蜘蛛の巣を掻く


「あなたの"美意識"の問題ですね」

 言われて、自分の頭の中にあるはずのその"美意識"という単語が、ふいになんのことかよくわからなくなる。

「例えば、あなたが普段から家の掃除なんかをマメにするような人間であれば、この仕事は向いていると思いますが……」

 主任は早口に言い、しかし視線はこちらではなく、足元に置かれたゴミ箱に注がれていた。喉が詰まりそうなほど中身の詰まった、ゴミ箱。

「あのですね、ニシジマさん、でしたよね。『掃除が終わりました』というのはですね、こういうゴミの片づけまですべて終えたあとで言えることなんです。あとからはもう、お客様が来てもいい、そんな状態にしておかなくてはいけません。これ、"美意識"ですよね」

 はい、とだけ答える。

 話がわかったからというよりも、早くその場を離れたいからだった。

 いくら清掃員の制服を着ていて、『ただいま清掃中』という立て札をしているとはいえ、洗面台の並ぶ男子トイレの入口に突っ立っているのは気持ちの良いものではない。

「ではゴミ袋を換えたら、ミワさんに次の指示をもらってください」

 あの、と去っていく主任を呼び止めようとして、やめる。

 きっと、用具いれのなかになかったゴミ袋のストックの場所を教えるのは、清掃主任の仕事ではないだろう。







 ショッピングモールの清掃員として働きはじめて、三日。

 出勤から退勤までの一日の動き、関係者の名前、それから彼らの関係、などは頭に入りつつあった。

 人間、どれだけ不慣れなことも三日も経てばそれなりに順応できる、ということに我ながら意外な感じがする。

 今までは日がな一日中ひとり家にこもり、トイレ掃除なんかもおくだけの洗剤にまかせていたずぼらは、この二日で床に膝をついて便器側面を磨くことも苦にならなくなった。

 男子トイレに入っていくのにも、もうさほど抵抗はない。

 人気のないタイミングを見計らって、入口に清掃中の札さえ立ててしまえば、男性客と居合わせることは皆無と言ってよかった。

 そもそも各棟、各階のトイレをまわる時間は、あらかじめ人の混まない時間を考慮されている。そしてなにより、このモールにはそれだけたくさんトイレが置かれているのだという話を、ミワさんから聞いた。

