第2話

 これは、約一年前の記憶。

 まだ父が――今は亡き先代の勇者・サイが魔王討伐へ出発する以前の記憶――。

 

 浅葱色の草原が広がる大地の中心部に、黄土色の巨大な外壁によって囲われた都市がある。この都に住まう人の数は世界一という事もあり、都の中には大きな規模の建造物が幾つか存在している。中でも最も重要な拠点が、中心部に高くそびえる、都の代表者・ベネット国王が住まう居城だ。

 都全体を囲う外壁と同じ色の城壁に守られた居城は更に高く、国王はこの城の最上階に住んでいる。

 何故この都が世界一の規模まで発展したのか。それは、他ならぬ国王の手腕に起因する。

 約三万の人間が住まう都の代表者でもあり、外壁の外からでも確認できる巨大な城の持ち主でもある彼は、都の属する国を建国した代表者――第一代国王であるからだ。

 国王は自分の国にレアルタという名前を付け、自らの住まう都を“王都・レアルタ”と命名した。

 当初は王都・レアルタも小さな村だったが、国王の名声と彼が国を創ろうとしている噂は瞬く間に各地へ広がり、東西南北全ての地方から様々な才ある人物を集めた。効率よく頑丈な建物を建造する技術に秀でた者、生活に役立つ知識を多く知りえた博識な者、刀剣を生成する技術に秀でた者、服飾関係の技術に秀でた者、調理の技術に秀でた者、国王に仕えたいと願う者。

 各地より結集された最先端技術の数々が宣伝となり、王都に住まう人々の数は増加を続け、比例するように国力も際限なく強大となっていった。


 “大都市”と表現できるこの王都・レアルタには、通路の両端に幾つもの商店が立ち並んだ繁華街がある。都の中でも最も賑わっている区域だ。

 この区域の一角で、俺は両親と共に平穏な日々を送っていた。

 母は王都の外から来た人であり、服飾関係の技術に秀でている。父が仕事で使う服や俺が普段着用している服は全て母のお手製だ。

 無論、俺達のためだけでなく、商品としても自分で作成した服を販売しており、生活に必要な金銭を稼いでいる。

 平和的な母とは対照的に、父の職業は傭兵だ。それも、『国内最強』と評される程の実力者であり、王都に住まう貴族や国王の護衛などをこなし、依頼で得られる報酬によって家計を支えていた。

 一方、優秀な両親に恵まれた俺は働きもせず、王都の近隣にある森林の中の小さな湖で釣りをしたり、同じく森の中にある見晴らしの良い丘の上で昼寝をしたりと、非生産的で何のために生きているのか疑問に思われるような生活をしていた。しかし、両親は俺の行動に対して口を酸っぱくして説教する事も、意識を改善するよう懇願してくる事もなかった。

 

 昨日までと変わらない一日が今日も始まる。

 二階にある自室で起床した俺は、一段踏むごとに木材が軋んだ音を立てる年季の入った階段を下り、食卓へと向かった。

 食卓には既に両親が座って待っていた。別段今日が特別なわけではなく、“家族全員が席に着くまでは食事を始めない”というのがこの家の規則だ。故に、寝坊は許されない罰(と言っても、寝坊した時は強制的に起こされるのだが)であった。

 俺が席に着いたのを合図に食事が始まった。

 “食事中は喋ってはいけない”などという厳しい家庭環境にありがちな規則はこの家では設けられていないが、今朝は特に話す事もなく、静かに朝食を摂っていた。

 突如、玄関の方向から聞き覚えの無い声が聞こえてくる。

 父が食事の手を止め席を立ち、玄関へ向かうと、暫くして声の主を引き連れて食卓へと戻ってきた。

 声の主は、所々に傷が付いた鉛色の鎧を着用した王国の若い兵士だった。

 「お食事中でしたか……。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。失礼ですが、貴方様がサイ殿で間違いないでしょうか?」

 「ええ、私がサイですが。何か御用ですかな?」

 食卓と廊下の境目に立っていた兵士は父に向けて羨望の眼差しを向けた。瞳が夜空に瞬く星のように輝いている。

 「お会いできて大変光栄に思います! ……あ、失礼致しました。実は王様よりサイ殿宛てに書状を預かっておりまして……こちらですが、受け取っていただけますか?」

 兵士は先程から左手に持っていた国王の印が押された長方形の薄い封筒を差し出した。

 「国王直々に? 何か重大な事件でも起きたのか?」

 「いえ、すみません。私は届けるよう命令を頂いただけですので、申し訳ないですが詳細については把握しておりません」

 相槌を打った父さんは兵士から封筒を受け取り、中に入っていた二つ折りにされた紙を取り出し、慎重な動作で広げて閲覧を始めた。

 読み終わった父さんは再び紙を二つに折り、封筒の中へ元の状態と同じようにしまうと、兵士に向かって短く、「承知した」とだけ伝え、先程まで自分が座っていた椅子を引いて腰を下ろし、食べかけの朝食に手を伸ばした。

