11

 目を覚ますと、そこには、見慣れない天井が見えた。

「あっ、やっと起きました!」

 そう声のした方に顔を向けると、おかっぱ頭の少女が正座していた。

 真っ黒な髪の毛が電灯の光に照らされて、艶やかに輝いているのがぼんやりと見えた。

 私は、布団から起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。

 それに、目も霞んでいてよく見えないし、頭がぼーっとして意識がはっきりしなかった。

「窮奇のお姉ちゃん、まだ辛そうだね。今ご主人様呼んでくるから大人しく待ってて!」

 和装のおかっぱ少女は、元気よくそう云うと、襖を開けて出て行った。

 その背中の蝶結びにした黄色の帯が鮮やかだった。

 ――それにしても、ここはどこだろうか。

 どうして、私はこんな所で寝ているのだろうか。

 私は、何をしていたんだっけ。

 ――段々と意識がはっきりしてきた。

 確か放課後、国上と一緒に……。

 身体の方は、指一本も動かせない。

 まるで金縛りにあっているかのように、身体が言うことを聞かない。

 首だけは何とか動いたから、寝たまま辺りを見回す。

 ここは、どうやら和室のようだった。

 広さは、六畳くらいだろうか。

 畳の上に布団を敷いて寝ている私。

 枕元には、お盆の上に湯飲みが一個乗っていた。

 その横には、漫画が一冊置いてあった。

 恐らく、あのおかっぱ少女が読んでいたものであろう。

 他には、茶箪笥とちゃぶ台が一個ずつあるだけだった。

 私の置かれている状況が皆目わからない。

 私は、私の疑いを晴らそうと布仙さんを尾行して、それで……。

 頑張って記憶にアクセスしようとしても、そこでブロックがかかるように何も思い出せない。

 そうして、私が段々不安な気持ちになっていると――。

 どたばたと足音が聞こえてきた。

 床で横になっているから、その振動が身体中によく伝わる。

 どうやら、廊下を急いで走っているらしいことはわかる。

 私のいる部屋の前で、その足音は止まった。

 そして、開きっぱなしだった襖の方を見ると――。

「美濃ちゃん!無事でよかったあ。ずっと起きるの待ってたんだよ!」

 足音の正体は、国上だった。

 流石の私も足音だけでは、国上と判断できなかった。

 彼女は、呼吸が少し上がったまま私の横に座ると、勢いよく抱き着いてきた。

「本当に心配したんだから……!」

 国上の心臓の音がどくどくと直接私の身体に響いてくる。

 その音に釣られて、私の鼓動も高鳴るのを感じた。

 そして、彼女の上昇している体温がゆっくりと流れてきて、私の身体と同化した。

「う、うん……ごめんね……ごめんね……」

 私は、何とか腕だけ動かし、国上の背中をさすりながら云った。

 ますます状況がわからなくなっているが、それでも彼女に心配をかけたことだけは把握できた。

「うん……いいよ、許してあげる」

 国上は、少し泣いているようだった。

 彼女は、強い女の子に見えて、意外に涙もろいのかもしれない。

 私も国上の顔を見て凄く安心したから、自然と涙が溢れてきた。

 彼女が側にいてくれるだけで、私の不安な気持ちは薄らいでいった。

 私は身体を起こせないから、国上が離れるまでしばらくの間、そうして抱き合っていた。

 ――すると、人の気配がしたので襖の方に顔を向けた。

 その廊下には、真っ黒いスーツを着た男の人が立っていた。

 首元には、スーツと同じく、吸い込まれそうな程黒いネクタイを締めている。

 私は、ネクタイというものを見るのがあまり好きではなかったから、少し不快になった。

 手には、白色の手袋のようなものを嵌めている。スーツやネクタイの色と対比されて、より真っ白く、光っているように見える。

 その甲には、五芒星のようなマークが描かれていた。

 五芒星……。それは、陰陽師のシンボルではなかったか……。

 しかし、足音一つしなかったのが不気味だった。

「ようやく、眠り姫のお目覚めだね」

「はい、おかげさまで。ありがとうございました、古本屋さん」

 国上は、私の身体からすっと離れてそう云った。

「否、例には及ばないよ。君を危険な目に遭わせてしまったからにはね」

 まあ奴が君に攻撃することはなかっただろうが、と男は、呟くように云った。

 私は、本当にもう何がなんだかわからなかった。

 それに、古本屋だって?

