第17話
「飛び込んだのか。小癪な真似を」
「追うか? 間に合うかわからんが」
「無理だろう。街の方へ行かれたらどうしようもない」
バルコニーに集結した兵士達は標的を取り逃したとわかると、役目を見失って立ち往生する。このままでは失態の汚名を着せられることになる。そうならないためには、次なる行動で挽回する必要があった。
「誰もいないと思ったらここで固まっていたのか! 橋での戦闘が劣勢らしいぞッ!」
そんな彼らにとって、救援を呼びに来た同僚の声はまたとない助け舟だった。
「応援にいくぞッ!」
「おおッ!」
そんなに大勢乗らなくても良いのに、鎧を鳴らしつつ全員でバルコニーから資料室に戻り、そのまま広間の方へと移動していく。
頭上の足音が遠ざかっていくのを確かめてから、バルコニーの足場の裏に張り付いていたノールが、欄干の下部に括りつけた縄をたどって慣れない運動に息をきらしながらも這い上がった。
身体を支えるために壁に突き刺していたナイフをしまい、バルコニーに置かれている机の一つに目を向ける。
他は一卓あたり二脚の椅子が用意されているが、その机だけは椅子が足りなかった。当分の間は、ノール以外にその椅子の行方を知る者は現れないだろう。
「急がねぇとな」
呼吸を整えて、ノールは欄干から身を乗り出して池を見下ろした。
階層的には二階と称されているが、地下と一階が階下にあるため随分と高さがある。無心で眺めていると、見えざる力で引きずりこまれそうな高さだ。
彼は欄干に括りつけた縄を手繰り寄せ、先端部分から腰の辺りに巻きつける。二重にして頑丈に縛ると、バルコニーの端に目を向けた。そちらの方角に城門が位置しているはずだが、ここからでは建物の角に隠れて視認することができない。ノールの目には青く揺れる水面と、陸地に敷き詰められた大小の建築物だけが映っている。
脈打つ速度が上昇していくのを止められない。言うまでもなく危険であることに脳が警鐘を鳴らすが、一刻も早く助けるためには他に方法はない。怪我を負うかもしれないうえ、転落して救援に駆けつけるのが遅れる可能性もあるが、ノールは迎えに来た相棒を〝止める〟ためにも、考えつく限りの最善をとることに決めた。
一つ息をついて、反対側の端の欄干に背を当てる。
「まったく、こんなのガラじゃねぇってのによぉッ!」
誰に伝えるわけでもなく愚痴を叫びながら、ノールはバルコニーを走りだす。
距離にしては短いが、彼に出せる最高速でバルコニーの端から端へ突進する。
駆けた先の欄干に到達する直前、ノールは躊躇わずに意を決して跳躍した。
片足を欄干の上に着いて、更に高く前方へ飛び上がる。
身体が宙に浮いた。
短すぎる浮遊の末に、凄まじい勢いの落下が始まる。
外壁の表面を吹き抜ける風が、重力に引っ張られる彼の服をなびかせる。
逆立っている髪が更に立ち、着ている服が膨らんで無意味な抵抗を生む。
急降下するノールの身体は、城の一階部分辺りで停止した。
城門がある正面に向かって飛び出したが、そこへ到達するには勢いが足りなかった。
縄が体重に耐えられず千切れないことを祈っていると、身体が逆方向に引っ張られる。
資料室の欄干を軸にして、ノールは振り子のように左右に揺さぶられる。
縄を手に持って、絶妙な力を加えることで振り幅を徐々に大きくする。
何度目かの試行の末、正面との角に手を触れることに成功した。
しかし止まらず、角を持った手で身体を強く押し返して、更に勢いを増幅させる。
それを何度も繰り返して充分な勢いをつけて、空中で壁を蹴って振り子の軌道を変化させる。
上空から見ると直線を描いていた動きが、緩慢な弧を描く軌道に変わる。
ノールは意図した通りに角を越えて、遠心力の加わった縄が彼を壁に叩きつけようとする。
衝突の間際、城門の周りの窪みに手を引っ掛けた。
勢いが収まり、壁に張り付いた状態で背後に目を向ける。
鉄を打ち鳴らす音が絶えず空に響き渡っており、橋の中間辺りで多数の兵士が何かを取り囲んでいた。
「やべぇ……ッ!」
焦りを浮かべたノールは足元に視線を落とす。門衛と思しき兵士の二人は、集団に参加せずに自分の任務を忠実に遂行しているようだ。頭上にいるノールの存在に気づいた様子はない。
ならば都合がいい。ノールは狙いを定めると、空いている右手でナイフを引き抜いた。
自分から近い方の門衛を捉えつつ、腰から伸びる縄に刃を振り落とす。
