第11話
“それ”を最初に目にした時は、濃い赤色の衣服を着ているだけなのだと、そう思っていた。珍しい派手な服を着た、変哲もない人間であると。
近づいていくに従い、衣服に染色された色が周囲に滲み出しているような錯覚を目にした。けれども、治まるどころか歩みを進めれば進めるほどに色が広がっていく様は、とても錯覚とは思えなかった。
そして、“それ”の目の前まで来ると、視界に焼き付いた濃い赤色の正体が、“それ”の肉体から溢れ出た血であった事を理解した。
男はうつ伏せの状態で倒れていた。彼の首には、背面から喉を貫くような形で一本の木製の矢が突き刺さっている。矢の根本からは、赤黒い液体が少量ではあるが流れ続けている。
男の傍らには弓と矢筒が落ちていた。しかし矢筒の中身は空である。
惨い姿を晒す男の亡骸を観察していた俺の頭に、不意に一つの答えが浮かんだ。
「そういえば、アミュレを出る時兵士達が言ってなかったか? 弓矢を扱える特殊な魔者を目撃したって」
もしあの話が本当であれば、男の命は魔者によって奪われたのだと断定していいだろう。それにしても、勘の鋭そうな狩人の背後をとり、気づかれる事なく首筋を打ち抜く技術には恐怖を抱く。
「ですが、兵士殿から聞いていた話とは少々異なる部分がありますね」
サロリアが右手の甲に顎を乗せ、少し顔を傾ける。
「確か兵士殿の話では、魔者の使う矢は時間の経過と共に消滅すると言っていましたよね。時間というのがどれくらいの長さを指すのか定かではないですが、このような木製の矢が自然に消滅したりするのでしょうか?」
「確かにそうだな。奴らの扱う剣のように、本体の消滅に伴って霧散するのであれば、外見についても同じように、正体不明の物質で造られた深い黒色の矢である可能性が高い」
それに、奴らと戦ってきた経験上、このように人間が扱えるような武器を魔者達が使用するのは考えづらい。奴らは本体が存在する限り無限に武器を生成できるのだから、有限である俺達人間の武器を使ったりしないはず。
「確証はないですがね。それと、もう一つ疑問に思う点があります」
サロリアは、雨に濡れた長い髪を揺らしながら、周囲の様子を確認した。
「この方は、殺害されてからそれほど時間は経過していないように見えます。しかし、スウェードから、この場所まで、魔者の気配は全く感じませんでした」
「ああ。少なくとも、奴らはスウェードの方角へは向かっていない事になるな」
つまり、既に滅ぼしたラズライルの方角へ再び戻った事になるが、一体何のためにそんな行動をしているのだろうか。
「そうです。もっとも、これが魔者の仕業であるならば、の話ですが」
サロリアは、物悲しそうな小さな声で、そう言う。彼女は別の可能性について考えているようだ。その犯人像について、おおよその察しはつく。
正確に首筋を射抜かれた男。背中に刺さった狩人が扱う木製の矢。道中、魔者の気配を感じなかった事実。
これらによって導き出される犯人の正体とは――。
「この男を殺害したのは、俺達と同じ人間だと、そう思うんだな?」
「ええ、そうです。そうであれば、一連の事実に合点がいきます」
考えたくはないが、サロリアの推測は的を射ている。真実である可能性も高く思える。けれども、人間の手によって、同じ人間の命が奪われたなどと信じたくはなかった。俺が救いたいと願う人達の中に、そういう人間が混じっていると、考えたくはなかった。
確かめなければいけない。その推測が、虚偽である事を。その推測が――真実である事を。
「だとすれば、すれ違いになった可能性があるな」
「ええ。スウェードが襲撃に会う前に、戻りましょう」
「彼はどうする?」
動かなくなった狩人の姿を一瞥する。
「村へ戻った後、兵士殿に頼んで運んで頂きましょう。今は、スウェードへの襲撃を未然に防ぐ事が先決です」
サロリアが水しぶきを上げながら地面を蹴り、スウェードの位置する方角へ向かい駆け出す。俺は走り出す前にもう一度、狩人の亡骸を見下ろした。
「すまない」
謝罪の言葉は激しい雨音にかき消されたが、彼を守れなかった悔しさと申し訳なさだけは胸の内から消えてくれなかった。
依然として降りしきる雨模様の景色の中を全力で駆け続けていると、やっとスウェードを囲む外壁が見えてきた。ここまでの道中、念のため周囲にも注意を払いながら駆けてきたが、幸い、新たな被害者を発見する事はなかった。
