第19話
メルトが腕に巻かれている包帯を解いた。痛々しい傷跡は残っていたが、出血は止まり傷口も塞がっている。
彼女が腕の状態を確かめているのを横目で眺めながら、ノールは自分のベッドに道具袋の中身を放り出して、必要な物と不要な物の選定をしていた。
国によって隠蔽された城の襲撃事件から七日が経過していた。メルトの腕がほとんど治ったことで、物語は次の段階に移行したのだと、ノールは理解した。
宿屋に潜伏している間、メルトに考えを改めさせる時間は充分にあったように思えた。しかし彼女の決意は固かった。ノールにしてみても、近衛兵の妨害を受ける前にトラヴィスを暗殺する方法くらいしか、予言を覆せそうな案は捻り出せなかった。
ノールは無論、それが失敗に終わるであろうことを確信している。けれども有力な代替案を示すこともできず、時間だけを浪費した。
時間はもう残されていない。彼らは準備していた。もう一度城に攻め込むための、最後の戦いを見据えた準備を。
「ノール、あたし、準備が終わったら行きたいとこがあるんだ」
「……孤児院か?」
「せいかい。そんなことまで、本に書いてあるんだね」
「ああ。俺達が決戦の前にかつての家の跡地を訪れることも、本に書かれた展開だ。それでも、おめぇは孤児院に行きたいと思うか?」
「うん。あたしの気持ちを、もう一度確かめておきたいんだ」
「……そうか」
自ら物語と同じ道を辿っても良いのか、ノールには判断できない。逆らおうとも逆らえない。抵抗が意味を成さないのなら、本に従うのも反発するのも、どちらも同じ結果に収束するだけだ。
ここで孤児院に行くことを拒んだとしても、何かしらの強制力が働いて行かざるを得ない状況に立たされるのだろうか。そうであるならば、彼女の尊重する意思と、自らの尊重する意思に従ったうえで孤児院に向かった方がマシだと、ノールはそう思った。
彼としても、決戦を前に、全焼してしまった孤児院を見ておきたかったのだ。
「わかった。今日は孤児院に行って、明日が決戦だ。それでいいか?」
「うん」
彼女の了承を得て、ノールは心中で安堵した。
今日このまま決戦に向かうこともできたが、現状の用意では結末を変えられる自信もなければ、トラヴィスを討ち取る未来を想像することもできない。一日延ばしたところで思いつけるのかと自身を責めたが、今はこうするより他になかった。
残り一日。この短い時間の中で、彼は本の物語を覆す何かを思いつかなければならなかった。
都から外に出て、風に泳ぐ草原の海を近くの森林へと進む。人が移動するために整地された道は、森林の手前で一本道となり、陽光を遮断する自然の傘の下に続いていく。腰あたりまで伸びる生い茂った雑草を跳ね除けながら歩いていると、前方に明るい空間が見えてきた。
希望の光が降り注いでいた先にあったのは、焦げた地面と焼け残った木材の山だった。広い空間の中心で煤を被る積み重なった残骸は、住んでいた者や訪ねたことのある者でもない限り、かつての原形を想像することはできないだろう。
孤児院の玄関があった辺りに立って、メルトは焼け跡を悲しそうに眺めた。
「孤児院、ほんとになくなっちゃったんだね」
「……そうだな」
「あたしにとってはね、この孤児院は大切な場所だったんだ。なによりも大切だった。ここはあたしだけが帰る家じゃなくて、みんなにとっての帰る家だったでしょ? その〝みんな〟にあたしも入っているのが、すごい幸せだったんだよ」
淡々と話し始めたメルトの声に、ノールは黙って耳を傾ける。
「ノールにも内緒にしてたけどね、実はあたし、夢があったんだ。けど、たぶんノールにも夢があったんだよね? あたしと似たような夢がさ」
「夢、か……そいつは孤児院に関係してることか?」
「うん。孤児院で育ったあたし達だから、きっと同じ夢を持ってると思うんだよ」
「長いこと一緒にいたが、そんな話をしたことは一度もなかったな。夢……夢と呼べるか怪しいが、マノリアには一生かけてでも足りねぇくらいの恩を感じてた。そいつをできるだけでも返すことが、俺にとっての夢といえば夢かもしれねぇな」
「やっぱ似てるね。あたしも、マノリアさんに恩返しをしたいなって、いつからかそう思うようになったんだ。強くなろうと思ったのも、マノリアさんを守るため。だけど、それだけじゃない。あたしはこの孤児院があって成長できたから、他の子供達も立派に成長できるように、この場所そのものを守りたいと思った。それでね、いつかはあたしがマノリアさんの代わりになろうって、そうなれればいいなって、そんな風に願うようになったんだよ」