支えを失った身体が落下する。
まともに転落したら骨折は確実と思われた衝撃を、ノールは門衛を緩衝器とすることで回避した。
足場代わりにされた兵士がわけもわからず崩れ落ちる。ノールも綺麗には着地できなかったが、門衛の相方が想定外の事態への対応を判断するより早く、橋の集団に向かっていく。
登城の際にも彼が感じたように、橋は随分な長さだった。
全力疾走では体力がもたないと理解していたが、力を抜くなんてことはできない。
息も絶え絶えで鉛色の集団に近づいていくと、喧しい足音に気づいた数名の兵士がノールを振り返る。
「てめぇら邪魔だッ! そこをどけぇッ!」
裂帛の気合で叫びつつ、兵士達の混乱に乗じて彼は突破を試みる。
だが、兵士の一人がノールの現れた意味を理解した。兵士は新たな敵を排除しようと、抜き身の刃を振り抜く。
咄嗟に飛び退くノール。
それで致命傷は避けられたが、服が袈裟に切り裂かれ、じんわりと血が滲み出る。彼は思わず片膝をついた。
焼けるような痛みと限界を迎えた運動量に肩を上下させる。
けれども手の届く距離に彼女がいることを思い出し、最後の障壁を突破するために決然と立ち上がった。
右手に持ったナイフを左に持ち替え、右手で道具袋の底に溜まっている砂を握る。
負傷したノールを捕らえようと、彼に一撃を与えた兵士が肉薄してくる。
兜に覆われた表情は確認できないが、さぞかし気に食わない顔をしているのだろうと、ノールはそう想像した。
「調子に乗んじゃねぇぞッ!」
兜の隙間に砂を振りかけ、視界を潰された兵士の脇を駆け抜ける。
次いで立ちはだかった兵士の刃を潜り抜け、次の兵士の刃をナイフで器用に受け流す。
三人の兵士を越えた先に、見慣れた少女の背中が見えた。
「メルト――」
彼女の名前を呼びかけたが、視界に広がった光景に思わず息を呑む。
陸地から中間地点までの間に何人もの兵士が倒れており、なおも二人の敵と対峙するメルトの全身は傷だらけだった。晒された肌には無数の切傷があり、真紅の血を今も滴らせている。衣服は所々が破けており、肌が露出してしまっている部分もあった。両手にトンファーを握っていたが、片方の腕は血に塗れており、力なく垂れている。
ノールは満身創痍の彼女の隣に並び立とうとしたが、橋を形作る石畳の段差に足を躓き、受け身もとれず固い地面を転がった。
その音に、メルトが振り返る。
「ノール……?」
目が合って表情を和らげた彼女だったが、彼を捕らえようと接近する兵士を見つけると、血相を変えて眼光を研ぎ澄ませた。
「ノールに、触るなァ!!!」
小さな身体のどこからそんな声が出せるのか。おとなしいはずの彼女から発せられた咆哮に、ノールですら恐怖を覚えた。
それは狂気じみた叫びだった。睨まれた兵士は足を止めるが、構わずメルトは兵士に飛びかかる。
剣を弾き、兜の上から殴りつけ、鎧ごと身体を蹴り飛ばす。
一連の動作を瞬く間にこなし、あまりの力量差に他の兵士達も一歩退く。
こんな少女なのに、こんなボロボロなのに、何故これほどの力があるのか。兵士達は皆、そういった疑問を抱えていた。
メルトはノールの前に立ち、倒れた彼を優しげに見据えた。
「ノール、大丈夫?」
「ああ。こんなもん……っ!」
興奮が冷めたことで、胸元の傷が疼き出す。ノールは反射的に傷口を手で抑えた。
「えっ……? ノール、その傷………………ッ!」
「大したことねぇよ」
「……誰だ……誰がノールを傷つけた……」
「おいメルト、ちょっと落ち着け」
「許さない…………絶対に、許さない…………」
どこを見ているのか判然としないメルト。彼女にはノールの制止ですら届かず、ゆっくりと周囲の兵士達を見回した。
最も近い位置に立つ兵士と対面して、彼女は動きを止めた。見た者をそれだけで死に至らせるような殺意を放ち、金縛りのごとく身動きのとれない兵士に悠然と歩み寄る。
「お前がやったのか? お前が、ノールを傷つけたのか?」
「お、俺じゃないっ! 俺は――」
言い終える前に、顎を突き上げられた兵士は気を失い地面に横たわった。
「誰だ…………ノールを傷つけたのは誰だ…………」
獲物を探す獣のように、いや、それ以上に危険な雰囲気を漂わせながら、メルトは残りの兵士達を順番に睨む。
痛みに耐えつつ立ち上がったノールが、彼女の肩を掴んだ。
