第2話:義理の妹との距離感は掴みにくい
「もう! ちゃんと起きてよね!」
小さな頬を膨らませて怒っている美少女は、寝ている俺の顔を覗き込んでいた。
VRゲーム特有の目の前にいる感覚では未だ味わえない、生きていることを伝える温度を確かに感じる。
ありえない。そんなはずはない。そんなことがある訳が無いと妄想と空想がごちゃ混ぜになった幻想に手を伸ばせば、その小さな頬に触れることが出来た。出来てしまった。
「お、とは?」
「ふえっ!? な、なに? えっ? 何するの!?」
「絵空……乙葉なのか?」
「ちょっ! ちょっと!?」
可愛らしい輪郭に手を添えてなぞるよう触れていた所為か、その手を勢いよく振り解れて距離を取られる。
耳まで顔を赤く染め、二重瞼を大きく上げて信じられないものを見たかのような顔をしていた。
「いったいなに!? いくら何でも寝惚けすぎでしょ、お兄ちゃん!」
「……お兄ちゃん? 俺が?」
「はぁ? なに言ってるの? もしかして自分のことも分からないくらい寝惚けてるの? 記憶喪失なの? 早く下に降りて来てよねっ、バカ!」
腕で身体を守るように後退り、部屋の扉の前で罵倒しつつも待っていることを伝えてくる。
窓から朝日が差し込み、ふとベッドの脇に置かれた目覚まし時計を見れば六時を指していた。
朝なのは理解できた。しかしそれ以外の全てが理解出来ないでいた。
「え? 俺……の部屋じゃない。いやでも俺の部屋なのか? いや絶対に違うよな? どういうことだ?」
自分の頭の中では奇妙なことに自分の部屋が二つ浮かんではせめぎ合う。目の前に広がる青年の清潔で整った部屋と、男の欲望とだらしなさが詰まったゴミ屋敷にも似た二次元嫁の部屋だ。
明らかに自分の部屋ではないと解るのに、それでも自分の部屋でもあると何故か納得している節もある。
「そもそもあの乙葉は何だ? 本物? そんなバカな……」
もはや何が起きているのかも訳が分からないまま、ベッドから出て見れば自分の中年太りした腹とは思えないスッとした体型に驚く。
立ち上がれば平均的以下の身長しか無かったはずの自分よりも高い目の高さに、明らかな異常なのが間違いないと解って室内に置いてあった姿見に駆け寄った。
そこに映るのは自分の面影はない。
三十路を過ぎるまで付き合い続けた身体は無精髭など無く、目鼻立ちがハッキリとした顔にはシミすら存在していない。
むしろピンと飛び出た寝ぐせすらファッションの一部にすら見えるほどの八頭身の青年の姿がそこに映っている。
「うっそぉ……誰よ、お前……」
阿呆面を浮かべている鏡の中の自分を見ている自分の姿がやはり滑稽で、現実感はないままに現実だと理解させられた。
理解が及ばない現実に朝から打ちのめされて記憶も眠気も綺麗に消え、いつの間にか制服に着替えてリビングへと降りていく。
「あ、やっと来たわね」
「ようやくか。今日は随分と遅かったな」
「だから言ったじゃん! 今日のお兄ちゃんってば変なんだよ?」
リビングにはすでに各々椅子に座っており暖かな朝食が用意されている。一体いつぶりの誰かの手製の朝食なのかも憶えていないが、その朝食の光景は間違いなく自分の過ごしていたものではない。
年齢不詳の父と母など自分の生まれに一切関係ないし、何だったらこの母とて恋愛対象になりそうなほど若々しい。
父とて若い時は確実に浮名を流していたであろうというイケメンぶり。眠る前ならば確実に舌打ちを永遠に繰り返したであろういつもの風景に何度目かの現実感の無さに立ち止まった。
「あぁ~……」
「どうしたの、彼方?」
「ねっ? ねっ? お兄ちゃん変でしょ?」
「熱でもあるのか? 昨日も夜更かししてゲームでもしていたのか?」
「え? あ……うん、まあそんなところ、かな?」
ゲームの世界の住人たちからゲームのことを言われることに奇妙な感覚を味わいながらも、乙葉の隣に空いた席に座ることで席は全て埋まる。
四つの席に用意された各自の朝食はまさに絵に描いたような一汁山菜で、食べ損なうことも多かった朝食にはご馳走にしか見えなかった。
「これ……朝食?」
「なぁに? 不満なら食べなくてもいいんだけど?」
「いや、随分と贅沢だなって……」
「なによ突然」
口の中に入ってくる味噌汁。暖かな炊き立ての白いご飯。程よい甘さの綺麗に焼けた卵焼き。噛めばシャキッという音をさせる野菜。
もはや料亭の朝食なのではないかと思わせるほど美味な食事に自然と美味しいと呟けば、母はどこか楽しそうに笑い、父と乙葉は怪訝そうにしていた。
毎日続いていた食事に対して唐突に感動し始める息子を見ての反応としては正しいともとれる。
だが一人暮らしをして、自分のためだけの食事すら作らなくなった独身男性においてこの味だけは心に一番くるものがあり、涙が流れないようにするのに必死だった。
「……それより二人とも。そろそろ学校に行かないといけないんじゃないの?」
「あっ!? ホントだ! お兄ちゃんもお茶をそんなに美味しそうに飲んでないで行くよ!」
