわかる人?」

 そう、相変わらずニコニコとマイペースな影島もいる。それと、そのさらに隣には、クラスメイトの水咲もいた。あの、東雲からの最初の呼び出し状を貰った時に、屋上へ向かう俺に声をかけた少女だ。

「志木城……この人、知り合い、なの? それとも、東雲さんの方の知り合い?」

「ああ、一先ず落ち着いてくれ。詳しくは、後で説明するから」

 俺は三人に向かって一度にそう言って、立てこもりの犯人に向き直った。

…………というのが、ここまでの流れだ。

 そこから数分。

 人質を助けるためにこの結界内に入ったはいいが、今俺たちは、この『狂乱の処女、アルマ・ピリス』を目の前に、戦うでもなく、逃げるでもなく、ただ対峙して相手の演説を聞いている、という状態なのだ。……なぁ、東雲、何かアクションを起こしたほうが良くないか? とかいう意味合いのアイ・コンタクトを送ってみたり。

「待って。ここは彼女が用意した場所(フィールド)。下手に動くとそれだけで命とりよ」

 俺の目配せを察した東雲が、小さく呟いた。確か、呪いとか毒とか、そういうのが得意なんだっけ。いや、それじゃあこの結界内に入った時点半分負けているような……。

「さぁ、志木城雪臣ぃ……ビッチなあたしが、とっても厭らしい方法で、お友達を操り……あなたを、メロメロにさせちゃうわよ? キャハハハハ! 耐性を持たない人間は、すぐに幻術にかかるものねぇ?? キャハハッ!」

 何がそんなに楽しいのか、都度、不自然な笑いをする少女。あと、『メロメロ』は古いな。

「とにかく、あなたは、我が魔王に仇なす者。魔王様の敵は、私の敵なのよ!! 分かる?

キャハッ! キャハッ! キャハハハハッ!」

 だから、何がそんなにおかしいのか。

「キャハッ! 行くわよ? イッツショータイム!!」

 アルマは言いながら、ポケットから小さなナイフを取り出した。

 そして、手首に刃を当てた。

「ちょっ、お前、何を……」

 俺が止める間もなく、彼女はその刃を引いた。

「キャハハハハハッ!!」

 相変わらずの笑い声と、勢いよく飛び散る鮮血。

 いや待てよ。頸動脈じゃあるまいし、そんなに飛び散るのはおかしいだろう。それとも何か? このアルマ・ピリスの心臓はポンプ能力が通常の百倍とか、そういう感じなのか?

 東雲が、俺を袖ごと引っ張って、強制的に後ずさりさせる。

「なんだよ、急に。動かない方がいいんじゃなかったのか……」

「彼女の血には触れないで」

「え?」

 とその時、

「あれ? なんだ……おいおい……オレの体……勝手に動いてる!?」

 山沢がそんなことを呟きながら、ふらふらと立ち上がった。

「え?」

 次の瞬間、思わず俺は、間抜けな声を上げてしまう。

驚いたことに、山沢は僅か一呼吸の間に、俺の目の前まで迫っていた。

「すげー! オレ、こんなに早く動けるのか!!」

 素っ頓狂な感想を言いながら、俺に襲い掛かる山沢。

「おい、山沢、俺は男だぞ? 狙う相手が違うんじゃないか?」

 妙に体勢の低い本格的なタックルを仕掛けてくる山沢をいなしながら、俺は呟く。

「いや、だから、オレじゃないんだって! 体が勝手に……」

「アルマ・ピリスの血は、浴びたものを意のままに操る効力があるの」

 俺の後方から、東雲の声がした。

「だからそういうのは、事前情報として教えておいてくれよ……解除の方法は?」

「半日待つか、アルマの意識を失わせるしかないわ。あとは一応本人の意識、運動伝達情報をハッキングするような形で、操っているから、体の意識が飛べば、行動不能になる」

「マジか!」

 ってことは、あれか?

 ひとまずこいつを気絶させればいいってことか……?

「山沢、悪い」

「え?」

 ゴッ!

 俺は素早く後ろにまわり、首の後ろをトンッ、と……いや、結構全力で殴る。

「ふごっ!?」

 山沢は変な声をあげて、崩れ落ちる。なるほど、一般人を楽に無力化できる程度には、鍛えられていたんだな、俺。

「キャハハハハハッ! 中々やるじゃない! でもまだまだここからよ!」

 いいながら、狂乱の処女様は、再び手首に刃物を当てる。

「おい、まさか」

「キャハハハハハハハッ!! あたしのビッチな魔術はこんなものじゃないの!」

 サクッと切って、またもや呼び散る鮮血。だから、お前の手首の動脈どうなったんだよ。

 ピピッと、血が影島と水咲にかかる。

「きゃっ、え? これ……なに? 本当に体が勝手に……!!」

「ホントだ。てっきり場の空気に合わせた山沢のくだらない冗談かと思ってたけど、本当に体を支配されてるや、あはは……」

 水咲は一般人として当然の反応だな。まともな人間らしくて安心するよ。そして影島……やっぱりお前も、ちょっとばかしイカれているんだな。

「キャハハハハッ 魔術耐性のない人間は、操るのが簡単でいいわ。さぁ、そっちの顔はまぁまぁな優男、あんたは、そっちのかわいらしい女の子を襲いなさい! そして、そこの巨乳の女の子は、諸悪の根源、志木城雪臣に厭らしいことをするのよ!」

