お気に入りの空

空野宇夜

月面にて

月には空と呼べるものは無い。


月へのテラフォーミング計画の始動より数年が経過した。男は計画開始よりずっと月面基地で過ごしている。この日も、彼は己の異常なまでの身軽さに違和感を抱いた。


男(仮にAとしよう)がコーヒー片手にソファに腰掛けガラス張りの壁から外を眺めていると別の男(Bとしておこう)が声をかけた。


「おはようございます。つっても月の1日なんて27日もありますけどね」


BはAと親しげに話し始めた。


「そうだな。今日もいい昼だ」


月にも当たり前のように昼夜のサイクルがある。わかりやすく言えば満月が地球で言う正午、新月が真夜中だ。


「そのコーヒー飲んだら朝食でも食べましょう」


「ああ」


その返事を聞きBはいつものようにAの隣に尻から飛び込むようにして勢いよく腰を下ろした。


「お前、よくそんな座り方できるな。もしかしてお前、最近筋トレしてないだろ」


「ええ?そんなことありませんよ。コツがあるんですよ、コツが」


Aは慣れたもので、Bのこの座り方にはもう感情的にはならなかった。それよりもAは地球を眺めながら飲むコーヒーの味を、このささやかな時間を楽しんでいた。


「今日も地球は青いですねえ」


Aは黙って頷いた。Bは地球に向き直った。地球から約38万km。自分たちが生まれ育った場所なのに、今や掌に収まるくらい小さく見える。


「帰りたいですか?」


「……、いいや」


「自分は恋人がいるので帰りたいです」


「ハッ、遠距離にしちゃあ遠すぎるよ」


「大丈夫ですって、彼女のことだから」


他愛無い話に耽るB。ふとAの右手に目をやると、コーヒーカップが空になっていた。


「もう空だったんですね。そこのシャッターを閉めて、行きましょう」


フッ、とAはBの慌てぶりに息を漏らし、リモコンを手に取って目の前の壁の外壁を下ろした。


食堂はテニスコートほどの広さで白と黒の2色だけで彩られていた。奥のカウンターでは作物部門の技術者達が宇宙食を配っていた。自然光を取り込むための窓が随所に見られた。


2人が朝食を貰いにカウンターまで行くとそこの反対側にいた髪を腰まで伸ばした女性(Cとしよう)が2人に微笑んだ。


「今日は何になさいますか?」


「自分たこ焼きで」


Bはいつも頼むものを言った。


「いつもそれじゃないですか。たまには違うのも食べてくださいよ。あ、そうだ。ついに私たち野菜を栽培できるようになったんですよ。ぜひ食べてください」


「俺はじゃあその野菜の入ったものと鯖缶と白米で」


Bが隣でどうしたものかと迷っているのを他所目にそう言った。


「はいはーい」


Cは上機嫌に言った。


「やっぱたこ焼き」


Bの捻り出された答えにCは呆れた。


「はいはーい」


肩を下ろすCだった。


注文した朝食を手に取り、AとBは席についた。Bは地球のとは似つかない乾燥したたこ焼きを手で食べた。


「ん〜うまい!」


「お前いい加減地球のたこ焼きの食べ方忘れたろ」


「そんなものは知りまへん」


「エセ関西弁もやめろ」


「はーい」


Aの朝食は彩豊かでBのものとは比べものにならなかった。炊いた白米に鯖缶それに加えて数年ぶりにAが食べる生野菜が盛られていた。


「寝起きなのによく食べますね」


「まあこんくらいは食べとかないと」


2人は数分で食べ終わった。Aは実に早く食べるものでたこ焼き4個のBとほぼ同時に食べ終わった。


「相も変わらず早いですね。じゃあ行きましょうか」


食堂に戻すものは戻して、ゴミもリサイクル出来るように分別した。2人が向かったのは基地のエアロックの付近だった。宇宙服を手に取り、難なくそれを着た。


「こちらアルファ—4。屋外活動の許可を」


「同じくアルファ—5。屋外活動の許可を」


エアロックの目の前に2人は立ち、無線に話しかけた。


「許可する。直ちに今日の労働を始めたまえ」


その声が聞こえたと思ったらエアロックの内扉が開いた。2人は外扉の前まで歩き、内扉が閉まるのを待った。


「さあ、気を引き締めろよ」


Aは言った。


「エアロックを開く。十分注意してくれ」


無線の声と共に外扉が開いた。エアロックから空気が抜けた。そして地面が目の前に広がった。


「仕事だ。行こう」


Bの肩を叩き、Aは言った。


「喜んで」


Bも肝を座らせ、言った。


Aは宇宙そらを見上げた。昔の彼の夢、それはこの宇宙そらを見上げることだった。地球が加わった星空。これが、彼のお気に入りの宇宙そら。彼は、今日も笑った。






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