第5話 「乗り越えるための一歩」

 京四郎は、自分が一歩踏み出さない限りは今のままだと悟り、そして踏み出すのは今しかないと思い切った。

 だからこそ、次の言葉が口から出たのだろう。

「俺も…未夏さんのことが、好きです。これからは、職場の先輩後輩としてじゃなく、彼女として側にいてください」

 これを聞いた未夏は驚き、しばらく固まっていたが、硬直が解けると嬉し涙を流した。

「嬉しいです…私はこの日が来るのを、ずっと待ってました。いつか、京四郎さんの彼女になれる日を…」

「それじゃぁ…」

「…はい。私も、京四郎さんのことが、今も好きです。これからは、私の彼氏として側にいてください」

 京四郎が何も言わずに頷くと、未夏は京四郎の後頭部にそっと手を回し、京四郎の唇を自分の唇で塞いだ。

 しばらくして唇は離れた。

「何も俺がこんな状態のときにしなくても…風邪うつりますよ?」

「そのときは、京四郎さんが看病してください」

 微笑んで言う未夏に、京四郎は苦笑するしかなかった。

「京四郎さん…辛い過去は、二人で乗り越えて行きましょう。京四郎さんが過去を乗り越える気があるのなら、私も力を貸します」

 未夏はそう言って京四郎の手を握ると、京四郎は頷いて握り返した。

「今になって考えてみたら、最初のころから積極的みたいでしたけど…?」

「実は個人教育が終わった頃、女性社員たちの間で、京四郎さんの非公認ファンクラブができてしまってまして…このままでは取られてしまうと思ったのです」

 これを聞いて、京四郎は苦笑するしかなかった。

「京四郎さんを誰にも渡したくない気持ちが、私を突き動かしたのです。しばらくして、私と一緒に住むようになったことを知られたときは、みんなからジト目でニラまれました」

未夏はこの時のことを思い出してクスッと笑った。


 夜。京四郎は未夏が作ったお粥を食べた後、そのまま寝ようとしたが、風呂から上がって寝巻き姿になっている未夏に担ぎ上げられてベッドに移された。

「細い腕してるのに、力ありますね?」

 京四郎が聞くと、未夏は京四郎の額に軽い拳骨を当てた。

「その台詞、女性には禁句ですよ?」

「失礼…(細い腕って付け加えたのにな…)」

 これを聞いて未夏はクスッと笑い、京四郎の隣に入ってきた。

「み、未夏さん!?」

「こうして一緒に寝るのも、久しぶりですね」

 そう言って京四郎を抱き寄せる。

「久しぶりとか言う前に、マジで風邪うつりますよ!」

「私は構いません。それにこうして抱いてるだけですから、感染することはまずないでしょう」

 京四郎は苦笑しながらも、未夏から感じる暖かさに身を預けるかのように体の力を抜いた。

 それもつかの間、京四郎は静かに眠っていった。

 未夏はただ、京四郎の髪を優しく撫でていた。

「こんなときぐらいは、彼女である私に、素直に甘えてほしいです。だから今は…私の腕の中で、静かにおやすみなさい…su~」

 未夏も静かに眠っていった。京四郎を二度と離さないと硬く誓って、自分の腕に抱きながら…。

 だが、未夏はある重大なことを忘れていることに気づかなかった。


 次の日。京四郎は部屋の明るさで目を覚ました。しかし、横に未夏の姿がなかった。

 ハッと一瞬驚くが、キッチンから包丁で食材を切る音が聞こえて、食事を作っているのだと安心した。

 試しに体を起こしてみると、体は軽くなっており、熱も引いたみたいだった。

「風邪は治ったか…けど、未夏さんに感染うつってないかが問題だな」

「私なら大丈夫です」

 独り言のように言うと、いつの間にか横にいた未夏が返事して驚いた。

「体の調子はどうですか?」

「おかげさまで、よくなったみたいです」

 これを聞いて未夏はクスッと笑う。

「とにかく、今は朝ご飯にしましょう。まずはそれからです」

「そうですね。でもその前に、昨夜は風呂に入ってないので、体を洗ってからにします」

 京四郎はそう言って起き上がり、着替えやタオルなどを持ってバスルームに向かった。

「背中、流してあげましょうか?」

「い、いりません!」

 京四郎が慌てながら返事すると、未夏は口元を手で押さえてクスクスと笑っていた。

 気を取り直してバスルームに入り、未夏が入ってこれないように鍵を閉めた。

(冗談っぽかったけど、目が本気だったぞ…未夏さん、こんなに積極的だったか?)


