第23話:逃走

 あの学校での騒動があった所為で、恐る恐る屋上から出る俺に杏奈から渡されたお守り代わりの飴を見る。

 彼女の言う通り事情を知らない生徒にすれ違っても追いかけられることもなく、いつの間にか熱が冷めた男子たちも解散し、下駄箱で遭遇した乙葉もスキンシップは前の時よりも上がったが狂気的ではなかった。

 まるでバカップルのように腕を組み、身を寄せる乙葉は甘えた猫みたいに匂いをこすりつけていた。

 最も心配していた家の中でも特に問題なく、親もいつも通りに接してくれていた。

 頭を洗っている時や風呂に浸かっている時も乙葉が乱入してくることはなかったし、そして夜に勉強するといって部屋に戻った現在も乙葉がやってくることはない。


「本当に、何だったんだ……」


 溜息が口から洩れた瞬間、部屋の中に着信音が鳴り響く。

 今まさに手に取ろうとした、机に置かれたスマホが鳴ったことで慌てたが画面に表示されている【大伽杏奈】の文字を見て安堵の息を吐く。

 しかし考えてみれば気になる女の子からの電話だと思うと、少しばかり出るにも勇気がいるが切れてしまう前に出る。


「もしもし……?」

『私よ。いま大丈夫かしら?』

「大丈夫だけど……でもこんな夜にどうして電話を?」


 壁に取り付けられた時計はすでに九時を示していた。明日が休みだからその打合せだろうか? と考え話を聴いていると彼女はどうやら通話状態のまま外を見ろと言う。

 窓はまだシャッターを下ろしていないため、厚手のカーテンを開けるだけで外を見れた。

 窓を開けて外の様子を覗き込むと、道路にこっちで何故か一台も走っていないスポーツバイクに跨っている銀糸の髪の彼女がこちらを見ていた。


「え? あん……いや、えっと、え? 大伽さん?」

『呼びやすい方で構わないわ』

「え? えっと、じゃあ……その、杏奈? どうしてバイクに乗ってるんだ?」

『……そう。貴方はこれがバイクだと認識できるのね。知識として混ざったかどこかで共有された? この件に関わっている職員は非効率を嫌う者ばかりと思っていたけど私みたいな奴でもいたのかしら』

「杏奈?」

『……ごめんさい。考え事をしていたの。それより状況が少し悪い方向に変わったわ。今すぐに出られるかしら? 厚手の服装に着替えてくれる? それじゃ』


 一方的に話し終えると杏奈は通話を切り、どうやら思考の海へと漕ぎ出したらしい。

 もはや俺は断れない状況になったようで寝巻から着替えてポケットに貴重品を押し込んで部屋を出る。


「あれ、お兄ちゃん? どこかに行くの?」


 廊下に出ると階段を上ってきた寝巻姿の乙葉が気づいて話しかけてくる。

 風呂上りの彼女の匂いは同じ洗髪剤を使っていながら不思議と独特な甘い匂いが付加されており、学園の餓えた男たちからすれば後先など何も考えずに手を出したくなるほどの色気を放っていた。


