第2話 「一途な想い」

 次の日の朝。窓から差し込む日の光で、京四郎は目を覚ました。

(う…あれ?…あ)

 目を開けると、見慣れない部屋に気付き、昨夜のことを思い出して体をゆっくり起こした。

 ―――そう言えば、未夏さんの部屋に泊まったんだったな…。

 そんなことを考えているときに声がかかった。

「おはようございます。朝御飯できてますよ?」

「あ、あぁ、おはようさんです」

 京四郎は多少戸惑いながらも、顔を洗い、未夏が作った食事を食べることにした。

「味、どうでしょうか? 京四郎さんの好みとか、知らないので…」

 未夏は少し不安げに聞いたが、京四郎は何も言わずに味噌汁を軽くすすった。

「…ん?」

 京四郎が手を止めたのを見て、未夏は不安の度合いが増したが、京四郎はもう一口すすった。

「…美味いです」

 これを聞いてほっとした。が、

「もう、脅かさないでください」

 言いながら苦笑した。

「料理、上手ですね?」

「中学のころから、花嫁修業の一環として、お母さんから教えてもらってましたから。“家事はともかく、料理だけはできるようになったほうがいい”と言われましたので」

 雑談を交わしながら食事を終えた後、途中まで未夏の車に二人で乗り、昨夜のことがばれない様に途中で京四郎が降りた。


 この日は何事もなく終わり、定時になってみんなが帰った後で、未夏は今夜も来ないかと京四郎を誘ったが、京四郎は「親に言わなければいけないことがあるから」と断って帰った。


 憲司は仕事。和葉は嫁ぎ先。龍司、夏海は下宿で家には睦美しかいなかった。

 京四郎が早く帰ってきたことに驚きを隠せなかった。

 二人で夕飯を食べ終え、京四郎はずっと驚いたままの睦美に言った。

「親父たちは反対するだろうから黙っててほしいんだけど…俺は近いうちに、この家を出ようと思う」

 睦美は驚いた表情のまま固まった。京四郎はそのまま続きを言った。

「いつからかは覚えてないけど、自分の家のはずなのに、どうにも他人の家に思えて…それに、親父に「仕事を辞めて進学しろ」って毎日のように言われるのも疲れたし…」

 睦美は一通り話を聞いて納得し、京四郎の迷いのない目を見て言った。

「そうね、いつかは自分で何でもできるようにならないといけないから、これがその一歩かもね。でも、たまには帰っておいでね? 逸子いつこのためにも…」

 ―――もしかして、あのことを感づいてるの?

「わかってる。あいつには寂しい思いは絶対にさせないって決めてるから…とは言っても、俺が家を出たら、離れ離れになって寂しい思いをさせることになってしまうけど…」

 これを聞いて、睦美は微笑んで言った。

「大丈夫よ。物分りのいい娘だったから。きっとあんたの気持ちもわかってくれるよ」

 京四郎は小さく頷いた。

(…あいつのことだけは、何年たっても、絶対に忘れない!)

 そんなこんなでこの日は終わった。

 憲司はこの日、急な仕事が入って帰れなかったのは余談だ。


 そして休日になり、午前から京四郎は、未夏の運転する車で、先日約束していた場所に向かった。

「確か、お婆ちゃんには4人の孫がいるそうですが、上の3人は父親に似て全然可愛げがないって愚痴をもらしてました。でも4人目の男の子は、母親に似て優しい子で、可愛げがあるとも言ってました」