更に村へと近づくと、入口に位置する小さな門の前に、鉛色の鎧と兜を着用したまま地面に倒れている二人の兵士の姿を発見する。
倒れた兵士の傍らには茶色の衣服に身を包んだ一人の男が立っていた。男の手には、それぞれ弓と短剣らしき鋭利な刃物が握られており、背中には矢筒を背負っている。
「待てッ!」
男が村へ侵入するのを避けるため全力で叫ぶと、雨音に消される事なく声が届いたようであり、男は悠々とした動作で振り向いた。
背面は茶色だった男の服の正面は、真紅に染まっていた。おそらくは大量の返り血を浴びた事によるものだろう。
男の顔立ちには幼さが残っており、年齢は十代から二十代である可能性が高い。
男と目が合った。すると、彼は口元に不気味な笑みを浮かべ、右手で矢筒から矢を一本引き抜いて左手に持っていた弓につがえる。
「来ますよ、レン!」
「わかってるッ!」
矢が放たれた。先端に銀色の矢じりが付いた物体は、雲の隙間から僅かに漏れた光に反射しながら、瞬く間に距離を縮めていく。
俺はサロリアよりも前に出て、腰に携えた剣の柄を握りしめる。
そして、居合斬りで飛来してきた矢を弾いた。
――初めてやったが、上手く出来たな。
男はその光景を目にして一瞬だけ動きを止めたが、表情に苛立ちを浮かべると、続けて矢を数本引き抜いた。
「大丈夫そうですね。他にも敵が潜んでいる可能性がありますから、私は周囲を見てきます」
「わかった。あいつは任せろ」
「それと、くれぐれも油断はしないでください。相手は相当な手練です。油断は命取りとなりますよ」
「ああ、もちろんだ!」
正面から三本の矢が飛来する。その内の二本は、俺を。一本はサロリアを狙って飛んできた。
俺が一本目をかわし、二本目を先程と同じように剣で弾くと、サロリアも同じように、自分目掛けて飛来した矢を槍で叩き落とし、側面にある森林の中へと消えていった。
その後も、村の入口に辿り着くまでに男の手から数本の矢が放たれたが、それを全て防ぎきると、男は地面に弓と背負っていた矢筒を投げ捨て、短剣だけを持った状態で立ち尽くしながら俺を睨み始めた。
構う事なく接近を続け、男の前まで辿り着くと、すぐに彼は口を開いた。
「凄いな、お前。オレの弓は百発百中と名高いんだが、お前にだけは当たる気がしねぇわ」
黒色の前髪を無造作に鼻の辺りまで伸ばした男が半笑いの表情をしている。
「ラズライルへ向かう道中で、死体を発見した。あれは、お前がやったのか?」
「ああ。姿を見られたからな。生かしておくわけにはいかなかった」
その時、村の中から別の誰かの視線を感じ、目の前の男から視線を移した。けれども、視線の先に人影はなかった。
――気のせいか?
瞬間、男が黙したまま踏み込んできて、逆手に持った短剣で斬りかかった。
俺は短剣による素早い攻撃をかわすと後方へ跳躍し、彼との距離をとった。
「おい、よそ見してんじゃねぇぞ。随分余裕だな。言っておくがオレは弓だけじゃねぇ、短剣だって使えるんだぜぇ?」
「そうか。大した事ないな」
男が半笑いを止め、口を結び、鋭い瞳で睨みをきかせる。
「……んだと? ちょっと腕が立つからっていい気になってんじゃねぇぞ。お前も“あいつ等”と同じように殺してやろうか?」
「“あいつ等”?」
「オレはよぉ、一人で村一つ壊滅させちまったんだわ。ったく、我ながら恐ろしいぜ」
――こいつが、ラズライルを滅ぼしたのか?
一人で、百人もの人間を殺害する事が、果たして可能なのか。腕の問題じゃない、同族を何人も殺害し、正気を保っていられるのだろうか。
男の表情は、再び嘲笑するような笑みに戻っていた。
「おいおい、そんな疑うような顔すんなって。大丈夫、全部真実だからよ。いやあ、案外楽だったぜ? だって“あいつ等”はオレが同じ人間だってだけで反撃してこないんだからよ。反撃してこないわけだから、当然逃げるわけだ。あとはその背中を百発百中のオレの弓でバシュッよ。まったく、動物相手にしている方がよっぽど難しかったぜ」
「……お前」
もう、この男は正気を失っている。許すわけにはいかない。
紅色の柄を握った手に力を込め、正面に立つ男を睨んだ。
「おお、怖い怖い。んじゃ、そろそろ始めるか。ところでよ、お前の名前を教えてくれねぇか? お前は強そうだからよ、殺した後も一応名前を覚えておいてやろうと思ってな」
「人に名を訊く時は自分から名乗るのが礼儀だ」
「礼儀ぃ? ……ハハッ違いないな。オレはバレスだ。バレス=ロナ」
――『ロナ』?
