其の十一

 この日私は実家に泊まり、明日の夕方に自宅に戻ることにした。 久しぶりに美咲ちゃんのおふくろ・・・・の味を堪能し、久しぶりに檜の大きな浴槽のお風呂に入る。 優斗君にも試しにお風呂に入ってみれば? と声を掛けてみたが、浴室のドアも開けられなければ浴槽のお湯に足を入れることも出来なかったらしい。


(目が覚めてしまった…… )


 深夜に目が覚めた私は、キッチンに降りて冷蔵庫から麦茶のボトルを出し、コップいっぱいに注いで一気に飲み干す。 涼しい風が縁側から居間に吹き、私の髪を揺らす。


「………… 」


 開け放たれたままの縁側に、月明かりに照らされた学生服の背中が目に入った。 私はその背中に吸い込まれるように近づく。


「寝れないの? 」


 そっと優斗君の背中に声を掛けてみた。 彼はちょっとびっくりして振り返り、苦笑いをする。


「幽霊は眠くならないですから 」


(ああ…… 余計な一言だった )


 夜も眠れず、誰にも気付かれない時間を過ごしてきたのかと考えると、とても切なくなる。


「隣、いい? 」


「あ…… はい 」


 縁側で月を眺めていた優斗君の横に座り、私も空を見上げた。 金色に輝く満月を見上げて、彼は何を思っていたんだろう……


「春子さん、凄いですね。 僕、菅原道真が祖先だったのには驚きました 」


 空を見上げながら、彼はおばあちゃんの話題を振ってきた。


「ホントだね。 安倍と菅原、やっぱり何か惹かれるものがあるのかなぁ…… 」


 ハハハと彼は困った顔で笑う。


「それじゃ僕は美月さんに祓われてしまうんですね。 痛くしないで下さいよ? 」


「そんなことしないよ! …… でも、そうだね。 私は祓えないけど、君も成仏しないとね 」


 なんだか寂しい気分になる。 でもそれが彼にとって良いことなんだから、私はそれを全力で応援してあげなきゃならない。 それが助けてくれた彼に対する恩返しなんだと思う。


「ねぇ、君が好きだったその子、探してみようか? 」


「えっ? 」


「おばあちゃんだって言ってたじゃない。 守ろうとして…… 結果は刺されちゃったけど、その時の思いが未練になってるんじゃないかって。 その子が今どうしているのかが分かれば、きっと前に進めるんじゃないかな 」


「でもそれじゃまた美月さんに…… 」


「『迷惑』じゃないよ。 まだそんな風に思ってるの? 」


「はは…… ありがとうございます。 探すのは考えてたんですけど、正直どうやって探せばいいのか分からなかったんです 」


「その子の名前は? あ、ちょっと待っててね 」


 私はリビングに置いてあったバッグからメモ張とボールペンを取り出した。


「お待たせ、それじゃ教えて 」


「タチバナサナエって言います。 6年前が高校3年だから…… 24才ですね 」


「タチバナサナエちゃんね。 24…… って、えぇ!? 」


 同級生ってことは、優斗君も24才。 年上だったのか…… やっぱり幽霊さんは見た目に騙されてはいけない。


「あ…… 僕の時間は止まっちゃってますからね、ごめんなさい 」


「い、いや…… 私の方こそゴメンナサイ。 それでどんな字書くの? 」


「ミカンの橘です。 さなえは早い苗木 」


「タチバナ…… ミカンのタチバナ…… 」


 ド忘れした…… 橋に似た漢字だと思ったんだけど出てこない。 普段パソコンを使ってると、読めるけど書けない病にかかってしまうのよね……


(あ、そうだ! )


「優斗君、君が書いてみてよ 」


「え! でも僕はボールペン持てないですよ? 」


 私は彼の前にメモ帳とボールペンを置いて笑顔を作る。


「ずっと不思議に思ってたんだ…… コーラの缶すら持てない君が、どうして私が襲われた時は男達を吹っ飛ばせたのか 」


「うーん、僕にも分かりません 」


「おばあちゃんの言葉を聞いてさ、あの時の君の顔を思い出したの。 だから君がその気になれば、ボールペンくらい軽々と持てて字を書くこと出来るんじゃないか…… って 」


 そう、きっと彼の強い意志が、私を突き飛ばしたり男を吹っ飛ばしたりしたんだと思う。 言い方は悪いけど、菅原の怨念と言われる力が彼にはあるんじゃないか…… 血の力はあり得ない事も現実にしてしまうのを私は身をもって知ってるから。


「彼女の為に本気になってみて。 優斗君ならきっと出来るよ 」


「美月さん…… 」


 彼は私の顔をじっと見た後、ひとつ頷いてボールペンに手を伸ばした。


 つまむ事は出来ても持ち上げられない。 私も手伝ってボールペンを縦に支えてみたり、持ちやすいように宙に浮かせてみたり。 テーブルの方が集中出来るかもと、彼を椅子に座らせて私は向かい側に座り、空が明るくなってくるまでそれを見守った。





「美月ちゃん、起きなさい美月ちゃん 」


 肩を揺すられて私は目を覚ました。 優斗君の様子を見ているうちに、いつの間にか椅子で眠ってしまったらしい。 周りを見渡したが、優斗君の姿は見当たらなかった。


「彼氏と遅くまで話すのはいいけど、風邪ひかないでよね? 」


「彼氏じゃないってば! 」


 肩から掛けられていた一枚のフェイスタオル。 美咲ちゃん、掛けるならバスタオルにしてよ……


 ふと目の前の開かれたメモ帳が目に入った。


「あ…… 」



  橘 早苗 



 低学年の小学生が書くような型の崩れた字体だが、ハッキリとそう読める。 


「…… やるじゃん、優斗君 」


 私はそっとその文字を指先で何度もなぞった。 筆圧の足りない、か細い字。 でも、優斗君が書いたという事実はとても大きな意味がある。 


「うん? 」


 そういえばメモ帳のページが結構進んでる。 不自然に思ってページを戻してみると、そこにはミミズが這ったような線がびっしりと書き込まれていた。


「いっぱい練習したんだ…… 」


 その中に見つけた安倍美月の文字。 私はその文字も指先でなぞる。



  トクン



 胸の中で何かが跳ねた。


(なんなのよもう…… こっちの方が筆圧強いじゃない )


 指先に感じるデコボコした感触を指先に感じながら、私は何度も書かれた自分の名前をなぞった。

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