第18話

 たった一人の少女に国王の住まう城が襲撃された。国王の身に怪我はなかったが、主を守護する兵士達には多く負傷者がでた。そんな噂が広まれば世間は震撼するのだろうが、事件は公になることはなく、襲撃した少女の存在も、その当時に城に招かれていた少年の存在も、知っているのは当事者と国王の関係者だけだ。

 見逃されたノールとメルトは、他に行く当てもなく孤児院が全焼してから世話になっている宿屋に戻ってきた。宿屋の主人は傷を負った彼らを見ると飛び上がるように驚き、急いで救急箱を持ってきてくれた。医者を呼ぶべきか訊かれたが、命に関わるほどの大怪我でもないので丁重に断った。

 借りている部屋に着くと、ノールは昔読んだどこかの医者が書いた本の知識を駆使して、適切な治療を自分とメルトに施した。メルトの片腕は特にひどく、骨には異状がなかったが無数の切創と深く皮膚が抉られている箇所があり、止血剤を塗った後は腕全体を包帯で幾重にも巻く形となった。

 内心で緊張しつつも表には出さぬようにしていたノールは、治療を終えると彼女に安静にするようベッドで横になることを勧めた。

 城での激戦から黙り続けている彼女は、ベッドに向かう間も無言だった。立ったまま掛け布団に背を向けて、魂が抜けたように仰向けに倒れこむ。

 どのような心境であれ、まずは傷を治さなければならない。心の傷の治療法を知らないノールだったが、まずはメルトがおとなしくしてくれているようで安堵した。彼は開いた救急箱に手を伸ばすと、自身の膝に負った細かな傷の処置を始める。


「……知っていたの?」

「何のことだ?」

「あたしが負けることも、ノールは知ってたの? 本に書いてあったの?」

「……ああ。城に乗り込んで返り討ちにされると、本に書かれてた」

「そう、なんだ。……その通りに、なっちゃったんだね」


 メルトは仰向けに倒れたまま、弱々しく呟いてまた黙り込む。

 酒場でトラヴィスと遭遇した時点で、いや、もしかすると孤児院が燃えた日から既に、ノールは本の予言が完全であることを疑っていなかった。常識では考えられない現象を否定するために色々と試したが、あらゆる対策は虚しく失敗に終わり、記された物語は必ず現実に同様の事件や事象を引き起こした。

 だから、城へ連行される際に、彼女に警告したのだ。あまり無茶をして怪我をするなと。束になった兵士達には勝てないと、具体的にそう注意すべきだったのかもしれないが、当時はそれだけの猶予もなければ、そんな気の利いた言葉を思いつく余裕もなかった。

 助けに来るなとは言えなかった。

 それは、無意味な命令だと分かりきっていた。

 本の物語でヒロインが城に囚われた主人公を救い出そうとしている以上、本の力を信じてしまったノールには、決して守られない頼みごとはできなかった。

 本の物語では主人公と合流したヒロインが怪我を負っていたから、せめて怪我の程度が軽くあればいいと、ノールにできたのは、そんな些細な望みを願うことだけだった。

 息の詰まるような重い空気に部屋が淀む。治療を終えて机上の救急箱を閉じたノールは、椅子に座って床に目を落とした。


「城でな、本のことについて、トラヴィスの野郎に色々と訊いた。なんで本に書かれた内容が現実に起こっちまうのかまでは奴も把握してねぇらしいが、その本に書かれてる限り、どんな手段で対策を打っても内容が変わることはなく、必ず予言の役割を果たすそうだ。奴が本の力を行使したのはこれが初めてじゃねぇ。奴が国王として君臨できたのも、俺の親父の反乱を鎮圧できたのも、奴が本にそう書いたからだ。それは二回とも定められた結末を覆されることもなく、物語と同じように奴に思い描いた通りに幕を閉じた。今回も、俺達の抵抗は奏功せず、物語の轍を進んじまってる」

「でも、あの男が国王になった時とノールの両親が殺された時とは違って、あたし達の物語はまだ終わってない。物語を書いた張本人を……あの男を殺せば、本の力は無効になるかもしれない」