 なんて具合に律儀に、そして微妙に憎めないニュアンスで命令を下すアルマ。

「ちょっ! 何をさせる気なのよ! それに……今巨乳は関係ないでしょ!!」

 水咲はいうことを聞かない自分の体に戸惑いながら、なんとか抵抗しようとするが、ゆっくり俺に近づいてきているところを見ると、自由はまったくきかないらしい。

「…………」

 俺は考えた。

 いや、そもそも、水咲も影島も一般人な訳だから、どんなに体の限界を超えさせた速度で襲わせても、俺や東雲がやられる可能性は皆無なのではなかろうか。

「……ッ!?」

 ハッと、息をのむような音が後ろから聞こえた。

「志木城君、上よ! スプリンクラー」

「え……?」

 そういわれて、見上げた時には、すでに遅かった。

 天井に設置されていた、スプリンクラーから、赤い液体が少量、噴射された。

「うわっ」

 量も時間も少ないものの、この室内全体に降り注ぐ文字通り血の雨を俺たちはよけきれなかった。

「キャハハハハッ! 残念だったわね、気を抜いたわね、油断したわね?」

 さっき以上にテンション高めに笑うアルマ。

「不覚だわ」

 そういう東雲振り返ろうとするが、体が動かない。

「……これって、やっぱり、あの女の血だよな……だから、体が動かないってことか」

 山沢、影島、水咲同様、『体を操る血』の効力によって、俺は自由を奪われているようだ。

「わざわざ手首を目の前で切って見せたのは、これをカモフラージュする為の演出よ! キャハハハハハッ! キャーハッハッハッハァ!!」

 もはや大爆笑と言って過言ではないアルマは、やはりどう考えても、笑い過ぎな感は否めないわけだが……それはそうと、この状況、ヤバいのではなかろうか。

「ちょっと、何……志木城、あんたも体、自由に動かないの?」

 水咲が、そう言いながら、制服のブレザーの前ボタンを開け、そのままリボンを取り外す。

「や、やめて、ええと……影島君」

 後ろでは東雲の声がする。東雲、今一瞬、影島の名前、忘れてただろ?

「違うんだよ。僕じゃない。ここに僕の意志はないんだ……東雲さん……!」

 東雲も東雲でピンチっぽいが、なんだろう、この微妙に生死に関する緊張感がないのは。

 なんて考えているうちに、目の前まで迫ってきていた水咲は、さらにシャツの第四ボタンをはずして、胸元をあらわにしようとしていた。

 こういう時、巨乳の女子の迫力はすごいな。

「志木城……目を閉じてくれ。見ないでほしい……」

「あ、うん……」

 俺は言われたまま目を閉じるが、いや待て、今は仮にも戦闘中であって、目を閉じるのはいかがなものかと思い直したりもする。

「さぁ、そこの巨乳ちゃん! その胸を押しつけて潰すように、抱き着くのよ!」

「ひっ……くぅ……ダメだ……体が本当に言うことを聞かない……なんで私が、こんな恥ずかしいこと……」

 随分近い位置で、水咲の声が聞こえる。目を閉じているせいか、彼女の息使いと、そしてなんだか物凄くいい匂いが……。とそこで、先ほどから自問していた『戦闘中に目を閉じる』という行為への疑問の答えとして、やっぱり目を開けることを決断して実行する。

「志木城、なんでこのタイミングで目を開けるんだ……」

 水咲が、まさに俺に抱き着きつこうとしているところだった。

「キャハハハハッ! どう? あたしの可愛いシトロニア! 所詮人間なんて、支配魔法の前には無力。魔族の女がちょっと魔力を使って誘惑すれば、すぐに浮気をする脆弱な存在なのよ? 悪いことは言わないわ! 考え直すのね! キャハハハハッ!」

 誰に向かって何を言ってるんだ、このイカれ女は。とか思いつつも、同時に、俺は理性的な思考を止めてはいなかった。確かに水咲は、容姿的にも可愛い部類だし、まぁ、クラスで会話をするということは、気も合う方だし、東雲とはまた違ったいい匂いはするし、今まさに俺の大胸筋に押し当てられている胸の弾力は半端ないが……って、それはどうでもよくて、水咲は不本意なことを無理やりやらされている訳で、今この状況を東雲に見られていることも、なんだかよくわからんが、俺的には良くない感じがして、このままだと東雲も影島に何か厭らしいことをされるかもとか思うと、それはどう考えてもダメだ。

 つまりは、この状況をなんとかしないといけないということだけは、分かっているのだ。

 そしてこの状況を打開するにはどうするべきか。俺に選べる選択肢は最初から少ない。

『魔力剥奪』。俺の唯一にして、最強(多分)の切り札。

 相手の魔力とその元を強制的に奪い、一時的に力を使えなくする、ユニークスキル……のようなもの。

 もしこの力に、魔法そのものを解除する効果があるのなら――その辺の細かい説明は聞き忘れていたから定かではないのだが――試してみる価値はある。

 今まで、一応前方に対する『構え』のようなものをしていたせいで、俺の両の手の平は、自分自身に触れてはいなかったが、水咲に抱き着かれたことで、俺の腕は強制的に動かされ、自身の太股あたりに触れる形になったことで、『掌で触れる』という条件もクリアした。