 数分後、京四郎は着替えた状態でさっぱりした気持ちになってバスルームから出てきた。

「あ~さっぱりした~」

「じゃぁ食事にしましょうか?」

「そうしますか」

 こうして、3週間ぶりに二人で食事をした。


 そんなこんなで食事を終え、洗濯や掃除をした後、二人は小さなテーブルを間に挟んで向かい合って座った。

「さて…この3週間、京四郎さんはどこで何をしてたのか、教えてもらいましょうか?」

「…わかりました」

 京四郎は3週間前に職場から姿を消す直前のことから話した。


 仕事中に事務所に呼ばれ、何事かと思いながら行くと、そこには京四郎の父親、憲司と数人の男がいた。

「一部は課長から聞いてると思いますけど、用件は引き抜きでした。俺は断りましたが、親父たちは俺を人さらいのように無理矢理連れて行き、自分の会社に押し込んだのです」

 しかも監視が何人か交代でついており、一時も離れることがなかった。

「仕事が終わって帰ろうと思ったら、社員寮に無理矢理連れて行かされて、一時も気の休まるときがなかったのです。しかも辞職願いも受け付けてもらえなくて…あの職場での生活は、まさに監獄でした」

 そんなある日、憲司の会社の取引先の大手企業が現場見学に何度かやってきた。

 その間だけは京四郎に自由が効いており、外に出て空気を吸ったりしていた。

「それが唯一の救いでした。逃げる隙もありませんでしたが、そんな中でも、未夏さんのところに帰ろうと思う気持ちは、少しも変わりませんでした」

 それからまた何日かしたある日、監視の交代が入ったと思うと、その監視は偽者だった。

 事情を説明され、京四郎は人がやっと入れるほどの大きさの木の箱に入れられ、そのままトラックに乗せられてどこかへ行った。

 乗せられて着いた先は、スミの家だった。

「それからしばらくは祖母ちゃんの家にいました。本当なら未夏さんにすぐに連絡したかったけど、電話を盗聴される危険性が高くて、ずっと連絡できなかったのです。後で祖母ちゃんから、今までの経緯を色々聞きました」

 京四郎を憲司の会社から連れ去ったのはスミの知り合いの会社の人間だった。

 スミは大手企業の会長をしている知り合いに事情を説明し、京四郎をうまく連れ出すように頼んだのだった。

 ある日、憲司がスミの家に京四郎のことで訪ねたことがあったが、当然ながらスミはここにはいないと嘘を言って追い返した。

「そして一昨日の夜、もういいだろうということで、俺は一人で未夏さんのところに帰ろうとしました。頭がフラフラしてましたが、疲れてるだけだと思って気にしませんでした。ところが、公園で未夏さんの姿を見たとき、安心感で力が抜けて倒れたというわけです」


 全てを聞いて、未夏は納得したみたいだった。

「京四郎さん…」

「それはともかく、本当にこれからどうしましょうか?高校出てないから、バイト先もなかなか見つからないでしょうし…学生として7年(高校で3年+大学で4年)も無駄に過ごす気なんてないし…」

 京四郎はそう言いながら俯いた。

「高校や大学に行きたくないなら、無理に行く必要はありません。最近思い出したのですが、私の友達の一人が、大の勉強嫌いを理由に、京四郎さんと同じように中卒で就職しました。でも、高卒認定は取ったほうがいいだろうと思って、ある方法で普通に高校に通ってた私たちより先に、高卒認定を取ったのです」