「無理だ。トラヴィスは物語の結末で生存が明記されてんだ。本に書かれた出来事が全て終わった後なら可能かもしれねぇが、俺達の死で終幕してんだから、少なくとも俺とおめぇには奴を倒すことはできねぇ」

「じゃあ、諦めるしかないってこと?」

「そうじゃねぇ。けどな、本の物語は変えられねぇ。これだけは事実として受け止めるべきだ」

「同じことじゃん。諦めるの、ノール。どうにもできないから、あの男の勝手を見て見ぬフリするの? あたしは許せない。あの男はいちゃいけない。あの男がいたら、またあたしの大切な物を奪ったり傷つけたりするに決まってる」


 ベッドに寝たまま、メルトは包帯の巻かれていない腕を天井に伸ばす。何かを掴むように、伸ばした手のひらが拳に変わった。


「だからあたしは、あの男を殺す」


 揺るがない決意を、彼女は言葉として明示する。城門前の橋で見せた彼女の憤怒は、一時の激情ではなく、心の深淵に刻まれた新たな傷だ。癒すためには、傷を負わせたトラヴィスを抹殺するより他にない。

 しかしノールは知っているのだ。彼女の願望が、実現不可能であることを。憎悪の感情だけで動いては、トラヴィスの術中に嵌り、両親の避けられなかった悲劇を再び迎えてしまうことを。


「いいか、メルト。おめぇは憎しみに操られてる。そんな状態じゃあ、できることもできねぇよ。俺自身がそうだったからわかる。復讐の心だけじゃ、本の予言を覆してトラヴィスを討つことはできねぇ」

「だったらどうしろって言うの? あの男を憎むなって言うの? あたしは許せない。あの男の言動じゃなくて、あの男の存在自体が許せないんだよ」

「俺だって許せねぇよ。だが駄目だ。このままじゃ奴には勝てねぇんだ」

「そこまで言うなら正解を教えてよ。憎しみがいけないんなら、それを捨てる方法と、あたしに必要な感情を教えてよ」

「そいつは……」


 ノールの心は変化しつつあった。けれども憎しみが完全に消滅したわけではない。より大きな感情に揺られ、その気勢を削がれただけだ。

 憎しみを捨て切れないノールに彼女の求める答えがわかるはずもない。何かを言おうとしたが思いつかず、彼の声が消えてからメルトが続ける。


「あたし、わかんないんだよ。孤児院のことも、マノリアさんやノールのことも、あの男への怒りも、こんなに心が動いたことなんてなかった。血の繋がった両親に捨てられて、その後で手に入れた本当の家族。一生大切にするつもりだった。それを奪われた悲しさと理不尽に傷つけられた怒りはね、どちらもあたしにとっては初めての気持ちだった。初めてだから、あたしにはわかんないんだよ。この感情を、どうすれば鎮められるのかが」

「何度も言ってるがマノリア達は無事だ。本の予言が絶対であるならそいつは断言できる。孤児院は、また再建すりゃいいじゃねぇか」

「ノールはそう言うけど、あれからマノリアさん達には会えてない。正直ね、ちょっと疑ってるんだ。ノールは、あたしを悲しませないために嘘を教えてるんじゃないかって。マノリアさん達が生きてるなんて展開は、本には書かれていないんじゃないかって」

「嘘じゃねぇ。間違いなく予言されてる未来だ。疑うなら確認するか?」

「いいよ。あたし、本の力は信じてないから。それより、マノリアさん達が生きてるなら今から会わせて。再会できるなら、住んでる場所にも見当がついてるんでしょ?」

「行っても会えねぇよ。会えるのはまだ、もう少し経ってからだ」

「それも、本に書かれてるから? ノールはあたしの考えを否定するけど、そうやって本の内容を受け入れれば解決するの? あの男を殺すことができるの? それこそ無理だよ。そんなの、ノールだってわかってるんでしょ?」