 何でここで古本屋なんて職業名が出てくるんだ。

「ご主人様、窮奇のお姉ちゃんは、まだ記憶がはっきりとしていないみたいです」

 いつの間にか男の後ろにいた、さっきのおかっぱ少女が云った。

「そうかい。まあ無理もないだろう。もう少し意識がはっきりしてくれば自然と思い出すさ。意識を失ったことや局所的な記憶障害も脳の自己防衛機制のようなものだからね。もっとも、君に思い出してほしい記憶は別にあるんだけれど」

 男は、淡々とそう云った。

「古本屋さん、美濃ちゃんもこうして無事に目覚めたことですし、もっと詳しく聞かせてください。美濃ちゃんのこと……それに、この世界のことを……」

 国上は、男に向かってそう云った。

 その声は、微かに震えているようだった。

「うん、順を追って説明していくよ。しかし、まあ彼女のことは、僕より君の方が詳しいと思うけどね」

 この贅沢で我儘なお姫様のことは、と男は、静かに云った。

 そして、私の顔を見た。

 私は、反射的に目を逸らす。

 私が我儘で贅沢なお姫様?

 一体この男は、さっきから何を言っているのだろうか。

 この男――古本屋と呼ばれた人物。私は、男性というものが大嫌いだが、この人からは不思議と、あの男特有の嫌な雰囲気は感じなかった。

 というか、私は、この古本屋を何故男性であると認識しているのか、自分でもよくわからなかった。

 年齢は、二十代後半位だろうか。否、その顔や見た目からは上手く判別できない。背格好の方は、確かに男性だった。しかし、男特有の筋肉質な身体の感じは、少なくともそのスーツの上からは見て取れない。

 顔立ちは、中性的だ。髪型も男女両方ともつかない。

 声は、男性的だが、それでも高い方だし、あの男特有の嫌な音ではない。しかし、喉ぼとけは確かにあった。

 だから、生物学的には男なんだろう。

 私は、警戒心を強くした。

 ただでさえ意味不明な状況なのだ。それに、まだ身体の言うことが利かない。何かされても抵抗できそうにない。

「よし、じゃあ、全員揃ったことだし、状況説明と今後の作戦会議といこうか」

 この世界から抜け出すためのね、と古本屋は、不敵に笑みを浮かべて云った。

「ちょ、ちょっと待ってください。あ、あなた達二人は、誰なんですか!?それに、ここは……。まだ全然状況が吞み込めていません」

 放っておくと、どんどんと先に話が進みそうだったから、そこで私は、当然の質問をした。

 この意味不明な状況に置かれている身として。

 一体何者なんだこの二人は。

 国上は、古本屋と呼んでいるが、何だかそれが余計に怪しさを増している。

 彼女は、私が気絶していた間に先んじて何かしらの説明を受けていたのだろう。

 国上の様子や、気絶していたらしい私をこうして保護してくれているところを見ると、まあ大丈夫だろうとは思うが……。

 それに、小学校一~二年生位だろうか、まだ幼い少女を連れているところを見ると、何かしらの犯罪者とは考えたくない。

 この男の子どもだろうか。まあ年齢的には有り得るか。否、この男の年齢は、その見た目では、はっきりと判断できないのだ。

 となると、このおかっぱ少女も含めた女子誘拐犯ということも考えられる。

 否、しかし、おかっぱ少女は、この男のことをご主人様と呼んでいた。

 ご主人様……。嫌な言葉だ。

「大丈夫だよ、美濃ちゃん。私が保障する。だから、二人で一緒に古本屋さんの話を聞こ?」

 国上は、私の考え込む顔を見てそう云った。

 そして、両手で私の左手を握ってくれた。

 その手は、少し震えていたけど、凄く温かかった。

 恐らく、その顔いっぱいに不安を表していた私を察してくれたのであろう。

 彼女は、本当に優しい。自分だってきっと不安なはずなのに。

 でも、彼女が言うのなら、とりあえず黙って聞いていようか……。

「ああ、ごめん、ごめん。自己紹介がまだだったね。僕は、古本屋をやらせてもらっている。しかし、これは副業みたいなものでね。まあ暇つぶしみたいなものさ。本業としては――妖怪退治の陰陽師をやらせてもらっている」

 否、やらされていると言った方が正しいか、と古本屋は、何故か哀しそうな顔でそう云った。

「私は、反枕まくらがえしといいます!よろしくお願いします、窮奇のお姉ちゃん」

 おかっぱ少女は、楽しそうな顔でそう云った。

「そして、ここは、僕の隠里かくれざと――結界内さ」

 そこで、古本屋は部屋の中に入り、畳に胡坐をかいて座った。

 その横にちょこんと、おかっぱ少女も座った。

 ま、反枕だって……?