 未夏が話すと、京四郎は顔を上げた。

「ある方法?」

「通信教育です。働きながら受けてましたから、1年近くかかったと言ってました。しかもその通信教育で、大卒認定も取ったと言ってました」

 これを聞いて京四郎は驚いた。

「何度か聞いたことあります。“色々な資格を、年齢や性別に関係なく取るための臨時講座”って…でもまさか、高卒や大卒の認定までやってるなんて…」

 京四郎の驚きを、未夏は微笑んで見ていた。

「まず、資料とか見たほうがいいですね。受けるかはその後でもいいでしょう」

 京四郎が言うと、未夏は何も言わずに頷いた。

 未夏は早速、通信教育で高卒認定を取得した友人に連絡して、通信教育を行っている学校の事を聞き、学校へ連絡して資料を請求した。

「もしかしたら親父は、こうすれば渋々ながらでも高校へ行くだろうと思ってたのかもしれません。無理やり引き抜かれたときに、「帰らせてほしければ進学しろ」といつも言ってきましたから」

「それでもいいじゃないですか。高卒認定を取得するきっかけをもらったと思えば、どうってことないでしょ?」

 これを聞いて京四郎は苦笑した。


 それから2・3日ほどして、二人の手元に通信教育の資料が届いた。

「受講料は…この金額なら、俺の貯金で払えます」

 もともと、京四郎には趣味らしい趣味がないこともあって、給料は親に渡す分以外は貯金していた。

 今では通信教育の受講料どころか、車1台買っても余裕があるほどである。

 二人は資料の一つ一つを穴が開くぐらいに見ていた。

 そして、京四郎は受講を申し込んだ。

 余談だが、平日は未夏は仕事に行き、京四郎は暇つぶしに掃除などをやっていた。

 本当はゲームセンターとかに行きたかったが、憲司にいつ見つかるかわからない状態なので、迂闊に外に出るわけに行かなかったのである。

 食事に関しては、朝と晩は未夏が作り、昼は未夏が前もって買ってきたコンビニ弁当を食べる(未夏は昼の食事も作ろうとしたが、京四郎が手間をかけさせたくないからと言って拒んだ)感じだった。

