第18話「結婚前の予行演習」
年が明けて仕事が始まり、それから数日が過ぎたある日のこと。
夕方になり、未夏が先に部屋に帰り、その数分後に京四郎が帰ってきた。
「ただいま・・・」
「お帰り。…どうしたの?」
未夏は京四郎の様子がおかしいことに気付いて聞いた。
「いや…今日は本当にあれでよかったのか?と思って…」
京四郎は頭を軽くかきながら、何があったかを話した。
「今日もいつも通りの日常が始まるんだな」と思いながら、仕事の準備をしていた。
朝礼が毎朝あるため、その朝礼が行われる場所に全員集合したのだが・・・。
赤ん坊の泣き声が現場全体に響き渡り、みんなは驚いた。
何事かと思いながらよく見ると、副社長がみんなに申し訳ないという表情をしながら赤ん坊をおんぶしていた。
「その赤ん坊は、どうしたんだ?」
「申し訳ありません。先日、孫を預かってる保育園が閉鎖されてしまって、しかも息子夫婦が急に数日間の出張になったのです。それに妻が去年亡くなったこともあって、私一人で面倒をみなければいけなくて…」
社長が聞き、副社長は頭を何度も下げながら説明した。
「それは大変だな…託児室を作っておけばよかったな…」
「それですが、空きスペースがあるので、そこに作ってはどうでしょうか?」
社長と副社長はこんな会話をしていたが、赤ん坊は泣き止まなかった。
子育ての経験がある女性社員たちがあやそうとしたが、泣き止む気配がなかった。
しかし、そんな時だった。
一人の男が赤ん坊にゆっくり手を伸ばし、そっと頭を撫でた。
「…大丈夫だから…怖いこと、何もないから…」
囁くように言いながらそっと撫で続けると、赤ん坊は徐々に泣き止み、それを見たみんなは驚いた。
「そんな…息子夫婦も泣き止ませるのに苦労してるのに…見慣れない顔だが、君は誰だ?」
「大改装が始まる少し前に入社しました、矢坂京四郎です」
副社長は驚きながら聞き、京四郎は赤ん坊の頭をそっと撫で続けながら自己紹介した。
京四郎は小さいころ、逸子をあやしていた時期があった。その経験が活きたのだろう。
「そういえば、近くにある会社の課長の紹介で入ったと聞いた。急で悪いが、今日は孫の世話を頼めるか?」
「でも、自分の仕事がありますので…」
「それは私が代わる。だから君は、孫を頼む」
「…わかりました」
そんなこんなで、京四郎は副社長の孫の面倒見るだけで今日は終わったのだった。
「そんなことが…」
未夏は驚くしかなかった。
「しかも今日の帰り際に、「託児室ができてベビーシッターを雇うまで、孫の面倒を見てほしい」って社長と副社長に頭を下げながら言われて…引き受けたはいいけど、何のために入社したのかわからなくなってしまって…」
京四郎は俯き、頭を掻きながら言った。
「私も、やってみたかったな…」
「何を?」
「お孫さんの面倒を見るの。育児がどれだけ大変か、知ったほうがいいと思ったの」
実際に自分が親になったときのことを考えてのことなのだろう。
「確かに、経験したほうがいいかもしれない。“結婚前の予行演習”みたいな感じで…」
「そういうことよ。でもずるいよ…私との結婚前に、父親の顔になっちゃって…」
未夏は膨れながら言った。
「そう言われてもな…」
言いながら頭をかいた。
この後は気を取り直して夕飯になり、食べ終えて少ししてから風呂に入って寝た。
「夕飯前、つい膨れちゃったけど、今は安心してるわ」
ベッドの上で、未夏は京四郎に後ろから抱きついて言った。
「安心?」
「私たちが親になったとき、子供のこと、大事にしてくれそうだから」
言いながら、自分の頭を京四郎の背中に当てた。
「たまたまうまくいっただけだと思うから安心はできない。でも未夏さんはもちろん、子供のことも大事にしたい気持ちは本当だから」
「うん…」
この時の京四郎は、「自分に子供ができたら、名前をどうしようか…」と考えていた。
