第1話 「迷うことなく選んだ進路」

 ある町に住む矢坂やさか家。

 その家の主、憲司けんじとその妻、睦美むつみ

 25歳の長女、和葉かずは。23歳の長男、龍司りゅうじ。20歳の次女、夏海なつみ。15歳の次男、京四郎きょうしろうという4人の子供がいる。

 憲司は自分が大学を出ているということから、子供たちも大学に行かせようとしていたのだが・・・。


 和葉は大学を卒業後、かなり大手の企業に就職し、1年前にお見合い結婚してからも勤めている。


 龍司は中学のときから成績優秀で、高校も大学も国立に進学し、現在は大学院に通っている。


 夏海は高校を出ると2年制の専門学校に入学し、卒業した後は大学に編入することが決まっている。


 憲二は京四郎も進学するだろうと思っていたのだが、その京四郎はというと、高校で目指すものや学生としてやりたいことがないのを理由に、進学を拒否して町内の町工場に就職した。

 しかも、卒業前から働いていたため、中学の卒業式に出ていない。

 卒業証書は代わりに出席した龍司が受け取った。


 今の世の中、中卒で就職できる企業はないに等しいのだが、京四郎は小学4年ぐらいの頃から、憲司が社長をしている工場での手伝いをさせられており、その経験が功を奏して採用してもらえたのだった。

 京四郎が黙って就職したことで、憲司は当然ながら激怒したが、京四郎は怒らせておけばいいという感じで、特に気にすることはなかった。

 和葉たちも、京四郎が就職した後も説得したが、ただ一人、最終学歴が中卒の睦美だけは何も言わなかった。

 京四郎は仕事場では中卒ということから、いじめなどの被害にあっていたが、京四郎にとっては何ともなかったみたいだ。

 それどころか、他の新入社員よりも仕事を覚えるのが早く、慣れた頃には通常の半分の時間でこなしてしまうほどの腕前になった。

 しかし、帰るのは残業がない日でも他の社員より遅く、ある理由で意図的に8時過ぎに帰宅している。


 それから1年が過ぎ、何人かの新入社員が入り、現場作業員はもちろん、事務員も募集していたことから、女性も何人か入社してきた。

 新入社員たちは1か月ほどの研修を受けるが、その研修期間を過ぎても仕事をなかなか覚えられない女性が一人いた。

 それが、高卒で入社した木下きのした 未夏みか

 黒髪のショーヘアで、明るいイメージを感じさせるが、表情には少し影があった。

 休憩時間になり、京四郎が休憩室に入ったとき、隣の事務所から何やら重いものが落ちるような音が響いた。

「な、何だ!?」

 課長が自分の机を分厚い本で思いっきり叩いた音であり、この音を聞いて京四郎は驚き、事務所に駆け込んだ。

「いったい君は、研修中に何を学んだのかね!?」

 京四郎が事務所に入ったとき、課長が怒鳴り声を出し、怒られている相手と思われる未夏は俯いたままだった。

「まぁいい。ここで茶汲み人形として使ってやるから、クビにならないだけでもありがたく思うんだな!」

 課長は捨て台詞のように言い残してどこかに行った。

 しばらくして未夏は、事務所にいる社員たちにお茶を淹れたが、そのときは何も言われなかったが、影でこそこそと悪く言われた。

 それは未夏にも聞こえており、嫌な気分だったが、それでも我慢するかのように顔を引きつらせながら入れ続け、事務所の入り口で唖然とした感じで立っていた京四郎のところに持っていった。

 京四郎は礼以外何も言わず、一口すすって一息つくを繰り返しながら飲み干し、洗い場に湯飲みを持って行くと、使った湯飲みを洗って休憩室に戻った。

(嫌味を言われながらも淹れてくれたことに、文句が言えるわけないだろ。自分が同じ立場だったらどうなるか考えろってんだ)

