兄がいなかった話

吉武 止少

兄がいなかった話

 いっくんにはお兄さんはいなかった。

 というのは世間一般から見た話で、いっくんだけは、自分にはお兄さんがいたことを知っていた。

 いっくんが小さいときから、お兄さんはヒーローだった。

 いっくんが困ったときは助けてくれたし、一緒に遊んでくれたし、悪いことをしたら叱ってくれた。

 ただ、いっくん以外の人はお兄さんをみることはできなかったので、お兄さんはいっくんと一緒の時以外は少し寂しそうにしていた。

 小学生だったいっくんは最初、お母さんもお父さんもクラスのみんなも兄ちゃんを無視しているんだ、と思っていたけれど、お父さんとお母さんに何度かお兄さんのことを訊ねたあと、お父さんのフィットに乗せられて精神病院に運ばれたので、どうやら本当にお兄さんは誰にも見えてないらしいことが分かった。

 わかったところで、さて困った、と小学生だったいっくんは頭をひねった。

 もしかしたら自分は狂ってしまっているんじゃないだろうか、と考えたのだ。

 でも心配そうにいっくんを見ているお父さんとお母さんには「僕って狂ってる?」なんて聞けるはずもなく、いっくんはもやもやしながら自分のベッドでごろごろしていた。

部屋の隅っこで宿題をやっていたお兄さんに、


「いっくん、うるさいよ」


 と短く怒られて、いっくんはごろごろするのをやめてお兄さんを見た。

 (お兄さんの分は買ってもらえなかったので)いっくんの机に向かうお兄さんの姿を見て、やっぱりいるもんなぁ、なんてぼんやり考えた。

 それからしばらくして、寝る前の歯磨きで左上の奥歯を磨いているときにいっくんの中に名案が浮かんだ。

 学校の友達に聞けば良いんだ!

 明日になれば自分が狂っているのか狂っていないのかがはっきりすると分かり、いっくんはスキップしながらベッドに向かった。部屋に入るとまたお兄さんにうるさい、と怒られたけれど、いっくんはにこにこしたままベッドに潜り込んで寝てしまった。

 しかし、そんな考えは通用しないことがすぐに分かった。いっくんには、質問に答えてくれるような友達がいなかったのだ。

 だいたいお兄さんがいつも遊んでくれていて、いっくんは楽しかったからそれでいいと思っていたんだけれど、お兄さんはいっくん以外には見えないのでほかの誰かを誘えなかったのだ。

 気づけばいっくんはいつもお兄さんと二人か、そうでなければ一人で遊ぶことに慣れてしまっていた。

仕方がないので、クラス委員長をしていたしぃちゃんに聞くことにした。


「しぃちゃん、しぃちゃん」


 休み時間に、黒板を消していたしぃちゃんに話しかけると、しぃちゃんは少し意外そうな顔をしたけれど、なぁに、と聞き返してくれた。


「僕って、狂っていると思う?」

「なんで?」


 黒板を消す手が止まった。


「兄ちゃんが見えるからって、精神病院に連れて行かれたんだ」


 しぃちゃんはいっくんが言っていることを理解できなかったので眉間にしわを寄せた。

 いっくんはそんなしぃちゃんを見て、しわが寄るからしぃちゃんで合ってる、と話しているのがしぃちゃんであることを再確認した。


「いっくんの言うことはわかんないけど、精神病院って精神を治療するためのところだから、おかしいんだと思う」


 それから黒板消しをいっくんの前に突き出した。


「わたし、黒板を消さないといけないの。頭がおかしい人に注意、って先生も言ってたしいっくんとは話したくない」


 いっくんは、黒板を消すなんて手品みたいだ、とは思ったけれど、しぃちゃんの眉間のしわがこれ以上深くなったらひびが入ってひぃちゃんになりそうだと思ったので言わなかった。