「へぇ…」

 ―――俺が知ってる、あのお婆ちゃんで間違いないな。この道は、あのお婆ちゃんの家に向かう道だから。

 京四郎は生返事になりながらこんなことを考えていた。


 そうしてるうちに目的地に着き、二人は車から降りて、未夏が知っているお婆ちゃんの家の玄関まで行った。

 その家は予想したとおり、京四郎が知っている家で、表札には浜口はまぐちと書いてあった。

「こんにちは~♪」

 未夏は玄関の出入り口を開け、今まで聞いたことがないぐらい明るい声で言うと、奥から一人の老婆が姿を現した。

「おぉ、未夏ちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ」

「そうですね。今日はもう一人、職場の先輩を連れてきました。とは言っても、年下ですが…ほら」

 未夏は後ろにいる京四郎に顔を出すように促す。

「どうも…」

 京四郎は少し照れ気味に頭をかきながら言った。

「おんや、先輩って京四郎のことだったのかね? 元気そうだね」

「まぁそんなところだ。祖母ちゃんも元気そうでよかった」

 二人の対応に未夏は驚いて聞いた。

「京四郎さんとお婆ちゃん、知り合いなのですか!?」

「知り合いも何も、前に話したわしの四人目の孫じゃよ」

 未夏は驚きのあまりに、開いた口が塞がらなくなった。

「さぁさ、立ち話もなんだから中にお入り」


 中に入り、3人でちゃぶ台を囲み、用意された昼の食事を食べながら、京四郎は愚痴を祖母のスミと未夏にぶちまけた。

「まったく…憲司は何も変わっちゃいないねぇ」

「それだけじゃねぇよ。自分が大学を出て得してるからって、俺たちにまで同じ人生を歩ませようとするんだから。夏海姉ぇは大学にあまり興味がなかったから専門学校に進んだのに、親父に説得されて編入するわで、まるで親父の操り人形だ」

 京四郎は言うだけ言ってため息をついた。

「私も、高校に入りたての頃は大学を目指してました。でも、月日がたつごとに大学に興味がなくなってきて…それを理由に、卒業したら働くことに決めたのです」

「どっちみち、学校を出たら働くんじゃ。未夏ちゃんの判断は間違ってないとわしは思うよ。それに高校でやりたいことがないって理由で、中卒で就職した京四郎もな」

「母さんだけだった。俺がこの道を選んだことに何も言わなかったのは…」

「まったく、わしに何の相談もせずに決めおって…」

 そう言ってスミはため息をつく。が、一度下げた顔を上げて…。

「でも、それだけお前は大人になったということじゃな」

 と微笑んだ表情で言った。

「祖母ちゃんだけじゃない。母さんどころか、誰にも一度も相談しなかった。高校へ行けって言われるのがわかってたから。相談したのは、親父の勤め先で知り合った中卒の人ぐらいだ。仕事から帰ったら、進学しろと毎晩言われるのももう疲れたし、近いうちに家を出ようかと思ってて…」

 スミと未夏は驚いた。

 余談だが、この時にはみんな食べ終えていた。

「でも家賃が高かったり、安くても職場から遠かったりでなかなかピッタリなところがなくて…」

「なら、未夏ちゃんの部屋にしたらどうだい? 家賃とか割り勘で安上がりじゃろ?」

 今度は京四郎が驚いた。とそこに、

「それ、いいかもしれませんね。先日、私の部屋に京四郎さんを泊めましたから」

 未夏の発言に顔を真っ赤にする。

「ほぅ、思い切ったことをするのぅ。若いってのはいいねぇ」

 スミはいたずらっぽい笑顔で京四郎を見ながら言った。

「泊まったのは本当だけど、1回だけだ!それに何もしてない!」

 京四郎はムキになって否定する。未夏はそのしぐさを見てクスリと笑った。

「膳は急げじゃ。ほれ、ここでくつろいでる暇があるなら行動に移せ」

 スミはそう言って二人を外に押し出す。

「まったく…強引なところは相変わらずだなぁ…」

 京四郎は苦笑しながらも未夏の車に乗った。


「未夏ちゃんの元気な姿は、逸子にそっくりじゃよ。それなのに…」

 未夏が運転する車を見送りながら、スミはこんなことを呟いた。

「…京四郎…未夏ちゃんの前でも、壁を立てて心を閉ざすのじゃな…何があったか知らんが、本当に笑わなくなったのぅ…」

 家に入って玄関の扉を閉めてまた呟いた。

「未夏ちゃん…京四郎のこと、見捨てないでやっておくれ…」


「言いたくないなら答えなくていいですが、どうして高校に行かなかったのですか?」

 未夏が運転しながら聞いた。これを聞いて京四郎は振り向く。

「…中学に入って少しした頃から、学校が嫌で仕方なかったからです。それに高校で目指すものや、学生としてやりたいことも何もなかったので…それでも、高校へは行ったほうがいいと思いますか?」

 京四郎はこれを理由に、自由参加になっている部活動を何も入らなかった。

「行きたくないなら、無理して行く必要はないと思います。嫌々通っても、赤点にならない程度に仕方なく勉強して、何のいい思い出も作らずに卒業するか、もって半年ぐらいで中退するだけですから」

