第14話
部屋に備え付けられた小窓から空を見上げると、昼間にも関わらず世界は薄暗い闇に支配されている。そこにあるはずの青空を覆っているのは雲ではなく、得体の知れない不気味な黒い霧。昨日までは燦々と眩しい程に輝いていた太陽は、今は見る影も失っている。
大きな事が二つ同時に起きたため、俺の脳内は混乱していた。
一つ目は眼前に広がる黒い霧の件である。フリルの放った世界を包む漆黒の霧は地平線の彼方まで広がっており、それら全てが人類の敵である魔者に変貌する元素なのだから、実質世界は魔者の手中に落ちた事になる。
二つ目はサロリアの正体。フリルは死に際にサロリアへ向けて『裏切った』と言った。それに対してサロリアは『裏切りではない』と回答した。
一年と少しの短い付き合いだが、サロリアの性格を考えれば嘘をついている可能性は低いと思いたい、かと言ってフリルがあの状況で根も葉もない嘘を吐く事も考え難い。だとすれば、二人の意見は両方とも正しく。それを踏まえて整合性のある結論を出すならば、フリルから見ればサロリアの行為は裏切りであり、サロリアからすれば自分の行動は裏切りではないという事だろう。しかし、第三者の視点で考えれば、何を指して裏切り行為と表現したか定かではないにしろ、恐らくサロリアの行為は裏切りだったのではないかと思ってしまうのが本音だ。
けれども、何も悪い事などない。
フリルは敵だったのだから、彼女を裏切ったところで俺と対立する理由はない。
――それに――。
不意に扉が短く二度叩かれ、扉越しに聞き慣れた女性の声が部屋に響く。
「レン、入りますよ」
噂をすれば影がさすなどという慣用句が世の中には存在するが、今回はその言葉の意味には当てはまらないだろう。彼女は、偶然俺の部屋を訪れたわけではない。
この村に辿り着くまでの道中、サロリアは『宿に着いた後、全てを話します』と、そう言った。別に俺がサロリアに対して何かを問い質したわけではなく、ただ、彼女が何の前触れもなく真剣な面持ちで突然言ったのである。
きっと、これからサロリアは“全て”を話してくれるのだろう。
普段と同じように、丁寧に、優しく扉を開けると、取っ手を右手で握ったまま半身だけ見せた状態でサロリアが動きを止めた。
「レン、屋上に来ていただけますか」
「分かった。すぐに行くから先に行って待っていてくれ」
「承知しました」
見えていた半身も扉の奥に隠すと、音を立てずに扉を閉めてサロリアは姿を消した。
二階建ての宿の屋上からは、村全体は勿論の事、村の外部の景色まで見渡す事ができる。一般的には魔者対策として建造された巨大な外壁が村を囲んでいるため、相当な高度の建造物に上らない限りは内側から外部を見渡す事はできないが、この村にはそもそも外壁が造られていない。
宿の階段を上り、行き止まりにあった屋上へ続く扉を開けると、屋根の中腹部分に当たる場所へ出た。そこには、まるで用意されていたかのように丁度二人が座れる長さの椅子が設置されており、紫の長髪を風に揺らしながら、どこか儚げな様子のサロリアが座っていた。
サロリアは入口から見て奥の空間を占領していたので、俺は手前の空間に静かに腰を下ろした。
「レン、“あれ”が何か分かりますか?」
指を差すわけでもなく、俺の姿を見据えながらでもなく、椅子に腰掛けた状態で正面に広がる景色を眺めながら彼女が言う。同じように正面を向けば、眼下に広がる村の平凡な景観と活力を失った村人の姿が確認できたが、この中に“あれ”が含まれていない事くらい分かる。
“あれ”とは、村から離れた場所にそびえる、空を覆う霧に近似した色の塔を指しているのだろう。
「知らないが、なんとなく分かる」
「恐らくその推測は合っているでしょう。“あれ”こそが私達の旅の終点。魔王の住む根城でもある場所です。その外見から黒耀の塔と称される事が多いですが、魔王が現れてからは単に魔王城と畏怖の意味を込めて呼ぶ者が増えました」
黒耀の塔と表現された遠方に見える塔は、その名の通り不気味に黒く輝く黒耀石と同じ外観を持っているが、規模があまりにも違いすぎるため、些か現実味に欠ける。
以前、王都の商店街で目にした黒耀石は掌に乗るほどの大きさであり、店主が更に大きな物はいくらでもあると話していた記憶はあるが、どう考えてもあの大きさは規格外だ。
村の外に広がる深緑の森林を土台とし、そこから天高くまで伸びている不気味な塔は、禍々しい黒耀の輝きを常に纏っている。
「……どうして私がそんな事を知っているのか、と訊かないのですか?」
「サロリアが博識なのはもう知っているからな、今更何を知っていようが驚いたりしないよ。ただ、魔王がその名に相応しい場所を根城にしていた事には驚いたけどな。いくらなんでも都合が良すぎないか?」
「黒耀の塔は現在の魔王が建造した物ではなく、先代の魔王が築いた物だと聞いております。今の魔王は、破壊されずに残っていた遺産を流用しているに過ぎません」
――そんな事、一体誰から聞いたんだ?
