死望

徒家エイト

第1話

「本日、JR線は人身事故多発のため、終日全線で運転を見合わせております」

「京王線はただいま東幡ヶ谷駅で人身事故が発生したため運転を見合わせ……」

「東京メトロ全線は本日乗り入れ先ダイヤが大幅に乱れた影響により運転を」

 私は黙って駅を出た。これではもう、会社には行けまい。

 救急車やパトカーのサイレンが鳴り響く中、会社に欠席の連絡を入れる。

 すると、上司から返信が来た。

『児玉さんから連絡来てないんだけど、佐倉さん何か聞いてる?』

 私はいいえとだけ打って、スマホをしまう。

 道行く人の数はいつもより少ない。何とか出社しようとする人もマスクの奥に不安を隠しているようだ。

 隠し切れない表情に、私は少しだけ安心する。

 一番嫌なのは、表情が見えないことだ。この状況でも、みんなが私と同じように不安や恐怖を抱えていると知ることが出来れば、少しだけ心が軽くなるようだった。

「すみません! 道を開けてください!」

 ちょうど私の目の前を、ブルーシートで覆いを作った救急隊員が通り抜ける。昔なら、スマホとともに好奇の目を向けていただろう人々は、今は嫌なものを見たとばかりに目を背けた。

 私も足早にこの場を過ぎ去る。

 周囲の商店は、多くが閉店していた。スーパーやコンビニは生活インフラと言うことで、人員を融通しあって何とか営業しているらしいが、それでも棚が閑散としている。

 物流が混乱したことと、社会不安が増大したこともあって買占めが多発したのだ。

 商店街も人通りは少ない。その中で、電気屋だけがシャッターを開けていた。

 ショーウインドーのテレビが、深刻そうな女性アナウンサーの顔をアップで映していた。

『新型ヘルペスウイルス感染症の猛威が広がっています。この感染症によるものかは不明ですが、国内で自殺された方の数は、この2週間で500万人を突破したと厚生労働省が発表しました』

 出鱈目みたいな曲線を描くグラフが映される。

『政府対策分科会は、このペースで死者数が推移した場合、来月には社会機能の維持が困難になるとして、対策案の策定を急いでいます。一方すでに国民の9割が感染しているものと推定され、緊急事態宣言の発出には慎重な姿勢を』

 この世界は今、急速に眠りつつあった。

 自殺者の数が世界的に上昇傾向にあるということは、数年前からぽつぽつと報じられていた。その時は経済的な不安だとか、孤独や孤立が原因だとか、心理学者だかカウンセラーだかわからない人たちがしたり顔で説明していた。

 それが今年に入り、異常な増加を見せるようになった。数年前まで3万人台だった日本の自殺者は、今年の1月だけで5万人を超えた。世界各国が同じような状況に陥った。

 この急激な自殺者数の増加が、新型のヘルペスウイルスによるものだと米国疾病予防センターが発表したのは、2月のことだった。

 元々ヒトヘルペスウイルスは人類の9割以上が感染しているポピュラーなウイルスだ。普段は人の神経系に潜み、免疫が弱ったタイミングで悪さをする。と言っても、口唇に発疹を作る程度だったが。

 そんなヘルペスウイルスが鬱病の原因になっているという研究も、すでに知られていた。神経系のある遺伝子を活性化させ、脳内にストレスを与える特殊なタンパク質を分泌させるらしい。

 今回現れた新型は、そんな嫌らしい特性を特化させた悪魔のようなウイルスだった。

 世界中の研究機関が知恵を総動員させたところによると、感染してから10年ほどは大人しくしているが、潜伏期間が過ぎると脳内で大暴れするらしい。

 その結果、どんなに健康で悩みもストレスもないと言った人間でも重度の鬱病を発症し、耐えがたい自殺念慮に襲われるのだ。

 最後には、自ら命を絶つことになる。

 世界中で大規模なスクリーニング検査が行われ、すでに人口の97%がこのウイルスに感染しているらしいことが判明。世界はパニックに陥った。

 日々増え続ける訃報を耳にしながら、いつ自分の番が回ってくるのか、まだ生きている人間の頭は、そんなことで頭がいっぱいだった。

 私は、その点では他の人たちとは少し違っていたが。


 サイレンをBGMに、私は自宅マンションへと帰ってきた。ここ数日色々あって騒がしかったが、今日は落ち着いている。見慣れてしまったとはいえ、『色々』は好んで見たい光景ではない。