 京四郎は少し安心して一息ついた。誰かがこう言ってくれることを望んでいたのかもしれない。

 この後は沈黙が車内を支配していた。


 途中で京四郎の家に着き、京四郎は前もって着替えなどをバッグに詰めて押し入れに隠していたため、準備はすぐにできた。

 玄関で睦美に一言言って家を後にし、車は未夏のマンションに向けて走った。

「とうとう出て行っちゃったか…あれ?あの車は…」

 睦美は独り言を言い、そのあとで家の前を通った車を見て、何かに気が付いたみたいだった。


 やがて、マンションについて未夏の部屋に入り、京四郎は荷物を置いて一息ついた。

「今からここは、京四郎さんの部屋にもなるのですね。これからよろしくお願いしますね♪」

 未夏は笑顔で右手を差し出す。つまり、握手だ。

「そうですね。こちらこそ…あ!」

 京四郎は多少照れ気味に右手を差し出したが、握手はされることなく、未夏が左手で京四郎の右腕を強く握ると自分の元へ引き寄せ、京四郎は未夏に抱きしめられた。

「…京四郎さん…好きです…」

「…み、未夏さん…で、でも俺は…!」

 京四郎は戸惑いながらも続きを言おうとしたが、未夏がこれ以上言わせまいとして自分の唇でそっと京四郎の頬に触れた。

 強引な感じはなかったが、京四郎は体の力が吸い取られていく感じがして、先を言うことができなかった。

「何も言わないでください。私の片想いだとわかってますから」

 ―――でも、いつかは振り向かせて見せる。

 一度、唇を離して自分の気持ちを言い、そしてまた唇を頬に押し当てた。

 しばらくして唇が頬から離れ、京四郎は力が抜けた体を未夏に預けていた。

「お婆ちゃんが言ってた四人目の孫、京四郎さんのことだったのですね…」

 未夏の囁きに応えるように、京四郎は自分のことを未夏に話した。

「…俺には上に姉二人と、その間に兄がいますから。でも…俺は可愛げなんてないし、優しくもないです」

 未夏は苦笑しながらも、スミの言う通りだと思った。

「私から見たら、お婆ちゃんの言うとおりだと思います。研修期間を過ぎても何もできなかった私に、いろいろ教えてくれましたから」

「まぁそうですけど…(見てられなかっただけなんて言える雰囲気じゃないな…)」

「それに、末っ子だから可愛く見えるのかもしれませんね?」

 これを聞いて京四郎はピクっと反応した。

「俺、末っ子じゃありませんけど?」

「え?」

 京四郎の返事に未夏は変に思った。

 そして、真実を聞かされた。

「俺の下には、妹がいましたから」

 未夏は驚いて体を離す。が、両手で肩を掴み、腕の外に出さないようにしていた。

「妹って、お婆ちゃんからは一度も聞いてないですよ?」

「祖母ちゃんは今も、心の穴が塞がってないんだと思います。一つ下の妹、逸子いつこは生まれつき体が弱くて、中学に上がる少し前に、肺炎で入院してしまいましたから…祖母ちゃんはいつも、目に入れても痛くないぐらいに可愛がって…でも…」

 京四郎は俯きながら話した。未夏はまさかと思いながらも聞いた。

「それで、その妹さんは…?」

「入院して3ヶ月ほど過ぎた頃に…俺の腕の中で、息を引き取りました」

 未夏は京四郎が過去形を使ったことから、やはりと思った。



 3年前…。京四郎たちは逸子が長くないと医師から告げられ、本人もそれを知った。

 病院のベッドの上で痩せ衰えた逸子には、もう体を起こす力も残ってなかった。

 京四郎は逸子を抱き起こし、腕の中に抱き寄せて髪を撫でながら言った。

「逸子…ゴメンな…何もしてやれなくて…」

 逸子は弱々しく首を横に振って言った。

「いつも、側にいてくれて、すごく嬉しかった。お兄ちゃん…暖かい…」

「逸子…私、母親失格だね…元気に育ててあげたかった…」

 睦美は涙を流しながら言った。が、

「そんなこと、ない…お母さん…ありがとう…お兄、ちゃん…大、好、き…」

 この言葉を最後に、逸子はフッと力が抜けたように京四郎にもたれた。

「ん?…おい…逸子!!」

 京四郎は逸子の体を何度かゆすったが、逸子が目を開くことは二度となかった。


 ・・・・・。


「…あいつは最後まで、幸せそうな顔をしてました。でも親父たちは、仕事や学校が忙しいとか口実をつけて一度も見舞いに行かず、それどころか、逸子が死んだことを知っても終始無表情で、通夜の時も葬儀の日も、淡々と喪主として勤めて、涙一つ見せなかった」