「……魔力剥奪(ロイヤル・プリバレッジ)……!」

 体を流れるエネルギーの感覚。それはあの『シビル』を相手に放った時と酷似している。つまりは、発動はした。魔力剥奪はあくまで術者から魔法と魔力を奪う能力。

 自分自身に使ったことで、俺のゴミカス程度ほどしかない魔力を根こそぎ持っていかれる、という最悪の可能性もあるわけだが。

「……よし、動く」

 魔力剥奪の効果がどう転んだのかを、自らの意思通りに動く体で確かめた俺は、抱き着く水咲を力尽くで引き離す。なるべく乱暴にならないように、最低限の注意を払いながら。

「キャハハハッ! さぁ、降参なさい、シトロニア!」

 どうやら、あのハイテンションリストカットな自称ビッチな狂乱の処女さんは、俺ではなく、その後ろの東雲に向かって言葉を放っているようで、俺の術が解けたことに気づいていない……シトロニアってなんだよ。新手の呪文か? とかなんとかうっすらと考えながら、水咲の抱擁をすり抜け、彼女と体の位置を入れ替えるように、背中合わせになった時、

 俺が『この瞬間に』、とか思いつつ、アルマに狙いを定めた僅か一秒ほどの『間』……

 風が、俺の後方から頭の上を通過してくのを感じた。

「は?」

 そんな声が出るより先のことだった。

「アルマ、ちょっとうるさいわ!」

 頭上を飛び越え、そのまま目の前を降下する拍子に、微妙に東雲スカートがふわりと揺れて捲れあがり、パンツが見えるとか見えないとかのせめぎあいしている刹那、彼女の手から伸びた茨の鞭が、アルマの左頬を強く打ちぬいた。

「え? 東雲?」

 彼女は俺の呼びかけになど全く応える様子もなく、そのままもう一回、茨蔦(プリンセスラバー)で、今度は右頬を打ち抜くと、蔦はクルクルとアルマの首に巻き付いた。

「ひぐっ」

 首を絞められたアルマは、お得意の笑い声をあげることもままならず、苦しそうな短い悲鳴を上げた。

「さっきから、なんなの? あなた、バカなの?」

 東雲が、そう問いかけながら、キリキリと蔦を締め上げていく。

 見えはしないが、この声色からして、東雲はかなりご立腹なされているに違いない。

 何がそんなに気に食わなかったのか。

「口を滑らせ過ぎなのよ!!」

「ひ……ぐッ……う……」

 アルマは、目を白黒させて、体が痙攣し始めている。

「お、おい、東雲、お前、それ……殺すつもりか?」

「志木城君は黙っていて!!」

 こちらも向かずに、東雲は言い放つ。今までにない強い声だった。

「でも、それ以上やったら死んじまうぞ? もう無力化できてるみたいだし、その辺で……」

「くっ……」

 悔しそうな呻きを漏らし、東雲は、手を緩めた。蔦はアルマの喉から離れ、東雲の手元へと戻っていく。同時に、アルマは床に倒れる。

 それを合図にしたように、俺の背中から少しの重さとぬくもりが消えた。

 水咲が自由を取り戻し、そのまま床にへたり込んだのだろう。

 俺はそれを視界の端で確認し、すぐに東雲の方を見つめ直した。

「東雲……どうしたんだよ。らしくないだろう」

 ゆっくりと、彼女は振り返る。

 怒ったような、泣きそうなような、そんな複雑な表情で。

「志木城君」

「なんだ?」

「……あのね、志木城君……私、本当はあなたに黙っていたことがあるの……」

「な、なんだよ、今更。あ、また、いつものあれか? 面倒だからはしょったってやつか?」

 いつものテンションのいつものやりとり。そんな感じで俺は言ったが、返ってきたのは、いつもの東雲の言葉ではなかった。

 向けられたのは、困ったようにひそめた眉と、視線を合わせようとしない瞳、そして、小さく開いたまま、わずかに震える唇だった。

「どうしたんだ?」

 俺の問いに、東雲は黙り込む。まるで、何か話すべきことを、今この時に口にすべきか否かを迷っているような、そんな表情だった。

「ひ……柚姫様!! まだ、その時ではないです」

 そう告げたのは、シャルロッテの声だった。

横を見ると、いつの間にかシャルロッテがこの理科室に入り込んできている。

「シャル……」

「全てを打明けるのはまだ後です。でないと、この計画そのものが、破綻してしまいます」

「でも、今ので既に勘付かれたのでは……?」

「……いいえ、この様子だと、そこまでではないかと……」

 ちらっと俺を見たシャルロッテが、そんな風に言った。

「いいえ、今の事だけじゃない。今朝の一件だって……まさか、あそこまでやる過激派がいるなんて、私は知らないし約束と違う。あんな無茶苦茶な襲撃をされるなら、もうここで一度やめるべきだわ」