 京四郎はその代金を払おうとしたが、未夏は働けるようになった時に返してくれればいいと言って拒んだ。

「そこまで甘えてしまっていいのかな…?」

「甘えていいのです。私は、京四郎さんの彼女ですから」

 言いながら頬を赤くするところは、可愛いと思った。


 それからまた2・3日ほどして、テキストなどが送られてきた。

 京四郎はさっそくテキストを開いて講座を始めた。

「わからないところがあったら言って下さい。普通科を成績上位で出てる私だから、自信はあります」

「…だから(別の意味で)不安だったりして…」

 これを聞いて未夏は膨れた。

「むぅ~(そんなこと言われたら、ぴったり寄り添えないじゃない!)」

「冗談っすよ。頼りにしてますよ?先生」

 京四郎が微笑みながら言うと、未夏は顔を少し赤くして微笑んだ。

 そんなこんなで京四郎は、家庭教師の気分になっている未夏に、色々教わりながら問題を埋めていった。

 たまにぴったり寄り添われて、その度にドキッとさせられたのは余談だ。


 一通りの講座を終え、二人でお茶を飲んでいるとき、未夏がある話を持ち出した。

「京四郎さん、18歳になったら、車の免許も取りませんか?」

「車ですか…その前にバイクに慣れておきたいと思ってまして…そのこともあって、高卒認定を取得したら、車より先に、バイクの免許を取ろうと思ってるのです」

 未夏は将来、京四郎が運転する車に乗りたいと思って言ったのだが、意外な返事に少し驚いたみたいだった。

「その前に、仕事をどうにかしないといけませんけどね」

 これを聞いて未夏はクスッと笑う。

「でも、16歳なら50ccの原動機は取れますよ?警察署で指定された日に、筆記試験を受けて合格したら、教習所で運転の練習をするだけですから、すぐに終わります」

「さすが、車の免許を持ってるだけあって、よく知ってますね?」

「伊達に(貰い物の)フィラディアXに乗ってません♪」

「参りました」

 そう言って京四郎が頭を下げると、未夏はフフフと笑う。


 そんなこんなで、二人で近くの警察署に行き、原動機の試験の申請をして、数日後に京四郎は筆記試験を受けた。

 勉強は未夏が教習所のテキストを持っていたことと、未夏を教師にして色々教わったこともあって見事に合格し、免許証をもらって、教習所でスクーターの練習をした。

 未夏は2階の窓から見ていたが、京四郎の運転テクニックに驚いた。

 京四郎のほかにも何人かいたのだが、教員にぴったりついていったのは、すぐ後ろにいた京四郎だけだったのである。

 みんな法廷速度の30キロを出すことを怖がっていたのに、京四郎は30キロを普通に出す上に、初心者では難しいところも平気でクリアしてしまったのである。


 練習が終わり、未夏は免許証を持っている京四郎のところへ行った。

「凄い運転テクニックでしたね?」

「まぁね。中学2年の誕生日に買ってもらったマウンテンバイクで、山道を走り回った経験が活きるなんて思わなかったです」

 これを聞いて未夏は苦笑した。

「見つけたぞ、京四郎!」

 二人の後ろから男の声がする。未夏はすぐに振り向いたが、京四郎は振り向かず、表情に少し怒りを込めた。

「そういう親父こそ、何故ここにいる!?」

 今まで聞いたことがない京四郎の怒りが込められた口調に未夏は驚いた。

(この人が、京四郎さんのお父さん!?)

 京四郎は未夏にしか聞こえない程度の小さな声で他人の振りをして自分から離れるように言った。

 未夏は小さく頷き、京四郎から離れたが、近くの壁に隠れて見ていた。

「頼んだ探偵から、お前が原付きバイクの筆記試験を受けて合格したと聞いてな。さっきまでいたのは誰だ?」

「偶然知り合った教習生だ。それより、俺にあんなことをして、よく平気で外を歩けるな!?」

「ふん。自分の会社に引き抜いたと言えば、罪には問われまい。それより、こんなことをしてる暇があるなら、高校や大学を探すことを考えたらどうなんだ?」

 背を向けながら怒りを放つ京四郎に、憲司は鼻で吹き払うように一息ついて言い返したが、京四郎はこうなることをわかってたかのように反論した。

 いつの間にか、周りにいた人たちの注目の的になっていた。

「人生を7年も無駄にするなんてまっぴらごめんだ。嫌々進学するぐらいなら、俺はフリーターの道を選ばせてもらう」

 京四郎は憲司に背を向けたままだった。憲司は京四郎の態度にお構いなく話を続ける。

「これはお前の幸せを考えてのことだ。嫌な気持ちを抑えてでも高校を出て、ついでに大学も出ておけば、必ず幸せになれるんだぞ?いい話だとは思わないのか?」

「全く思わないね!」

 京四郎は言いながらこの時になってようやく振り向いた。しかし、その表情は睨みに近いものだった。

「なに!?」

 この時になって憲司はようやく表情が変わった。

 いつの間にか周りには何人か集まっていた。

「いい加減、その歪んだ考えを捨てたらどうなんだ!?大学を出てれば幸せになれるってのはともかく、大学を出なければ幸せになれないって考えには同意できない!だから夏海姉ぇは大学を黙って辞めたんだ!」


 夏海は京四郎に大学を黙って辞めたことを憲司の前で暴露され、当然ながら憲司は大激怒。

 この時、驚いた表情で固まったが、その原因は、憲司にバレたことではなく、京四郎に探られていたことだった。

 それからしばらくして、夏海は町で偶然会った京四郎に、本当の気持ちを打ち明けた。


 夏海は渋々ながらも編入したが、最初から楽しみが何もなく、学校にも一度しか顔を出さない状態で、退学するまでの半年間、就職活動資金を稼ぐためにバイトをしながら、自分の幸せとは何かを考えた。

