12
私と国上は、一度各々家へ帰ることにした。
明日の放課後に作戦開始ということらしい。
腕時計を確認すると、二十一時を過ぎていた。
私が意識を失ったのが恐らく十八時頃だろうから、あの古本屋に三時間もいたことになる。
まあその大半、私は眠っていたのだけど。
その不思議な古本屋の裏口らしき所から出ると、いつもの学校の帰り道にすぐ戻れた。
こんな所に古本屋なんてなかったはずだが、もうそんな小さな疑問などどうでもよかった。
ここが私の精神世界。
まだ本心では信じられていない。
そんな世界がこの世にあるなんて、やっぱり信じられない。
否、この世ではないのだ。
周りを見回しても、どれも現実と何一つ変わらないように見えた。
時間だって正常に進んでいる。
空を太陽と月が代わる代わる支配し、季節だって移ろいでいる。
古本屋の男の話では、私自身の素養と、私の願いを叶えてくれた――神様によってこの世界が創造されたという。
普通の人じゃあり得ない世界。
それにしても、私の願いとは何なのだろうか。
自分でもわからない。
思い出そうとすると、そこで靄がかかったように何も見えなくなってしまう。
しかし、あの男は、何か知っているようだった。
私自身も知らない、私の願いを。
思い出したくなるような良い記憶ではないことは、何となくわかっている。
あの恐ろしい化け物、否、紛い物を退治することで、現実世界へと帰れるという。
古本屋さんや反枕ちゃんに狸ちゃん、それと国上には悪いけど、正直私はこの世界にずっといたい。
現実世界と何ら変わりはないのだけど、何だか居心地の良さを感じずにはいられないのだ。
それは、自分自身の心の中、願った末の世界ということなのだから、当たり前のことかもしれない。
今の私は、文字通り自分の殻に籠っているのだ。そうしていれば、他人に傷つけられることもない。
外の世界と遮断してしまえば、何も起こらない――何も、ない。
――でも、国上を現実世界に戻すためならやるしかない。
これ以上、私の為なんかで彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。これ以上危険に晒すわけにはいかない。
それに、あの子のためなら何だってできる気がした。
今頃無事に家に着いているだろうか。
そういえば、私は、国上の家の場所や家庭事情について何も知らない。
もちろん、そんなものは個人情報であって、友達といえど無暗に知っていいものではないのだが。
夜遅くだから門限とかで怒られてなければいいけど……。
なんて私はこの世界で要らぬ心配をしてみる。
しかし、そもそも、私は、彼女のことについてどれだけ知っているのだろうか。
私は、彼女について何も知らないのではないか。
でも、それは、お互い様かもしれない。
私も彼女には家庭事情なんかや、自分のあれこれを話した覚えはない。
見方によれば、お互い詮索しない良い関係といえるのかもしれない。
しかし、私が国上と何故友達なのか、どうして友達になったのかが、ますますわからなくなってくる。
知り合った明確なきっかけがあったようなはずだが、何故かこれもずっと思い出せずにいる。
――家に着くと、鍵が閉まっていた。
まあ鍵が閉まっているのは、元の世界でもいつものことである。
決して、夜遅くに帰ったから締め出されたというわけではない。
ましてや、叱られるということなどあり得ない。
私は鞄から鍵を取り出し、静かに玄関を開けて、家の中に入った。
なるべく、物音や足音を立てずに二階の自室へと移動する。
父親は、いつも通り酔っぱらっているのだろう、大きないびきをかいて、一階の寝室で眠っていた。
非常に不愉快極まりない音だったが、これもいつものことである。
私が創った精神世界というのなら、父親なんていらなかったのに。
私は、シャワーを浴びて、朝作っておいた昼食の余りであるおにぎりを一つ食べた。
どうせなら、お風呂なんて入らなくてもいいし、空腹なんて感じなくてもいい世界がよかった。
面倒くさいこと極まりない。
まあお腹は全く空いていなかったのだが。
おにぎりを食べ終わると、疲労感からか眠気が襲ってきた。
疲労も睡眠もいらない世界がいいのに。
これじゃあ、現実と本当に何も変わらない。
気絶して、あの古本屋で二時間程眠っていたのに、ベッドに入るとすぐに寝てしまった。
――夢を見る私。
――夢見がちな私。
誰だろう。駅で女の人が立っている。
後ろ姿しか見えない。
国上……?