 食卓の入口に立っていた若い兵士は返答に納得した様子で丁寧な挨拶だけ済ませると、来訪した時と同じように玄関から去っていった。


 何が起きているのか全く理解ができなかった俺は、父に手紙の内容について訊いてみた。

 「父さん、国王の手紙には一体どんな事が書かれていたんだ? また護衛の依頼? それとも、兵士の訓練でもお願いされたのか?」

 「いや、どうやらベネット――国王は近々魔王討伐を計画しているらしい。最近、魔者(まもの)による被害が各地の小さな村などで増加傾向にあるようでな、それに伴って多少の犠牲を覚悟の上で計画遂行を決心したそうだ」

 「魔王か……。本当にそんなのが存在していたんだな。という事は、魔王を倒せば魔者も消えるという事だよな? 全ての魔者は魔王に従って行動しているという噂も聞いた事あるし……。でも、それと父さんに何の関係があるんだ?」

 「直接は関係ないんだがな。計画の遂行にあたり、先導するもの――つまりは討伐隊の隊長となる人物を選定する大会。“武闘大会”と呼ばれる催し事を行なうとの事だ。その大会に是非参加してほしいと手紙には書かれてあった」

 魔王……。本当に実在するのかすら定かではなく、謎に包まれた存在であるが、世界中で多数の人間が被害に遭い、命を落としている原因が魔王の仕業とすれば、一刻でも早くこの世の中から消し去るべきだとは思う。しかし、出現から約五年経った今でも変わらず世に君臨しているあたり、簡単に消滅させる事のできる存在ではないのは世間知らずの俺にだって理解はできる。

 だから、父のような強者達に声が掛かったのだろう。国王も本気というわけだ。

 「――参加するのね?」

 先程から黙っていた母が、手に持っている紅茶の入った純白のティーカップを机の上に置いた。その瞳は、真っ直ぐに父を見据えている。

 「すまんな。今回は少々危険が伴うだろうが、このまま魔王を放っておくわけにもいかんだろう。……まっ、そもそも武闘大会で優勝できるか怪しいところではあるがな」

 「もし、大会で優勝できなかったら討伐には参加しないのか?」

 そうであれば、父は命を危険に晒さず済む。今この時と同じように、平穏な日常を続ける事ができるはず。

 そうでなければ――。

 「いや、たとえ敗北したとしても、討伐隊の隊員として同行するつもりだ」

 そうでなければ、立派な父の息子として、父の健闘を祈るより他にない。

 「だよな。まずは、大会で優勝できると良いな」

 父はその言葉を聞いた時、一瞬顔をしかめたように見えた。だが、すぐに笑顔を浮かべると、『ああ、必ず見に来いよ』と行って食卓から去った。

 

 第一回武闘大会が幕を閉じた。

 国王は王都の中だけではなく、王国内に点在する村にも使いを出していたらしく、大会の参加者は総勢三十二名にもなり、その全てが間違いなく強者と呼べる強さを持っていたのは確かだった。

 勝利の条件は大きく分けて二種類とされていた。

 一、相手を戦闘不能の状態にした場合。

 二、相手が戦意を喪失した場合。

 当然、一の条件には相手の殺害も含まれており、事実として数名の参加者は試合の最中で命を落とした。

 だが、今大会の優勝者――魔王の討伐に挑む勇ある者。称して勇者となった男は、瞬く間に相手を失神させた初戦以外の全て――決勝戦までも二の条件で勝利した。

 遠方から遥々やってきた者を含む観客達は、多くの試合が不戦勝で終了した今大会の結果に当然不満があったようだが、大多数の人間は『仕方がない』といった感想を抱いていたようだ。

 中には『しっかり戦え! 遠くからわざわざ来たんだぞ!』などと息巻いている客もいた。

 それにしても、公正な大会にも関わらず大会前から優勝者が確定していたかのような内容だ。八百長の疑いが浮上しても違和感はなかったが、不思議とその類の話は一切出てこなかった。

 人間も元は獣から進化した存在である。片隅に残っていた獣の本能で、“彼”の圧倒的な強さを感じ取り、全てを理解したのだろう。俺自身もそうだった。

 