 そんな二人の内輪揉めのようなやり取りを、俺は立ち尽くしたままみていた。

あ~、すまんが、救世主である俺を無視して、話を進めるなよ。

 なんだか険悪なムードになりそうなところ、そろそろ俺が介入して二人を冷静にさせるか、なんて思っていた時だった。

 グワンッと、視界が揺れるような空間振が起きた。

「うおっ!?」

 そのあまりの気持ちの悪さに、俺は思わず、声が出ていた。

 結界内に入った時の何十倍も、内臓を揺らされたような感覚。詳細なんて、わからなくてもわかる。これは、何かやばいのが来る。

「この感覚……姫様!」

 同じように感じたのか、シャルロッテが言う。

「嘘……でしょ? どうして、今なの?」

「な、なんだよ、何が起こるんだ? おい、東雲、シャルロッテ!!」

 とかなんとか言ってる間に、理科室の壁の一部から魔法陣が浮き出てきた。

 威圧感の主が近づいてくるのがわかる。魔法陣は、そのまま広がり、やがて大きな扉へと姿を変えた。まるで中世の城の内門のような形の形だ。

 そして当然ながら、その扉が、ゆっくりと開かれる。

 ギ、ギギギィ……と、雰囲気たっぷりに左右に観音開きされていった。

「あ…………」

 うん、俺、知ってるぞ。この感じといい、威圧感といい、俺、知ってる。

 これはあれだ。完全に上位の幹部クラスか、最悪ラスボスが出てくるパターンのやつだ。

 ズゥンと、空気が重くなる。いや、分厚くなっているような(・・・・・・・・・・・)感覚。

ヌルりと、そしてジワジワと、それは門の中の黒紫色の暗黒物質のような靄から現れた。

「……魔王、アンドロマリウス……様」

 シャルロッテが、目を見開いて呟く。

 背丈は百八十センチくらいか。ガタイの良い体つきは、特殊な装飾の施された黒のセットアップからも見て取れる。ジャケットとグラデーションになるようなチャコールグレーの立て襟シャツに深紅のアスコットタイ。その上から上品な黒いマントを羽織っている。

 その現実にはギリギリのラインであり得ない……でもコスプレ会場では結構あるかもしれないという境界線上をいく格好はさておき、それよりもインパクトがあったのは頭部だ。

 髭の生えた、洋風な顔立ちの中々なイケオジであることは否定しようがないのだが、その米神あたりからは、天に向かって角が生えていた。

 それがどういう訳か、コスプレだとか、特殊メイクには思えない謎の説得力を纏って、生えて(・・・)いるのだ。

「ああ……びっくりするくらいに『魔王』だな……」

 俺はそう呟いていた。

「脆弱。そして貧弱。肉体的にではない。精神的にである……」

 若干現代ナイズしている、見るからに魔王なイケオジは、門から出てきて早々に、俺に向かってそう言い放った。

「期間を経て、いまだ覚醒せぬとは、到底認められんな。消えろ……人間」

 続けて言って、魔王はこちらに手を翳す。それだけで確実に攻撃がくることを察した。

 いや、というか、この状態で手の平をこっちに向けたんだ。ほかに何が放射される?

 相手は魔王だ。どう見ても、この威圧感は魔王であり、魔王である以上は、ラスボスだ。

 俺は瞬時に考える。

 確かにゲームや小説なら、こういうラスボスは順を追って敵を倒していった先、つまりは少なくとも現状よりは遥か先の未来でようやく戦うくだりになるものだ。

 しかし、俺は知ってる。現実ってやつはいつだってうまい具合にはいかない。

 懇切丁寧に教えてくれるチュートリアルは存在しないし、一発でクソゲー認定されるようなバグや初見殺しを取り除いてはくれていないし、それを救済する措置すらない。

 だから、ようやく敵の主要クラス二人とようやく戦い終えた序盤も序盤に、いきなりラスボスが現れることだって、十分にあり得るのだ。

 だからこそ、迷っている余裕も、時間もないと俺は思った。

 こういう極限の状態で、とっさにできる行動こそが、人間の価値を決める。

 親父も、そんなことを言っていたっけ。

 俺は全身に力を込めた。

 それは例の『石装鉱』をできるだけ強く、全身に纏うイメージ。

 そしてそのまま、今の自分ができる最大速度で、魔王に突進する。

 こういうのは、圧倒的に奇襲が正解だ。幸い、魔王との距離は近い。こっちに向けられた手の平さえ、何とか避けられれば、こっちの一撃を食らわせることができるはず。

 そして、俺が唯一使える有効な技は、一撃必殺だ。

 『(「)魔力剥奪(ロイヤル・プリバレッジ)』がこんな短いスパンで二回使えるかどうかも正直分からんし、そもそも魔王がチート級の防御壁とかを纏っていないことが大前提だが。

「うぉぉぉぉおおおおお!」

 どうしてこういう時、人は『うおお』としか叫べないのか。

 女性が『きゃあ』と悲鳴を上げるように、突進していく時は『うおお』なのだ。

 行ける!