 京四郎は憲司や和葉たちが許せなかった。が、それ以上に…ただそばにいただけで何もできず、しかも何もしようとしなかった自分に対する怒りと後悔の気持ちで、京四郎は体を震わせた。

 未夏は何を思ったのか、京四郎の体を優しく包み込むように抱きしめた。すると不思議なことに、京四郎の体の震えが治まった。

「妹さんの気持ち、わかる気がします。私も小さい頃は病弱で、ずっと傍にいてくれたお母さんには、今でも感謝してますから」

「…未夏さん…」

 京四郎は未夏の腕にそっと触れながら呟き、静かに目を閉じた。

「きっと、幸せだったと思いますよ?最後の最後に、大好きなお兄さんの腕の中にいられたのですから…」

「っ…逸子…何もしてやれなくてゴメンな…本当に…」

 京四郎は泣いていた。未夏は微笑みながら、京四郎の頭を優しく撫でていた。


 しばらくして京四郎は泣き止み、未夏は体を離して二人でベッドに腰を下ろし、気持ちを落ち着かせた京四郎は、当時のことを語りだした。

「俺は逸子がいなくなって1ヶ月ほど、学校に行かなかった時期がありました」

 これを学校が知らせたことで憲司が知り、激怒して京四郎を問い詰めた。

 それに対して何も応えなかった京四郎に、憲司はキレて殴りつけた。

 京四郎は抜け殻だったこともあって痛みの感覚はなかったが、その後に憲司が浴びせた言葉が酷く頭に響いた。

“お前なんか、死んでしまえばいいんだ!!”

「これを聞いたとき、泣くどころか、親父の言うとおりだと思ってしまいました。その後、親父は部屋から出て行き、しばらくして俺は、家の屋根の一番高いところから、飛び降り自殺を図ったのです」

 これを聞いて、未夏は驚かずにいられなかった。

 しかし、落下したところには、なぜか偶然にも横倒しの状態でトラックに運ばれた大きな栗の木があり、それがクッションの役割をして、軽くけがをした程度で助かった。

 だが、京四郎の心に残ったのは、逸子がいなくなった孤独感と、自ら死ぬことさえも許されない絶望感だった。

「そのことで今度は母さんに思いっきり怒られました。当然といえば当然ですけど…」

 未夏は黙って京四郎の話を聞き続けた。

「それから俺は毎日、学校が終わると逸子が眠る墓場に行ってました…なんだか、あいつが呼んでるような気がして…」

 しかし、墓場には逸子が死んだことを証明するものしかなかった。

 それでもいろいろと頭の中で逸子に語りかけ、去り際に「またな」と言い残す。こんなことを季節や天気に関係なくやっていた。

「妹思いですね。それとも…妹さんのこと、好きだったのですか?」

「もしかしたら、そうかもしれません。違っていれば、あれから3年が過ぎた今も、こんな思いはしてないと思いますから…」


 その頃、京四郎の実家では…。

「昼も帰らず、どこを出歩いてるんだ! 京四郎は!?」

「…京四郎は、ここを出て行ったわ」

「なに!? なぜ止めなかった!?」

「あの子はもう子供じゃないからよ。いつかは何でも自分でできるようにならないといけないことを考えたら、早いうちから自立させるのがいいからよ」

「だからって…」

「進学してたとしても、その高校が遠いところだったら、同じだったんじゃないかしら?」

「うぐ」

「どうしてあなたは、そんなに高校や大学にこだわるの? 京四郎に大学を卒業させて、あなたは何をしようというの?」

「うるさい!」

 憲司はいたたまれなくなって、自分の部屋にこもった。


 夕方になり、二人で未夏が作った夕飯を食べると、時間はあっという間に過ぎて夜になった。

 京四郎は以前泊まったときの様に床で寝ようとしたが、未夏がベッドに引っ張り込んで無理矢理寝かせ、しかも未夏が逃がさないようにしっかりと抱いていた。

「何もここまでしなくていいですよ! 俺には逃げ場はありませんから!」

 京四郎は抵抗したが、自分より背が高い未夏になすすべもなかった。

「心配しないでください。これ以上は何もしませんから…」

 未夏はこれだけを言うと、あっさりと眠った。しかし、腕に力が残っており、剥がそうとしてもできなかった。

(ったく、俺は抱き枕じゃないぞ。でも、暖かい…)