 「明日の朝、討伐隊の皆と共にこの都を発つ。都の警備が少し手薄になるだろうから、なるべく外壁の外へ出るのは控えた方がいい」

 大会から一週間経った日の夜。父は旅支度を進めていた。

 小さな鞄に最低限の衣類や道具を詰めている父の背中は、以前にも増して大きく見える。

 「ああ、わかった。だけど本当に――」

 口に出した言葉の続きは、間違いなく言うべきではなかった。父の覚悟を捻じ曲げてしまいかねなかったから。

 それでも、自分の感情を抑えきれず、つい口に出してしまった。父ならば魔王が相手だろうと負けるはずがないと思ってはいたが、万が一の事を考えると心配せずにはいられない。

 「本当に、行くのか?」

 準備を終え、鞄のベルトを締めてから背中を向けていた父が振り返った。

 俺の姿を見据えた父は、何も言わずに立ち上がり、真剣な様子で此方へ歩み寄ってくる。

 ――殴られるかもしれない。

 だが、心配は杞憂に終わった。父は俺の横を素通りして背後の壁に掛けてあった一本の剣に手を伸ばすと、顔だけを背後に立つ俺へと向けた。

 「レン。この剣が何か知っているか?」

 それは、俺に自我が芽生える以前から父の部屋に飾られていた、鞘と柄の所々が酷く錆付いている何の目的で飾ってあるのか不明な“骨董品”だった。

 結論を言えば、この古びた剣の正体を俺は知らない。けれど、まるで家宝であるかのように飾ってあるあたり、相当に大切な剣である事は推測できる。

 「いや、知らない。ずっと昔からあるけど、誰かの形見か何かなのか?」

 「ほう……。よくわかったな。レンの言う通り、この剣は形見なんだ。これはな、私の父が、魔王を滅ぼした時に使ったとされる代物だ」

 ――魔王を滅ぼした?

 それはおかしい。なぜなら、現在も魔王は生きている。だからこそ、父さんが勇者に……いや、父の親が倒したという事は、魔王は以前にも出現していたという事か?

 「おっと。そういえば昔の魔王については話した事なかったよな。実はな、魔王が現れたのは今回が初めてじゃないんだよ。当時の魔王は今より遥かに大きな力を持っていてな、魔王との戦いで人類は滅亡しかけたそうだ。その戦いで、父は魔王を命と引き換えに討ち取ったとされている」

 「『されている』?」

 「俺が生まれたのは父の亡くなった少し後だからな、今の話は数少ない生き残りでもある国王から聞いた話だ」

 「そうだったのか……。うん、それは分かったよ。でも、結局何が言いたんだ?」

 「要するに、俺とお前には正当な勇者の血が流れているという事だ。勇者の血を引く俺が魔王を討伐に行かずにどうする」

 つまり、勇者とその妻の子として生まれたのが父だとして、その父の息子である俺もまた勇者の血を引いているという事になるわけか。信じられないが、父の眼は嘘を言っていない。おそらく、真実だ。まさか肩書きだけの“勇者”ではなく、正真正銘の“勇者”だったとは流石に驚いた。

 父はともかく俺まで勇者だなんて、正直情けなくて口が裂けても他人には言えない。

 ……それは置いておいて、先程の話が真実だとしたら一つ疑問が残る。

 「父さんの父――祖父は亡くなったとして、祖母は生きているのか?」

 「いや……」

 父は古びた剣の柄を鞘から引き抜く事なく、元の場所へ戻した。

 「母は元々体が弱かったようで、俺を産む事と代償に命を落としたそうだ。父が亡くなった知らせを聞いた母は、勇者の血を継ぐ者を世に残すため、無理を承知で出産に臨んだと聞いている。結果として俺が世に生まれ、お前が生まれたわけだ。それから後の事は昔に話した事があったよな? 覚えているか?」

 「――覚えてる」

 まだ幼かった頃に、父がどこで育ったのか訊いた事があった。

 『俺はこの王都で生まれ、王都で育った。実は両親がいなくてな、城の中で孤児として育ったんだ。城の者は身元もわからない俺を丁重に扱ってくれてな……城の者にも、王都の者にも本当に感謝している』