 未夏は京四郎が何も言わないことを不思議に思い、同時にホッとした。


 昼。京四郎は輪になって食べるのは好きではない上に、みんな年上と言うことで窮屈感を感じ、それからずっと、休憩室から離れたところで、睦美が作った弁当を一人で食べている。

 そこへ女性が一人やってきた。

「あ、あの…ここ、いいですか?」

 断られるのを恐れているのか、少し控えめになっている。

「あ、どうぞ。空いてますから」

 京四郎の返事を聞き、少し明るくなって隣に座った。

「ありがとうございます。私、今年入社したばかりの、木下未夏です」

「矢坂京四郎。入社して1年過ぎてます」

 ―――あ、この人…さっき事務所で無言でお茶を飲んだ…。

「へぇ、先輩なんだ…あ、私のことは名前で呼んでくれて良いですから」

 ―――でも、先輩なのに年上っぽく感じないのはなぜ? それに、初めて会うはずなのに見覚えが…。

「わかりました。俺のこともそうしてください」

 この後は色々話しながら食べて昼休みは終わった。

 実は未夏は休憩室に入ったとき、みんなから嫌なものを見たような目で見られ、その視線に耐えられず、弁当を手に取ると、逃げるように休憩室を出たのだった。

 そして、どこで食べようかと落ち着ける場所を探しているときに、京四郎の姿を見つけたのだった。


 昼休みが終わって仕事の時間になり、未夏は相変わらず色々嫌味を言われたが、泣く事はなかった。

 ―――あれだけ嫌な思いをさせられてるのに、涙一つ見せないなんて…結構我慢強い人だな…。

 少し離れたところで、京四郎はこんなことを考えていた。


 夕方の5時。定時で仕事が終わり、社員のほとんどは帰ったが、京四郎はいつものように残業をしていた。

 とは言っても、掃除や書類の整理の類なのだが、今日はもう一人いた。未夏である。

「あれ? 京四郎さん、まだ帰ってなかったのですか?」

「そう言う未夏さんこそ…それは…」

 未夏の手には分厚い本があった。おそらくマニュアルだろう。

「私は、自分で色々覚えなければいけませんので…私の担当になった人、研修中に解雇されてしまって、部長に相談したのですが、考えておくと言ってそれっきりで…」

 これを聞いて京四郎は、未夏が仕事ができないことに納得した。

 未夏の教育を担当した社員は、素行の悪さで噂になっており、先日の無断欠勤が社長の怒りを買って解雇されたのだった。

 このときの課長は出張で、営業先を回っていたこともあって知らなかった。

「俺でよかったら、知ってる範囲でですけど、教えましょうか?」

 未夏はこれを聞いて驚き、次第に笑顔になった。

 そして、京四郎は未夏に事務の基本を教えたが、未夏はパソコンが得意なのか、覚えるのは早かった。

 色々教えているうちに時計は9時を回っており、それに気付いた二人は別れて帰っていった。

 職場の鍵は、警備会社から来ている見回りの人が持っており、京四郎は帰るときは見回りの人に一言言ってから帰っている。

 金庫は社長の自宅にあるため、泥棒が警備員になりすまして侵入しても、盗まれる心配がないのは余談だ。


 この日から毎日、仕事が終わると、京四郎は未夏の教育をしていた。


 家に着き、京四郎は毎晩のごとく、憲司に仕事を辞めて高校へ行けと言われていた。

「この高校は、修学旅行が海外だそうだ。きっといい思い出ができるぞ?」

 風呂から出た京四郎に、憲司は高校のパンフレットを見せながら言うが…。

「修学旅行は在学中に1回だけだけど、今の勤め先は、半年に一度ぐらいの割合で国内旅行があるから、どう考えても今のほうがいい。明日早いから寝る」

 こんな感じで、京四郎は言いたいことを言って寝た。

「ったく、あいつは…」

 憲司だけならまだしも、休みの日は和葉たちを家に呼んで、高校に行けと説得させるのだった。

 だが、京四郎はどれだけ説得されても、ある理由から進学する気にはならなかった。