スウェードで宿屋を営むキャロルの本名はキャロル=ロナである。
確か、彼女には息子がいたはずだ。弓の扱いが天才的で、歳は十六歳くらいの、最近様子のおかしかった息子が。
「それじゃあ、お前が、キャロルさんの息子か?」
「あ? なんであいつの名前が出てくんだよ」
「本当にそうなのか。父親はどうしたんだ? ……まさか、殺したのか?」
「こっちの質問は無視かよ。それと、親父ならお前の言う通り殺してやったよ。オレの目的の邪魔になるのは最初からわかっていたからな」
信じられない。自分の肉親の命まで躊躇無く奪ってしまえる感覚が、俺には理解できない。
「父親が、殺したいほど憎かったのか?」
「憎い? そんな感情は無かったね。ただ目障りだったんだよ。あいつは、オレに狩りを教えた男だ。オレが狩りを覚えてからも頻繁にオレと一緒に狩りをしていた。だから気づいたんだろうな、オレが動物を狩るだけでは満足できなくなっている事に。だからオレがラズライルへ“動物”を狩りに行こうとした時、監視役として付いてきた。だから邪魔される前に排除したんだよ。それだけだ」
「それだけの理由で、親を殺したのか?」
「親も他人も関係ない。自分の目的を達するために、障害となり得る存在を排除するのは当然だろ?」
俺の頭の中は、この男を殺したいという感情に支配されそうになった。だが、それでは駄目だ。それでは、この男と同じになってしまう。
バレスの問いに対し、俺は言葉では返事をせず、代わりに手にしていた剣をバレスへと向け、腰を落として構えた。それを見ていたバレスが嬉しそうに声をあげる。
「お! やっとその気になったか」
「――レンだ。レン=イシュメリア」
「あ? ……ククッ分かったぜ。んじゃ、今度こそ始めるか」
バレスが右手に持った短剣をくるくると器用に回すと、それを逆手に構え、俺よりも深く腰を落とした。両眼は、俺の方向を一点に見据えている。
やがて、バレスが濡らした髪を振り乱しながら、低い姿勢で突貫してきて、豪雨の中での戦闘が幕を開けた。
バレスは確かに強い。素早い動き、巧みな短剣捌きには目を見張るものがある。
けれども、俺には彼の動きがはっきりと見える。見えているのだから、短剣による斬撃を紙一重のところでかわし続けるのは、それほど難しい事ではない。
ただ、距離を取っても即座に懐へ飛び込んでくるため、剣を振り回せないのが厄介だ。
どのように無力化させれば良いのか、それを考えながら冷静にバレスの斬撃をかわし続ける俺とは対照的に、彼の表情には明らかな焦りの色が浮かんでいた。
「くそッ! どうなってんだ。どうして当たらねぇんだよ!」
風切り音を立てながら、短剣が縦横無尽に暴れまわる。足下では、踏みだす度に、濡れた地面が音を立てる。
だが、いくら予測不能な攻撃を繰り返したところで、見てから避ける事が可能なのだからどうという事はない。
無力化するためにはどうすれば良いのか。色々考えをめぐらせてみたが、最適なのはバレスから短剣を取り上げる方法だろう。彼が武器を失った後は身動きがとれないよう何かで拘束して……。
――いや、そんな面倒な事をする必要はない、ここで殺せ。
それは、俺の内に潜んでいた、確かにあるもう一つの感情だった。彼が言っている事が全て真実ならば、拘束して王都へ連行されたとしても、すぐに処刑される事は明らかだろう。ならば、いっその事俺の手で――。
柄を強く握りしめ、大きな動きで振り下ろされた短剣を避けると、男の喉目掛けて傷一つ付いていない白刃を振り下ろした。
――いいや、駄目だ。彼を断罪するのは俺の役目じゃない。
殺すのは簡単だ。だからこそ、殺さずに彼を捕らえる必要がある。
振り下ろされた俺の刃は失速し、バレスの首へ到達するより先に彼の握る短剣によって防がれた。
「――それで良いのです」
突如、聞き慣れた声を耳にした。反射的に声の方向へ目をやると、少し離れた地点にサロリアが立っていた。
バレスは刃から逃れるように後退し、俺に向けていた視線をサロリアへと移して目を細めた。
「なんだてめぇは? こいつの仲間か何かか?」
紫の長髪はずぶ濡れになっており、雨に打たれ続けているサロリアの金色の瞳は、普段より冷徹な輝きを放っているように見える。その瞳は、バレスではなく俺を見据えていた。
「レン、貴方は正しい。その気になれば、この者の命を奪う事など造作もないのに、それをしなかった」
此方へ歩み寄りながら、右手で握っていた槍の穂先をバレスへと向ける。
「……ですが、今回は例外です。この者は、生かしておくべきではない。私が、代わりに相手をします」
「お、おい待て。それってつまり――」
――殺すという事か?