 思ったよりも俺の速度は速い。魔王は反応しきれていない。少しでも、頭部に触れることができれば。俺の勝ちだ。大丈夫、今の俺はこの場にいる誰よりも速く動いている。

 残念だったな、魔王。護衛も親衛隊も連れてこなかった事を後悔するがいい!!

「『魔力剥奪(ロイヤル・プリバレッジ)』!!」

 行けた! 決まった!

 角と角の間の額を、爆熱する神の指ばりにアイアンクローして『魔力剥奪』を展開。

 大丈夫だ。発動もした。俺は勝っ……

「愚かだな。王族たる我に『魔力剥奪』を使うなど、何を考えているのだ? お前は」

「……あれ……効かない、感じ?」

 思わずおどけた感じで言ってみたが、俺、多分間違いなく命の危機。

「決して消えぬ恐怖を植え付けてやろう」

 渋い声で、これ以上ないくらいに敵っぽいセリフを口にしながら、今度は俺の顔の前に魔王の手が翳される。

 ギュンッ、という、空間が歪むような魔力震が、周囲から魔王の掌に収束していくのがわかる。今まで感じたことのない魔力量。経験が少ない俺にもわかる、圧倒的な差。

 うん、これ死んだな……。

 俺の目の前が、黒い光に包まれていく。

 あれ、おかしいな。おそらく数秒後には死ぬはずなのに、まだ走馬灯がやってこない。走馬灯の間もなく死ぬのか、俺は……。

「待って!!!」

 聞こえたのは、東雲の声だった。どういう訳か、その声で魔王は翳していた手を下げて、東雲の方を向いた。その隙に、俺は大きく後ろに飛びのき、距離をとる。標的が東雲に移ると感じた俺は、再度注意をこちらに向ける為、考えもなしに魔王に飛び掛かる。

 『魔力剥奪』は効かない。その他に有効な攻撃を持ち合わせていない俺は、こぶしを握り締めるしかない。

 そうだ。パンチだ。

 拳だ。鉄拳だ。

 喧嘩は多分得意な方じゃないが、東雲との特訓に素手での格闘術も少し入っていた。今はとにかく、殴るしかない。そう思ったのだ。

 だが俺の俺らしくないそんな勇気ある行動はまたも東雲の一言で止められることになる。

「志木城君も待って!!」

 俺は一歩を踏み出したところで、ピタッと止まって見せた。

 東雲の語感を強めた命令口調に、反射的に従ってしまうあたり、やっぱり俺は、あの訓練で相当いい具合に調教されてしまっているのかもしれない。

「東雲、なんで止める!? そりゃあ、確かにこのラスボスを前に俺が勝てる可能性は低すぎるが、それでも、俺は救世主なんだろ? 勇者なんだろ? だったら、ワンチャンあるかもしれないだろう! 魔王が攻めてきちまったんだ。今、やるしかない。違うか?」

「何を訳の分からないことを言ってるのだ。……いや、なんでもいい。まずは貴様にけじめをつけねばならん。どこの馬の骨だかしらんが、よくも私の娘を誑かしてくれたなぁ!」

 イケオジ魔王は、俺に向かってそう言った後に、東雲を見て、ニヤリと笑う。

「だから、やめてって言ってるでしょ、パパ!!」

 東雲の声を意図的に無視して、魔王に向かう。

「来いよ、全然まったくこれっぽちも望んでいなかったけど、俺はどうにも救世主らしいからな。救世主……勇者は、魔王を倒すのが使命だ……」

 構え直して、俺は頭のどこかでぼんやりと用意していた言葉をここぞとばかりにドヤ顔で言い放った。

 そうだ。退けないんだよ。男の子には、意地があるからな!!

「…………」

 ふふん♪ どうだ。勇者っぽいことを言ってやったぞ? 決まっただろ?

「……?」

…………いや、待て。今俺がドヤる前に、魔王と東雲に何か明らかなにおかしい発言があった。

「……あのぅ」

 ちょうどボクサーと空手家を足して二で割ったような感じで、両腕を軽く拳を握って口元の高さに構えたまま、俺はそれまでの軽快なフットワークも忘れて、俺は固まった。

 俺の視線……つまりは魔王からやく九十度の位置にいる東雲を見るために、ギギギと、さび付いたブリキ人形のように、ギクシャクしながら首を可動させていく。

「……い、いま……パ……パパって? いや、その前に『娘を誑かした』……?」

完全に内心パニックになって停止した俺を見て、魔王が何かを言おうとした時、

「シャルロッテ、空間転移して」

 東雲が叫んだ。

「しかし、姫様」

「いいから!」

「はい……!」

 シャルロッテが口早に何か呪文のようなものを詠唱すると、空間自体がぐにゃんと歪む気持ち悪い感覚が襲ってくる。俺はその変化に身構える隙もなく、ただ空間変異に巻き込まれる。理科室全体が適当に混ぜられた絵具みたいになって、そのままグルグルと回り、再度整えられていく。