「跡継ぎになるってわけか? そこまで考えたことはなかったな……」
メルトが孤児院の二代目院長になった未来を、ノールは思い描く。
マノリアと同じ黒と白の修道服を着て、孤児達の面倒を見る彼女の姿が浮かんだ。違っていたのは、マノリアが優しく見守るのに対して、メルトはスカートの裾を汚して子供達と一緒にじゃれている点だ。
メルトが意志を受け継ぐのなら、きっと孤児達も健やかに正しい心を持って成長してくれるだろう。知恵が足りなくて困る時があるかもしれないが、その時は自分が手を貸してやればいいと、ノールは当たり前のようにそんなことを考えた。
「でも……」
暗い顔で俯いたまま、メルトは震えた声で続ける。
「全部、なくなっちゃった。ううん。壊されたんだ。孤児院が、あたしの夢ごと破壊されたんだ。こんなのひどすぎるよ。ノールは復讐するだけじゃ駄目だって言うけど、あたしにはもう、それしか残されてない。恨みを晴らさないと、いつまでもこの黒い感情を引き摺ってしまう。忘れるためには、この怒りがなくちゃ駄目なんだよ」
「おめぇはそれでいいのか? 怒りに任せて行動して、後悔はしねぇか?」
「わかんない。あたしはさ、こうして危ない欲望ばかりを考えちゃう自分が嫌いだよ。自分の中にこんな黒い部分があったことにもびっくりしてる。でもね、満たさないと消えてくれないなら、従うしかないんだと思う。もしかしてノールも、本当は国王討伐なんてしたくないんじゃないの? だけどそうしないと黒い自分が消えてくれないから、嫌々やってたんじゃないの?」
「いや、俺は全部、本心からの欲求だった。両親を殺された仇を討ちたい。討たなければならない。それがノールという人間に与えられた役割で、その使命を果たしたいと、八年間常に心の奥で唱えてきた」
ふたりの目的は一致していて、根底にある理念も似通っている。メルトは隣に立ったノールに明日の国王討伐を必ず成功させようと言いかけたが、彼の話はそれで終わりではなかった。
「――けどな、そいつは間違いだと、ようやくわかった」
「えっ?」
戸惑いの視線を向けるメルトを、ノールは一瞥して孤児院の残骸に一歩近づいた。
「俺の両親はな、ふたりとも死ぬ直前に、幼い俺に対して『国王を殺せ』と遺した。両親の最初で最後の願いは俺自身の願望にもなり、それを叶えられれば何もかもが終わるんだと、そう思った。そこが終点で、その先の生き方は叶えてから考えればいいと、そう思ってた。メルトが具体的な夢を持ってるのに対して、俺が漠然とした考えしか持ってなかったのはそのせいかもしれねぇな。俺は、遠い未来を見ることができちゃいなかった」
「別に悪いことじゃないと思う。一つ一つ叶えていくのだって、あたしは別にいいと思うよ」
「だがな、俺にとっての望みは一つだけだった。最後の瞬間まで固執してたあたり、親父達もそうだったんだろうな。国王の討伐が全てで、それ以外のことは考えちゃいなかったってわけだ。けどな、国王がいなくなった後だって世界は続いていく。そんな当たり前に気づけなかったから、親父達は敗れたんだ。未来を望まなかったから、未来に拒まれた」
「よくわからないよ。国王を殺すことが目的なら、それを達成するために全力を尽くせるんじゃないの?」
「死んでもいいってのが駄目なんだ。死ぬことを許容したから、本当に死んじまったんだ。俺は城に連れてかれた時に、トラヴィスの話を聞いた。あの野郎はクソみてぇな理由だが、未来に続く私欲を持ってるのは確かだ。死んでもいいなんざ、一度も考えたことはねぇんだろうよ。本の効力っつー圧倒的な力が介在してたのも事実だが、それ以上に生きる力でも劣っていたのが親父達の敗因だ」
焼き払われた大切な場所に訪れて、メルトの話す夢を聞いて、ノールは〝足りなかったもの〟の正体を掴めた気がした。
何が間違っていたのか。どうして間違っているのか。
思考を覆っていた靄は晴れて、ノールの頭に明瞭な答えが浮かぶ。
悔しさや情けなさ、恥ずかしさや怒りといった様々な感情が混ざり合っていたが、複雑ながらもどこか清々しい気分だった。
ノールが最も求めていたもの。両親に足りず、自身も持ち得なかった生きるための必需品を、彼は遂に手に入れたのだ。
生まれたばかりの真実を自分に認識させるように、ノールはメルトを見つめて言葉にした。
「死に際の両親が口にした『国王を殺せ』という言葉。あれは俺にかけた呪いだったってわけだ。つっても、親父達がかけた呪いじゃねぇ。同じ過ちを繰り返させるために、トラヴィスがふたりにかけさせた呪いだ。呪いによって未来への希望を断ち切っちまえば、謀反を起こされても脅威にはなり得ない。すべては、トラヴィスが自らの未来を守るために施した措置だった。そうとも知らず、俺はずっと、この怒りが両親に与えられて自らの手で育んできたものだと勘違いしていた。クソ気に食わねぇが、本がまだ白紙だったあの時から既に、俺はトラヴィスの手のひらの上で間抜けに踊ってたっつーわけだ」