本当は、サロリアが誰から事実を知らされたのか検討は付いている。それでも、できれば俺の憶測が当たってほしくないと思わずにはいられない。
一年前に突然目の前に現れ、一日の大半を共に過ごした身元不明の謎の女性。
同じ家に住み、同じ釜の飯を食べ、同じ目的を持った彼女を、いつの日からそうなったのか覚えていないが、気づけば心底信頼していた。
勇者となり、旅の途中で窮地に立たされる度に救ってくれた彼女。そんな彼女が、まさか――。
黒耀の塔を見据えながら旅の途中で起こった出来事を思い出していると、ふと隣から視線を感じて、顔をサロリアへと向ける。彼女は、曇りの無い鋭く真剣な眼差しで俺の顔を見つめていた。
「もしも、私が魔王の娘だとしたら、レンはどうしますか?」
――危惧していた通り、サロリアが魔王の娘だったとしたらどうするか。
――俺の信じていた彼女が魔王の娘だったとしたらどうするか。
――彼女が魔王の娘だったとしたら、共に過ごした時間が水面に広がった波紋のように消えてしまうのか?
サロリアと過ごした日々は今まで生きてきた中で最も充実した時間だった。
逃げ出したい衝動に駆られる日もあったが、それ以上に忘れたくないと思える楽しかった日の方が圧倒的に多かった。
そんな日々がこれからも続けばいいと、願わずにはいられない。
――魔王の娘? そんなのは関係ない。何故ならば――。
「どうもしないさ。サロリアはサロリアだ。どんな事情があるかは知らないが理由があって親である魔王に歯向かっているんだろ? なら、問題ない。俺も魔王を倒したいと願う以上、利害は一致しているはずだ」
少し斜に構えて言ってしまった事を直後に若干後悔した。
サロリアは先程から刺すような鋭い視線を変える事なく俺へ向けている。体は硬直しており不自然な程に微動だにしていない。
声をかけてみても反応がなく、心ここに在らずといった様子だ。
「はっ!」
唐突に顔を強張らせていたサロリアが驚愕しながら相応の効果音を発した。かと思えば困惑した表情になり、控えめな口調でやっと言葉を紡ぐ。
「その……良いのですか? 私は魔王の娘ですよ。裏切られるかもしれないですよ?」
「裏切るのか?」
「とんでもない! 私は裏切りません。レンの信頼に応えられるよう、己の持つ力全てを惜しまず行使して共に魔王を倒す事を誓います」
控えめな口調を一転させて強い口調で発言した。
「なら、いいじゃないか。これからもよろしく頼むよ、サロリア」
自然と頬が緩んだ俺を見て、サロリアは緊張していたからか定かではないが、強張っていた全身から脱力して肩を落とし、深い溜息を吐いた。
「はぁ……。なんともあっさりと受け入れてくれるのですね……。出会ってから今の今まで隠し続けていたのは何だったのでしょうか……。こんな事なら、早々に話していた方が良かったかもしれませんね」
「そうでもない。今だからこそ事実を受け入れられるだけであって、以前の俺……それこそサロリアと出会ったばかりの頃の俺ならば、たとえ勝ち目が無いと理解していても決死の覚悟でサロリアへ刃を向けたかもしれない。だが、長い時間を共に過ごしてきた今となっては、疑えという方が無理な話だ」
「そうですか…………そうかもしれませんね」
サロリアは顔を上空へと向ける。瞳に映るのは真っ黒な霧だけのはずだが、彼女は口元に笑みを浮かべている。果たして、彼女は何を見ているのだろうか。或いは何かを思い出しているのだろうか。
彼女と同じものを見ようとして空を見上げると、サロリアと敵対しなくて良かったという安心感から再び頬が緩んだ。
それから暫くの間、心地の良い沈黙の時間が続いた。
「さて、色々訊きたい事があるでしょう。これまでは多くの隠し事をしてきましたが、もうそれは終わりにします。何でも訊いてください」
そう。サロリアの言う通り、俺は様々な疑問を抱えながら、それらを頭の隅へと押しやって気にしない振りをしていた。抱いた疑問に答えられるのは亡くなった父さんか魔王だけだと仮定していたからだ。
サロリアがどこまで知っているのか分からないが、聞いてみるだけの価値はある。最初の質問を考えた時、真っ先に思い浮かんだのは、やはり彼女自身の事だ。
「こんな事を今更訊くのは何か違和感があるが、どうして自分の親と戦う事を決めたんだ? 親を恨んでいるのか?」