 それは、妖怪――の名ではないか。

 否、そもそも、妖怪反枕は、こんな少女の姿なんかではないだろう。

 反枕――人間が夜寝ている間に、枕を思わぬ位置に移動させるという妖怪。その名である枕を返すという行為は、その昔不吉なことと思われていたらしい。

 それに……妖怪退治の陰陽師だって?

 陰陽師――平安時代頃に、陰陽五行説という学問思想に基づいた陰陽道でもって、政治補佐等をしていたという役職。何も現代のイメージのような妖怪退治ばかりをしていたわけではない。

 しかし、この現代に、陰陽師なんて時代遅れな職業はない。

 しかも、妖怪退治ときた。

 否、まず妖怪なんてものはいない。

 私は、二人の自己紹介を受けて、余計にますます混乱するばかりだった。

 そう、妖怪などこの現実にはいないのだ……。

 ――でも……あの時見たのは……。

 あれは……。あいつは……。あの化け物は……。

「美濃ちゃん、大丈夫?凄い汗だよ」

 国上はそう云って、ポケットからハンカチを取り出すと、私の額の汗を拭いてくれた。

「どうやら記憶が戻ってきたようだね。徐々に身体の方も回復してくるはずだ。でも、今はまだ安静にしておいた方がいい」

 ――そうだ。思い出した。

 私は、あの化け物に襲われて……それで、この男に助けられたんだ。

 否、襲われたのは、私ではない。

 私は、あの時、国上が襲われているのを見ているだけで何もできなかった。

 否、恐怖で見ていることすらできなかった。

 現実から目を逸らしたのだ。

 残酷で、どうしようもない現実から逃げたのだ。

「ごめん、国上ちゃん……。私、あの時……」

 私は、彼女の顔を、目を見て謝罪した。

「いいのいいの。あの状況で何かできる方が可笑しいもん。私も美濃ちゃんのこと守れなくてごめんね」

 国上は笑いながらそう云って、枕元の湯飲みを取って私に飲ませてくれた。

 やっぱり彼女は、本当に優しい。でも、お茶を飲ませてもらうのは、流石の私も恥ずかしかった。

 国上は、再び両手で私の左手を握った。

「あ、布仙ちゃんは、あの後しっかり家まで送り届けたから安心して」

 彼女は、そう付け足した。

 しかし、私は、それを聞いて何故か少し不快な気持ちになった。

「とりあえず、話を先に進ませてもらうよ。まず、君、美濃雨奈君。君は、今ここにはいない。その本体は……病院で何日も眠っているんだ」

 国上の握る手の力が強くなる。

 そして、彼女は、黙って俯いた。

「……は?すいません、仰っていることの意味が……」

 確かに、さっき気絶する前までの記憶は、何となく思い出した。しかし、先程から入ってくるこの男からの新しい情報は、全く理解できない。

 否、理解できないといえば、あの襲われた時からずっと理解はできていないのだが。

「いいの、美濃ちゃん。もう少し黙って一緒に聞いてよ?」

 国上はそう云って、私の上半身を布団の上に倒した。

 その顔は、今にもまた泣き出しそうだった。

 私は、どれだけこの子を泣かせれば気が済むのだろうか。

「君は本当に幸せ者だな、羨ましいよ美濃君。……じゃあ、反枕ちゃん、見せてやってくれ」

「はいです!ご主人様」

 そう云って、おかっぱ少女――反枕が寝ている私の枕元に立った。

「ちょっと失礼しますね、窮奇のお姉ちゃん」

「え……ちょ、な、何?何するの」

 反枕……ちゃんは、私の言葉を無視して続ける。

「じゃあ、少し首上げててね」

 そう云って、右手で私の頭を強引に持ち上げると、左手で枕を裏側にひっくり返したようだった。

「これでよしっと!もう頭下ろして大丈夫だよ」

 右手が抜けて、私の頭が再び枕に乗る。

「……う、うわあ!」

 私は、あまりに吃驚して、凄く間抜けな声を上げてしまった。

「ど、どうしたの、大丈夫!?」

 国上の心配する声が聞こえたが、そっちまで気が回らなかった。

 だから、代わりに古本屋が答えた。

「何も心配することはないよ。状況を把握してもらうために手っ取り早い方法を取っただけだ」

