1032年 11月5日 

オーバーン邸




 翌日も、マルクはやって来た。

 とてもニコニコして笑っている。

 どうやら、本気で彼女に恋をしたようだ。

 彼は私と違ってまだ若い。

 まあ、温かい目で見守るとしよう。


「それで、君は一体何なんだい?」


 他の記者がいくら尋ねても答えが返ってこなかった質問を、マルクはあっけらかんとして尋ねる。


「……それを、貴方は記事にするのかしら?」

「君が望まないなら、記事にはしない。誓約書だって書くよ」

「記事にしないなら、何の為に聞くのかしら?」

「? 君のことが知りたいからだけど……」


 『何故そんな当たり前のことを言わせるんだ』という表情だ。

 当たり前だと思っているのはお前だけだ。


「……いいわ、話してあげても」

 

 何だと?

 どういう心境の変化だ?

 今まで頑なにその話をしてこなかったというのに。

 記事にされないなら話しても構わないのか?

 一体どういう目的なんだ?


 しかし、私がいては話せないだろう。

 私は彼女に、部屋を出ようかと伺い立てる。


「あら、万丈ばんじょう警部。貴方はここにいてもよろしくてよ? わたくし、貴方のことは信頼していますもの」


 これは驚きだ。

 私は特に何もしていないのだが、信頼されていたのだな。

 マルクが私を睨んできている気がするが、気のせいということにしておこう。


「さて……何から話せばいいものか……」


 椅子に座り、彼女は思案する。


「まず、わたくしが何者かについて話さなければならないわね」

「名前を教えてくれるのかい!?」


 マルクは大いに喜んでいる。

 私も、彼女の本名を知るのは初めてだ。

 まあ、興味は無いが。


「……残念だけど、わたくしの名前は教えられないわ」

「え、でも、何者か話すって……」

「何故なら、わたくし名前がありませんの」

「……!」


 これには私も驚きを隠せない。

 まさか、名無し故の偽名だったとは。


「ど、どういう……」

「何故なら、わたくしは『非籍民』だから」

「え……?」

「何故なら、わたくしを呼ぶ人はこの世のどこにもいないから」


 結論から語り、理由を後から付け加えるのは彼女の喋り方の基本だ。

 論理的な思考で生きているというのがよくわかる。


「……そう……だったんだ」

「ええ、それがわたくしの正体ですわ」

「……でも、君の名を呼びたい人間はいるよ。僕だ。だから、君には君だけの名を名乗ってほしい」

「そうですわね……でも、何て呼んでもらおうかしら? 貴方が決めてもよろしくてよ?」

「なら……『アン』っていうのはどうだろう? 『アンノウン』からとったんだけど……」


 すぐに提案したが、まさか、想定していたわけではないだろうな?

 さて、彼女はどう反応するだろう。


「『アン』…………悪くないわ。では、これからはそう呼んでもらえる?」

「あ……ああ! そう呼ぶよ!」


 これは、私もそう呼んだ方がいいのだろうか。

 まあ、彼女も言ったが、私が彼女を呼ぶことはまず無いだろう。

 取り敢えず、ここはマルク青年を祝福しておこうか。


「……さて、結論から話さないのはわたくしの教示に反するわ。わたくしの正体を教えたからには、目的も言わせてもらおうかしら」


 アンは一息を置いて話し始める。


「わたくしの目的は、わたくし自身を知ることよ」

「え……で、でも、君の正体はさっき……」

「そう、わたくしは何も知らない。それが今のわたくしの正体。……でも、わたくしには、わたくしも知らない本当の姿があるのよ」

「どうしてそう思うんだい?」

「わたくしには、昔の記憶があるのよ。とても良い生活をしていた、昔の記憶が。でも……いつの間にかわたくしは、一人になっていた。思い出せるのは、顔の思い出せない人たちがわたくしに尽くしてくれて、恵まれていた日々。わたくしはそのおぼろげな記憶から、わたくしの本当の姿を想像した。でも……今のわたくしには何も無い……」

「アン……」


 アンは目を細めながら記憶をたどっている。

 彼女は、記憶喪失なのだろうか?

 だとすれば、彼女の家族は一体どこへ行った?

 謎が深まるばかりだ。


「わたくしが『水澱ジェラス』を名乗ったのは、目的の為の行動。理由を話すわ。何故なら、わたくしは自分を世間に知らしめたかったから。何故なら、『紫龍園連続怪死事件』は世間の目に留まる話題になりやすいから。何故なら、わたくしはその事件に関係しているから」

「関係……? 君が? 『紫龍園連続怪死事件』に?」


 それは予想していなかった。

 彼女が自分を知らしめるために『水澱ジェラス』を名乗ったことは納得がいった。

 だが、『非籍民』の彼女が、一体事件とどう関係しているのか?


「わたくしには、もう一つだけ記憶がある。それが……水澱ジェラスと過ごした記憶」

「な、何だって!?」

「彼女は幼いわたくしととても仲良くしてくれたわ。でも……記憶はそれだけしかない。彼女が何故死んだのか、それを知ることが、わたくしの記憶を取り戻すことに繋がっていると信じているわ」


 アンと水澱ジェラスが知り合いだった?

 つまり、四年前か、それ以前に二人は出会っていたのか?

 待てよ。

 アンは一体いつから行動を始めた?

 確か……今年からのはずだ。

 では、この四年間は一体何を?


 私は、柄にもなく頭を悩ませていた。

 しかし、私の疑問に彼女はすぐに答えてくれた。


「わたくしが最初に目を覚ましたのは、今年の春。それ以前の記憶は、今言った通りの二つしか無かった。わたくしは自分を知るために、すぐに行動を開始したのよ。その結果が、現在の居候生活なわけですけど」



 アンは、初めて自分の目的とその行動、理由を全て話した。

 マルクと私は慎重に耳を傾けながら彼女の話を聞き終えた。

 私はただの護衛兼付き人でしかなかったが、マルクは違う。

 彼は彼女の話を聞いて、自分なりに『紫龍園連続怪死事件』について調べることにしたという。

 それが危ない橋を渡ることだと、当然気付いていながらも――。

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