「お兄ちゃん?」

「……友達の家に行ってくる。たぶん休み中もそっちに居ると思うから」

「友達っていうと朱馬さん? でも確か結構厳しい家だって聞いてたけど……あ、お兄ちゃん!?」


 必要最低限の会話のみで打ち切らなければ、もしかしたら乙葉も付いてきてしまうかもしれないと考えてそそくさと階段を降りて行く。

 玄関から出る際にも母親に何処に行くのかと問われたが、同じように友達の家に行くと伝えて家を出た。

 夜風が暖めた身体を冷やしたが、道路で待っている杏奈を見て寒さなどまるで問題にならないほど心が弾んだ。


「杏奈!」

「これを頭に着けて、後ろに乗って」


 渡されたのは黒いフルフェイス。透明なアクリルによって視界を確保されたそれは飾り気はなく熱も籠り易いが、夜なら暖かさの確保も出来るともいえる。


「着け方は分かる?」

「大丈夫だ。自転車でもヘルメットはつけるんだからさ」

「……そうね。じゃあ早く乗って。邪魔が入る前にね」


 杏奈は長い髪をヘルメットに押し込んで装着すると、手早くヘッドライトがついたバイクに跨った。

 不思議とそのバイクは知っている物よりも音が無いと言ってもいいほどに小さく、閑静な住宅街にその存在感を主張することはなかった。


「会話はインカムを合わせてある。問題なく出来ると思うから」


 ヘルメットをつけていても、いつもよりハッキリと聴こえる彼女の声にびくっと背筋が思わず震えるが少し大きめの咳払いをして同じように後部座席に跨った。

 彼女の小ぶりな尻の部分を膝で挟み、彼女の肩に手を添える。


「……イレギュラー、か……」

「何か言った?」

「走りながら話すわ。説明の手間が省けたからね」


 杏奈は意味の分からないことを言って始動したままのバイクのアクセルをゆっくりと上げていく。

 こうして夜に出歩くことなどないので、ふと何となく自分の住んでいる家に視線を向けると―――


「っ!?」


 ―――じっ、と何の感情も読み取れない乙葉の顔が窓から見えた。

 幾らバイクの明かりが有るからといって俺の姿をじっと見ていることなど出来るのだろうか?

 すでに外は夜。明るい所から暗闇を見ようとするのは逆の立場ならばいざ知らず、暗闇に目を凝らすか慣れさせるしかないだろう。

 だとすると……乙葉は廊下で別れたあとからずっと窓から俺たちを観ていたのかもしれない。

 バイクが動いて遠ざかる我が家。明かりが外に洩れる窓辺にて、乙葉の目は角を曲がるまで俺たちを離すことはなかった。

 会話のないまま公道を走り続けていると、添えていた手の震えに気づいていた杏奈が小さな溜息を吐いて尋ねてくる。


「何かあった?」

「……乙葉の様子が変なんだ。いや全員の様子も変だけど、その中で特にさ」

「そうでしょうね。あの子は一番貴方に近いところにいるから」

「俺が? やっぱり俺が原因なのか?」

「ええ、そうよ。貴方に起きている変化は恐らくだけど止められない。止める術がない癌のようなもの。いえ……どちらかと言えば成長のようなものよ」

「成長? それって悪いことじゃないってこと?」

「ええ。周囲は期待しているし、待ち望んでいる成果でしょうね。ただそこに貴方の幸福という勘定は入っていないけれど」


 島の眠る時間は早い。夜の九時を過ぎればどこの店もやっておらず、また車も走っていない時間帯だ。

 誰もいない夜の行動は朝方になるまで誰もいない専用道路のようで、冷たい風はあたっても心地よさの方が幾分も上回る。

 本来なら気になる相手とのツーリングは、出来ることなら話も色気のあるものが良いのだろう。

 しかし頭に過るのは先程の無の感情に支配された乙葉の顔だ。喜怒哀楽が抜け落ちた顔は能面よりも表情が無く、人形よりも愛らしさはない。

 作り出された接客対応する人形よりも感情のない顔は、もはや恐怖でしかなく向けられた者の心を竦ませるには充分だった。


「どういう意味なんだ? 教えてくれ……俺にはもう、訳が分からない」

「そうね。こういうことは順序立てて説明するべきなのでしょうけど……そうもいかないみたいねっ!」


 そう言った杏奈はアクセルを上げ、突然に法定速度を無視して走り出す。

 何をするんだと問い質そうした時、目が眩むような明かりがミラーに反射される。

 それは後方からやってくるトラックの上向きになったヘッドライトの明かりだ。眩しすぎて運転手は見えないが、前方にバイクがいるのを気付いていないのか速度を上げ続けている。


「役立たずの消去とサンプルの回収か。これだから研究者は嫌いなのよ」

「あれは!?」

「暴走トラックよ。いや、私たちを殺すのが目的だから暴走なんてしてないか」

「殺す!? なんで!?」

「口封じでしょう。私は死に、貴方は捕まったらモルモットにされる。動けないようにされてね」


 どんな方法で動けないようにされるのか明言しなかったが碌でもない方法なのは察し、彼女の肩に添えていた手を強めに握って正面へと向き直る。


「逃げよう! 一目散にっ!」

「ふ……それぐらい解ってるわよ、彼方!」


 アクセルを思いっきり開いたことでモーターの回転数は一瞬で跳ね上がり、ガソリン車では得られない加速感を全身で感じ取りながら公道を走り出した。

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