「……」


 図星を突かれて、ノールは言葉を出せなかった。

 何が駄目なのかは分かっているつもりだが、何が正しいのかまでは分かっていなかった。


「ノール、ちょっとの間でいいから席を外して。あたし、このままだとノールに八つ当たりしちゃいそう。お願いだよ。どうすればいいのか、ひとりで考えさせて」


 部屋を出て行くよう懇願する彼女の迷いは、その声を聞けば明らかだ。

 メルトの声は震えていた。心の揺らぎが滲み出ており、指先で触れれば破裂しそうな脆さを感じさせる。自分への激情を抑えてくれていることを、ノールは静かに悟った。

 ノールは椅子から立ち上がり、机に出していた本を道具袋にしまう。


「すまん。ここが襲撃される心配はねぇから安心してくれ。……これも、本の予言だがな」

「……うん。ありがとう」


 ベッドには顔を向けずに伝えて、ノールは部屋を出て行った。

 去り際のメルトの声は、感謝を述べていながらも、あまり嬉しそうではなかった。

 


 夜も更けてきた。陽の昇っている間は無数の店舗が連ねている大通りも、いまはほとんどの店が片付けられていた。けれどもまだ営業している店もあり、ノールはその中の薬屋を訪れると、宿屋の救急箱から借用した品と同じ物を購入した。

 そんな些細な行為もまた、本の物語に記されていることだった。

 買い物を済ませたノールは宿に戻ろうと踵を返しかけるが、メルトの様子を顧みて足を止めた。気持ちが落ちつくには、まだ時間が足りないと思った。

 薬の収められた小さな紙袋を手にしたまま、寂しげな夜の商業区を目的もなく彷徨う。世話になっている食料品の販売店も、この遅い時間では店をしまっていた。

 中央の広場に出た。いつかはトラヴィスの召集で国民が詰めかけた場所も、こんな時間では人が三人ばかり歩いているだけだ。演説に使用された高台は撤去されている。

 広場を素通りして、ノールは派生した通りの一つを歩いていく。ここもまた昼間の賑わいが影を潜めていたが、少し進むと赤い炎に照らされた店が見えてきた。ノールの胸元あたりまである鉄製の台座が店先の両端に設置されており、先端に灯った炎が、棚に並んだ商品を怪しく演出していた。

 他の店では見かけない珍しい品ばかりが売り出されている。異国の品を扱うその店は、ノールがよく顔を出す店の一つだ。


「なんだ。誰かと思ったらノールか。こんな遅い時間に珍しい」

「ああ。ちょっと色々あってな。じいさんこそ、こんな時間まで働いてるたぁ驚いたぜ。老人なんだからもう休んだ方がいいんじゃねぇか?」

「年寄り扱いするんじゃない。わしはまだまだ現役じゃ。がっぽり稼いで、若いねーちゃん達と死ぬまで遊ぶんじゃ!」

「死ぬまでって、もうそこまでお迎えが迫ってきてんのにか?」

「じゃーかーら! 年寄り扱いするなと言っておろうが!」


 世話になっている店の主人が唾を飛ばして声を荒げる。唾液がかからないように、ノールは腕で顔を覆った。


「ノール、せっかく来たんじゃから何か買ってけ。冷やかしは許さんぞ」

「マジかよじじい。通りがかった客に購入を強要するとかヤバくねぇか? そのうち干されるぞ」

「お主じゃから言っとるんじゃ。知らん奴に片っ端から声かけたりはせん」

「そりゃありがてぇこった。常連なんざ、なるもんじゃねぇなぁ」


 言いながら、陳列されている商品に目を向ける。

 とぐろを巻いた縄が目に留まり、城から脱出する際に手持ちの縄を失ったことを思い出した。深く考えず新品を購入しておこうと、とりあえず縄に手を伸ばす。手に取ると、縄にしては妙に重く、調べてみると片方の先端に三方向に分かれた細い鉄の爪が付いていた。それぞれの爪が、弧を描くように曲がっている。


「なんだこいつは。変な物が先っちょに付いてんぞ」

「そりゃ鉤縄と言うんじゃ。縄を投げると、先端が投げた先に引っかかるようになっておる」

「壁を登ったりすることができるってわけか?」

「そういうことじゃ。お主にはぴったりの商品じゃぞ。壁を登る道具であれば、他にも鉤爪というのがある。ほれ、そこにある奴じゃ」


 骨と皮だけの痩せ細った人差し指で示された先に、手袋の甲の部分から指の先にかけて三本の鉄製の爪が伸びている品があった。こちらは先端が直角に曲がっており、いずれの爪も内側に向けられている。