バレスは俺に対して興味を失くしたらしく、自分に穂先を向けたサロリアの姿を見据えていた。濡れた黒色の前髪が顔の前に垂れており、表情はうかがえなかったが、声の調子からは嘲笑しているような印象を受けた。
「なんだぁ? 今度はねぇちゃんが相手してくれんのか? 嬉しいねぇ。オレ張り切っちゃうよ」
「貴方は強い。だと言うのに、その力を人のために使おうとしなかった。それだけでなく、守る対象であるはずの人を自らの意志で殺害した。更に、あそこに倒れている兵士達のように、人々を守ろうとする者にまで手を出した。守るべき対象の人間に命を奪われたあの者達が、どのような気持ちを抱いて死んでいったか、貴方には到底理解できないでしょうね」
背筋が寒くなる程の冷たい瞳でバレスを見つめるサロリア。しかし、対峙する彼は嘲笑いながら彼女を見据えている。
「ハッ! 知るかよ!」
「……許されざる行為です。よって、この場で断罪させて頂きます」
サロリアは、右手で握っていた槍の柄を左手で支え、地面と平行になるよう構えた。
「んだよ! 結局てめぇも殺りあいたいだけじゃねぇか。……んじゃ、始めようぜ!」
バレスは腰を深く落とし、前に出していた右足で地面を強く蹴った。
サロリアは彼が足を動かすよりも先に動き、彼を槍の射程範囲に捉えた。
――待て、駄目だ。
「いいえ――。殺し合いではありません」
バレスが最初の右足で地面に着地し、次に左足で同じように地面を蹴る。その左足が再び接地するよりも先に、躊躇い無く突き出されたサロリアの握る槍の穂先が彼の胸部に触れた。
槍はそのまま彼の心臓を貫き、目を見開いたまま硬直したバレスの体は槍に支えられる形で宙に浮いた。全身から力が抜け、短剣を落とした腕は垂れた。
「一方的な、裁きです」
槍をつたって流れてきた鮮血に両手を汚したサロリアの声はひどく震えており、顔は悔しさで歪み、打ちつける雨とは別の水滴に頬を濡らしていた。
その日の夜、村の中で待機していた残りの兵士に、門番の二人とバレスの処理を任せると、キャロルさんの待つ宿へと向かった。
足取りは重く、正直、彼女と顔を合わせるのは気まずかった。息子の手によって夫が殺された事、息子の手によってラズライルという村が滅ぼされた事、そして、息子をサロリア――いや、俺達が殺した事を知っても、彼女は正気を保っていられるだろうか。
――保っていられないだろうな。
だから、サロリアと話し合って彼女には真実は伝えない事にした。時には、知らない方が幸せな事実だってある。
キャロルさんの息子と夫は、ラズライルに滞在している間に魔者の襲撃に遭って命を落とした。俺達は道中で魔者と遭遇し、全て排除したと、そう話すつもりだ。
いつの間にか雨は止んでいた。とは言え、半日ほど雨の中で行動していたため、着ている服は俺もサロリアもずぶ濡れだが。
やがて、宿の見える位置まで歩いてくると、玄関の前に人影が見えた。
キャロルさんだった。雨は既に止んでいるのに、髪留めを外した彼女の茶色の髪と身に纏っている衣服は、俺達と同じようにずぶ濡れの状態だった。
「おかえりなさい」
キャロルさんは、雲間から差し込んだ陽光のような明るい笑みを見せた。
……どうやって話を切り出せば良いのだろうか。どんな顔をして話せば良いのだろうか。たとえ、事実とは異なる事を伝えるとしても、キャロルさんが夫と息子を同時に失った事実だけは曲げられない。
視線の先に立つ彼女の姿を直視する事ができず、俺とサロリアは少し俯いた状態で宿の前に立っている。
先に口を開いたのは、虚偽を伝えようと俺に提案したサロリアだった。
「キャロルさん……。その、旦那さんと息子さんの件なんですが……」
サロリアは中途半端な部分で言葉を切り、三人の間には一切の音の聞こえない時間が訪れた。微かな音すら響かない完全な静寂の中にいると、時間が止まったかのような感覚に囚われる。
「――その事なら、さっき兵士さんに聞いたわ」
「え?」
知られてしまったのか? 彼女の夫が亡くなった事と、息子が行なった全てを。