 枕に乗った瞬間、映像のようなものが鮮明に私の頭の中に流れ込んできた。

 その映像の中で、確かに私は、病院のベッドで寝ていた。

 病室の角から見下ろすように、私が私を見ていた。

 現とも夢ともつかない不思議な感じ。

 何故か、まやかしだろう、と一蹴できない奇妙なリアリティがあった。

「それはそうさ。だって、それが現実世界における今現在の君自身の姿なんだから。今ここにいる君は、言わば意識だけの存在だ」

 古本屋は続ける。

「そして、この世界は君、美濃雨奈の頭の中……というわけさ」

「……は?」

「だから、ここは、君自身の頭――心の中なんだよ。まあ精神世界……夢……妄想……」

 否、君の場合、空想の世界と言った方が正しいのかもしれないね、と古本屋は云った。

 ――空想の世界……それは、私が……。

 私は、黙っている国上の方を見た。彼女は、それに気づいて無理に笑顔を作ってくれたようだった。

「美濃ちゃん、信じられないかもしれないけど、古本屋さんが言っていることは、どうやら本当らしいの」

 先程からの国上の口振りや態度から察するに、とても嘘をついたり、ふざけているとは思えない。

 それに、彼女は、こんな状況でふざけるような人間ではない。

 だとしたら、私は、悪い夢か何かを見ているのだろうか。

 否、先程ここは、夢の世界だと言われているのだ。

 もう何が何だかわからない。

 頭が可笑しくなりそうだった。

 ――自分の心の世界における意識だけの存在。

 とてもにわかには信じられない。

 でも、ここにいる自分を自分たらしめるものがないのも事実だった。

 それに、先程見させられた映像。あれは、本当に……。

 しかし、何で私は、病院のベッドなんかで……。

「私もこの世界に来て記憶が無くなっちゃってたみたいで忘れてたんだけど、美濃ちゃんは、駅で気絶して運ばれてから、あっちの世界では、もう一週間程眠っているの」

 困惑している私を見て、国上は、何だか悔しいような哀しいような顔でそう云った。

「そう、美濃君は、その駅で何故気絶なんかしていたのか。それを思い出してもらわなきゃならない。でないと、ここから君を現実世界に連れ戻すことができない。否、君達二人とも、ね」

 ――現実世界に戻る。

 何故かぞくりと背筋が冷えるような感覚がした。

 それに……。

「す、すいません、待ってください。現実……の私が病院で眠っていることはわかった……。それに、ここが私の頭の世界……だということもわかった……。本当は全くわからないけど、わかったことにする。で、でも、く、国上ちゃんは……ここにいる国上ちゃんは何なの……!?」

 まさか、ここにいる彼女も私の頭の中の妄想に過ぎないというのか……。

 この握っている手を通じて流れてくる温かさも錯覚なのか。

 だとしたら、私は、これからどうすれば……。

「落ち着きたまえ、美濃君。ここでは、国上君も君同様意識だけの存在だが、君の妄想というわけではない。ちゃんと本人だよ。僕達は、この反枕ちゃんの力で君の精神世界に入り込んできたんだ」

 ――反枕。

 次から次に意味不明なことを言われるからつい忘れていたが、そうだ、反枕とは一体何なんだ。

 まさか本当に、私が知っているような妖怪反枕だとでもいうのか。

「私の自慢の力でみんなを連れてきました!」

 反枕ちゃんは、得意気にそう云った。

「美濃ちゃん、大丈夫だよ。私もさっきまで、この世界に来るまでの記憶を無くしてたって言ったけど、反枕ちゃんに全部思い出させてもらったの」

 私は、美濃ちゃんを救うために、この世界に来たんだって、と国上は、笑顔でそう云った。

 ずっと握ってくれている彼女の手の温もりが、そこでもう一度しっかり実感できて安心した。

 少し手汗をかいてきているのが恥ずかしい。

 でも、絶対に離したくなかった。

「他人の精神世界に入る際には、持ち込めない記憶があるんだ。君の場合、特にね。だから、さっき反枕ちゃんに復元してもらったんだ。それと、国上君の本体は、あっちの世界での僕の隠里、もとい、ここと同じ古本屋で眠っているから安心したまえ」