 『両親がいない』というのは、成長の過程で二人とも亡くなったのだと勝手に決め付けていたが、生まれた瞬間から両親がいなかったという真実は初耳だ。

 「じゃあ、城の人間は父さんが勇者の血を引いている事を知っていて、武闘大会参加の誘いを?」

 「『城の人間』というよりは国王だろうな。現に手紙の差出人は国王自身だったしな」

 準備が済んだのか、父は立ち上がり鞄を背負うと閉まっていた扉の取っ手を握った。

 「明日に備え、今日はもう休む。色々気になるだろうが、また機会があれば話そう。おやすみ」

 静かに開かれた扉は閉まる時も丁寧に閉じられた。

 ――俺も、そろそろ寝るか。

 同じように部屋を出ようとした時、先程父が握っていた、壁に掛けられている“骨董品”が目に入った。

 妙に興味を惹かれ、父と同じように慎重な動作で剣を手に取ってみた。

 これが、かつて勇者の使っていた剣。魔王を貫いた勇者の剣。今は錆が付いているが、きっと当時は相当に立派だったに違いない。

 鞘から少しだけ刃を抜いてみた。刃についても鞘と同様に所々が錆びており、軟らかい果物すら満足に斬れそうにないほど刃こぼれをしている。もしも勇者の剣でなければ即刻処分されているだろう。だからこそ、事実を知る父が自らの手元で管理しているに違いない。

 錆びた刃を同じく錆びた鞘へ納めると、元あった場所へ剣を掛け、部屋を後にした。

 ――明日は父の旅立ちだ。しっかり見送らないと。

 その夜は、うまく眠りに落ちる事ができず、布団に入ってからも父が旅立った後の事を長い時間考えていた。


 陽光が強く照りつける朝、俺と母は父の旅立ちを見送るために、王都の北口である巨大な正門の前に立っている。

 正門は、城壁ほどではないが成人男性が縦に四人ほど連なったくらいの高さを誇っており、横幅は一列に並んだ十人の人間が同時に通過する事のできる巨大な門だ。

 これだけ大きな上に、頑丈な鉄で造られているため相当に重く、とても人間の力だけでは開く事は叶わない。門を開ける唯一の手段は、隣接した城壁の上に取り付けられた開閉装置のみである。

 強烈な日差しを浴びて表面温度を著しく上昇させているであろう正門の前には、鉛色の鎧で身を固め、剣や槍、弓などの自分の得意とする得物を携えた討伐隊の人間が集まっていた。

 まだ出発前という事もあり、隊員の面々は各々の好きなように行動している。少し様子を窺ってみると、隊員同士で談笑し合う者と家族に暫くの別れを告げている者が比較的多いように見えた。

 隊員達は一様に強靭で頑丈そうな鍛え上げられた肉体をしていたが、一人だけ戦士という言葉とは不釣合いな少女がいた。

 ――たしか、剣術指南をしている道場の娘だったか。

 そんな事を考えながら隊員達の動向を眺めていると、先程まで他の隊員と談笑していた父と目が合った。すると、会話を中断して俺と母の立っている場所まで歩み寄ってくる。

 近くまでやってきた父は、眉を寄せて難しそうな表情を浮かべ、俺を見据えた。

 「すまん、レン。少し母さんと二人で話したい事があるから、終わるまでこの場所で待っていてくれるか?」

 「わかった」

 二つ返事で答えると、父と母は正門に続く石畳で舗装された大通りを街の内側へ向かって歩き始め、やがて、通りに面している民家と民家の間にある路地裏へと消えた。長年連れ添った妻との暫しの別れを惜しんでいるんだろう。

 父と母は、家にいる時も、共に出掛けている時も会話の頻度は少なく、他人から見ればそれ程仲睦まじい夫婦には見えなかったかもしれない。しかし、二人の息子である俺は、そうでない事を理解している。

 話さないから仲が悪いわけではない、笑い合わないから仲が悪いわけではない。父にとっての母とは、“ただそこに居るだけで良い存在”であり、母にとっての父も然りであるに違いない。

 二人は、まさしく理想の夫婦であるのだろう。

 