家に帰ると、いっくんはお兄さんとキャッチボールをした。お兄さんにカーブの投げ方を教えてもらったけれど、どんなに投げてもお兄さんのようにくにっと曲げることはできなかった。

 中学生になればできるのかなぁ、とは思ったけれど、制服を着て違う学校に行っても身長が伸びて体重が増えても髪型が変わってワックスを付けるようになってもいっくんがいっくんであることには変わりないので、きっと投げられないだろうと思った。


 いっくんはこの日、野球選手になる夢をあきらめた。


 それから一か月が過ぎた。いっくんはいろんな人に分からないことを聞いて回った。

 まりこ先生によるといっくんにはお兄さんはいないらしい。

 お隣のおばさんによると、見えないものが見えるのは目か頭がおかしいから、らしい。

 しぃちゃんによると精神病院にいくのは精神がおかしい人、らしい。

 だから精神病院に行っていて、みえないお兄さんが見えるいっくんは、頭がおかしいのだ、と結論した。

 自分の頭がおかしいせいでお父さんとお母さんは喧嘩が多くなり、友達は一人もおらず、近所でも噂になり、今日の給食にはブロッコリーが出されたのだ。

 それからいっくんはたくさん考えた。算数以外は苦手で、テストでもあんまりいい点数ではないけれど、一生懸命考えた。そして精神病院の先生に聞いてみた。


「見えないものがいるのが狂っているなら、見えないものがいなくなったら治ったことになるの?」


 精神病院の先生はなんとも言えない顔で笑っているだけだった。普段から話を聞くだけであんまりしゃべらない先生だったし、頼りにならない大人だと感じた。

 大人が頼りにならないなら自分が頑張らないと、といっくんは己を奮い立たせ、それからいっくんは家に帰ると急いで野球道具を取り出した。お兄さんの分がないのでなんとなく使わないグローブと、よくキャッチボールをするのに使うゴムボール。それから二人きりだと使い道のない金属製バット。

 グリップのところがちょっと臭い金属バットで3回素振りをすると、急いで駆け出して、リビングで読書をしていたお兄さんの頭をたたき割った。

 バットの内側を鈍い響きが通り抜け、いっくんはぞくぞくした。

 お兄さんは頭をぐにゃりとへこませて倒れた。

 床で頭がバウンドして、血液と、それからたぶん脳みそが少し漏れた。

 うつ伏せに倒れたお兄さんはじわじわ広がる血だまりにぷくく、と泡を吐いたけれど、すぐに動かなくなった。


「すごい音がしたけど、なぁに?」


 お母さんはすぐに気づいて、それからバットを持っているいっくんに慌てて駆け寄り、バットを取り上げた。


「家の中でバットを振り回さないで!」


 近づいた拍子にお兄さんを軽く蹴ったけれど、やっぱり気づかないみたいだった。

 いっくんは素直に謝って、それからしばらくお兄さんのほうを見ていた。怒りのおさまらないお母さんはそっぽを向いたままのいっくんに、さらに怒ったけれど、結局お兄さんの死体には気づかなかった。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、いっくんとお父さんとお母さんは夕飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、いっくんとお父さんとお母さんは朝飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、お父さんは会社の飲み会だったのでいっくんとお母さんは夕飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、いっくんとお母さんは朝飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、お父さんは残業だったのでいっくんとお母さんは夕飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、お父さんは朝早くに出かけてしまったのでいっくんとお母さんは朝飯を食べた。