 家へ帰る足取りは弾んでいる。というのも私は、このパンデミック以降かなり機嫌が良かった。たぶんこんな人間は、世界でもかなり稀だろう。

 別に滅亡願望があったとか、世界が嫌いとかそういうことではない。世界が滅亡の危機に瀕しているのはそれなりに心配だし、人が死ぬのは悲しい。

 だがそれ以上に嬉しいことがあった。私が大嫌いだった女の情けない顔が見れるようになったことだ。

「うう、ううううう」

 2LDKの、元々化粧台とタンスだけを置いておいた部屋に、その女はいた。

「ただいま、児玉」

「うううう!」

 全身をビニールひもで拘束された児玉ひかりは、わたしを見るなり涙を流して叫びだした。

「いい子にしてた? お腹すいたでしょ」

 彼女の口枷を外す。

「殺して!」

 枷が取れるなり、児玉は叫んだ。

「死にたい! 死にたいの! のぞみちゃん、このまま私を殺して」

「嫌。自殺ほう助って犯罪だし」

「もうやだ……いやだよ……」

 児玉はぐったりと俯く。

 児玉ひかり。私の同僚で、新型ヘルペスウイルス感染症を発症し、重度の自殺念慮に苛まれる感染者の一人だ。

 そして、私が世界で一番嫌いな女でもある。



 私がこだまと出会ったのは、新卒として今の会社に入社した時だった。

「佐倉さん、おはよっ!」

 有名なお嬢様学校の出身で、どこか浮世離れした朗らかさを持つ彼女は、一瞬で会社の人気者になった。

「どうも」

 一方の私は、暗くて陰気な女だった。国立大の理系出身で、友達も少ない陰鬱な奴。それが私。

 だから児玉を妬んだ、というほど、私は器の小さな女ではない、はずだ。少なくとも私があいつを嫌いなのは、それが理由ではない。

 私は別に、自分が嫌いだとか、こんな自分を変えたいだとかは思っていなかった。他人の評価なんてどうでもいいのだ。暗かろうが陰鬱だろうが、他人に迷惑をかけているわけではないのだから。

