第三話 凛として

(きっと何か悪い夢でも見ているのだろう)

 

 雪江はそう思い込もうとした。目の前が眩み、膝ががくがくとわなないている。いつもは気づかないで繰り返している呼吸も、今はそれと意識しないでいると、危うく息を呑んだまま気づかずに忘れてしまいそうになる。良人の関市之丞が、江戸詰めのお役の間に私闘におよび、相手を殺害したあげく、呉服橋の松本藩邸の詰所で自刃して果てたというのだ。


「兎に角、思案することもあるまい」

 

 事の仔細を報せて来た実家の兄は、軍兵衛が遺した離縁状とそれに添えられた文を、雪江と姑のかつ女の前に差し出していった。文にはただ「武士の一分」とだけ、良人らしいきめの細かな筆跡で書かれてあった。


「中村家の皆さまには、まことに申し訳ございませんでした」

 

 姑のかつ女は、実家の兄と、さらには雪江にも手をついて詫びた。その姿が、意外にも、凛として見えるのが雪江には意外だった。


「子を生さなかったのが、今となっては幸いでした」

 

 実家の兄はそういって立つと、明日何らかの沙汰が下りましょうが、雪江は離縁されたものとしてお計らいください、と肩に火の粉がかかるのを払うようにして姑に念をおしていうと、来るときと同様、夜陰に隠れて足早に帰っていった。

 

 雪江の良人の関市之丞は、藩内の若侍の中でも、英雄として称えられた人であった。軽輩の家の子弟が多く通う土居尻町の金丸道場で、天賦の才を顕し、剣術の上覧試合では、丹波守光則の前で五人抜きの快挙を遂げた。お上の覚えもめでたく、直ぐにお目見となったが、関の家が徒歩の身分のままでは具合が悪く、一代かぎりとはいえ、市之丞は御小姓に取り立てられた。関の家ではこれを際限の名誉として、嫁取りはぜひ諸士の家からと八方に根回しをした。雪江は中村家の四女であった。上に三人の姉と一番年の近い兄がひとりあった。中村の家はもともと足軽から興った家だが、三代前に功績があり、御旗組に取り立てられ、以来諸士の家柄となった。人を介して関家から雪江を嫁にと話が持ち上がったとき、中村家では難色をしめした。一代を限りに、関家はまた卒士の身分に戻るではないか、というのがその理由だった。しかし雪江は剣術の英雄と聞いて、ぼうとのぼせてしまった。お上の前で五人抜きという快挙を遂げた剣士に、雪江は会わずとも懸想してしまったのである。何しろ天賦の才に恵まれた剣士だもの、この先ももっともっとご出世なさるのに違いない。そう家族の者を説得したのが、ほかならぬ雪江だった。

 

 関家に婚してきて、雪江はますます良人を見ちがえた。天賦の才に恵まれた剣士という姿はふだんは微塵も顕さず、いつもにこにこと雪江を見守っていてくれる。雪江は本当に雪のように真っ白な心をしているね、とどんな些細なことでも見つけて誉めてくれる。姑との間にも心が通うように、こまごまと気を遣ってもくれた。良人はまさに雪江ひとりの英雄として存在していたのだった。

 

 雪江は良人が遺した離縁状と文を、あらためて開いて見た。「武士の一分」とはいかにも良人らしい。良人はきっと、義をもって私闘にのぞんだのだろう。それは武士にとって避けてはならぬものだったに違いない。その上で、潔く自ら始末をつけたのだろう。雪江はそう思うと、姑の凛とした姿を理解した。と同時に、目の前がはっきりとした。膝のわななきがおさまり、呼吸も整えられた。

 雪江は胸を張り、背筋を伸ばし、顎をきりっと引いた。そうしてすっくと立ち上がると、隣室の仏前で誦経する姑に声をかけた。


「お義母さま。私もご一緒してもよろしいでしょうか」

 

 雪江は関家の先祖の前で、凛として、姑の声に和した。


      第三話 凛として 完

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