 この意味のわからない状況は何一つ変わっていないが、とりあえず私はほっとした。

 そして――。

 隠里――これは、昔から全国によくあるいわゆる神隠しの名称だったと思う。

 しかし、窮奇に反枕に隠里――。

 何かの本で読んだような……。

「やはり君は、妖怪――について詳しいようだね。君が読んだその本は、『画図百鬼夜行がずひゃっきやこう』に始まる一連のシリーズだろう。江戸時代の絵師鳥山石燕とりやませきえんが著した本だ。窮奇に反枕に隠里、これは、どれもそこに記載されている」

 ――そうだ、思い出した。その本は、私が妖怪に興味を持つきっかけとなったものだ。

 もちろん、私が読んだ本は、当時のものではなく、現代において復刻刊行されたものだが。

 しかし、ここにいる反枕と呼ばれた少女は、やはりそこに描かれていたものとは姿形が全く異なる。

 あの本に描かれていた反枕は、何だかぼんやりとしていて、羽衣を身に付けた半裸のしわのあるおじさんのような姿ではなかったか。

「うん、それが『画図百鬼夜行』に描かれている反枕の姿さ。でもね、妖怪の姿とは、それ一つとは決して限らない。というより、そもそも妖怪に姿形なんてものはないんだよ。丁度いい、君達が先程出逢った化け物について説明する前に、まず妖怪というものついて話しておこう」

 古本屋は、そこでやはり先程同様、何故か哀しそうな顔でそう云った。

「はい、ぜひ聞かせてください。あの私達を襲った化け物が一体何者なのかを……どうすれば美濃ちゃんの目を覚ませられるかを」

 国上は、古本屋の顔を見て、はっきりとした口調で云った。

「妖怪なんてこの世にいないよ……」

 私は、誰に言うでもなく、ぼそっと呟くように云った。

 しかし、古本屋は、ちゃんと聞き取ったようで――。

「ああ、もちろん妖怪なんていないさ。しかし、ここは、さっきも言ったように君の精神世界だよ。この世ではない。それに、現に君は、あの化け物に出逢い、そして、襲われたじゃないか。ここでは、妖怪も、それ以上に意味のわからないものだって存在するんだよ」

 古本屋は、そこで私と国上の顔を順に見回して、話を続ける。

「妖怪というのは、人間の心の闇――ブラックボックスから生まれる存在なんだ。人間の脳や心、意識というのは、未だ解明されていないことが多くてね。その闇の領域こそが、妖怪の発生する場所なのさ。そして、人間の不安や恐怖といった感情を喰らい、その姿を形成していく。だからね、姿形なんてものは、一つのものに固定化されていないんだよ。その時代や、その人に合わせて、あるいは、場所や雰囲気に合わせて、その姿は変幻自在に変わるのさ。同じ妖怪を指していたって、名前も違うことだって多い。妖怪は、本来姿形なんてない、見えないんだ」

 私は、そこでふと反枕ちゃんの方を見た。

 すると、いつの間にか、寝転びながら漫画を読んでいた。

 その顔は、幼く可愛らしい顔だが、どこか不気味に見えた。

「人間は、確かに何かを感じたが、目に見えないそれらを言葉――文字や文章、漢字等で表し、名前を付けた。そして、それを文献や伝承、口伝等で共有し、後世へと語り継いだ。妖怪とは、言葉の中でのみ生きる――まるで小説みたいなものだ。つまり、人間の想像力――空想力が生んだ化け物なんだ」

「そして、それら化け物は、共有し、語り継がれる過程で、尾ひれが付いたり、別のものと混同され、より混沌としていく。今回のような紛い物が生まれる可能性だって低くないということさ」

 まあこの子の場合は、少し例外なんだけどね、と古本屋は、そこで反枕ちゃんを指差して呟くよう云った。

 私が知っている反枕は、あくまでも、江戸時代の絵師である鳥山石燕が描いた姿形でしかないということか……。

 そして、人間の空想力が生んだ存在――。

 わかったような、わからないような……。

「しかし、その能力――性質の方は、決まった、そういうものとして、あまり大きくは変化しない。人間の心の闇、感情の一部から生まれた妖怪は、切り取られた、そういうものとしての機能しか持たないんだ。そして、この反枕ちゃんは、人間の夢や記憶に関しての性質を持っている。だから、君のこの夢のような精神世界に入り込むことや、国上君の記憶を呼び起こすようなことだってできたわけだ」