 そのうちに京四郎も観念して眠っていった。


 そして、夢の中の小高い丘の上で、京四郎は一人で立っていた。

「…ここは…」

「…ちゃん…お兄ちゃん…」

 どこかわからず、遠くを見ているところに、懐かしい声が京四郎を呼ぶ。振り向くと、そこには逸子が立っていた。

「…逸子!?」

「やっと会えたね」

「…そうだな…」

 逸子は微笑んでいたが、京四郎はずっと悲しげな表情で、あまり喋らなかった。

「そんな悲しい顔しないでよ。私まで悲しくなっちゃうじゃない」

「けど…」

「んもう、打たれ強いくせに人一倍落ち込むんだから。そんなことじゃ、やっと見つけた人にも愛想を尽かされちゃうわよ?」

 逸子が膨れながら言うと、京四郎は顔を上げた。

「やっと見つけた人?」

「私のことを話して泣いたお兄ちゃんを受け止めた人よ。我慢強いみたいだけど、お兄ちゃんがずっとそんなんじゃぁ、いつか離れちゃうわよ?」

「未夏さん…」

「あのときに言ったじゃない。傍にいてくれただけでも凄く嬉しかったって。だからそんな顔をする理由なんてないんだよ?」

「わかってるけどさ、俺自身の気がすまないんだ。傍にいるだけじゃなく、もっといろいろできたんじゃないかって思うとさ」

 ここまで言って、京四郎は3年前のことを思い出していた。

「そういえば、あのときのお前は、笑顔だったな」

 京四郎は少しだけ笑顔になった。

「やっと笑ったね。「思い出すのが辛いなら、私のことは忘れて」って言おうとしたんだけど…」

「それを言われても、俺は忘れない。今でもお前は、俺の大事な可愛い妹だから…っと」

 京四郎が言い終わると、逸子は京四郎に飛び込んだ。

「お、おい」

「えへへ♪一度こうしてみたかったんだ…きゃっ♪くすぐったい♪」

 京四郎は微笑み、逸子の髪を撫でていた。

「俺も、一度こうしてみたかった。それにもう一度、お前の元気な姿が見たかった」

 やがて、二人は離れる。

「私、本当に幸せだった。お兄ちゃんがいつも傍にいてくれて…それに、今まで少しも寂しくなかった」

「そうか…これでやっと、お前のことは、いい思い出として思い出すことができそうだ」

「よかった。じゃぁ、もういくね。目を覚ましたとき、傍にいる人のことを大切にしてあげてね?」

 そう言って逸子は京四郎に背を向けて歩き出した。が、

「逸子!」

 少し離れたところで京四郎が呼びとめ、逸子が振り向いた。

「…ありがとう」

 京四郎はそう言って微笑んでいた。逸子ははにかみ、風景に溶け込むように消えていった。


「京四郎さん、起きてください。もう朝ですよ?」

 いつも聞いている声に目を覚ますと、目の前には未夏がいた。

「何かいい夢でも見たのですか?嬉しそうな寝顔でしたよ?」

「あらら、寝顔にも出てたか…」

 しまったと思いながら頭をかいた。

「教えてください。どんな夢だったのですか?」

「今は内緒です。いつか必ず話しますから、それまで待っててください」

 京四郎にとっては、久しぶりに清々しい気分で迎えた朝だった。

 未夏は気になって仕方なかったが、京四郎の清々しさを感じさせる表情を見て、何かが吹っ切れたのだと悟った。

(逸子…俺は少しづつだけど、前を向いていくから。つまずくこともあるかもしれないけど、必ず乗り越えるから。何も心配しないでくれ)


 だが、京四郎が吹っ切れたのは、抱えている重荷の一つでしかなかった。

 いつか、京四郎が未夏に全てを語る日は来るのだろうか?

 そして未夏は、京四郎の全てを受け止めることができるのだろうか?

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