「別んトイレが、歩いてすぐだから。ここは」

 ミワさんは新人に仕事を教えてくれるベテランの女性リーダーのひとりで、彼女いわく清掃歴は「やだ、あなたが生まれる前からよ」。

「昔の職場でね、扉開けたら座ってて。もう直視よ、直視。対面、対面。こっちはちゃんとノックもしたってのに。でも安心して。ここじゃめったにそんなことないから」

 そんなふうに語るとき、ミワさんの「ここ」という言葉のニュアンスはとても強調されて頭にのこる。

 初日、ひよっこの新人はミワさんに教えてもらったことに倍の時間をかけてしまった。

「最初はそんなもんよ、みんな」

 ミワさんは笑ってそう言った。

 そのとき新人は、なぜかミワさんのまとめた短い髪の両側にある耳の小ささに気づいた。







 テレビのグルメ番組で鶏小屋の映像が流れていて、『これはなにかに似ているな』と思っていたら、男子トイレだった。

 鶏たちは通路に並べられた柵の間から首の先だけを出し、飼育員がまく餌をついばむ。

 等間隔に配置された便器に男たちの背が並ぶ。

 おそらくこのショッピングモールでは今後も出くわすことのないであろう、その場面のことを考える。

 例えば混み合う時間の駅のトイレなんかは、そういう光景が繰り広げられているのだろうか。

 考えながら、鏡を拭き上げる。

 洗面台の鏡は下半分を、出入り口付近にある姿見は、ちょうど顔がくるあたりの高さを拭き上げられているときれいに見える。

"美意識"。

 個室の壁際のへりは、よく貴重品が忘れてあったり、ホコリが溜まっていたりするので要チェック。

"美意識"。

 トイレットペーパーは厚みが少なくなったものは新品に入れ替えなければならず、その厚みの基準が自分の親指の爪の長さと同じくらいなので、普段から切りそろえておく。

"美意識"。


「ただいま」

 私は誰にともなく告げると、抱えたビニール袋をおろし、部屋の照明をつけるかわりに、冷蔵庫を開けた。

 うす暗い部屋にささやかな冷気と、同じくらいささやかな光が漏れ出す。

 牛乳、水、マヨネーズ、卵、を所定の位置におしこみ、最後に鮭の切り身とタッパーで冷蔵してあったお米も取り出す。

『鮭を焼くのなんか、何年ぶりだろう』

『いや、そもそも焼き鮭を食べるのすら久々かもしれない』

 を思いながら、お湯も沸かす。

 鮭の切り身は廃棄品とはとても思えないほど、みずみずしいピンク色をしていた。

 これはミワさんがくれたもので、ミワさんは食品売り場で働いているお友達からもらったのだという。

「売り場の人たちとは、仲良くしといたほうがいいわよお。なんてったって、こうして『闇取引』してくれるんだから。野菜とか、果物とかもね」

『闇取引』、というからには、こちらからも何か渡しているのだろうか。ショッピングモールの清掃員が渡せるもの。取り替えた厚みの少ないトイレットペーパーなどだろうか。薄いけれど、紙質はけっして悪くないので、鮭との取引が成立するのだろうか。

 中身の見えない手さげ袋にそれらを詰め込み、変装して受け渡し場所に座っているミワさんを想像しながら、私は皮目を少し焦がしてしまった久々の鮭を頬張った。

「あまい」







 次の日、出勤四日目。

 この日、新人清掃員は初めてひとりきりで清掃場所をまわることになった。

「まあ、大丈夫よ。あなた、要領はいいほうだと思うし。時間はかかるだろうけど。慣れよ、慣れ」

 出勤時、ミワさんは肩をポンポンとたたいて、自分の持ち場に向かっていった。

 時間はかかるだろうけど。

 その日、ミワさんの言った通り、新人は新人なりに時間をかけて仕事をすることになった。

 メモを見返しながら、教えてもらった手順を反芻する。

 出勤時間のほとんどは、ミスや見落としのないようにこなすことで過ぎていった。

 拭き上げたところに水がはね、二度手間。ゴミをすべて回収したあとで、赤ちゃんの使用済みおむつの回収忘れに気づく。等のタイムロスを何度か重ね、ようやく自分なりに手順がかたまりはじめたころ、終業時間をむかえた。

 習うより、慣れろ。

 という言葉が昔から使われているように、やはり、習うことと実践することは違う。それを肌で感じた一日だった。

 結局、自分に割り振られたノルマ、清掃場所をすべて回ることはできず、三分の一ほどをミワさんや、先輩清掃員に引き取ってもらう形になってしまった。

「いいの、いいの。気にしなさんな。私たち、チームなんだから。おつかれさま」

 手短に、かつ柔らかく言って、ミワさんはどこかへ向かっていった。

 また受け渡し場所に行って、『闇取引』だろうか。

 そんなことを考えながら、勤怠をきり、事務所裏にある従業員トイレにはいる。

 じつのところ、私がこのトイレに入るのは、このときがはじめてだった。

 事務所には出勤時、退勤時にしか用はないし、その用にしても、挨拶と勤怠時間の入力くらいの刹那的なもの。清掃員として最低限整えなくてはいけない身だしなみも、現場でいくらでもチェックできる。休憩があったりすれば、また違うのだろうが、私の就業時間では無縁の場所だった。

 汚い。

 ドアを開けて、驚いた。

 そこはなんと言えばいいか、とにかく汚いというほかないような空間だった。狭いとか、暗いとか、古い、というのとも違う。それは便器用のブラシがむきだしで置いてあることだったり、壁が傷だらけであることだったり、みるからにざらざらしていそうなトイレットペーパーが無造作に積んであることが、与える印象なのかもしれない。