 整うと、景色はいつかの和室に変わっていた。

「隔絶結界を展開して、手伝うわ」

 東雲の言葉に、シャルロッテが頷き、再びなにやら詠唱し始める。

 奇妙なエネルギー的なものが、二人を中心に部屋の中に充満していくのがわかる。

「ふぅ……これで、一時間は大丈夫ね」

 大きく息を吐いた東雲が、そう言った。

「おい、東雲! どういうことなんだ? さっきのあれは魔王なんだよな? なんで魔王がお前のことを娘って言ったんだ? お前もパパって……それに、誑かしたってなんだよ?」

 俺が疑問をぶつけると、

「……説明するわ。もう、隠しておけないものね」

 東雲は、俯きながらそう言った。

「ごめんなさい。私は、あなたを騙していたの。私の本当の名前は、シトロニア・イスト・アンドロマリウス。第百四十三代『アンドロマリス』こと、ジェイク・アスト・アンドロマリウスの娘よ」

「は? 確か、俺たちが倒す魔王が、『アンドロマリウス』だったよな? お前は敵の娘ってことか?」

「敵じゃ、ないのよ。そもそもね。父は魔王で、あなたが戦ったのは魔王軍の精鋭で、魔界も魔法も……全部本当だけど、大前提が違っているの」

「どういうことだよ? さっぱりわからないだろ?」

 俺が問い詰めると、ひどくばつの悪いため息をついた。花も枯れそうな重いやつだ。

 長い睫毛が影を落として、東雲は語り始める。

「……私にはね、父が決めた結婚相手がいたの。私は、魔王の娘だから、血統的にはものすごく重要で、私と結婚するってことは、それだけで魔族としての位が上がるのね。魔族は位によって、その力も上下するから下手な相手とは結婚できないの。だから、父は私の結婚相手を、慎重に吟味していた。そして、決めたの。でもね、私はそれが嫌だった。私はその縁談を破談にするために、言ったの。人間界に好きな人がいるって。私はその人と、将来を誓いあってるんだってね。私は小さい頃、一年くらい人間界に住んでいたの。母が、人間だったから。その関係もあって、私は大きくなってからも、何回かお忍びで人間界に遊びにきていたわ。だから、私の言い分にはそれなりの根拠と信憑性があった」

 東雲は、一度も俺の方を見ずに、ただ和室の畳を見つめながら、淡々と語った。

「今朝……志木城君、私に聞いたでしょ? 『昔、私と会ったことがないか』って。その通りよ。こっちで暮らしていた時、よく遊んでいた男の子がいたの。それがあなた。あなたにその記憶がないのは、私が魔法でそれを消しているから。魔族が生活していた痕跡は、魔法で消すのが決まりだからね。でも、魔法や私に干渉しているうちに、きっと消えた記憶が蘇り始めたんだと思う。ラッカー塗料が薄め液で溶けるみたいに、魔力同士は干渉しあって解れることも多いから……。だから、夢という形で断片的に思い出したのね」

「なんだよ……嘘だらけじゃないか」

「そうね……本当にそう……だからね。魔王軍が攻めてくるっていうのも、半分本当で、半分は嘘。魔王と魔王軍は確かに攻めてくる。でもそれは人間界をどうにかする為じゃなくて、娘と将来を誓ったというあなたを見つけて事情を聞くため……いいえ、父やシビルは、あなたが私を誑かした男だっていう認識だったから、ぶん殴る……くらいのことは考えていたかもしれないわね……」

「おい……マジかよ……そりゃあ、俺をピンポイントで狙う訳だ……」

「だからね? 最初の雷神も、シビルもアルマも、実はあなたを殺すつもりはなかったの。ちょっと大けがさせてやろう、くらいは思っていたかもしれないけどね。シビルは、二十八人衆の中でも、かなり私と親しい臣下なの。歳の離れた兄のような存在。アルマは歳も近いから、本当にお姉ちゃんとか、少し年上の友達みたいに仲がいいの。みんな、私を心配して、私が一時の気の迷いであなたとの結婚を選んだって思って、こっちまで追いかけてきてくれた……」

 少し目を細めて、そんな風に言う東雲。確かに、そう言われてみれば、突き刺すような、心をえぐられるような殺意を向けられた記憶はない。……あの毒蜥蜴以外は。

「それじゃあ、俺が救世主っていうのは……」

「……完全に嘘という訳ではないわ。預言というか、占いの域を出ないものだけど、あなたには、『救世主』を暗示する運命が確かに出ていたもの。それに、あなたに素質があるのも確かよ。本当の一般人なら……『石装鉱』を会得するのに、多分五年はかかるわ。ううん……というかね、勇者にも救世主にも、本当は『資格』なんてないわ。魔法の素質があって、然るべき精神を持っている人間が、数奇な巡り合わせと運と努力で、起こした行動が、のちに英雄譚として語られるだけ。それだけの話よ」

「なんだよ、それ」

「……本当に申し訳ないと思っているわ。危険な目にも遭わせたし、つらい訓練もさせた……全部私のわがままが招いた事件なの」

 東雲の告白に、俺は黙っていた。

「怒ってる……わよね? 当然よね。許して貰えるとは、思っていないわ。これは、私の……本当に私だけの我儘で始めたことだから」

 何かを飲み込むように、押し殺すように東雲は言った。

「……アルマに捕まってたあなたのクラスメイト達なら、安心していいわ。みんな捕まってからの記憶を消されて、ちゃんと家に帰されてるはずよ。父も他の臣下も、人間を傷つけたりはしないから」