驚愕する俺とは別に、サロリアは厳しい面立ちでキャロルさんを見据えている。
「ラズライルで魔者に殺されてしまったのよね。それに、今朝報告をしてくれた兵士さんも、同じ魔者に命を奪われたのよね?」
サロリアが一瞬だけ目を見開いた。しかしすぐに表情を冷静な状態へ戻すと、キャロルさんの肯定を促すかのような問いかけに答える。
「ええ、そうです。魔者は私達の手で片を付けさせて頂きました」
「そう……。バレスを許してくれてありがとうね」
雨が降っていたら、地面に打ちつける水滴の音に消えていただろうキャロルさんの囁きは、俺の耳には鮮明に聞こえた。
――まさか、この人は全てを……。
隣に立つサロリアは歯を食いしばっていた。
「さっ、今日はたくさん歩いたからお腹が空いているでしょう? 夕飯を作ってあげるから、少ししたら食卓へいらっしゃいね」
キャロルさんは体の方向を変え、宿の玄関部分に続く木製の扉を開けると、中へと消えて行った。
宿の扉の前で立ち尽くしていた俺とサロリアは動く事ができなかった。
再び、二人の間が時間が止まったかのような静寂に支配される。
「生き残っていた兵士は、全員詰所にいたはずだよな?」
「……やめましょう。キャロル殿が待っています。私達も荷物を部屋へ置いて、食卓へ向かいましょう」
夜を迎えると、周囲の光景は暗闇に包まれた。廊下にある窓から空を見上げてみたが、今日は光が瞬いてはいない。
その後、キャロルさんの作った豪勢で量の多い夕食をご馳走になりながら、彼女のこれからの生活について語り合った。
話の最中、笑顔で話していた彼女は何度も表情が崩しかけたが、結局、俺達の前で弱みを見せる事は一度もなかった。
その夜、宿には誰かがすすり泣くような声が一晩中響いており、つられて色んな思いが込み上げてきて、俺はなかなか寝付けなかった。
翌朝、キャロルさんと警備の兵士達に見送られてスウェードを発った俺達は、街道に沿って次の街を目指している。ここで言う次の街とは、滅んだラズライルの隣にある街の事だ。
道のりが長いため、普段よりも多めの食料を持った俺の胸中には、背負った布袋が軽く感じられるほど、重い感情があった。
「キャロルさん、真実を全て知っていたんだな……」
「そうですね。間違いないでしょう」
「大丈夫だろうか?」
「あの方は強い人間です。本当に強い……。それに、村の人達だっています。きっと大丈夫でしょう。今は、そう信じるより他にありません」
普段と同じように声を乱さず、冷静な調子で話すサロリアが、不意に隣を歩く俺へと視線を向けた。
「それと、レンに言っておきたい事があります」
「な、なんだ、急に」
「今後、昨日のように人を相手に戦う必要ができてしまった場合、極力私に相手をさせてください」
その話に反応し、サロリアが右手で握っている槍の穂先へと目を向ける。昨日、バレスの鮮血によって赤黒く染まっていた部分は、キャロルさんと再会する前に寄った兵士の詰所にて綺麗に拭き取ったため、今では元通りの美しい輝きを取り戻している。
「私の手は、既に血に染まりました。レンまで手を汚す必要はありません。貴方だけは、“皆”の勇者であってください」
――でも、それが本当に正しいのだろうか。サロリアは間違っているのだろうか。
同じ人間だから殺すな。勇者だから殺すな。同じ人間は殺したくない。勇者だから殺したくない。殺すのは間違いだ。
バレスと戦っていた時、彼を殺さずに無力化する事を考えていた。他の者の下に連れて行き、他の者に殺させようとしていた。
しかし、本当は“殺せなかった”のではないだろうか。覚悟が足りなかったのではないだろうか。
「……少し、考えさせてほしい」
俺の弱気な返答に対して了承の返事を返すと、サロリアは再び前方へ視線を戻した。
次にバレスのような者と遭遇する前に、決意を固めなければいけない。
空を見上げると、昨日の雨が嘘だったかのように晴れ渡っていた。だが、俺の心を覆った靄は、当分晴れる事はなさそうだ。
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