 その結果、「これは私の幸せじゃないし、このまま通ってても幸せになれない」という結論に達し、大学を中退したのだった。

 先日の夏海と憲司の怒鳴り合いは、今も平行線状態らしい。


「あいつにはまた別の大学を受験してもらう。当然、お前にも高校を出たら大学に入ってもらうからな。これは私がお前たちの幸せを思ってのことだと、いつかわかるときがくる!」

 憲司は表情を戻し、かけている眼鏡を直しながら言った。

「じゃぁ母さんはどうなる!?最終学歴が中卒で、捻じ曲がった考えを持った親父が旦那でも、幸せで充実してるって言ってたぜ。それにあいつも、最後まで幸せそうだったし…」

「あいつ?誰のことだ?」

 憲司には京四郎が何を言ってるのかわからなかった。が…。

「逸子だ。あいつはわずか12年しか生きられなかったけど、それでも俺の腕の中で、幸せそうな表情で息を引き取ったんだ!」

 憲司は顔色や表情こそ変えなかったが、内心では動揺していた。

「…で、何が言いたいんだ?」

 動揺を隠すかのように平静を装って聞いた。

「“幸せってのは、人からもらうんじゃなく、自分で探すもの”だ!“周りの人達にとっては、どうでもよかったり些細なことでも、本人にとっては凄く幸せだと思えるものもある”ってことだ!」

 これを聞いて憲司はうっとなった。

 離れて話を聞いていた未夏は顔に出さなかったが、内心では驚いていた。

(凄い…16歳なのに、あんな大人びた考えを持ってるなんて…)

 周りにいた教習生たちも同じだった。

「だ、だがな、私の会社を継ごうと思ったら国立の大学を出てても難しいことなのだ。だから龍司は大学院に進んだんだ。これに関してはどう思う!?」

 憲司は忘れていたことを思い出すかのように言ったが、京四郎は呆れてしまった。

「俺は別に、親父の跡を継ごうなんて思ってない。それに後継者は自分の血を引いてる人じゃなくてもいいだろ? それに、まだ知らないのか?」

「知らないって、何をだ?」

「兄貴が大学院に進学したってのは嘘さ。今はある大手企業に入社して、しかもその会社の社長の娘と婚約して、跡を継ぐことが決まってる」

 憲司は驚いた。そんな憲司にお構いなく、京四郎は続きを言った。


 夏海が大学を辞めたことを知った日、もしかしたらと思って龍司のところへ行くと、その途中で停車した高級車から、龍司がスーツ姿で降りてどこかへ行くところを見た。

「あれ? 兄貴?」

「おお、京四郎か。元気だったか?」

「元気だったか?じゃないぜ。さっきの高級車と、その恰好はどうしたんだ?」

 捕まえて話を聞いたら、龍司は憲治の後を継ぐのが嫌で、大学院へ進学が決まったと嘘を言い、本当は国立一流大学を首席で卒業した知能を活かした職を探しながら、アルバイトをしていたのだ。

「あの親父から逃げるには、嘘しか方法がなかったからな。それにやっと、自分の未来を見つけたんだ」

 大学にいる間も探してはいたのだが、なかなか見つかることなく卒業し、そのままフリーターとしてしばらく過ごしていた。

 そんなある日、職業安定所が主催の就職説明会に参加したとき、ある大手企業の社長が龍司に声をかけた。

 社長は龍司に自分の会社に来て、将来は後を継いでくれないか?と言い、龍司はそれを快く受け、交換条件ということで社長の娘と婚約したのだった。

「式には呼ぶから、招待状は首を長くして待っててくれな。それと、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ。力になるぜ」

 龍司はそう言ってその場を去った。


「夏海、龍司…どうして誰も私の言うことを聞こうとしない!?私が間違ってるとでも言うのか!?」

「間違いだらけさ。親父の考えが正しいなら、今の世の中、大学を出てない人は、みんな幸せじゃないことになる。これ以上話すことはないからもう行くぜ」

 激怒する憲司に、京四郎は言いたいことを言ってその場を去り、未夏は周りに気付かれないように京四郎の後を追った。

「私の考えが正しいことを必ず証明してやる。京四郎、お前には何としてでも高校と大学に行ってもらうぞ」

 憲司はこんなことを呟いて京四郎とは違った場所へ去った。が…。

 ―――高卒認定の通信教育を受けてる俺には無意味だ。親父の歪んだ考え、俺は絶対に木端微塵にしてやる!