 古本屋は、そこで一息ついた。

 反枕ちゃんは、自慢気な顔をしている。

 その顔を見て、もう不気味には見えなかった。

「また、言い換えれば妖怪というものは、人間の心の無駄な部分から生み出された余剰物。無意味なものなんだよ」

「と、とりあえず妖怪……については、わかりました。だとすると、私達が襲われたあの化け物も妖怪なんですよね?では、あいつの目的……というか、あいつは何がしたいんでしょうか」

 国上は、妖怪とかそういったものには全く興味がないタイプの人間である。

 というか、そもそも、妖怪なんかに興味のある人間、とりわけ女子の方が珍しいだろう。

 だから、国上は、彼女なりに必死に理解しようとしているのだ。

 でも、それは、私のためにしてくれていることである……ということに、ようやっと気づく。

 とことん私は駄目な人間だ。

「否、あいつは、妖怪ですらない。それ以上に意味がわからない化け物。否、化け物ですらない――紛い物なんだ。もちろん、目的――つまり、どういった性質を持つ存在なのかも今のところ不明だね」

 古本屋は、腕を組みながらそう云った。

「でも、私達は、窮奇の噂を確かめるために尾行していたんです。だから、妖怪窮奇ではないんでしょうか」

 そうだ、私達は、妖怪窮奇の真相を確かめるために、布仙さんを尾行していたんだ。

 でも、そこに現れたのは……。

「国上君、君はあいつの姿を見て、窮奇だと思ったのかい?妖怪なんか詳しくない君でも、窮奇くらいは知っているだろう?……まあでも、確かに窮奇の耳や尻尾は生えていたな」

 窮奇――旋風に乗って現れ、背後から人を切りつけるという妖怪。しかし、その爪は鎌のように鋭く、それ故に切られても痛みを感じないという。

 しかし、あいつは、この世界で流行っていた噂通り、私――の姿だった。

 鎌を右手に持って、顔が闇のように昏くて、そして……。

「口が大きく裂けていた。そんな妖怪、僕は知らない。否、いないんだ。あいつはね、窮奇にドッペルゲンガー、さらには、口裂け女が混じり合った存在――だから、紛い物なのさ」

 私は、あいつを見て、口裂け女だと言った。

 国上は、あいつを見て、ドッペルゲンガーだと言った。

 ドッペルゲンガー――自分とそっくり同じ姿の人間が現れるという怪異で、それは、死の前兆であるらしい。

「だから、あいつが何だと言われても、僕にもわからないんだ。しかし、一つ言えるとすれば、あいつを退治すれば、この世界は消滅する。つまり、美濃君も国上君も無事に元の世界に帰れるというわけさ」

 古本屋は、そこで私の顔を見た。

 その人を見透かすような視線を当てられて、私は、すぐに逃れるよう下を向いた。

「退治すればって……あの時古本屋さんが倒したんじゃ……」

 国上は、黙っている私に代わって質問をしてくれる。

「否、あれは倒したんじゃない。一時的に撃退させただけだ。退治できるのは、この世界の主である、美濃君本人しかいない」

 私は、古本屋の視線が怖かったから、俯いたままである。

「そんな……。それじゃあ、いくら何でも美濃ちゃんが危険過ぎます。それに、何で……」

「大丈夫。そのために、僕達と君が来たんだろう。あの紛い物は、この世界のもう一人の主、つまり、神様なんだよ。この世界における万物の創造主ってわけさ。そんな存在を退治できるのは、本人しかいないんだ」

 まあ唯一絶対の神は、二人といないんだけどね、と古本屋は云った。

「この世界の神様ですか……。でも、それも気になっていました。なんで美濃ちゃんにだけこんな世界があるのかって。だって、ここは、現実世界と全く変わりませんよ」

 私の疑問を全部代わりに質問してくれる国上。

 もうお互いの握る手は、手汗でびしょびしょだった。

 でも、やっぱり離そうとはしなかった。お互いに。

「否、美濃君にだけしか精神世界がないわけではない。むしろ、どんな人間だろうと精神世界というものは存在する。もちろん、君にもね。しかし、それがこんな美しく綺麗な……綺麗過ぎる形で現れることはないんだ。それこそ、現実世界と瓜二つレベルでね。いくらどんな人間も精神世界を持っているといっても、それは、大抵歪で不完全なものなんだ。だから、普通の人は、それを認識することはできない。ましてや、その中に閉じ籠って出てこないなんてことは、あり得ないんだよ」