 それらを見比べて、ノールは想像した。これから先、本の予言が完了するまでの間に、どこかでトラヴィスの裏をかかなければならない。この道具が、その役に立つことはないか。

 思索の末、鉤縄は使えないと判断した。高所に上れるといっても、縄を飛ばせる高さまでしか使えない。

 対して鉤爪は役立つと思った。危険は伴うが、死を宣告されているノールにとっては、そんなものは足踏みする理由にはならなかった。彼女が付いてきてくれるか不安だったが、それはまた後で考えることにした。

 ノールが鉤爪の活躍を想定した状況では、もうひとつ必要となる道具があった。都の構造を熟知するノールだからこそ考えついた作戦の遂行には、都に住んでいる者には需要がないはずの品が必要不可欠だった。


「じいさん、この鉤爪を左右二つずつと、奥にあるでっけぇ〝ソレ〟をくれ」

「なんじゃと? 入荷した時散々馬鹿にしたくせに、お主がこれを買うのか?」

「悪かったよ。けどな、俺様にはそいつが必要なんだ。安心しろ、金はある」


 指の隙間から零れるほどの貨幣を握り、主人の前にある机に叩きつける。


「売ってるわしが言うのもなんじゃが、こんなもんどこで使うんじゃ?」

「それに関して、頼みてぇことがある。そいつをある場所まで運んでおいてくれねぇか? もちろん運搬代も前払いだ」


 山積みになった貨幣の上に、ノールは更に貨幣を重ねた。


「これでどうだ。やってくれるか?」


 店の主人は長年売れずに残っていた商品を欲しがるノールに合点がいかず当惑した。しかし、目の前に詰まれた金銭の山と彼の瞳が真摯であったことから本気だと信じると、細かいことはどうでもよくなった。彼の依頼はよくわからないものだったが、確かに都でこの品を使えるのはそこしかないと思い、適当に納得することにした。


「いいじゃろう。まいどあり」


 こうしてノールは、結末を覆すための準備をひとつ済ませたのだった。

 


 宿に帰る前に、ふと気になって居住区に足を運んだ。ぽつぽつと明かりが漏れている民家の間を歩いていって、より暗い道に入る。

 その通りには見覚えがあった。八年前、当時工業区に置かれていた反乱軍の拠点から逃げる際に、追っ手の兵士達を撒くために使った道だ。悪い思い出が染み付いた路地裏を、とある場所を探して歩いていく。

 路地裏には明かりはない。目的地にしても、それがどこにあるのかは知らなかった。

 視界も悪く、場所さえわからないのに、ある家の扉の前でノールは足を止める。

 人の住んでいる気配はなく、誰かが住み着くとも思えない日当たりの悪い住居だ。だが、ここが〝彼女達〟の潜伏先であることが、ノールには不思議とわかった。

 片手で握り拳を作り、手の甲で玄関の扉を叩こうとする。

 しかし躊躇いがあった。夜も遅い時間に訪問することが迷惑だと思ったのか、それともまだ会えないと感じたのか。どちらかであるとは思うが、どちらなのかノール自身にもわからない。あるいは、本の効力によってそう思わされているのかもしれない。


「ちっ」


 舌打ちをすると、迷いを振り切って扉を二度叩いた。周囲の闇に音が広がって、路地の奥に消えていく。

 静まってから耳を澄ませてみたが、家の中で誰かが動く音は聞こえてこなかった。

 扉から離れたノールは、期待を捨てきれずにしばらく目的の家を観察する。けれども反応がないことに落胆すると、その家を後にした。

 これからノールが起こそうとしている行動は、本に記載された物語の展開とは微妙に異なるが、彼は成功する確率は充分にあると自負している。同時に、その程度では根本的な解決にはならないことも、否定のできない事実として理解していた。

 だとしても、予言を完全に覆す方法については、終焉が近づいている現在も未だに思いつくことができずにいた。

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