「落ち着けメルト。俺は大丈夫だ。こんな傷どうってことねぇ。それより、おめぇだって大怪我してんじゃねぇか」
「あたしのことはいいの。それより、ノールを傷つけたのはどいつ? そいつを同じ目に遭わせるまであたしの気が済まない」
「だったらもういい。そこに倒れてる奴が、俺を斬った兵士だ」
「……そう、こいつが……」
ノールと再会した直後にメルトが倒した兵士が、彼に傷を負わせた当人だった。手にしていた剣には微量の血液が付着しており、それが証拠となった。
肩に置かれた手を振りほどくと、メルトはトンファーを一旦放して、仰向けに倒れている兵士の兜を剥いだ。中年の男の怯えた顔が現れる。男は気を失ったフリをしていた。
メルトはトンファーの端を握り、本来の使い方ではなく長い鈍器の代わりにすると、それを無防備な男の頬に叩き落した。
口元から血が零れるのを無感動に眺めながら、メルトは残忍な行為を繰り返す。
普段の彼女からは想像もつかない凶暴性に、ノールですら畏怖した。
止めるべきか、気の済むまでやらせるべきか。そもそも自分に止められるのかと思っていると、城の巨大な門が開くのを目撃する。
同時に、反対側の陸地からも多数の兵士達が増援に駆けつけて、中間付近にいるノール達を取り囲もうと接近する。
万事休す。もはや運命に身を委ねるしかないと諦めたノールは、依然として一人の兵士を執拗に痛めつけるメルトの姿に愕然とする。
言葉も出せずにその様子をうかがっていると、ほどなくして彼らは大挙した兵士に取り囲まれた。
それでも、メルトが手を止めることはない。
あまりの異様さに増援の兵士達すら足を止めていると、城門側から来た一団の更に後ろから、場違いな明るい声が発せられた。
「元気がいいですねぇ。ですが、その辺にしておいた方がいいですよ。彼らも人間です。逆恨みすることだってあるでしょうからねぇ」
兵士達の合間から現れたトラヴィスは、俯瞰的な態度で忠告する。
それまではノールの言葉にさえも反応を示さなかったメルトだが、兵士達を束ねる長の声は聞き逃さなかった。
一点に注視して気絶した兵士から立ち退くメルト。片腕でトンファーを構え直すと、飛び出す準備のために腰を低くする。
今にも無謀な行為に及ぼうとする彼女を、ノールは背後から羽交い絞めにして抑え込む。
「馬鹿な真似はよせッ! ここで戦っても勝てねぇんだよッ!」
「放してっ! あいつは放ってはおけないっ! あいつは、あたしの周りから何でも奪っていくっ!」
「まだ何も奪われちゃいねぇッ! マノリア達は生きてるし、俺だってここにいるじゃねぇかッ!」
「だけどあいつは傷つけたっ! ノールを連れ去って傷つけて、あたし達の家を理由もなく消し去ったっ! だいたいマノリアさん達が生きてる確証なんてないじゃんっ! どうしてノールはあいつの書いた本を信じれるの? あいつは敵なんでしょっ! ノールのお父さんとお母さんを殺した仇なんでしょ!?」
メルトが手足を暴れさせる度、ノールの傷口が傷む。
それは肉体的な痛みだけではなく、彼の精神をも痛めつけた。
彼女の怒り狂った姿は、まるでトラヴィスと久しぶりに再会した時のノールのようであった。
「ああそうだ。あの野郎は敵で、倒さなくちゃならねぇ障害だ。そのために一度冷静になれって言ってんだよッ!」
「冷静になんてなれるわけないでしょっ! 何でもかんでも好き勝手に踏みにじって、そんな奴、いつノールを遊び半分で殺すかわからないっ! マノリアさん達がいなくなって、あたしはノールがいたから悲しみを抑えることができた! なのに、あいつはノールすらも奪おうとしたっ! あたしの敵だっ! だからあたしが、奪われる前に奪ってやるっ!!」
「俺を舐めんじゃねぇッ! 俺は、情報を集めるために城に潜入しただけだッ! 掴まったりしねぇし、奪われたりもしねぇよッ!」
「とか言ってっ! 本に書かれてたらノールは諦めるんでしょっ! どうにもできないってっ! 未来を変えようともせずに諦めるんでしょっ!」
即座に否定したかったが、メルトの指摘が図星であることをノールは認めざるを得なかった。情報収集という言い訳はできたが、拘束されることを甘んじて受け入れたのは事実だ。
だがそれは、メルトの暴走を容認する理由にはならない。
しかし説得できるだけの言葉も見つからず、ノールは傷の痛みに耐えながら、黙ってメルトの身体を抑えることしかできなかった。