 私も国上も黙って聞いている。

 古本屋は、一息ついて、話を続ける。

「では、どうして美濃君にだけこんな高度な世界が創造し得たか。そこで、あの紛い物――創造主が出てくるわけさ。あいつが美濃君の願いを叶える形で、この良くできた箱庭のような世界の創造を手伝ったんだ。そして、それには、元から美濃君が普通の人とは比較できない程想像力豊かだったことも大きく関係している」

 私自身の力とあの紛い物の力でできた世界……ということだろうか。

 もうここまでくると、一周回って冷静になっている自分に気づく。

「ちなみに、現実世界と変わらないといっても、この世界に来る際上から見下ろしたが、この街しか創造されていない。それ以外は、空白……何もない無の世界だったよ。だから、まさしくここは、箱庭のような世界だね」

「でも、そんな手伝ってくれた神様のような存在が、何でこの世界で暴れているんでしょうか。私も危うく殺されそうになりましたし……」

「それも美濃君の願いを叶えるためさ。それに、この世界の主である美濃君はもちろん、君もあいつに殺されることはないから安心したまえ」

「はあ……」

 国上は、事実襲われた手前、あまり納得いっていないようだった。

 もちろん、私も納得していない。

 しかし、それにしても、さっきから私の願いを叶えるためって、一体何のことだろうか……。

「そう、美濃君には、それを思い出してもらわないといけない。でないと、この世界から無事に出られたとして、また同じようなことになりかねない。……元の原因を断たない限りはね」

 元の原因……。こうなってしまったことの何かきっかけがあると言うのか。

 しかし、思い出すと言われても、何を思い出せばいいのやら……。

「まあそれは、追々元の世界に無事帰れてからでいいさ。急いでも余計に悪化するだけだからね」

 古本屋は、私に向かって、一瞬憐れむような視線を向けた。

 その台詞の意味や、その視線の意図は、まるでわからなかった。

「う~ん。でも、何で私が必要だったんでしょうか。この世界に来るのは、古本屋さんと反枕ちゃんだけで十分だったとしか思えません。それに……」

 国上は、眉をひそめて云った。

 私は、そんな彼女の顔も可愛い、と呑気に思った。

「元からこの世界に創られていた私は、どこにいるんでしょうか。それこそ、ドッペルゲンガーみたいに鉢合わせでもしたら」

 もう彼女は、この混沌とした状況に順応して、適格な質問をしているようだった。

 でも、言われてみれば確かに、クラスの生徒や先生までいるのに、この世界で国上だけが存在しないのは不自然だ。ましてや、私の精神の世界に限って。

 国上が私の心の中に入ってきてくれなかったら、今頃私はどうなっていたかわからない。

 彼女は、私に絶対必要な存在なんだ。

「国上君は、この世界には最初から存在しなかったんだよ。まず、いくら反枕ちゃんの能力があるといっても、他人の夢、精神世界に入るなんてのは、リスクが大きすぎるんだ。そもそも、他人が外部から侵入するなんて、そうそうできることじゃない。その人の精神に強く拒まれて阻止されるだけだ。何故なら、精神というのは非常にデリケートでね、外部からの侵入を受けたら壊れてしまう可能性だって高いんだ。そして、壊れてしまった世界は、もう二度と元に戻らないかもしれない。だから、自衛のために固く拒むんだ。それに、運よく入れたとしても、下手をしたら戻って来られなくなる。そんな危険なことを素人にさせる程僕も落ちぶれちゃいないよ。ただ、今回に限って言えば、国上君は例外中の例外だったんだ」