否、違う。
彼女は、特徴的なツインテールだからすぐわかる。
あれは――。
お、お母さん……?
そうだ。絶対そうに違いない。
小さい頃の朧気な記憶しかないが、間違いない。
私が大好きだったお母さんを見間違えるわけない。
――そこで、どこからともなく踏切の音が聞こえてきた。
私は、駅のホームに立っていた。
けたたましく響いている踏切音。
思わず耳を塞ぎたくなる。
カン、カン、カン。
赤色の電車が駅の方に向かってくる。
待って、お母さん、私を置いていかないで。
私も――連れて行って。
――言えなかった。
そう心に思うだけで、声には出なかった。
そして、背後から見ているしかなかった。
お母さんが駅のホームから――身を投げるのを。
その刹那、お母さんは、私の方へ顔を振り向いた。
その顔は――。
その口は――。
大きく裂けて、笑っていた。
その中から鋭利な歯が窺えた。
その顔を見て、私も口を大きく開けて、笑った。
――さよなら、お母さん。
そして、電車に勢いよく何かが当たる音が聞こえた。
――寝起きは最悪だった。
私は、目から流れていた涙を指で拭った。
その際、自分が何だか凄く惨めに思えた。
そのせいでまた涙が出てきそうになった。
悔しさで、哀しさで、情けなさで――。
でも、べそをかく程度におさめて、ベッドから起き上がった。
私は一人で生きていくんだ。一人でも生きていけるんだ。
勝手に私の前からいなくなった女のことなんて知らない。
こんな感情までこの世界は精密に創られているんだ。
こんなもの、一番いらないのに。
――国上に会いたい。
どうせ泣くなら彼女の胸で泣きたい。
彼女の柔らかく感触がよくて、いい匂いのする胸に顔を埋めて。
彼女の美しく綺麗な手で抱きしめてもらって、優しい声で慰めてもらいたい。
そうして、我慢を知らない純粋な赤ちゃんのように、思いっ切りわあわあ泣く私。
この世界に彼女がいることだけが救いだった。
神様は、あんな化け物ではない。
彼女こそが私を救済してくれる女神――唯一の神様なのだ。
これは、現実世界でも変わらない。私にとって、彼女だけが救いなのだ。
しかし、ここまで現実と変わらない世界でありがなら、何故か国上だけは、この精神世界に存在しなかったという。
――だから、私の精神は彼女を強く求めていた。
私は、国上がいなければもう生きていけない。
彼女に依存してしまっている。
彼女に会うまでは、一人で生きていこう、一人でも生きていけると思っていた。
そう自分に信じ込ませていた。
でも、その積み上げた想いは、音を立てながら徐々に崩れていっている。
――お手洗いを済まして、顔を洗い、水を2杯ばかり飲んで、制服に着替えて、歯を磨いた。
寝ぐせを直して、荷物を準備して、玄関でローファーを履く。
朝ご飯はいつも食べない。昨日から食欲もないし、作るのが面倒くさいから昼食も持っていかない。
毎日、毎日同じことを繰り返すのが本当に面倒である。
常に完璧な状態を保ったままでいたい。
小説や漫画なんかの登場人物がいつも羨ましかった。
彼らは、こんな面倒な生活をしなくても生きていけるのだ。
彼らは、描かれた世界、描かれた瞬間だけ生きていればいいのだ。
本当につくづくこの世界は、現実と変わりない――ように思えた。
私は、父親より早く起きて、父親が起きてくる前に家を出る。
会いたくないからだ。顔も見たくないし、声も聞きたくない。
話しかけられでもしたら、どうしたらいいかわからない。
どんな台詞を言えばいいのかわからない。
どんな顔をすればいいのかわからない。