「いえ、父は私に対して危害を加える事はありませんでした。鍛錬と称して幼い頃より魔者を相手にして戦っていましたが、肉体に限界が訪れた時点でやめておりましたので、虐待的な行為ではなかったと思います」
「じゃあ、どうして親と戦う事を決意したんだ?」
「アミュレでお世話になったフレア殿の事を覚えていますか? 彼が道場を開くに至った理由と全く同じですよ」
フレアの語ってくれた理由。それは、直接的には自分と関係する事柄ではなかったが、自分の親族に深く関係していたのでよく覚えている。『サイ殿の言葉によって僕は救われた』。彼は晴れやかな顔でそう語っていたはずだ。
「……と言う事は、父さんと会った事があるのか?」
「ええ。サイ殿と出会ったのは、黒耀の塔の中でした。その当時既に自分の父親が何をしているのか理解していた私は、その行為が本当に正しいのか、それとも間違っているのか判断ができず、同じ人間である魔王討伐隊とは戦えずにいました。そんな私に対して父は毒づいたりもせず、ただ『背中に隠れていろ』と言うだけでした。父は魔者を惜しみなく生み出し、圧倒的な戦力差で討伐隊を排除しようと目論みましたが、全ての魔者を排除して塔の最上部にある父の部屋へと辿り着いた隊員が一人だけいました。それがサイ殿です。
最上階に辿り着いたサイ殿は魔王である父に対して何か言うわけでもなく、抜き身にしていた剣を握って斬りかかりました。父は無言で応戦し、勇者と魔王による長期戦を予感した私でしたが、意外にもすぐに幕引きの時が訪れました。
勿論、サイ殿が多くの魔者との戦いよって疲弊していた事もありますが、“魔力”の助力を得た父の強さは圧倒的でした。剣を握っていた右腕と左足を切断されて地面に倒れたサイ殿は、喉下に剣先を突きつけられた状態で言いました。
『お前は間違っている』
その後、父は表情を一切崩さずにそのままサイ殿の喉を貫きました。彼の最後の言葉は魔王に向けた言葉であったと思いますが、私は自分に向けられた言葉のように感じました。自分は間違っているかもしれない、と疑問を抱いた私は黒耀の城から脱走するように逃げ出し、目的もなく様々な村を訪れました。
訪れた村の人々は、見ず知らずの私に対して非常に友好的な態度で接してくださり、その時、父の行なっている事がはっきりと間違いであると確信し、魔王である父と敵対する決意を固めたのです」
捲し立てるように語ったサロリアが深く呼吸をした。
「それで、勇者の息子と協力しようと考えて俺の住む王都を訪れたんだな」
「その通りです。私の裏切りに気づいた父が王都の襲撃を目論んだ場合はどうしようかと思いましたが、杞憂だったようですね。父にとって私は脅威足り得ない存在だったのでしょう」
偶然だったのかもしれないが、俺とサロリアが出会うきっかけになったのが父の発言に起因しているとは……。やはり自分の父の偉大さを敬服せずにはいられない。
死して尚、力を貸してくれている父に対し、俺は心の中で感謝した。
「ところで、フリルとの出会いに関しては先日語ってくれたけど、あの話には偽りはないのか?」
「私が魔王の娘であるという事実は伏せて話しましたが、それ以外は概ね間違いありません。彼女は、私が塔にいる時にはまだ魔力を有していませんでした」
先日サロリアから聞いた話では、フリルは魔王から分け与えられた力――つまりは魔力を行使して魔者を自由に操っていると語った。
魔王の配下であったフリルでさえ力を分け与えられていたのだから、当然ひとつの疑問を抱かずにはいられない。
「その魔力っていう力を、サロリアは持っていないのか?」
「私はあのような得体の知れない力が欲しいとは微塵も思いませんでした。確かに強大な力が手に入るようですが、手に余る力とは人を狂わせる物。事実として私の父はあの“剣”を拾った日から人が変わってしまいました」
「“剣”を拾った? それと魔力が何か関係あるのか?」
「私と父、そして亡くなった母は元々王都で暮らしていたのです。“レピドゥス一家皆殺し事件”を覚えていますか?」
「ああ、数年前に王都で起きた殺人事件だよな」
「私の本当の名前は、サロリア=レピドゥスです。あの事件で亡くなったのは母親だけであり、一命を取り留めた私と父は暴漢達の手から逃れるため王都を離れました。その後、人里離れた場所にある黒耀の塔に足を踏み入れまして、最上階の床に突き立っていた“剣”を父が握ると漆黒の霧が周囲に発生し、それらが自分の意志によって操れる事を理解すると、温厚だった父は人が変わったように冷徹な性格に変貌し、人類に対して牙を向けました」