 中に入ると、藻のような匂い。

 よく見てみれば便器やペーパーホルダー、ウォシュレット操作盤などはお客様用トイレと同じものである。はじめ、私はそれに気がつかないほどだった。

 便器に腰をおろしてから、天井の隅のほうに蜘蛛の巣が張っているのが目についた。

 蜘蛛の巣は、周囲に舞っている埃にまみれながら通気口からくる風にゆられている。

 主は不在。

 蜘蛛の糸というのは、張られてからどのくらいの間、残っているものなのだろう。

 私はしばらくの間、その隅から目が離せなかった。







「あ、ニシジマさん、今あがりですか」

 従業員トイレを出るとき、ちょうど傍を通りかかった主任に呼び止められた。

 私に、はい、と返させるだけの間を与えて、主任は言葉を次ぐ。

「ちょっといいですか。すぐ済みますから」

 言ってから、今度は返事を待たずに歩き出す。早足で向かった先は、今日、私が担当した棟の男子トイレだった。

「失礼いたします」

 主任がほとんど掛け声かなにかのような発声とともに中に入っていくと、男性客が怪訝そうな顔で手を洗っているところだった。

「ここ」

 主任はひとつの小便器の前に立ち、上部のほうを指さした。

「ここは今日、ニシジマさんの担当で間違いないですね」

 はい。

「見てください。なんとも思いませんか」

 ええと。

「では、前に立ってみてください。自分がお客さまになったと思って」

 こういう感じでしょうか。

「どうですか」

 どう、と訊かれても、私はお客さまどころか、男ですらないので、ただただ違和感。そして『私は何をさせられているのだろう』『もしも今、本当のお客さま、本当の男、が入ってきたらどうしよう』ということは口にせず、黙っていた。

「はあ」

 わかりやすいため息が背後からする。

「見てください。ここです、ここ。わかりますか。ありますよね、拭き残し。このタイプの便器は、この部分が最もお客さまの視線にさらされます。ということは、ここが汚れていると、汚いトイレだなあと思われるんです。たとえ他の部分をどれだけピカピカにしても。この水垢一つで。わかりますか」

 私は、なるほど、と返した言葉にできるだけ気持ちを込めるように注意する。

『はやく帰りたいな』という気持ちではなく、『それは盲点でした』という気持ちのほう。

「私、言いませんでしたか。"美意識"を持ちしょう、って。普段の生活からそれを心がけましょう、って。自分の部屋を掃除するときも、買い物に出かけたりするときも、そう。どこが汚れやすいか。どこが目につくのか。言ったことは守るようにしてください。そういうところからですよ」

"美意識"

 私はその話をされている間、きっと神妙な表情になっていたと思う。

 以後、気をつけます。

 という言葉で締めくくられたその説教は、私が職場を離れ、バスに乗り、自室のドアを後ろ手に閉めるときになっても、道ばたに捨てられたびしょ濡れのビニール袋みたいに頭のなかにわだかまっていた。

 靴。

 例えば今、私がぬぎっぱなしにした、つま先がキッチンの方を向いているこの靴は、どうか。

 これは主任のいう"美意識"のもとでは、排除されなくてはいけないものなのか。

 部屋干しにしたまま、ぶら下がっている洗濯物たちは、どうか。

 ベランダの手すりにつもった塵は。

 樹海の根のように絡まっているコード類は。

 布団から飛び出た真っ白な羽毛は。

 鮭を焼いたときに、コンロにはねた油のつぶは。

 蜘蛛の巣。

 私は、やらわかになびく、細い細い糸のことを思い出す。

 あの、蜘蛛の巣を掻く。

 そのことが、うまく想像できない。

 「ああ、やっぱりね」

 糸をかけた本人にすら、忘れられたであろうあの一本の糸。

 それが、こんなにも、

 美しいと、思うのだから。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悩むあなたの背中を、少しだけ押す短編集 乙川アヤト @otukawa02

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