 憲司が持ってきているパンフレットは、睦美がこっそり処分しているのは余談だ。


 それから1週間が過ぎ、未夏は仕事を一人前にできるようになり、周囲を驚かせた。

 京四郎はよかったなと思いながら微笑み、未夏はそれを見て、周りに気づかれないようにお礼のウィンクをした。

 そして同時に、仕事が終わった後の教育は終わった。


 それからまた何日か過ぎたある日。

 昼休みになり、京四郎と未夏はいつものように二人で食べている。

 だが、未夏は二人きりになってから、顔を少し赤くしていた。

 京四郎は薄々気付いていたが、「触らぬ神に祟りなし」と自分に言い聞かせて、気付かないフリをしていた。

 そうしているうちに、いつの間にか食べ終わった未夏が、京四郎に質問をした。

「き、京四郎さんって、その…か、彼女とか…いますか?」

「いいえ、いませんけど…(このことを聞くって事は、未夏さんには彼氏はいないみたいだな)」

 緊張気味な未夏に対して平静に答える京四郎。返事を聞いて未夏は少しホッとしたような表情になった。

 この時には京四郎も食べ終えていた。

「未夏さんの好みのタイプって、どんな人ですか?」

「私の好みは…性格は優しくて芯が強い人。学歴は私と同じ高卒かそれ以上で、あとは年齢が同い年かそれ以上ですね」

「そうですか…(大抵の女性は、同い年か年上の人を好むみたいだな。それに学歴も…)」

 京四郎は俯いたが、未夏はそれに気付かずに話し続けた。

「実は、色々考えた上で…その…京四郎さんが、ピッタリかと思いまして、それで…」

 未夏はドキドキしながら続きを言おうとしたが、京四郎はそれを止めた。

「待ってください! 俺、ピッタリじゃありません!」

「ど、どうしてですか? 事務の仕事を教えてくれましたし、そんなこと、優しい人じゃなかったらできないと思います」

 未夏はいきなりのことで驚き、すぐに落ち着いて聞いた。

「優しいかはわかりませんが、条件に合ってない部分が二つあるのです」

 京四郎は説明したが、未夏は頭に?を浮かべたままだった。

「俺は去年からここで働いてるのは本当ですが、最終学歴が中卒で、未夏さんより二つ年下の16歳なのです」

 未夏は驚くと同時に、京四郎が年上っぽく見えないことに納得した。


 しばらく沈黙が続き、昼休みの終わりが近かったこともあって、京四郎は立ち上がり、一言言ってその場を去ろうとしたが、未夏が腕を掴んで引き止めた。

「たとえ条件にピッタリじゃなくても、好きになった人に告白するのは、間違ってますか?」

 未夏は聞きながら京四郎の前に立った。

「わかりません。誰かを好きになったことはあっても、色々あって一気に冷めて、それっきりですから…」

 ―――それに、俺はもう…。

「そうですか…でも、私は諦めません」

 未夏は強い意思を宿らせた瞳で京四郎を見て言った。

「え?…!」

 京四郎が何かを考えようとして頭に?を浮かべた瞬間、未夏が京四郎の首の周りに両手を回し、目を閉じて京四郎の頬に自分の唇を当てた。

 しばらくは二人とも動かなかったが、やがて未夏が唇を離し、京四郎の耳元で囁いた。

「いつか、振り向かせて見せます」

 未夏はそう言ってその場を走り去った。

―――無駄なことだ。俺はもう、誰かを好きになることは、二度とないから…。

 この後、京四郎も仕事場に戻ったが、さっきの現場を誰も見てないことから、二人を冷やかす者はいなかった。


 5時を過ぎ、みんなは帰ったが、京四郎はいつものように残業をしていた。

 だが、今日はそれを待っていたかのように未夏がいた。

「やっぱり、今日もですか…」

「そんなところです。早く家に帰れば、親父の説教を聞く時間が、長くなるだけですから」

「説教?」

「親父は、「仕事をやめて高校へ行け」っていつもうるさいのです。当然といえば当然かもしれませんが…」

「だから、いつも遅く帰ってる…」