二人の問答の一部始終を眺めていたトラヴィスは、やや不機嫌な顔つきで嘆息する。
「ふむ。もう少々おもしろいことが起きると思っていたのですが、期待外れでしたね。兵士の皆さん、撤収です。負傷者は詰所に運び込んで、治療を受けさせてください」
法衣を翻して背を向けるトラヴィス。
遠ざかろうとする彼を見て、メルトは一層強く束縛を振り解こうとする。
「逃げるなァッ! お前が国王だなんてあたしは認めないッ! お前は、あたしが殺すッ!」
「ひっひっひっ! 殺す、ですか。随分と物騒な物言いではありませんか。恐ろしいですねぇ」
「笑うなッ!! お前は、お前さえいなければッ! 不幸なことなんて起こらなかったのにッ!」
「おかしいですねぇ。私にとっては良いことばかり起きているのですがねぇ」
「っ!!! 殺すッ!!! お前は、絶対にあたしがこの手で殺してやるッ!!!」
肩越しにメルトと会話していたトラヴィスは、愉快そうな顔のままノールに視線を移した。
「ノールくん、物語にはまだ三章が残っています。ここで無駄な時間を過ごしても仕方がないでしょう。これ以上危害を加えないのであれば兵士さん達にも手をあげさせません。ですから、ここは大人しく彼女を連れて逃げてくださいませんか?」
「拒否すると言ったら?」
「ふむ。まだそんな冗談を抜かす余裕があったのですね。やはりノールくん、君は最高ですよ」
「拒否すると言ったらどうすんだって訊いてんだよッ!」
「そうですねぇ。その場合は、私も検証してみましょうか。ここで主人公達が亡くなると物語に齟齬が発生しますから、命を奪うことはできないでしょう。ですが、どの程度の傷であれば負わせられるか、それを実験してみるのも一興だと思いませんか? ひっひっひっ!」
「ちっ……逃げるなら、これ以上は手を出さねぇんだな?」
「無論です。貴方達は、私の物語にとって肝要な登場人物ですからねぇ。いずれにしても、遅かれ早かれ逃げることしかできないのです。懸命な判断をされることを祈っていますよ」
それだけ言うと、トラヴィスは城門への歩みを再開する。
近衛兵に囲まれて門の奥に消える間際、暴れ続けていたメルトが最後の力を振り絞った。
「トラヴィスゥッ!!!」
怨嗟の篭った声で名前を叫ばれたトラヴィスは、閉められていく扉の隙間からメルトを見返す。
彼は心底楽しそうな顔をしていた。
音を立てて巨大な門が閉まる。行き場を失ったメルトの怒りは頭上に向けられ、果てのない青空に言葉にならない声を叫び続ける。
彼女の瞳からは、絶え間ない涙が流れていた。それが悔しさの結晶であると理解して、ノールの傷はまた痛む。
「その女を連れて早急に立ち去れ。国王陛下の恩情を無下にするつもりか」
「てめぇらに指図されるまでもねぇ。言われなくても、さっさと帰ってやるよ」
メルトの抵抗する力が無くなった。ノールは羽交い絞めをやめると、メルトの手を自分の肩に回した。奥歯を歯軋りさせて泣き続けるメルトだったが、おとなしくノールに身を委ねる。
互いに負傷したふたりは、橋の両端に退いた兵士達に監視されながら、足を引き摺って城から離れていく。
怨恨の激情に溺れるメルトの姿は、かつて反乱を起こして死んでいった両親をノールに想起させた。
ノールは考える。
これで本当に良いのだろうか。
これまでは自分も仇を討とうと躍起になっていたが、それだけでトラヴィスに勝てるのだろうか。
両親は勝てなかった。絶命する直前でさえも、憎んだ敵が滅びることだけを願っていた。実の息子に、自分達の仇を取るようにと、それだけを命じて死んでいった。
国王を倒せば、両親は喜んでくれるだろうか。
国王を倒せば、メルトの気も晴れるのだろうか。
彼女のことに思いを馳せて、ノールはわからなくなった。
ただひとつ、国王を倒さなければならないという強い思いだけは揺るがない。
だが、しかし――。
「俺は……」
何のために国王を討とうとしていたのだろう。
誰のために成そうとしていたのだろう。
答えは知っているはずなのに、確かな形としては浮かんでくれない。
迷走する中、このままでは自分もメルトも両親と同じ悲劇を辿るであろうことを、本の予言ではなく自らの勘でノールは確信した。
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