 ――それにしても、凄い数の人だな。

 正門に集まっている討伐隊員の周りには人が溢れかえっている。

 最前列に立つ者は討伐隊員に対して握手を求めたり、激励の言葉をかけたり、時には嗚咽を漏らしながら感謝の言葉を伝える者もいた。

 最前列より後ろの者達は、一目でも勇敢な戦士達の顔を拝もうとして垂直に跳躍したり、自分の前に立つ者に向けて『場所を早く交代してくれ』と懇願する者が多い。

 討伐隊員の周りに群がっていない者達は、持参した楽器の演奏を始めたり、山車を引いてきたりと、この場で祭事でも始めようとしている雰囲気だ。

 身勝手に騒ぎ出す者達に対し、周りの人々は嫌悪感を抱くどころか便乗する者が多く、時間の経過と共に周囲の喧騒は次第に大きくなっていく。

 「暢気だな……。自分達の代わりに命を賭けて戦いに赴く戦士を送り出すというのに、好き勝手に騒いで……」

 誰にも聞こえない程度の声で呟いた。

 自分達には命の危険は無い。だからこそ、あの者達は無邪気に騒ぐ事ができるのだと、そう思った。そして、その態度が気に入らない。

 「それは違うな、レン」

 「……父さん」

 誰にも届いていないと思った声は、いつの間にか背後に立っていた父に聞こえてしまったようだ。

 「彼等――いや、俺達は希望なんだよ」

 「『希望』?」

 「そう、希望だ。俺達は今、希望の象徴なんだよ。こんな混沌とした世の中でも、今日のように人々が笑って、騒いで、心から喜ぶ事ができるのは、俺達が世界を救うと信じているからなんだよ。そして、俺はその期待に応えたいと思っている」

 父は、周囲をゆっくりと見渡し、正門の近くで談笑している討伐隊員達を見据えて視線を移動させるのを止めた。

 「――俺は、幼い頃から勇者に憧れていた。自分の父が伝説の勇者であった事もあるが、純粋に、人々に希望を与える事のできる勇者という存在になりたかったんだ。幸福な事に、その夢は叶った。今、周囲を取り囲んでいる明朗な雰囲気こそが何よりの証拠だ。だからこそ、俺達も笑って旅立てるんだ」

 そう言い終えた父は、豪快な笑い声を上げた。同時に多くの人間が父に視線を向ける。そして、次の瞬間には視線を向けた全ての人間が柔らかな微笑みを浮かべていた。

 その内の一人の人間が此方へ向けて歩み寄ってくる。討伐隊の鎧と腰に携えた剣を見るに、討伐隊員の一人である事は明白だ。

 「すみません、サイ殿。そろそろ出発の準備をお願いします」

 「おお、そうだったな。わかったわかった。すぐに行く」

 「了解しました」

 それだけ伝えると、隊員はそそくさと正門の前へと戻った。

 隊員の後姿を見ていると、目の前で背中を向けて立っていた父がもう一度振り返った。

 父の浮かべた表情は、今日までに見てきた中でも最も真剣な眼差しを伴っている。その視線を認識すると、俺も真剣に話を聞くため、意識を父の声に集中させた。

 「レン。よく聞け」

 「何? 父さん」

 「もし、俺が敗れてしまった時は、レンが魔王討伐を果たしてほしい。死んでしまえば伝える事はできないからな。事前にこうして伝えておく」

 ――俺が……魔王を……? そんなの無理だ。そもそも剣術だって王国の警備に当たっている並の腕前の兵士程度の実力だというのに、できるはずがない。

 ……まあ、でも、そうか。その心配をする必要はないはずだ。なぜなら――。

 「父さんが負けるはずないよ。でも、もしそうなったら必ず仇は討つ」

 返答を聞いた父が再び笑い声を上げる。先程よりも一層大きな音は、やはり先程よりも多くの視線を集めた。

 「いや、頼もしい限りだ。よろしく頼むぞ」

 俺は、短く「うん……」と頷いた。

 ――別に嘘を言っているわけじゃない。父が勝てば、俺は戦う必要なんてなくなるのだから。

 『仇を討つ』とは、父の士気を高めるための方便である。

 父は笑い声を止めると、既に隊列を整えていた討伐隊の面々と向かい合う形で正門の前に立った。腰に携えた剣の銅色の柄が日輪の光を受けて輝いている。

 父が最前列に立つと、周囲に渦巻いていた喧騒は静まり、場を静寂が支配した。

 訪れた静寂は、他ならぬ父の一声によって破られた。

 「開門ッ!」

 父の言葉に反応するように、重量感漂う正門が徐々に開いていく。

 門の先には、どこまでも続いているかのような錯覚を抱かせる程の広大な草原が広がっている。更に、地平線の先には巨大な緑に囲まれた森林が広がっていた。

 父は体の向きを変え、開け放たれた門の先に広がる森林と草原を見据え、背後を振り返る事無く今日一番の大声で叫んだ。

 「出発ッ!」

 直後、「応!」という五十人の屈強な討伐隊員達の声が街中に響き、先程まで静観していた見物人達も声が枯れるまで激励の言葉を叫んだり、再び楽器による演奏を再開していた。

 喧騒は、討伐隊員が全員旅立ち、正門が閉門されてからも暫くの間続いた。

 

 そして、討伐隊の旅立ちから一ヶ月後。

 王都に帰還したのは一人の隊員と、その隊員によって届けられた幾つかの遺品のみだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る