 京四郎は憲司の呟きを聞いていたのだった。


「凄いですね。16歳でありながら、凄く大人びた考えを持ってて…」

 駐車場に向かう途中、未夏は感心しながら、車のドアを開けて運転席に乗った。

「俺にああいう考えを持たせてくれたのは、未夏さんです」

 京四郎も同じようにドアを開けて助手席に乗りながら言った。

「私が…ですか?」

「俺が職場から姿を消す数日前のことです。一度実家に帰って、未夏さんのところに戻ったときに…」

 これを聞いて未夏は思い出す。


 京四郎が確かめたいことがあって実家に帰ったとき、未夏は不安になって京四郎の後を車で追った。

 しばらくして京四郎が実家から出てきて、途中で京四郎を車に乗せて帰ったとき、未夏は嬉しさで京四郎を抱きしめて凄く幸せだと言ったことがあった。


「その時に気付いたのです。周りの人にとっては何気ないことでも、本人にとっては凄く幸せなこともあるんだってことに…」

「京四郎さん…」

「それに先日、未夏さんの部屋で目を覚ましたとき、未夏さんの姿が目の前にあって、“やっと未夏さんの部屋に帰ってきたんだ”ってわかったとき、ずっと何気なく感じていたことが、自分の幸せだったんだってわかりました」

「そうですか…」

「とにかく、今は帰りましょう」

 京四郎が言うと、未夏は頷いて車を発進させた。


 部屋に戻ってからは、京四郎は通信教育の講座を休憩を入れてやっていた。


 夜の10時半ごろに二人は寝て、この日は終わった。


 季節は夏になり、気温が高くなってきたが、京四郎と未夏の間に変化はあまり見られなかった。

 つまり、未夏は平日は仕事。京四郎は掃除などをした後で講座を受けていた。


 しかし、それから数日後のこと。


 未夏の勤め先は1週間の夏季休暇に入ったが、その前日から、未夏は表情に影を落としていた。

「何かあったのですか?」

「え?」

 夏季休暇の最初の朝。天気は朝から小雨だった。

 昼の食事を終えて京四郎がふと聞き、俯いてベッドに座っていた未夏は顔を上げた。

「朝から笑ってても、その笑顔に少し影が見えます。何か嫌なことでもあったのですか?」

 未夏は視線を彷徨わせていた。言うべきか、それとも黙っているか迷っているのだった。

「…あの時の俺と、同じ顔をしてる…」

「あの時?」

「俺がここに住むようになって間もない頃のことです。俺の過去の全てを、未夏さんに話すべきか迷っていたときの俺と同じです」

 これを聞いて未夏ははっとなった。

「未夏さんは前に、「辛い過去は、二人で乗り越えていこう」って言いましたが、もしかしたら話せないこともあるんじゃないかって思ってました。でも、こんな早くにくるとは…」

