第21話:義妹は妹? それとも……

「ねぇ、お兄ちゃん……?」


 カチコチと壁に掛けられた時計の秒針が響く教室。ほんの少し前まで生徒たちが肩を並べて勉強する普通の教室は、今はただ二人だけの呼吸が間近に感じられる空間となっていた。

 脳を震わせる甘い声と、近くで感じる義妹の吐く息から微熱を得る。鼻腔をくすぐる甘い匂いは、一日学園で過ごした後だというのに汗臭さというモノを感じることはない。


「お、乙葉……?」

「お兄ちゃんは……乙葉のお兄ちゃんだよね?」


 床に押し倒された状態でスカートから伸びる柔らかな太ももが脇腹にあたり、腹部に乗った小さな彼女の臀部は体重を感じさせないのに身動きだけは塞がれている。


「おと、は?」

「お兄ちゃんは、あの人のことをどう思ってるの?」

「あ、あの人って……大伽さんのことか?」

「そうだよ? お兄ちゃんはあの人のことが気になるんだよね?」


 少し乱れた制服のまま乙葉の手は俺の胸を這い上がり、蛇のようにもムカデのようにも動く手は制服越しなのに熱を齎していく。

 細い指先がスーッと滑るように持ち上がり、妖艶な踊りのように視線を絡め取るとその細い指が首から頬へと優しく触れる。


「気になるって……」

「でもこうして触れると解るの。乙葉のことも意識してくれてるって」


 脇腹を挟んでいた太ももが少しだけ強く締め付けてくると、その柔らかさに意識を取られてしまう。

 乙葉が義妹ということを差し引いても異性特有の匂いや柔らかさが男心を刺激されてしまっていた。

 放課後の教室には夕日の日差しが差し込み、その夕日に照らされる義妹は年下のはずの女の子から蠱惑的な女性の魅力を引き出していた。


「ねぇ……お兄ちゃん?」


 乙葉の顔がゆっくりと近づく。その顔は夕日によって赤く染まり、その瞳は潤み、その小ぶりの唇から漏れる息は熱い。

 自分のことを兄と慕う女の子。それだけとは思えない甘すぎる想いが、肩に乗った手やゆっくりと移動する重心、そして重なり合う上半身が脳を揺さぶる強烈な感情を届けてきた。


「お兄ちゃんは乙葉のこと……どう思ってる?」


 僅かな震えすら余さず伝えてしまう距離感。肩に乗せられた手が首の後ろに伸びて回り、もはや耳を噛もうと思えば噛めてしまえるほどの距離感で乙葉は喋る。


「乙葉のこと、嫌い?」

「そんな……こと、ない」

「でもそれって妹として、だよね? 乙葉も……女の子、だよ?」


 抱締められたまま身動ぎされるだけで、もはや正気を失いそうになる。

 それは異性から齎される脳を犯し精神を蝕む甘美な毒だ。一歩先が崖だと見えていても知っていても堕ちてしまいかねない程の毒性を持っていた。

 布越しに感じる乙葉の控え目な双丘は、制服で隠れているだけで現実的には十二分その存在を主張している。

 首筋にあたる乙葉の吐く息が背筋を震わし、男の理性を刈り取ろうとする暗器として猛威を振るわれながら呼吸が止まりそうになる状況は続いた。


「乙葉、そんなに魅力……ない?」

「お、おおお乙葉は乙葉だっ! た、大切な妹! 家族! そうだろう!?」

が抜けてるよ、お兄ちゃん?」


 どんな技術かは解らないが、今まで簡単に支えていた乙葉の体重に負けた上半身は床に容易く倒され、馬乗りとなっていた彼女に覆い被さられてしまう。

 明かりの点いていない蛍光灯。義兄妹以外に誰も居ない夕暮れの教室。時計の針さえも聞こえないほどに心臓の音が五月蝿くなる。


「本当は皐月ちゃんやいざり先輩とも仲良くして欲しくないの。でもお兄ちゃんから友達を奪うなんて出来ない。したくない……でも友達じゃないなら別」

「おと、は?」

「ねぇ、お兄ちゃん? 乙葉ならいつでもいいんだよ? 幾らでも、何処でも、いつでも求めていいんだよ? 朝も昼も夜も、家でも学校でも街でも……お兄ちゃんが求めてくれるなら何でもしてあげられるよ? もちろん、今すぐでも」