「呪い……その呪いが解けた今なら、決められた結果も変えられるの……?」
「ああ。少なくとも、俺様はそう信じてる。ちゃんと前が見えてるからな。だからおめぇも未来を見ろ。孤児院を壊されたのは俺だって許せねぇが、それを中心に置くんじゃねぇ。形ある物はなぁ、壊されたって元に戻せんだよ。孤児院はまた再建すりゃあいい。マノリア達だって無事だ。俺や本のことが信じられねぇんなら、あいつらを信じろ。おめぇは、俺達と一緒に育ったあいつらが、そう簡単に死んじまうと思うか?」
「思わないよ。だけど、あれから会ってないから……」
「もう少し我慢してやれ。あいつらだって、きっと俺達を待ってる。生きていると信じていりゃあ、いつか会えるはずだろ? 再会した時によぉ、おめぇが復讐のせいで変わっちまってたらマノリアが悲しむぜ?」
孤児院の残骸を背景に、ノールはメルトに向き直る。思いつめた表情の彼女を、彼は真っ直ぐに見据えた。
「今すぐ切り替えろたぁ言わねぇよ。けどな、知っておいてもらいたかった。後ろを向いてる奴は前に歩くことはできねぇ。俺達はな、先へ進むために前を向かなきゃならねぇんだ。はっきり言うが、親父達は間違ってた。だから俺は違う道を選ぶ。未来が見えるようになったからな。孤児院を再建して、そこで二代目の主が働いてる未来が。見えるっつーことは、きっと俺もそこにいるんだろ。なら、実現させるためにも、トラヴィスとの戦いで負けるわけにはいかねぇよな」
「ノール……」
「おめぇにも見えてんだろ? 一度は見失っちまったかもしれねぇが、今は見えるんじゃねぇか? 描いてきた夢の形ってやつがよ」
「……」
彼女のことを想い、真摯に説得するノール。
復讐の発端となった両親の遺言を、彼は間違いだと切り捨てた。会わす顔がないなと思ったが、現在とどちらが大事かなど比べるまでもない。
彼は、両親を介してかけられたトラヴィスの呪いを断ち切ったのだ。
メルトもまた、トラヴィスによって呪いをかけられていた。平和に生きてきた彼女にとって、復讐という黒い感情は制御できない強大な力だった。ひとりでは為す術もなく飲み込まれていただろう。しかし、そこにノールが手を差し伸べた。一足先に脱出したノールが、依然として闇に囚われるメルトを救おうとしているのだ。
だが、ノールの言葉に、メルトは頷くことができない。
「……嬉しいよ。ノールがあたしのことをそんなに考えてくれて、ほんとに嬉しい。でもね、許せないものは許せない。あたしは、やっぱあの男が憎いよ。それだけは誤魔化せない。あたしはどうなってもいいから、誰かがもう二度とあたしと同じ目に遭わないために、あたしはあの男を倒したい」
「おめぇが死んだら、マノリア達が悲しむぜ」
「……もう少し、時間がほしい。気持ちを確かめに来たはずなのに否定されちゃったから、もう一回、何が正しいのか見つめ直したい」
「ああ。決戦は明日だ。今日一日、考えてみりゃあいい」
「うん。……わかった」
たった一日という短い時間が、メルトに大切なことを思い出させてくれるのだろうか。わからないが、ノールは信じた。共に成長して共に歩んできた相棒ならば、正しい道を必ず見極められるはずだと、葛藤に混乱するメルトを見守ることにした。
「宿に戻るか」
ノールがそう声をかけて、ふたりは森の一本道を通って都に戻っていく。
「ノールも悲しいの?」
黙ってついてきていたメルトが、先導するノールの背中に声をかけた。覇気のない、何かを心配するような弱々しい声だった。
質問の意味がわからず歩みを止めて振り返るノールに、彼女は眉尻を下げてより具体的に尋ねる。
「ノールも、あたしが死んだら悲しいの?」
「……はぁ?」
「え……はぁって……あたし、真面目に訊いてるんだよ!」
呆れるノールに虚を突かれたメルトは、目を丸くした後に語気を強くする。
くだらないと言わんばかりに、ノールは薄っすらと笑い、前を向いて歩みを再開した。
「んなもん、いちいち訊くんじゃねぇよ」
わかりきった答えを求めるメルトに、彼女には見えない角度で彼は笑う。
ノールは遅れて背後から追ってくる足音の他に、聞き慣れた明朗な笑い声を耳にしたような気がした。
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