「姫様……」

 シャルロッテが、何かを訴えようとするが、東雲はそれを制した。

「本当に、やり方が卑怯だったと思うわ。当然、償いはするつもりよ。何か、望みはある? 私にできることは少ないけど、魔法でできることなら、ある程度は叶えてあげるわ」

 突き放すような言い方。それはいつもの、冷ややかなツンツン娘である東雲の血の通った雑言とは、少し違うもののように感じた。

「……どうする、つもりだったんだ」

「え?」

「あのまま、俺を戦わせ続けて、計画通りに行って、バレなかったら。どこでネタばらしをする予定だったんだ?」

「それは……」

 東雲は、言葉に詰まった。

「いずれバレる嘘だ。お前の父親にも、そして俺にだって。つーか、なんで俺なんだ? こんな役回り、お前に告白してきたヤツにやらせた方が、何かと都合が良いだろうに」

 俺は答えを待たずに言った。柄にもなくまくし立てるように言う自分に、若干の違和感を覚えながら。

「俺は、目立ちたくないんだよ。神とか仏とか、別にそういうのを信じてる訳じゃないけど、きっと運とかを司る存在はいてさ、そういうのに目を付けられると、大抵がひどい目に遭う。親父みたいに。だから、嫌なんだ。それなのに、なんだよ。昔、ちょっと接点があったっていうだけで、こんな大事に巻き込むって……」

 止まらない。なんでだ?

 確かに今まで俺なりに必死こいてきたのに、そもそもが大嘘だったってことに腹が立たない訳じゃない。だが、俺が怒ってるのは、きっとそこじゃないんだ。

「……あなたの言う通りよ。返す言葉もない。だけど、最初から全部説明していたら、あなた、ここまでだって付き合ってくれなかったでしょ?」

「……まぁ、当然だろうな」

 俺が答えると、東雲は『そうでしょう』と言って、とても寂しそうに笑った。 

「本当に、迷惑をかけたわ。この通り」

 東雲は立ったまま、綺麗に上体を倒して、頭を垂れた。今までで一番真面目で真摯な対応に、なんともいたたまれない気持ちになる。俺が取り乱したのは――腹が立ったのは、『俺じゃなくても良かった』ってことだろう。そして、それは多分俺の中で引っかかっただけで、他人にしてみたら酷く小さな問題なのも分かっている。父親が死んで、母親が死んで、それで出した俺の結論。それは、俺の生きていく上での信条であり、指針でもあった。それを曲げてまで、この一件に首を突っ込み続けたのは、俺が勇者とか救世主とかで、俺にしか世界が救えないと言われ、それを信じたからだ。しかし、事実は違った。俺じゃなくても良かったことの為に、まんまと騙されて担がれて、俺は信条を曲げた。そのことが、釈然としていないだけ。

 それだけなんだ。だから多分、謝ってほしいわけじゃない。

「…………」

 俺は、言葉にならないため息を吐いた。

「あ、あの……志木城く……」 

「……そのさ。許嫁って奴は、そんなに嫌なのか?」

 謝罪の返答として何が正解かわからなかった俺は、とりあえずそう聞いてみることにした。実際その辺には、若干の興味あったしな。

「魔族の貴族階級の男よ。五大貴族の中でも、特に野心の強い一族だって聞いているわ。実際優秀だし、エリートなのよ。歳も二つ上で、一応『イケメン』といえなくもないわ」

「それなのに、嫌なのか?」

「嫌に決まってるじゃない。親が決めた結婚相手なんて。大体、父もどうしてあの人を選んだのかわからないのよね」

 心底不満そうに言う東雲。いや、『シトロニア』か。

「そりゃ、そいつが貴族でエリートで、イケメンだから、だろう?」

「え?」

「娘の男の好み、なんてわからないし、分かりたくもないだろうしな。そんな状態で親が選ぶんだ。生活に困らないか、とか能力的に優れているか、とかそういうので決めるのは、妥当な方法だろう」

「でも、私の意見は何も聞かなかったのよ? そんなの、納得できるはずがない。大体、面識だって、魔族総会の時に一度会っただけなのよ? 人となりもわからないじゃない」

「っていうか、俺はそもそも結婚自体が早すぎるって思うけどな」

「結婚そのものは、多分四年後か、五年後だとは思うの。でも、婚約は今……きっと、年ごろになった魔王の娘を早い段階で『誰のものか』決めておく必要があるんだと思うんだけど……」

 なんか、お姫様ってのも色々大変らしい。政略結婚とか、親が決めた相手とか、そういうのって小説やドラマの中だけの話かと思っていたが、本当なんだな。

 東雲は黙り、そして、俺も黙る。シャルロッテは、最初から黙ったままだ。

 次の会話が、始められなかった。きっと、話すべきことはあるのに、どうにもそれの切り出し方がわからない。

「……これで、おしまいね」

 しびれを切らした東雲が、口を開いた。

「当然のことだけど、これ以上の協力は求めないわ。ここからは、私たちでなんとかする。これだけの大立ち回りをしたんだもの。私が結婚の反対にどれだけ本気かは、父に伝わったと思うし。それだけでも、十分に価値があったと思う。今まで、本当にありがとう」