「そうです。でも、定時になってからタイムカードを押してるから、残業手当てはもらってませんけどね」

 そう言ってその場を去ろうとしたが、未夏に腕を掴んで止められた。

「なら、私の家にきませんか?」

「え?」

 京四郎は振り向きながら聞いた。

「無意味に残業をするよりは、どこかでくつろいだほうがいいと思うのです」

 京四郎は未夏の言うとおりだと思った。それ以上に、嫌と言っても連れて行く気だと悟った。

「家族のことなら心配いりません。マンションで一人暮らししてますから」

 そんなこんなで、半ば強制的に連れられていった。

 未夏は車通勤で、その車を見たときに京四郎は驚いた。

「これは…1990年ごろに有名だったフィラディアX!?」

今でもかなり有名なスポーツカーである。

ボディカラーは赤で、トランスミッションはマニュアルである。

「すごく詳しいですね?」

「車に詳しい友達がいますので、その影響で…(丁寧に初心者マークついてるし…そんな人が乗る車じゃないだろ)」

 未夏は京四郎の知識に感心して、元々は従姉が乗っていた車を安く売ってもらったことを言った。

 その従姉は現在はフィラディアXと同じぐらい有名なスポーツカーに乗っているらしい。



「初心者の割に、運転上手ですね?」

「友達がレースゲームが好きで、私もよくやってました」

 しかも本物の運転席みたいなものまで自分で作ってしまったらしい。

 未夏はそのレースゲームで、フィラディアXを気に入って何度も操縦していた。

「その友達の家には、レースゲームはもちろんですけど、自動車講習所のシミュレーションゲームもありまして、私はそのゲームでいろいろ覚えたのです」

 おかげで、仮免はもちろん、本免も一発で突破したようだ。

 これを聞いて、京四郎は苦笑するばかりであった。


「あ、そうだ。今度の休日に、知り合いのお婆ちゃんの家に行きませんか?」

「知り合いのお婆ちゃん?」

 未夏がふと思い出して聞いたことを、京四郎は質問にして返す。

「はい。母の友人の母なのですが、すごく愛嬌があって面白いお婆ちゃんなのです。そのお婆ちゃんに、京四郎さんのことを紹介したいのです」

「そうですね。一度会ってみましょうか」

 ―――妙に引っかかる。それにどこかで聞いた話だな…まさか、あのお婆ちゃんじゃないか?

 未夏の話を聞いているうちに京四郎はあることを思い出していた。


 そうこうしている内にあっという間に未夏が住んでいるマンションについた。京四郎は多少緊張気味だったが、やがて落ち着き、今日は帰らないことを電話で家に伝え、未夏が作った夕飯を食べた。


 そのころ、京四郎の家では・・・。

「京四郎は、まだ帰らないのか?」

 仕事から帰ってきた憲司が、京四郎に先日とは違う高校の資料を見せようと待っていたが、午後10時を過ぎても京四郎がいないことに、変に思って睦美に聞いた。

「今夜は帰ってこないって連絡があったわ」

「なに!?」

 憲司は驚いて立ち上がりながら聞いた。

「だから、明日の夜までいないわよ?」

 睦美は翌朝の用意をしながら普通に言った。

「なぜ帰ってくるように言わなかった!?」

「仕事ならしょうがないでしょ? それにあなたも、地方や海外への出張でよく留守にするじゃない?」

「それはそうだが・・・」

「もう子供じゃないんだから、好きなようにさせてあげたらいいじゃない?」

「そうはいかん! あいつにも高校はもちろん、大学に行ってもらわねばならんのだ!」

「・・・(懲りない人ね)」


 憲司が持っていた高校の資料は、翌日に睦美が処分したのは余談だ。


 未夏のマンションでは、別々に風呂に入り、未夏はベッドで、京四郎は未夏が用意した布団で寝た。

 二人が寝るまで、そして寝た後も何も起きなかったのは余談かな・・・?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る