 だが児玉は、そんな私がお気に召さなかったらしい。

 事あるごとに絡んできては、私にその態度を直すよう言ってきた。

「ほらほら、のぞみちゃんも笑って! せっかくだし、明るく行こ!」

 うるさい。とは言えなかった。ただただ鬱陶しかった。なんだこいつは。自他の境界線も理解できないのか。

「のぞみちゃん、せっかくだし前髪あげてみようよ! ほら、すっごく美人!」

「ほっといてよね!」

 無遠慮に髪を上げてきた彼女に怒鳴ったこともあった。

 さすがに空気が凍り付いたが、彼女はそれにも気が付かず「ごめんね」と小さく笑っただけだった。

 次の日。

「はい、のぞみちゃん、これ!」

「……なに、これ」

「プレゼント!」

 児玉が渡してきたのは、ファンシーな柄の小さな紙袋だった。

「昨日帰りに見つけてね、のぼみちゃんなら絶対似合うって思ったの!」

 中に入っていたのは髪留め。紫のビーズがちりばめられた、大人びたデザインだった。

「なんで……」

「のぞみちゃんと仲良くなりたいなって思ったの。どうかな……?」

「…………。どうも」

 私はもう、怒る気力もなかった。


 児玉にストレスを感じながら仕事に励むこと半年。同期の一人が休職した。児玉はひどく心配そうにしていたが、私は特に絡みもない奴だったので、どうでもよかった。

 それから休む人間が多くなってきた。テレビは連日のように、有名人が自殺したという報道を流すようになった。

 直属の上長が死んだという噂が流れた時には、さすがに社内の雰囲気も変わった。そのころには、オフィスのデスクも空席が目立つようになっていた。

 ついに同期が私と児玉だけになった日の夜。私は駅でばったりと彼女に会った。

「……お疲れ」

 無視するのも座りが悪いので、それだけ言って立ち去ろうとする。だが、児玉の様子はおかしかった。

 遠くをぼんやりと見つめ、ふらふらとホームの端へと近づいていく。

『まもなく、電車が通過します。白線の内側に』

「……児玉さん?」

 私が近くで呼びかけても、彼女は返事をしなかった。こんなことは初めてだった。

『まもなく、電車が』

 警笛の音が聞こえ、前照灯がホームを照らす。彼女の足が白線を超えた。

 私はとっさに彼女を抱きしめた。

「何、するつもり……」

 そのまま後ろへと引きづる。私たちの通過した電車の風で翻る。

「死にたいの」

 彼女はぽつりと言った。甲高い金属音が駅に響く。通過しようとしたはずの電車が、急ブレーキをかけた。

 新型ヘルペスウイルスの存在が公表されたのは、次の日の朝のことだった。


「私はあなたが嫌いだった」

 あの日から、児玉はうちにいる。放っておけば死んでしまうため、何もできないよう厳重に拘束して。

 本来であれば警察沙汰だろうが、今はこんな行方不明事件が何万件も起きているはずだ。きっと届が出されていても、警察署のデスクに放置されたままだろう。

「世界は希望に満ちている、みたいな顔して、それを平気で人に押し付ける。鬱陶しいったらありゃしない。でも、あなたも私と同じように絶望を知ってくれたみたいで、すごくうれしい」

 児玉は泣きながら私を見ていた。私は冷凍の炒飯を彼女の目の前に置いた。

「ほら、食べて」

「いやだ」

「死ぬよ」

「死にたい」

 その時、児玉の腹が鳴った。正直な反応に、私は嬉しくて微笑む。

「お腹すいてるんじゃん」

 これ以上は時間の無駄と、私は彼女の口に炒飯を突っ込んだ。

「あふい」

「外に出てないあなたは知らないだろうけど、今こんな温かい食事は貴重だからね。感謝してよ」

 嫌がる児玉のせいで、食事は思いのほか時間がかかってしまった。なんだかんだと言いながら、児玉は炒飯をすべて食べきってしまった。

「身体は正直、って言った方が良い?」

 空になった皿を、いたずら気に見せる。児玉は相変わらず、沈んだ表情をしていた。

「いい顔。似合ってる」

「……ありがとう」

 児玉はぽつりと言った。

「ごちそうさま、でした」

「…………」

 腹が立つ。本当に。

 希望だの望みだの、勝手に抱いて、託して。そんな連中が、本当に嫌いだ。


 ついに電気が止まった。

 ラジオをつけると、何とかNHKが放送をしていた。

 どうやら復旧の見込みはないらしい。人手不足で原因の調査すらおぼつかないのだという。

 スーパーもコンビニも閉店し、窓ガラスを割って侵入する奴が現れ始めた。うるさくて眠れないほどだったマンション前の幹線道路は、ここ数日数人の歩行者が通っただけで、車は一台も通らない。そのうえ事故車が数両、放置されたままになっている。

 噂だと、みな地方に疎開しているらしい。少しでも感染を避けようとしての行動だというが、国の調査だと、すでに国民の99%が感染しているとも言われている。もはや感染を避ける努力は無駄だ。

 私も食料や水を確保するために、自転車に乗って遠くの商店まで出かけるようになった。会社はずいぶん前に休業することになって以来、音沙汰がない。

 とはいえなかなか二人分の食料は見つからず、空き家になったお宅から食料を失敬することも多くなった。

 今日も、一家全員が眠りにつかれたお宅にお邪魔して、インスタント麺を拝借する。

『瑞穂へ。あなたは生きていてください。愛してます。父・母』

 そんな紙が落ちていた。自分勝手な両親だ。いつの時代も、こんな親はなくならないのかもしれない。

 かつて自宅の居間でふらふらと揺れていた両親が、脳裏によみがえった。

 いや、今はこんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。

 ハエの数もすごかったので、私は足早にその家を後にした。

 表に泊めていた自転車に戦利品を詰め込み、さっさと家を離れる。閑静な住宅地だっただろうが、今は閑静を通し越してゴーストタウンだ。猫が時々道を横切る以外、道を動くものの姿はない。