 何を、と問えば瞬時に答えが返ってきてしまうだろう。もはや兄妹という一線を吹き飛ばす男女の営みを。

 それは本当の絵空彼方にとっては冗談として受け止めることも出来たかもしれない。ゲームなら選択肢が出てきてもおかしくない状況なのかもしれない。

 でも今現在、現実として籠絡されているのは絵空彼方ではない。その身体に入り込んでしまっただけの巷に蔓延る現代日本人の冴えない独身男だ。

 彼女が好意を寄せる相手では……無かった。


「乙葉。俺の答えは―――「嫌」―――乙葉、聞いてくれ」

「聞かなくても解るもん。見たことのない辛そうな顔してるんだから」

「……なら、ちゃんと聴いてほしい。俺は乙葉に誠実に向き合いたい」

「……お兄ちゃんは乙葉のこと嫌いなの?」

「あり得ない。嫌いになる理由が全く無い。家でも世話かけまくって申し訳ないくらいだ。しかもこんなにも可愛い妹が世話を焼いてくれるなんて夢みたいで、男の憧れを体現するような日々だ」

「じゃあ、どうして?」

「……俺の、我儘だ」


 たぶん、これは自己満足だろう。我儘なんだろう。納得できないだけなのだろう。

 もしも同じように時間を重ねていれば、彼女の想いをそれこそ今にでも受け止めた。

 己の浅ましい獣欲で彼女の肢体を堪能しようと時間も忘れて躍起になっていたのは間違いないと確証がある。

 それがハッピーエンドかなんて現実には解らない。Finの文字など現れないし、エンドロールが流れずにどこまでも続くのが現実だからだ。

 今日が終われば明日が来る。朝日が昇り、夕日が落ち、月が輝く夜が来る。何でもない日の中に変化の波が引き寄せたり押し寄せたりする。

 劇的な変化が常に起きることなんてなく、運命的な出会いなんて主観思い込みでしかない。

 だからこそ重ねた時間は重要で、交わした想いは何にも劣ることなどない。突然現れた他人に、混ざり込む余地があるとは思えなかった。

 重ねた時間が最も多い乙葉なら、絵空彼方と自分の齟齬に気づくだろう。どれだけ自分が嘘を塗り固めて絵空彼方のように振る舞おうとも気づいてしまうだろう。

 遅かれ早かれ気づいてしまうならば引き返せる段階でなければ互いに不幸になる。こんなにも可愛い妹で、家族で、絵空彼方という人物を一途に愛する女の子を傷つけてしまう。

 それはきっと彼女が許してくれても、己自身がいつか逃げ出すことになるのが予想できる、誰も報われも救われもしない虚しい日々に違いない。

 だからこそ彼女に対する答えは最初から決まっている。


「俺は、


 物語になるような恋をしたとしても、それは俺との恋ではない。

 有触れた愛を向けてくれたとしても、それは俺への愛ではない。

 全てが借り物の恋愛模様。それはただの虚しさしか生み出さず育くことも出来ない。


「だから俺は……キミの想いを、受け止める資格がない」


 俺の答えを乙葉は真っ直ぐに見つめて聴いてくれた。吸い込まれそうな目には真剣な顔をした男の顔が映っている。

 毎日寝癖を直す時にも見ている洗面台の鏡に映っている顔は、昔の自分の面影など何一つ残っていない。

 シミもホクロもシワもそばかすも存在せず、理想的なすらっとした体型と足の長さによって見える景色も違っている。

 絵空彼方の皮を被り、絵空彼方のフリをする。自分らしさを無くした男が彼女の心も身体も穢していいはずがない。


「そう、なんだ……」


 乙葉が瞼を閉じて顔を上げる。体勢は未だ俺を押し倒して腕を伸ばしたままではあるが、俺なりに真摯に向き合い想いを伝えられた。

 モテたことのない自分が調子に乗っているだけなのかもしれない。簡単に落ちる男ではないと見栄を張りたいだけなのかもしれない。何だったら本当は凄く流されたいとさえ思っている。