 お兄さんの死体が転がるリビングで、お父さんは帰ってこなかったのでいっくんとお母さんは夕飯を食べた。


 お兄さんは、少しずつ腐っていった。血が乾き、身が崩れ、それでもお兄さんの原型を留めていた死体は、肉が腐って腐汁ふじゅうを垂れ流していた。

 いっくんは気分が悪いのでそれを捨てにいくことにした。一度に運ぶのは大変だったので、何回かに分けたけれど、それでも臭くて重くて大変だった。

 狂ったのを治すのは大変なんだなぁ、と思いながらお兄さんの入ったビニール袋を近くのどぶ川まで持って行って、中身をぶちまけた。

 ぶちまけるたびに、こんなつらい思いをしたくないからもう狂わないようにしよう、と決意した。


 それからいっくんは狂わないように気をつけながら毎日を過ごした。お父さんはいっくんが中学校に上がる前に離婚していなくなってしまったけれど、おおむね平和で幸せな日が続いた。

 高校を卒業するころになって、いっくんには好きな人ができた。同じ高校に進学していたしぃちゃんだ。

 しぃちゃんはすごく可愛くなっていた。今では眉間にしわを寄せる癖は直したみたいだけれど、いっくんは相変わらずしぃちゃんをしぃちゃんと呼んでいた。しぃちゃんとは中学校の辺りからあんまり話さなくなったけれど、卒業アルバム作成委員会で偶然一緒になり、話しているうちに好きになってしまったのだ。

 放課後になると一緒にアルバム作成の仕事をして、帰り道もしぃちゃんの家の近くまで一緒に帰る。

 いっくんは幸せだった。


「もう眉間にはしわ寄せたりしないのに、いっくんはしぃちゃんって呼び続けるね」「G組の写真、ちょっと少ないね」「いっくんって就職? 進学?」「小学校の頃一緒のクラスだった武田くん、高校やめて働き始めたらしいよ」「明日は部活の写真集めるだけだよね?」


 いろんな話をした。過去の話から未来の話まで、くだらないことも大切なこともたくさん話した。

 いっくんとしては全部録音しておきたいくらいだったけれど、そんな風に話せることがとてもうれしかった。

 年が明けてすぐ、いっくんはしぃちゃんと会うことになった。

 初詣をする約束をしたのだ。寒いのが苦手ないっくんはコートにマフラーでもこもこになっていたけれど、私服のしぃちゃんを見た瞬間に、もう少しおしゃれすれば良かった、と後悔した。

 それくらいにしぃちゃんは可愛かった。

 近所の神社までだいたい15分くらいだったので、二人で歩くことにした。

 しぃちゃんとの会話は、いつもしぃちゃんが話題を出すところから始まる。本当は自分からも話題を提供できればいいんだけど、とは思ったけれど、いっくんは話を始める前の静寂がすごく苦手で、うまく切り出せないのだ。


「ねぇ、ドブ川、覚えてる?」

「覚えてる。東町との境のでしょ?」


 ズルズルとコーヒーをすすりながら、いっくんは冷静になるように努めた。殺人犯の心境ってこんな感じなのかなぁ、と思ったけれど、被害者がいなければ捕まることはないのでちょっと違うなぁ、とも思った。


「夏になるとすっごい臭かったじゃん? それが問題になっててさ。春になる前に埋め立てられるらしいよ」

「あー・・・確かにあっち通るとすごい匂いしたよね」


 でもさ、と付け加える。


「川を埋め立てたら、中身はどこにいくんだろうね?」


 いっくんの疑問にしぃちゃんは噴き出した。それからニヤニヤと笑い、


「いっくんは相変わらず変わってるよね。水なんだから最後は海にいくに決まってるじゃん」


 ちょっと得意になっているようだった。得意になっているしぃちゃんも可愛いなぁ、と眺め、それから、はたと気づいた。

 埋め立てた川が海に行くならば、きっとお兄さんも海にいくのだ、と。

 海水浴のときは気をつけないといけない。クラゲ、熱中症、それからいっくんの場合はお兄さんだ。

 それからいっくんはできるだけ海には近づかないようにした。といっても、小さい頃とは違ってお母さんと海に行くこともなければ住んでいるところが海から近いわけでもないので、そこまで心配はいらなかった。