 そろそろこの辺りも厳しいだろうな、とあたりを見て思う。商店は言わずもがな、住宅も空き巣に入られている家が多くなってきた。周囲も焦げ臭い。どこかで火事が起きているのだろう。

 食料調達も、かなり遠くまで行かなくてはいけなくなってきた。家庭菜園も始めているが、不足を補うほどではない。

 その時、スマートフォンが震えた。

 停電により基地局が停止している地区も多いが、政府は必死になって通信インフラの維持には努めているという。おかげでこの辺はまだアンテナが立っている。パンデミック以前から打ち上げられていた、民間企業の小型人工衛星網が功を奏しているらしい。とはいえ、連絡を取る相手はもういないが。

 今私のスマホを鳴らすのは、政府や行政からの緊急メッセージぐらいだ。だからそれほど気にも留めなかったが、私は一応画面を開いた。

『アテンション:わんちゃんが逃げ出しました!!』

 一瞬、頭が真っ白になった。

「え」

 もう一度メッセージを見る。これは元々ペットを遠隔で監視するためのシステムで、犬や猫が設置したセンサーを超えて外に出るとプッシュ通知を送ってくれるという代物だ。

 私はそれを児玉の監視に応用していた。あいつが拘束をほどいて外に出ると、警報が送られてくるよう設定しておいたのだ。

 それが反応したということは、つまり。

「児玉が、逃げた……」

 私は駆けだした。

 車も歩行者もいないので、考えられうる限り最速で、家に帰り着くことが出来た。  私は荒い息もそのままに、階段を駆け上がる。

 児玉が逃げた。

 感染した彼女が自由を得たら、どんな行動に出るかは明白だ。

 もうすでに、彼女はこの世にはいないかもしれない。

 鎖で厳重に鍵をしたドアを何とか開き、部屋の中に飛び込んだ。リビングの窓が開いている。私はベランダに出て下を覗き込む。そこに児玉はいない。

 部屋の中に戻り、児玉がいた部屋に行く。そこにも児玉の姿がない。あいつを縛っていたビニールひもと口枷代わりのスカーフだけが残されていた。

 なら風呂場だろうか。そう思って部屋を出た瞬間。

「のぞみちゃん」

「……児玉、さん」

 児玉は生きていた。死にそうな顔をして、台所に立っていた。

「なに、してるの……?」

 両手には何もない。腕も足も首も、傷一つなかった。

「のぞみちゃん」

 児玉はふらふらと近づいてくると、私の胸の中に顔をうずめた。

「……児玉さん?」

「おなか、すいた……」

 くぅ、という可愛らしいお腹の音が、部屋の中に響いた。


 レトルトのカレーを用意すると、児玉はパクパクと食べ始めた。私は彼女の向かいに座り、一緒に食事を取りながらその様子をうかがう。

 表情は乏しく虚ろだ。だが感染者はこんな勢いでカレーを食べることはないだろう。今朝までこいつは、自殺願望を隠そうともしなかった。

 治癒したのだろうか。いや、ニュースでは治療に成功したという報告はなかった。ならば、なぜ?