「行くって……あぁ、学校か」
こちらの腕を引っ張る乙葉の細い手に掴まれて立ち上がり、いつの間にか俺の鞄さえもその手に持っていて押し付けてきた。
受け取った鞄は見慣れないのに見慣れている鞄であり、所々に出来た汚れや傷も自分の物だと認識させるのに一役買ってくれている。
「ほらほら急いでよ、お兄ちゃん!」
「分かった。分かったから少しだけ落ち着けって」
「そんなこと言ってると遅刻しちゃうよ! それじゃあ行ってきま~すっ!」
無理やり玄関に連れていかれて靴を履き替えると、乙葉に腕を掴まれたまま家を出ることになった。
見覚えのある道から見た我が家は普通の一軒家だが、やはり自分が今まで住んでいた家とは明らかに違う。
自分が住んでいたのは数年前にリノベーションされた築何十年というアパートだ。機能と見た目、そして何より家賃との費用対効果を求めた結果で選んだ物件であって一軒家ではない。
何より、ありがちではあるがこの一軒家はゲーム画面越しに何度も見ている。
「絵空……」
ぐいぐいと引っ張っていく乙葉によって早々に連れて行かれるが、一軒家には自分たちの名字である表札が取り付けられていた。
自分の胸に抱え込むようにして腕を引っ張る乙葉の先導は朝の一件のこともあってか力強く、しかしある程度歩き続けると周りの景色をキョロキョロと見渡している俺に不安を抱いたのか立ち止まって顔を覗き込んでくる。
「ねぇ、ホントに大丈夫? 今日はいつもよりだいぶ変だよ?」
「いつもよりって何だよ。しかもだいぶって……」
「熱でもあるの?」
絡めていた腕を離して覗き込んでいた彼女はそのまま手を伸ばして自分の額に手を当てて体温を測る。
体感でしかない測定方法だが彼女のひんやりとした指は間違いなく心地良い。人の体温は三十五度以上はあるというのに、どうしてこうも手だけが冷たいのか。
ふとした疑問を頭に過ぎらせていると、乙葉はウンウンと悩ましそうな唸り声を出していた。
「う〜ん……大丈夫だと思うけどなぁ」
「風邪は引いてないからな。それよりもう腕を組んでの登校はいいのか? 楽しそうに鼻歌を歌ってたし、別に腕を組んでもいいんだぞ?」
「う、歌ってないから!? それにアレは遅刻しそうだから引っ張ってたの! ただそれだけだから!」
「まだ春先だし寒いから乙葉の天然カイロは手放せないんだけど」
「乙葉はカイロじゃないから! もう。そんな馬鹿なことばっかり言ってるなら先に行っちゃうよ!」
「それは困る」
乙葉に置いて行かれた場合、自分には学校への道は分からないのだ。
学生服を着た人たちの流れに乗るまでは絶対に彼女から離れてはならないし、この年で学校に行く前に迷子になるなど病院に搬送されかねない事態だ。
脳を隅々まで調べられたうえカウンセラーと話して最悪の場合入院し、そのまま病院内で過ごすことになったとしたら例えギャルゲーでもバッドエンド確定だろう。
しかしそれを説明することが出来るはずもなく、何とか誤魔化しながら機嫌を損ねないような言い分を必死に考え、彼女の両肩に手を置いて答える。
「乙葉は……俺にとって……」
「お、お兄ちゃん? え? な、なに? もしかして……」
「今日から……カイロになろう?」
「カイロじゃないって言ってるでしょうが!」
恐ろしいほど正確な鋭い一撃を鳩尾に直撃し、朝の食事が戻りそうになるのを必死に堪える。
眼の前にいる美少女の顔面を吐瀉物塗れにすることだけは防がねばならない。ただその一念しか残っていなかったが、乙葉はそんな思いなど露とも知らずに歩き始めてしまった。
路上に膝をつき、並々ならぬ乙女の
そして痛みから解放されて迷いながらも何とか歩いて学校に辿り着くと、同じ学生服を着ている人々が門の中へと入っていく光景が広がっていた。
やはり見たことのある学校の門はゲームの画面越しでしか無いはずなのに、幼い時から通っていた記録のような記憶に残っている。
他人のアルバムを覗いているかのような感覚は過去に遡る度に徐々に鮮明さを失って白黒となっていくが、それでもここにずっと通っていたことを知れた。
「あぁ……見たことのある学校だ」
「そりゃそうでしょ。いったい何年通ってると思ってるのよ」
突然に背中を叩かれて、次いで声をかけて来たのはコスモスのような花の匂いをさせる女性の声だった。
振り返ろうとした時には後ろから前へと移動してその顔を覗かせる。
長い黒い髪と制服の短いスカートがふわりと舞い、綺麗に整えられた制服にはシワ一つない。
そして紫色の瞳はガラス細工のように輝き、その肌は陶器のように滑らかだ。
さらには女性らしい体型が服の上からでも解るほどの第二次性徴を遂げた彼女を知っている。
「
現れたのはゲーム内で主人公たちが通う学園でも一二を争う美貌の持ち主にして幼馴染の少女だった。
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