 でも、就職するときには会社が海に近いかどうかをきちんと調べようと心に誓った。

 そのくらいのことはしておかないと、また自分が狂ってしまうかもしれないからだ。

 そんな風にすごしていて、アルバム委員の仕事も終わり、しぃちゃんと放課後に肩を寄せあって作業することもなくなったある日。

 確か、10月に入ってすぐの、とても寒い日だったと思う。

 いっくんは久しぶりに夢を見た。

 夢の中では、いっくんは海辺にいた。夜明け前の、水平線がかすかに色づく暗い海辺で、寄せては返す波を裸足の足元に感じながら、うずくまって白く泡立つ波を見ていたのだ。


「久しぶり」


 波は、お兄さんだった。

 お兄さんの身体が砕け、溶けて、混ざって、いっくんの足元に打ち寄せられていたのだ。

 いっくんは無視した。狂わないように気をつけていたのに、どうしてこうなったんだろうと悲しく思いながらも、無視していればもしかしたら自分が狂ったことに自分自身も気づかずにやり過ごせる気がしたのだ。

 しかし、それは間違いだった。


「無視すんなよう」


 お兄さんはぷくぷくと泡立ちながら怒った。


「いいよ、夢の中で無視するなら、現実で会いに行くから」


 そういうと、引き波に合わせて海に戻ってしまった。気づけば陽が顔を出し、いっくんを照らしていた。

 そして、一緒に照らされてきらきらと光っていた海に、もやが掛かっていた。

 ああ、あれはお兄さんだ。

 いっくんはこれから何が起こるかが分かってその場で波に砕かれて消えてしまいたかった。

 お兄さんは、きっと雨雲になっていっくんに会いに来るのだ。

 腐汁だった肉も、波で削れた骨も、雑巾で拭いてそのまま捨てた血も、何もかもが、会いに来るのだ。


 ――目が覚めると、雨が降っていた。


 微かにものが腐ったような匂いを感じ、いっくんは布団に包まり直した。家から出たら、きっとお兄さんに会ってしまうから。

 学校を休み、お母さんをずいぶん心配させ、それでもいっくんは部屋から出てこなかった。雨が見えないようにカーテンを閉め、薄暗い部屋の隅で布団にくるまって震えていた。

 夜になり、ようやく雨が止んだ。

 まだ外には降り注いだお兄さんがいるかも知れないので家からは出られない、とは思ったけれど、いい加減トイレに行きたかったから、部屋からは出ることにした。心配してくれたお母さんはいっくんの熱を測ろうとしたり、夜食におにぎりを握ってくれたりした。

 いっくんはトイレに行った後でそれをぺろりと平らげ、面倒だったけれど体温計できちんと熱を測った。36.3度だった。お母さんはそれを見てからやっとほっとした顔になった。


「おにぎり、足りなければもう一つ握ろうか?」

「ううん。だいじょうぶ」

「分かった。それじゃあ母さん、お風呂に入ってくるから。いっくんも具合が大丈夫そうなら後で入ってね」


 そう言って、脱衣所へと消えていった。

 いっくんは、明日には地面も乾いているといいなぁ、と考えながら台所へ向かった。おにぎりが乗っていた皿と、浅漬が入っていた小鉢と、使った箸を片付けるためだ。

 といっても洗い物はお母さん任せっぱなしなので、流しにそれをまとめて置いて、それから水道の蛇口をひねって水につけておくだけだけれど。

 いつか、お米は乾くと洗うのが大変、とお母さんが言っていたので、いっくんの中では当たり前の行動だ。

 食器の始末を終えたいっくんはコップを手に取り、蛇口の水を一杯分だけ汲んだ。

 口をつけた瞬間、ドブ川の腐った臭いが口の中いっぱいに広がり、慌てて吐いた。慌てていたせいでコップを落としてしまう。割れてはいなかったが、倒れて中の水が広がっていた。


 流れる水の中で、確かにお兄さんと目が合った。

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