東雲はやっぱり視線を合わせなかった。

「志木城君、記憶は消した方がいい? 規約では消すんだけど、今回は例外も例外だから、記憶の保持くらいは許されるわ。もちろん、口外した時点で処罰の対象にはなるけど……」

 記憶の消去。幼い頃の俺の記憶に、東雲がいなかったように、ここ数週間の記憶がなくなる。

 東雲柚姫という存在自体の記憶がなくなるのか、はたまた彼女と関わった記憶がなくなるのかは分からないが、ともかくこいつと過ごした時間が丸々消えるってことか。

 それは――、

 それは確かに、少し寂しい。

「そうだな……このままでいい。嘘でも『勇者』として戦った記憶なんて、そうそう持てるものじゃないしな」

 俺はそう言った。なに、別になんでもない、ただの記念だ。神秘に出会った記念。

「なら、そのままにしておくわ」

 東雲の綺麗な瞳が細く俯き、改めて和室のドアを見つめる。

「そこの扉を開いて外に出れば金輪際、あなたが魔界や魔族、魔法と関わることはない」

「そうか。わかった」

 口は、そう答えていた。

 俺の心は、動かない。東雲に巻き込まれたこの騒動で、いくらか『らしくない』言動をしてしまってはいたが、本来の俺とは、こういうやつだ。

 目立たないように生きるコツは、あらゆる特別な感情をなるべく抱かないことにある。好きも嫌いも、強いメッセージも信念も。そして、自分から発信するべき強い想いさえも。

 だから俺は、これだけ引っ掻き回された美少女、東雲にも簡単に背を向ける。俺は、そういうやつなんだ。

「……それじゃあな」

 俺は身を翻し、ドアへと向かう。

 この和室なのにドアだけ洋風っていう奇妙な空間とも、これでおさらばだ。思い起こせば、ここに入ったことから、色々始まったんだっけ。いや、俺は呼び出されて屋上に来ただけだったんだけどな。

 俺はドアノブに手をかける。

「そうだ、東雲。メリットと呼べるかどうか微妙だけど、俺にも少しだけ思うところがあった。なんだろうな。お前とやったこの救世主ごっこは、なんだか懐かしい感じがしたよ」

 言ったまま答えを聞かず、俺はドアを潜った。

後ろ手にドアが閉まると、そこはシンと静まり返った屋上へと続く階段の踊り場だった。

「やっぱりここに繋がってるんだな」

 呟きながら、俺はもう一度、今来たドアを開いてみる。ガチャというありきたりな音がして開いたドアの向こうには、夕暮れの屋上が広がっていた。

 自殺防止のネズミ返しみたいに反り返った高いネットとフェンスと、それ越しの夕日。

 俺はしばらく、その景色を眺めていた。

 こういう時、本能的に夕日を眺めてしまうのは、人の性か。

別に感慨深くもない夕日に飽きると、俺は下校することにした。それでも、家に直帰する気にはなれなくて、暗くなるまで、駅前をぶらぶらとしていた。

 そりゃそうだろう。B級学園ファンタジーラノベの世界から、また元の現実に戻ってきたんだ。しかも中途半端なタイミングで。

 気持ちの整理とか、テンションとか、そういうのをニュートラルに戻すのには、もう少し時間がいるんだ。

 俺はこの数週間を振り返っていた。

 確かに俺は巻き込まれた。半ば強制的に、有無を言わせない条件を提示され、それを呑まざるを得ない状況ではあった。だけど、本当にそれしか選択肢はなかったのか。

 いや、あったんだ。

 最初に東雲の話を聞いたときみたいに、やれやれな妄想だと、捨て置けばよかった。

 雷神石像に襲われても、学年一の美人に協力を頼まれても、断る選択肢は常にあった。

 ただ俺は、それを選ばなかっただけ。

「まぁ、結局、つまるところは、俺のせいってことでもあるんだよな」

 俺は自宅の前まで差し掛かったところで、ようやくそんな結論に至り自分を納得させた。

何やら小さな影がこっちに向かってくるのが見えたのは、そのタイミングだった。

その影には、見覚えがありすぎた。

「お前……シャルロッテ?」

 陰になっていて見えにくいが、どうやら片腕を抑えて、足を引きずるように、ぎこちなくこちらに近づいてくる。

「どうしたんだ?」

 明らかに普通じゃない状態のように見えて、俺が思わず歩み寄ると、向こうも距離を詰めて、明かりの下へと出てくる形となった。

 街灯に照らされて明らかになったのは、ボロボロの制服姿で、傷だらけになったシャルロッテだった。

「おいっ! その傷……なにがあったんだ?」

 倒れそうになるシャルロッテを、支えるように抱き留めると、か細い声が聞こえてきた。

「志木城……様……姫様と陛下が……襲われました……」

 シャルロッテは、数時間前にもう金輪際関わることはない、と断言された二人の名前を、とんでもない状況付きで口にした――。

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