 私の視線に気が付いたのか、児玉が顔を上げた。スプーンをそっと置く。

「不思議、だよね」

 児玉はぽつりとつぶやいた。

「ひもが緩んで、外に出れたとき、私は死のうとしたの。ベランダから飛び降りて」

 開いたままのベランダが目に入る。風でカーテンが大きく揺れてた。

「それで、下を覗き込んだときに、怖いって思った」

「……そりゃそうでしょ。ここ6階だもん」

「そうじゃなくてね」

 児玉は、まっすぐ私を見た。

「のぞみちゃんがいないことが、怖いって思ったの」

「……なにそれ」

 あまりに訳が分からないことを言い出したので、思わす眉間にしわが寄った。児玉は私が怒ったと思ったのか、びくりと肩を震わせる。

「う、うん。私もよくわからないんだけどね」

 そう言って、いじいじと指を触った。

「……私、ずっとのぞみちゃんの笑顔が見たいって思ってたの」

「はぁ?」

「この子、笑ったら綺麗なんだろうな。見てみたいなって」

 児玉の顔が、初めて少しだけ緩んだ気がした。

「もし私がここで死んだら、のぞみちゃんの笑顔が二度とみられなくなっちゃう。そう思ったら、怖くて飛べなくなっちゃった……」

 本当は飛びたかったのだけど仕方なく諦めた、というような口ぶりだった。

 私は児玉の話がまったく理解できなかった。

 笑顔? 私の? 何を言ってるの、こいつは。

「……馬鹿じゃないの?」

「そう、かな」

「そうだと思う。世界がこんなことになってるのに、あんたってとびっきりの馬鹿」

 そう言うと、児玉はなぜか笑った。

「のぞみちゃん、そう言うこと言うんだ」

「……言うよ、そりゃ」

「初めて聞いた。少し仲良くなれたのかな?」

「……馬鹿」


 児玉の拘束はこれ以降解くことにした。勝手に死のうとしないのならあ、別に拘束する理由はない。代わりにどこへ行くにも、彼女を連れていくことにした。

 児玉は死のうとしなくなった代わりに、やたらと私にくっついてくるようになった。家にいれば隣に座り、道を行けば腕を組んでくる。

 決して恋人や仲の良い友人と言ったテンションではなく、どちらかと言えば介護に近い感覚だ。児玉曰く、私とくっついていると安心できるのだという。

 私としても、妙な気を起こされてもすぐに止められるという点では安心できた。物理的に鬱陶しい事この上なかったが。

 そうしている間にも、パンデミックは進んでいた。

 ここは東京だというのに、人と出会うことはほとんどなくなってしまった。ラジオもほとんど停波し、NHKですら機械音声の案内を流すだけになってしまった。

 インターネットは辛うじて生きていたが、もはや何かを発信する人は見られなくなってしまった。

 通信衛星を管理する外国企業のCEOが世界の98%でネット回線の利用がなくなったことをSNSで明かして、それきり更新を止めてしまった。

「食べ物、なくなっちゃったね」

「言われなくてもわかるっての」

 食料調達はここ数日成果がなかった。残りの食料を切り詰めに切り詰めていたが、それもとうとうなくなってしまった。

「どうしよっか」

「探しに行くしかないでしょう。生きたいなら」

「……そうだね」

 私たちは準備をして家を出た。たぶん、ここには二度と帰ってこないだろうと思いながら。

「どこに行くか決めてる?」

 春らしいワンピースに着替えた児玉が、顔を覗き込んできた。

ひとまず国道を下り方向に歩いていた。だが目的地は決めていない。

「別に。郊外の方が良いかなとは思ってるけど」

 私が、福袋か何かで買って、絶対に似合わないとクローゼットに押し込んだ服を、こいつはいとも簡単に着こなしている。なんだか腹が立ってしまった。

「じゃあさ」

 児玉はお出かけ先を提案するような口調で言った。

「星を見に行きたいな」

 そう言って、私の腕に飛びつく。

「邪魔」

「いいじゃん」

「歩いにくい」

「いいでしょ?」

 私はため息をついた。

「まあ、いいけど」

「どっちが?」

「どっちも」

 私は児玉の手を握り返すと、山の方に向かって歩き出した。

「あっちなら星も綺麗でしょ」

「ありがとう」

「別に」

 ぶっきらぼうに返事をする。

 しばらく、私たちは無言で道を歩いた。時々燃える臭いや爆発する音、カラスの群れが何かをついばむ姿が見えた。人の姿はなかった。

「のぞみちゃんはさ」

 三十分ほど歩いて、小さな公園で休憩をしているとき、ふと児玉が口を開いた。