つまりは、俺が持っている父の形見である剣と同じというわけだ。
『この世界には、剣にまつわる逸話があるわ。長年使い続けた剣には持ち手の想いが乗り移り、その剣の使い手に助力するという逸話がね』
俺が父の意志によって俄かには信じ難い早さで剣術が上達したように、恐らくは先代魔王の意志がサロリアの父親に助力したのだろうか。……しかし、それを知る術はない。
「ちなみに、私やレンが魔者の気配を探れるのは魔力に触れた経験があるからでしょう。以前、レンは気配を読む力を“勇者の力”と表現していましたが、そういう意味ではこの力は“魔王の力”と表現した方が正しいのかもしれません」
「だが、俺は魔力に触れた覚えはないが」
「ええ、直接は無いと思います。ですが、魔王と直接戦った初代勇者より血を受け継いでいるのですから、触れた事が無くとも、この特異な力を保有していてもおかしくないでしょう。この力を持っている事実は、レンが正真正銘の勇者直系の息子である証です」
「そういう事か……。確かにそれなら俺とサロリアだけが気配を読める事実にも納得がいくな」
「ただ、この村に入る少し前より、魔者の気配は完全に消えました。おそらく、既に私達は魔王の管轄下にあるのでしょう。もう、この特異な力は役に立たないと思います」
フリルと同じように、魔王が力の及ぶ範囲内の魔者の気配を全て消せるなら、サロリアの言う通りなのだろう。この先――魔王と決着をつけるまでは、背後から這い寄る敵にも、影に身を潜める敵にも容易に気づけなくなる。
不安要素も出てきた。けれども、多くの謎が解け、確かな真実を知る事ができた。何よりも良かったのは、全てが明らかになった後もサロリアとの関係が崩れなかった事だ。
深く安堵した。すると、軽くなった胸中に再び疑問が浮かんだ。
「最後にもうひとつだけ質問させてもらってもいいか?」
「構いませんよ。何でしょうか?」
「この街は、どうして今も残っているんだ? 魔王の住処に最も近いのだから、真っ先に滅ぼされてもおかしくないのに。こういう言い方は少し気が引けるが、どうして魔王はこの村を残しているんだ?」
フリルが幾つもの村を襲撃していたのだから、真っ先に標的にされるはずのこの村が今でも残っている事実には違和感がある。
「この街は残っているのではなく、残されているのです。魔王などと呼ばれて恐怖の対象となっている男も私やレンと同じ人間です。当然、生命活動の維持には食料を必要とします。故に、人間を使って食料を定期的に届けさせているのです」
「そんなのは魔者を使って調達すれば済む話だろ?」
「いえ、魔者もそこまで便利な存在ではないようです。確かに『食料を調達してこい』と命令すれば“食べられる物”を調達してくるかもしれませんが、そこには草や木も含まれます。だからと言って『あの村にある食料を奪ってこい』と命令すれば、その村は滅び、人の消えた村からは当然食料も消えます」
サロリアの話を聞いて眼下の村を見下ろすと、道行く人は皆、魂が抜けてしまったように重い足取りでふらふらと歩いている。そう言われてみれば、ここの宿主もどこか活気の無くなった瞳をしていたような気がする。
「だからこの村の人間には活気がないんだな。魔王に生殺与奪の権利を握られているのだから、生きた心地はしないだろうな」
「はい。ですから、当分はこの村は残り続けるでしょう。もっとも、私の父が生命活動を維持する必要がなくなれば、人間を生かしておく必要も無くなるでしょう。……待ってください。現在上空を覆っている霧が無差別攻撃の前兆だと仮定すれば、もしかしたら――」
突如、サロリアの話を遮るように村中に女性の甲高い悲鳴が響き渡った。悲鳴は宿の後方から聞こえてきたが、ここからでは背後の屋根が壁になって確認する事ができない。
「……何か起きたようですね。本来この場所は安全なはずですが……」
「とにかく行って確かめるぞ」
椅子から立ち上がりながら悲鳴で遮られた彼女の言葉の続きを推測し、俺は頭の中で唱えた。
――もしかしたら、もう人間を生かしておく必要は無くなったかもしれない。
確信めいた憶測を胸に抱きながら、サロリアと俺は宿屋の屋上を後にした。
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