 京四郎は言いながら未夏の横に座った。

「そうでしたね…それなのに、私は…」

「無理に話す必要はありません。話す気になったときでいいです。未夏さんが話す機会も、それを俺が聞く機会も、いつでもありますから」


 しばらくの間、二人は何も言わずじっとしていた。


 だが、京四郎はベッドから腰を上げて伸びをしながら言った。

「言いにくいことを無理に話しても、気分は晴れないです。でも、いつか必ず話してくれることを信じて待ってますから」

 これを聞いて、未夏の中で何かが弾けた。

 そして、気がついたときには、伸びを終えて腕を下ろした京四郎に、後ろから抱き付いていたのだった。

「み、未夏さん!?」

 未夏は何も言わなかったが、ゆっくりと口を開いて言った。

「私の鼓動、感じますか?」

 未夏の一言で、京四郎は背中越しに未夏の鼓動を感じていることに気付いた。

 トクトクと、少し早い鼓動が京四郎を意識させた。そうしているうちに未夏は京四郎の胸に手を当てて鼓動を確かめていた。

 その未夏の手の上に京四郎は自分の手を当てた。

「…鼓動…感じます。俺の鼓動に比べたら、少し早いですね?」

 京四郎が言うと、未夏は自分の過去を細々と語りだした。

「…私は高校の頃、ある人と付き合っていた時期がありました」

 ある日、急にある男子生徒から告白され、戸惑ったものの、優しそうな感じだったので、付き合ってもいいかと軽い気持ちで返事したのだった。

「今思えば、その人のことを何も知らないのに、すぐに返事をしたのが軽はずみでした。その人のことをいろいろ知ってからでも、返事は遅くないと後で思ったのです」

 なぜなら、その男子生徒は未夏だけでなく、数人の女子生徒と付き合っていたのだった。

「実際に見ましたし、付き合っていた人の中に、私の友達も何人かいました」

 未夏は友人たちに、自分も交際相手の一人だと言うと、友人たちは当然ながら驚いた。

 そして、未夏は友人たちと一緒に、男子生徒に別れ話を持ち出し、関係は終わった。


「もう関係ないなら、今になって影を落とすことはないんじゃないですか?」

 一通り話を聞いて、京四郎は気になって聞いた。

「関係は終わったはずでした。2日前、仕事が終わって帰ろうとして、駐車場に向かう途中で、偶然その人に会ったのです」

 その男は未夏ともう一度付き合いたいと言ってきたが、未夏は彼氏がいると言って断った。だが・・・。

「引き下がるどころか、彼氏と同時に自分とも付き合えばいいだろ?と言ってきたのです。そして、今日の夕方に指定された場所で返事をして欲しいと言ってきたのです」

 未夏はそう言いながら京四郎から体を離し、少し離れたところで京四郎に背を向けて座り込んだ。

「…なるほど…断っても引き下がらないとわかってるから、どうしようもないと…」

 未夏は無言で頷いた。

「京四郎さんに、迫り来るものから逃げてはいけないと言ったのは私なのに、その私がこれじゃぁ駄目ですね…」

「…あの時、誠一たちのことから逃げ続けてた俺を引き止めて、背中を前に押してくれたのは未夏さんでした。今度は俺が、未夏さんの背中を押す番です」

 京四郎はそう言ってかつて自分がしてもらったように、未夏を後ろから包み込むようにして抱きしめた。

「…その人に会いに行きましょう。そしてありのままに全てを話して、決着をつけるべきです」

「でも、彼氏がいることを知っても、引き下がらない人にどうやって…」

「…俺が誠一たちに会いに行った時は一人でしたけど、今回は俺も一緒に行きます」

 これを聞いて未夏は驚く。

「ただし、最初のほうは未夏さん一人で会ってください。俺は頃合を見計らって出ますから」

「…京四郎さん…」

「…今回は、俺が未夏さんを守ります」

 そのままの姿勢で、二人はしばらく目を合わせていた。

「守られてばかりでは、俺の男としての立場がないですから。未夏さんより年下でも、好きになった人を守るときは必死です」

 これを聞いて未夏はクスッと笑った。

「京四郎さん…勇気を、ください。キス…してください」

 穏やかな表情になって呟くように言い、目を閉じて口の力を抜いた。

 京四郎は未夏の頭を手で支え、少しづつ顔を近づけて目を閉じると未夏の唇を自分の唇で塞いだ。


 しばらくして唇が離れ、未夏は会うことを決意した。


 時間はあっという間に過ぎて夕方になり、未夏は京四郎と一緒に指定された場所である海岸に行き、近くにある駐車場に車を止めて未夏だけが浜辺に行き、京四郎は車の助手席の窓から見守るように様子を見ていた。


 少しして例の男がやってきた。が…。

「!? あ、あの男は!」

 京四郎は男を見て驚かずにいられなかった。

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