第8話


 その日の晩。



 今朝目にした蕾のことが頭の隅に引っかかったまま仕事から戻ると、温室の明かりが点いているのが外から見えた。



 はて、消し忘れたかなと、首を傾げ、覗き込むと、中にはメアリがいた。温室の中心でフラフラと立っている。明らかに具合が悪そうだが、それ以上に怒りと戸惑いを湛えた目で、こちらを睨みつけていた。緊張か、鼻が少しかゆい。



「どうしたんだい、まだ安静にしていなくちゃ」



「たまには、私が掃除をしてあげようと思ったのです。ついでに、私の温室の中もと」



 絞り出すような声は、混乱しているようにも聞こえた。



「これは、なんですか」



「メアリ、この温室は、もう君のものではないよ」



「これは何だと訊いているのです!」



 メアリの細い腕が花壇を指さす。癇癪染みた怒り方をするところを見るのは初めてだった。



「わ、私は、貴方なら心配いらないだろうと、信用していたから温室を任せたのです! それを、よくも……!」



 その言葉に感じるところは何もなかった。信用していた、と言われて、誰があれらの言葉を許せようか。「たまには掃除をしてあげよう」? 何故自分が恩に着せられねばならないのだ。



「お前が悪いのだろう。お前が、私の献身を、愛情を、理解しようとしないから……!」



 メアリがギョッとした様子でエドガーを見た。メアリの身体を突き飛ばす。抵抗しようともがく彼女を、無理矢理外へと引っ張り出した。



「出ていけ! お前などもう知るものか!」



 病に侵された老体はとても軽く、突き飛ばせばあっけなく、外のアスファルトの上に転がった。目に溜まった涙をこぼしながら鍵を閉め、温室へ向き直る。たくさんの花達を愛おし気に見つめる。



「あんな奴はもう知らない。私はお前達さえいればいいんだ、お前達さえ……」



しゃがみ込み、花弁を指でなぞった時、目から涙がこぼれた。

涙。彼女を突き飛ばした後悔か。違う。涙だけではない。



「な、なんだ、なんで……?」



 覚えのある症状だった。鼻がかゆい。くしゃみが止まらない。それどころか咳まで出てくる。思わず咳き込んだ拍子、バランスを崩して身体が崩れ落ちる。腰を打ち、立ち上がれない。



 もがくエドガーの視線の先に、花壇が見えた。その先には、摘み取ったはずの蕾がある。それも一つではなく、いくつも、いくつも。花々の間から顔を覗かせて、エドガーの方を向いていた。



「馬鹿な、馬鹿な! そんな、そんなはず……何故だ、お前達まで……!」



 声はすぐに出なくなる。痰が、鼻水が絡む。息が出来ない。這いずり逃げることもままならない。



 花弁は一斉にゆっくりと開き、大輪の花を、繊毛を湛えた力強いおしべとめしべをエドガーに見せつける。そしてそれらからこぼれ出るように、黄土色の風が、ゆっくりとエドガーへと迫り……―――。

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