玄関にある姿鏡で自分を見た。
これも、いつもやることである。
人から見られて可笑しな点はないか、外に出る際は、いつもここで最終チェックをする。
制服の襟を正し、スカートのしわを直す。
私は、制服が好きだった。外界から身も心も守ってくれるような気がするから。
それ故、しっかり正して着るようにしている。
その方が、より防御力が上がるような気がするのだ。
おかげで、少しでも身だしなみが崩れていると気になって仕方なくなってしまった。
その度に、すぐ直すようにしている。
私は、服を着るのが苦手だ。しかも、女性らしいお洒落な洋服は、特に着にくいのだ。
だから、私服もほとんど持っていない。
卒業して制服が着られなくなった後どうしよう。
リボンが少し傾いていたから、微調整する。
国上がよくやる仕草。自分も真似てやってみた。
私は、彼女のこの仕草が凄く好きなのだ。
胸ポケットに挟まっているヘアピンの位置も調整する。
これは、私の大切な心の御守り。
最後に前髪を整えた。
何だか顔がやつれているように見える。
国上に嫌われないだろうか、いつも凄く不安になる。
彼女に対して、ちゃんと言葉を選んで喋ろう、なんてこともここで毎日考える。そう意識をセットし直す。
でも、いつも彼女のペースに捉えられて――あるがままの私になっている。
「ありがとう……国上ちゃん」
そう声に出して云ってみたが、何だか照れ臭くなったから急いで玄関の扉を開けた。
朝の清々しい空気だけは好きだった。
暑くもなく寒くもない季節。
微かに吹く風が頬を撫でて気持ち良かった。
それと同時に、何だか懐かしい匂いがした。
「行ってきます」
私は、毎朝声に出して家を出発する。
もちろん、父親に挨拶をしているわけではない。
これは、自分自身に言っている。言い聞かせている。
気合を入れる一言。決意表明みたいなものである。
こうして心と身体を切り替えて、何とか学校に行くのである。
怖くない。怖くない。
何事もありませんように。
しかし、今日に限って言えば、それは叶わなそうである。
そう思うと、いつもより増して憂鬱な気分になった。
――本当は自転車通学なんだけれど、昨日布仙さんを尾行するために自転車は学校に置きっぱなしにしたから、今日は歩いていかなければならない。
私は、自転車を漕ぐのが好きだけど、歩くのも好きだからあまり苦じゃない。でも、走るのは疲れるから嫌い。
それに、いつも早めに家を出ているんだから、歩いて行くぐらいが丁度いいのだ。
学校に早く着いても、国上が来るまでは本を読んでいるだけだし。
――そして、校門の前まで来ると、誰かが私に向かって手を振っているのが見えた。
私に手を振ってくれる物好きな人なんて、国上くらいしかいないのだけれど……。
私は、少し嬉しくなって、校門まで小走りした。
しかし、期待に反して、それは、国上ではなかった。
「あ、狸ちゃん!」
「おはようございます!美濃お姉ちゃん」
ぺこりとお辞儀をする狸ちゃん。
今日は帽子を着けているから、頭の上に乗っているであろう葉っぱは落ちてこなかった。
おまけに耳も隠れてしまっている。
くそお。可愛いから見たかったのに。
「おはよう。作戦は今日の放課後からだよね、こんな所でどうしたの?」
「はい、そうなんですけど。ご主人様が、心配だから念のため一日一緒にいるように、と仰られまして」
それに、この世界じゃ私もやることがないので、と狸ちゃんは云った。
「それは心強いけど……。でも、学校の中には入れないと思うよ、目立っちゃうし」
と云って、私は、狸ちゃんの背後を覗き込んだ。
……あれ?