 彼女を引き寄せ抱き締めて、押し倒してしまいたい気持ちが溢れてしまいそうになっている。

 ヘタレと蔑まれようとも、間抜けだとバカにされようとも。彼女が誰かのモノになってしまうかもしれないとしても、俺は自分の想いを優先した。

 恐らくこれから家の中は気まずくなるのだろうと予想していると―――


「じゃあ、貴方はどう?」


 ―――鼻と鼻が触れ合うほどの距離に乙葉の顔は近づいた。

 黒く淀んだ瞳。酷く歪みながらも美しい笑み。まるで毒壺の中に入れられた宝石のように彼女は微笑みを浮かべていた。

 だからその言葉が恐ろしく、その表情が怖ろしく、その感情が悍ましかった。


「え?」


 震えた声が自分の口から漏れ出たものだと誰が信じられるだろう。

 震える身体が自分の意思とは関係なく、ただ目の前の義妹を恐れてのものだと誰が信じてくれるのだろう。


「貴方よ貴方。目の前にいる貴方。お兄ちゃんの皮を被った貴方。お兄ちゃんと呼ぶしか無い知らない貴方。私を見ている貴方。私に劣情を抱く貴方。こうして触れ合える距離の貴方」


 もはや指という生易しいものではなく、赤い舌という彼女のこぶりな口から顔を出したものが淫秘かつ滑らかに首筋に流れた冷や汗を舐めとる。


「ねぇ、乙葉を感じれてる? 乙葉の想いは伝わってるかな?」

「な、にを」

「なぁ〜にも怖くないよ? ただ貴方が乙葉の想いを受け止めてくれたら何でも出来ちゃうの。どんな服も着てあげる。どんなお世話もしてあげる。どんな時でもしてあげる……」


 まるで続きを催促するように誘うように彼女は自分の学生服につけられた胸元のリボンをスルスルと取っていく。

 家の中では何度も見た光景だというのに、それだけで男の劣情をいとも容易く絡め取ろうとしてくるのは何故なのか。

 解いたリボンが胸に落ちると、着崩していた制服のボタンをゆっくりと細い指が外していく。

 明らかに先程まで感じていた暖かな何かは消し飛んでいた。覚悟も想いもそこには無い。

 まるで悪趣味にも食べられる前の豚や鳥に人の意思を宿らせたのかと思うほどの恐怖心が彼女の身体を突き飛ばさせた。

 軽やかに飛んだ彼女の身体が、俺の腹から退いて教室の床に尻もちをつかせる。


「な、なにをするんだ!? お前は乙葉なのか!?」

「どうしたのお兄ちゃん? どうしたの知らない貴方? 乙葉は乙葉だよ? ただ貴方が欲しいだけの乙葉だよ? 脱がされるのが嫌だった? じゃあ貴方が乙葉を脱がす?」


 短いスカートの端をつまんで軽く持ち上げる彼女の顔にあの無邪気な笑みはなく、淫蕩に耽溺した娼婦よりも恐ろしく、男を誘う女淫魔にも負けず劣らずの笑みを浮かべていた。

 何もかも理解不能の行動に興奮よりも恐怖を覚えた。まるで目の前に幾つもの包丁が並べられているかのように。まるで使ったばかりの鉄の処女の内側を見せられているかのように。


 殺される。


 そんな予感が頭に過ぎった瞬間に乙葉が塞ぐ反対側、窓から他の部屋へも続くベランダへと駆け出したのだった。

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