第4話 シニガミさんと私

 私は目を丸くした。シニガミさんの言葉にもハッとしたし、シニガミさんがこんなに声を荒げたことにも驚いたからだ。


「『次はきっと幸せになれる』って? 生まれ変わるつってもな、お前ェがまた生まれるわけじゃねェんだ。魂は同じでも人格は違う。〝次〟は別の誰かのためのものであってお前ェのものじゃねェ」


 シニガミさんが興奮した様子で詰め寄ってくる。私は勢いに押されじりじりと後ずさった。


「今ここから逃げ出して、その先はどうすんだ? 死んだら安息があるとか思っちゃいねェだろうな?」


 シニガミさんの言うことは尤もなんだろうけど、私に何ができるはずもない。抜け出す隙間さえ見つけられなかった私の、やっと縋りつけた蜘蛛の糸のような希望なのに。


 シニガミさんは私の引っかかった不満には気づかないのか言葉を続けた。


「生まれ変わるまではお前ェのままだ。けどその間に死にたくなるほどつらい目に逢っても、もう〝死んで逃げる〟って選択肢、使えねェぞ?」


 シニガミさんの様子に私はふと、ひとつの可能性に思い当たった。それは、もしかして。


「それは、もしかして、シニガミさんのことなの……?」


「――!」


 シニガミさんは虚を衝かれたように瞠目して立ち竦んだ。ぐっと言葉が喉の奥で閊(つか)えたのか低く唸る。ぴょんぴょんと跳ねる黒髪の下からのぞく目に、後悔を連れて理性が戻ってきた。


 私の脳裏にシニガミさんの言葉が蘇る。


 ――もう死なねェんだからキリキリ働けって上はうるせェしよ……。


 ――犬を助けるために自動車に轢かれて事故死専門の死神になった。


「もしかしてシニガミさんは、自殺した魂、なんじゃ」


 言いながら、何て残酷なことだろうと私は胸が締め付けられる思いがした。自分と同じこの世界から逃げ出したい人の魂に何度も出会うだなんて。


「……何だよお前ェ、変なとこで察しが良いな」


 シニガミさんは苦笑した。見ている私が痛みを覚えるような笑い方だった。


「お前ェみたいに自分の力でどうにもならないことがあったわけじゃねェ。ただ仕事に追われて寝られねェ息苦しい毎日から抜け出したかった。それしか考えられなくて選んだのに、待ってたのは休みのねェ仕事だった」


 もうどこにも逃げられなかった、とシニガミさんは言った。安息を求めて逃げ出したのに死んでも尚、労働を強要された。戻りたくないこの世界へ生まれ変わる権利か、叱責されながら休みのない魂の回収を延々と続ける義務かしか選べなくなってしまった。


「事故とか殺人に逢った奴なら解るんだよ。やりてェことも一杯あっただろうさ。だから戻りてェのは自然だと思う。

 でも自殺専門の奴らも嬉々として勤しむんだ、生まれ変わるために。信じらんねェよ。やっと抜け出したのにまたこの世界に戻るってのかよ。今でもこんなに生きる気のねェ奴ばかりのこの世界にまた戻っていくって、オレには解んねェ」


 シニガミさんは目元を覆うように右手でくしゃりと前髪を掴んだ。


「自分だって逃げ出したのに、どうして次は上手く生きられるなんて思えるんだ。自分が踏ん張れなかったのに、どうして次の人格なら踏ん張れると思うんだ。自分だって、前の人格が『次なら上手く生きられるかも』って賭けた機会だったかもしれないのに」


 シニガミさんの声は震えていた。彼の自己嫌悪にも似たその思いが私を震わせた。


 私を見てシニガミさんが、ハッと息だけで困ったように笑う。


「何でお前ェが泣くんだよ」


 言われて初めて私は自分が泣いていることを知った。道理でシニガミさんがぼやけてきていたはずだ。


 シニガミさんは一瞬、私に手を差し出そうとしたように見えたけれど、すぐ自分のズボンのポケットに仕舞い込んでしまった。


「シニガミさんは、死んだことを後悔してるの?」


 聞かずにはいられなかった。だけどシニガミさんは私が苦しくなるほど優しく笑った。


「それはオレの想いだ。お前ェの選択には影響しねェ。

 オレは生きるためじゃなく死ぬために逃げた。……お前ェは、どうする」


 シニガミさんが真っ直ぐに私を見た。出会った時は眠そうだった目が、今は切実に私に答えを求めているようだった。


「お前ェはまだ生きてる。まだ、選べる」


 どっちを選んでも良い、と言われているような気がした。


 死が唯一の選択肢だと思っていた。絵に描いたような不幸は私自身で何とかできる範囲を超えていて、頼りになる人はいない。私が生きていることを誰も喜んでくれなくて、にっちもさっちもいかなくて、私は悔しかった。


 だけど、まだ選べるなら。私は何を選ぶだろう。


 シニガミさんの目を見据えて私は言葉を探して口を開く。だけど言葉ははっきりと出てこなくて、私は口を閉じてしまった。でもシニガミさんは待っている。待ってくれている。


「……私、生きるのは怖い」


 私の声も震えていた。右手を胸の上に置いて、左手を重ねる。そうしたら少しは震えないで言えるような気がした。


「だけどまだ、他の逃げ方があるような気もする」


 生きることを諦めた逃げる死ではなく、生きるための逃避を。


 私の言葉に、シニガミさんは面白いものを見つけたみたいに目を細めた。


「もうちょっとだけ。抗うシニガミさんみたいに私も抗う。シニガミさんの仕事が少しだけ暇になるように」


 生意気言いやがって、とシニガミさんは器用に片方の眉と口角を上げて笑った。でも嫌な笑いじゃない。少し、ほんの少しだけどシニガミさんが安心したように見えた。


「それがお前ェの選択か。

 またオレが見えるようなことがあったら承知しねェからな」


 シニガミさんの言葉に私はふふっと笑った。頬の筋肉が一瞬バキっと音を立てたような気がした。


「やだなぁ、シニガミさん辛辣なんだもの――」


 瞬きをひとつ。たったそれだけの時間でシニガミさんは消えてしまった。


 びっくりして目を皿のようにして辺りを見回したけど、シニガミさんのぴょんぴょんと跳ねた黒髪が印象的な姿はどこにもなかった。


 〝死にたがり〟にしか見えないシニガミさんの姿を、私は見ることができなくなっていた。しょぼくれて肩を落とした私の視界に、濡れたアスファルトに小さく広がる水たまりが入る。その中では鈍色の重たい雲間から、無残に散らばった植木鉢に植わっていた花と同じ色の空が僅かに覗いていた。


 私は仰向いてその色を認めると、今度は大きく笑った。ほっぺたが少し痛んだ。








参考

“自殺方法と原因や理由のサイト”<http://xn--nfvo7kkyaz03d.jp/>

“政府統計の総合窓口e-Stat”<http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/eStatTopPortal.do>

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シニガミさんと私 江藤 樹里 @Juli_Eto-

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