「尻尾が気になりますか?ですよね、でも、仕舞えるんですよ」
狸ちゃんは、私の疑問を察して、笑いながら云った。
「もふもふの尻尾触りたかったよ~」
私も笑いながら云った。
すると、ぼふんと音がした。
「尻尾は気合を入れてる時しか隠せないんです。だから、気を緩めるとすぐに出てきてしまいます……」
出てきた丸くて大きな可愛らしい尻尾を手で弄びながら、恥ずかしそうに云う狸ちゃん。
なんだこの子。可愛いにも程があるぞ。
私は、周りを見渡す。幸い、まだ朝早くだから他の生徒はいなかった。
私は、我慢できなくなって、それをいいことに。
「昨日からずっともふりたかったんだよ~」
と云って、その大きな尻尾に顔を埋めた。
太陽の匂い。何だか凄く安心できた。
「や、止めて下さい!美濃お姉ちゃん」
「まあまあ。減るもんじゃないし、いいじゃん、ちょっとだけ」
私は、動物の狸も妖怪の狸も好きだった。
本で読みながら、いつも抱き着いてみたいと思っていたのだ。
だから、まるで夢が叶ったようだった。
夢みたいだった。
しかし、そんな儚いものは、長くは続かないようで。
「み、美濃お姉ちゃん、国上お姉ちゃんが何だか凄い恐い顔でこちらに向かって歩いてきます!」
「……え?」
私は、狸ちゃんとイチャイチャするのを止めて――まあ一方的に私が抱き着いていただけだが――後ろを振り向くと、国上が今まで見たこともないような不機嫌な顔をして立っていた。
「美濃ちゃん、それに狸ちゃん。随分と余裕じゃない?」
「ご、ごめんなさい、国上お姉ちゃん。こ、これはその……」
慌てて謝る狸ちゃん。
悪いのは100%私なのに。
「まあ狸ちゃんが悪くないのはわかってるって。……美濃ちゃん?」
随分とこの世界でも楽しそうにしてるじゃない、と国上は云った。
「ごめんなさい、国上様」
私は、深く頭を下げた。
同時に、狸ちゃんも頭を下げてくれた。
「私も狸ちゃんも、美濃ちゃんのために、この世界に来てるんだからね」
「はい。おっしゃる通りです」
それを言われてしまっては、私はもう何も言えない。
でも、国上の性格上このくらいのことで、ここまで不機嫌になるとは思えない。
やっぱり彼女に負担をかけているのだ。
この期に及んで自覚が足りない私。
「もういいよ、美濃ちゃん。優しい国上ちゃんが許してあげる。それで、何で狸ちゃんがここに?」
私は国上に許してもらってばかりである。
気づくと、いつの間にか生徒たちが続々と登校してきていた。
「はい。私は、二人の護衛役ですので」
そう云いながら帽子を外す狸ちゃん。
「ちょ、ちょっと。いくらこの世界でも、帽子は着けておいた方がいいよ。それに、尻尾も……」
「大丈夫です、国上お姉ちゃん。……せーの!」
ぼふん、と音がした。
「……消えた!?」
私と国上は、同時に云った。
「ここです!早く拾ってくださ~い」
下の方から声がしたので見てみると――。
そこには、小さい狸のぬいぐるみが、こてんと落ちていた。
「私、ぬいぐるみに化けたので、お二人どちらか胸ポケットに忍ばせておいてくださ~い」
私と国上は、顔を見合わせた。
もう二人とも、この世界で何が起こっても驚かないような気がした。
この世界は現実のようでいて、やっぱり現実ではないのだ。
現実に妖怪はいない――。
私は、ヘアピンを挟んでいる胸ポケットに、顔を出してあげるよう狸ちゃんをそっと入れてあげた。
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