それから数日間。京四郎は託児室ができるまで、空き部屋で副社長の孫の世話をしていた。
ミルクやあやすものなどは、副社長が用意したものを使っている。
「孫は大丈夫かな?」
入ってきた副社長が聞いた。
「今のところは問題ないです。でも…」
「でも、どうした? 何かあったのか?」
「特に何かあったというわけではないのですけど、みんな必死に働いてるときに、自分だけ子供の世話って…」
自分の今の立場にどこか負い目を感じている感じだった。
「気持ちはわかるが、孫がなぜか君以外に懐かないからなぁ…」
実際、副社長はみんなに孫の世話を頼んでみたが、京四郎に抱っこされた時しかおとなしくならなかった。
「どういうことなのか、自分でもわからないってのが…」
「不思議な話だが、君にも懐かなかったらどうしようかと思ったよ。これも仕事だと思って、孫を頼む」
言いながら頭を下げられ、戸惑うしかなかった。
(未夏さんにも来てほしい気分だ)
数日後。
託児室は完成し、ベビーシッターも雇ったことから、京四郎は現場に戻った。
しかし、理由があったとはいえ、しばらく離れていたことを考えると、どんな顔をしてみんなに会えばいいかわからなかった。
しかし、不思議なことに、みんなは京四郎を受け入れた。
「孫の世話で負い目を感じてたこと、副社長から聞いてたぞ。こっちのことは気にしなくてもよかったのに…」
先輩社員が声をかけた。
「そうかもしれませんけど、みんな必死に働いてるのにって思うと…いて」
京四郎が申し訳なさそうに言うと、先輩社員は京四郎の頭にチョップを軽く当てた。
「バカ。あれも仕事だったんだから、気にするなっての」
この後は気を取り直し、みんなで作業を始めた。
一方、その頃・・・。
「お母さん」
「睦美か。どうしたんじゃ?」
スミの家に、睦美がいた。
「少し前から顔色がよくないよ? どこか悪いの?」
「そう見えるだけじゃろ。わしはぴんぴんしとるよ」
いつものスミだったが、睦美はどこかおかしいという感じが拭えなかった。
数日後、和葉が再婚相手の
同時に、後から来た龍司が婚約者の
それからいつの間にか春になり、桜の花が見られるようになった。
ある休日。少し離れたところにある桜の名所で、スミ、憲治、睦美、和葉、陽介、龍司、和佳奈、夏海、京四郎、未夏、瑠璃が集まってお花見をしていた。
そしてみんなで、睦美が作った料理を食べることになった。
しかもそこには酒まで用意してあった。
京四郎と未夏以外は酒を飲むだろうと思っていたが、和葉も飲まなかった。
「あれ? お姉ちゃん、お酒飲まないの? いつもなら一升瓶なんて平気で飲むのに」
夏海が聞いた。
「う、うん…今は無理なの。実は私…4か月前に妊娠したの」
これを聞いて、憲治と睦美以外の全員が驚いた。
「そりゃぁめでたいな。わしはひい祖母ちゃんになるのか」
「私も睦美も、とうとう祖父ちゃん祖母ちゃんか…」
憲治は桜を見ながら言ったが、その顔は嬉しそうだった。
「和葉さん、陽介さん。おめでとうございます」
和佳奈が歩み寄って言った。
「和葉姉ぇも、ついに母親になるのか…本当に、めでたい話だ」
京四郎が空を見上げて言った。
この後はワイワイ話しながら料理を囲んで、箱が空になったころ合いを見て解散になった。
数日後に、和葉のお腹が目立ってくる前にということで、和葉と陽介はもちろん、同時に龍司と和佳奈の挙式を挙げた。
京四郎は自分の背広を持ってなかったが、代わりに龍司が高校で来ていた制服を借りたのは余談だ。
借りたというよりは、龍司が強引に貸したと言うべきだろうか。
龍司曰く、「お前は本当なら、今頃は高校に通ってたんだぞ? その気分をこれで少しでも感じておけ」とのことだった。
それからまた月日が過ぎて秋になった。
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