「どうして迎えに来てくれたの?」

「いつ?」

「……いつも? 駅で私が飛び込もうとしたときと、紐がほどけた時」

「別に、迎えに言ったつもりはなかったけど」

「でも、走ってきてくれたでしょ?」

 私は極まりが悪くなり、児玉から目を逸らした。

「特に深い理由はないよ」

 そう言って、ペットボトルの水を一気に飲んだ。

「私、児玉さんのこと嫌いだったんだよね」

「えっ!?」

「えっ!?」

 それなりに嫌いだという態度を出していたはずなのに、なぜ今初めて知ったみたいな反応をしているんだ、こいつは。

「初めて知った……」

「……まあ、別にいいけど」

 本当に気付いてなかったのか。

「でも、嫌いって言う割には良くしてくれたよね?」

「あれを良くしたっていうならお互いに認識の齟齬がありそう」

 決して児玉を良く扱っていたつもりはない。

「まあ、あなたのこと嫌いだったんだよ。なんか、本音が見えなくて」

「…………」

「あなたが死にたいって言ったとき、はじめてあなたの本音が見えた気がした。それをもっと見たいって、児玉さんみたいな『良い子』の暗くてドロドロした、私と同じよう部分をもっと見たいって思った」

 口に出すと、心の中が片付いていくような気がした。私が何を感じ、どうしたかったのかが、驚くほど素直に言葉になって出て行った。

「でも、なんか違った」

「私、嘘ついてた?」

「っていうか、あなたは本当に『良い子』なんだなって。死にたいっていうのは、ウイルスのせいで言わされてるだけ。別に本音でもなんでもなかったんだよ」

「そう、かな。自分じゃもうわからないや」

「そうだよ。本当の児玉ひかりは、明るくて元気で、おせっかいなぐらい世話焼きな良い子」

「……じゃあ、本当の佐倉のぞみは?」

「……本当の私は、ただの陰気で嫉妬深い、嫌な女だよ。見たまんま」

「そうじゃない」

 いつの間にか、児玉の顔が目の前にあった。唇が触れてしまいそうなほど近かった。

「本当にあなたは、優しくて、思いやりがあって、面倒見がいい、美人で素敵な女性だよ」

「……ばか」

 私は児玉の顔を遠ざけた。


 数日歩いても、食べ物は見つからなかった。

 人もすでにいなかった。動物はちょくちょく見かけたが、狩りが出来るほどの技術も、それ以前に体力も残っていなかった。

「この辺であがりかな」

 電車なら一時間ほどで付くはずの郊外の林で、私たちはあおむけに寝転がった。

 もう一歩も歩けなかった。

 あたりは夕暮れも遅い時間で、すでに星々が輝き始めていた。

「そうかもね」

 児玉がか細い声で言った。私ももう、声が出ない。指の一本だって動かせる気がしなかった。

 世界はもう滅ぶのだろうという、確信めいた思いがあった。世界中で、私たちのような生き残った人間が、空を見上げて眠りに着こうとしている。そんな気がした。

「ねえ、のぞみちゃん」

「なに」

「こっちむいて」

 私はゆっくりと、隣にいる児玉の方を向いた。

「わらって」

 ばか、というのも面倒くさかった。私は表情を緩めた。

 ちゃんと笑うのは、何年ぶりだろう。上手く笑えている自信はない。

「きれい」

 児玉は微笑んだ。

「やっぱり、わらったほうがいいよ。すっごくすてき」

「そう」

 もう、私も素直に受け入れることにした。

「わたしは、ずっとほんとうのことしかいってないよ」

「わかってるよ」

 私は、彼女がうらやましかったのだろう。

 素直で、明るくて、世界は幸せに満ちているのだという風に笑っていた彼女のようになりたかったのだ。

「わたし、あなたになりたかった」

 朦朧とする意識の中で、私の本音が口をつく。

「あなたみたいになれなかった」

「そんなことないよ」

 彼女の手が、私の頬に触れた。

「あなたはすてきなひとだもの。わたしはぜったいそうおもう」

 そうか。

 私は、彼女に素敵だと思ってもらえる人だったのか。

 体がふと、軽くなった気がした。

 そう思ってもらえただけで、こんな私にも、こんな世界にも、意味があったような気がした。

「ありがとう」

 そう言うと、目の前がぼやけて、やがて暗くなっていった。

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死望 徒家エイト @takuwan-umeboshi

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