 美濃君、君にとってのね、と古本屋は、私の方を横目で見て、静かに云った。

「私が美濃ちゃんの例外?」

 国上はそう云って、私の顔を見たが、私は咄嗟に顔を逸らした。

 私にとっての例外は、国上しかいない。

 というより、例外も何も国上しかいない。例外しかない。

「そう。まあそこら辺は、美濃君のプライバシーの問題だからね、あまり踏み込まないが、とにかく美濃君の精神は、この世界には存在しない君を必要としていた」

 それも飛び切り強く、切望していた、と古本屋は、念を押すように云った。

「ツインテールのお姉ちゃんだったら、簡単に窮奇のお姉ちゃんの夢の中に入れると思ったの!だから呼んだんだ~」

「うん、強く求めていたものだからね。そりゃあ、すんなりと入れるさ。そして、国上君の侵入を受けてできた僅かな歪から、僕達もリスクを極力減らして入り込むことができたってわけさ」

 私は、それを聞いて、自分の気持ちが晒されているような気がして凄く恥ずかしかった。

 国上は、これを聞いて、どう思っているのだろうか。

 私は、握っている手の平はもちろん、足の裏まで汗でびっしょりと濡れていた。

「極力リスクを減らしたといっても、僕達という異物の侵入を受けて、美濃君の精神は多少なりとも混乱した。先程意識を失ったり、記憶が混濁したのは、それが原因だろうね。これも脳――精神の自衛の一つだ」

 古本屋は云い終ると、反枕ちゃんに誰かを呼んでくるよう促した。

「さて、そこで、君達二人にやってもらいたいことなんだが」

 私達、否、国上はともかく、この状況で私に何ができるというのだろうか。

 この世界が私自身の心の中とはいえ、現実と何も変わりはないのだ。だったら、私は無力である。

 あんな恐ろしい奴を退治するなんて当然できっこない。

 さっきだって、身体が震えて何もできなかったのだ。

 怖くて怖くて仕方がないのだ。

 そんな感情も現実世界と何ら変わりない。

 それに、事実国上は襲われた。この古本屋の男がいくら殺されないとは言っても、この世界でどこにも保障なんてないのだ。

 第一、もしこの世界で死んでしまった場合どうなるというのだ。

 一生意識が戻らないとかになったら……。

 国上は、私を助けるために来たと言ってくれた。

 でも、彼女にもう一度危険が迫るようなことは絶対に嫌だ。

 私のためにこれ以上、危険に晒されてほしくない。

 怖くて恐ろしい思いをしてほしくない。

 でも、かといって、自分一人であいつを退治するなんて……。

「あの紛い物に、もう一度接触してくれ」

 そんな私には、その古本屋の言葉が凄く残酷に聞こえた。

 嫌だ嫌だ。できるわけない。

 しかし、古本屋はそんな私の顔を見て、察したようで――。

「君はこのままだったら、もう二度と現実世界には戻れなくなる。……しかし、君は、本当のところ帰りたくないのかもしれない。でも、このままじゃ彼女、国上君もここに閉じ込められることになる。それでもいいのかい……?」

 その口調は、厳しかった。

 否、厳しいように、私には聞こえた。

 でも、その通りなのだ……。国上が現実に戻るためには……。

 ――私は、彼女のためなら何だってする。

「しかし、二人とも安心してくれ。今度は、君達に危険が及ぶことはあり得ない」

 古本屋は、きっぱりと断言するように云った。

 そして、言い終わると同時に、襖が開いた。

 そこには、中学一~二年生位の女の子が立っていた。

 その着ている制服には見覚えがあった。

 それは、私が通っていた中学校――公立朝浜あさはま中学校――のものだった。胸の緑色のリボンが懐かしい。

 また、頭の上に、もう一つ緑色が見えた。

 それは、青々とした一枚の葉っぱ……であるらしかった。

 それが乗っている頭の髪は、ポニーテールで綺麗に結ばれており、美しい茶髪だった。

 そして、その茶髪と同色の耳が頭の上に二つと、尾骨の辺りからは、丸くて大きな可愛らしい尻尾が一本生えていた。

「か、可愛い~」

 国上がまるで犬や猫なんかのペットでも見るような顔つきで云った。

「紹介するよ。君達二人と一緒に行動してもらう、たぬきちゃんだ。仲良くしてやってくれ」

「よ、よろしくお願いします。え、えっと、美濃お姉ちゃんに、国上お姉ちゃん」

 狸――と呼ばれた少女は、そう云ってぺこりと頭を下げた。すると、頭上の葉っぱがするりと落ちてしまった。

 それを慌てて拾う狸ちゃん。

「か、可愛い~」

 国上と私は、同時に口を開いて、呑気にそう云った。

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