第11話

 折り重なる客引きの声、往来を行き交う人々の雑踏、どこかで起きている諍いの気配。街で最も栄えた商業区でしか耳にすることのない喧騒を、ノールは建物の二階部分から聞いていた。

 この土地に住まう者達は、同じ国民が殺された現場を目の当たりにしたというのに、自分の生活を変えるつもりはないらしい。反乱を起こす原因よりも、反乱を起こすことを悪だと捉えているのかもしれない。殺されたのは、自業自得だと。

 何もしなければ、耐えざる危害を加えられる心配はない。懸案事項からは目を逸らし、時間か誰かが解決してくれるのを待てばいい。そう考えているのだろうと、責任を放棄した当事者達を見下ろしながらノールは思った。

 だが、彼にはそれが許されない。

 ノールには、他の者とは違い逃げ出すための脱出口が用意されていないのだ。完全に閉じ込められた終焉の運命のなかでは、時間も誰も、彼を救済することはできない。

 彼と、そして彼女を救うことは不可能なのだと、絶対的な効力を有する予言書には、そう記されていた。


「……ふざけた話だ」


 つい先ほど、ノールはトラヴィスの書いた本を読み終えた。窓を開けて風にあたることで気分転換しようとしたが、鬱屈した感情は拭えず、彼は思わず呟いた。


「――ただいまっ!」


 ほどなくして、物資の買出しに出ていたメルトが帰ってくる。彼女は戻ってくるなり中央の机に置かれた本に目を向けると、それが閉じられていることで珍しく状況を察した。


「本、読み終わったんだね。何かわかった?」

「わかるわからねぇの話じゃねぇ。こいつが予言書だってんなら、読みきった以上、全部わかってなきゃおかしいんだよ」

「じゃあ、マノリアさんのことも?」

「ああ。生きてるのは間違いねぇ。つっても、どこにいるかまでは調べられねぇみてぇだがな。それ以外にも、気に食わねぇことがいくつも書かれていやがった。おめぇにも関わる話だから教えておく」


 読み終えた本には、マノリアから教えてもらった通り、ノールが実体験した過去の出来事と酷似した内容が記されていた。国王と再会すること、街で罪人が処刑されること、住む場所と家族を失うこと。それだけではなく、家を失ったノールが街の宿屋で部屋を借りることまで、明確に無機質な文章で綴られていた。

 この本に書かれた主人公とは、無論ノールのことである。ならば、時折登場するヒロインというのは、メルトを指しているのだろう。そう解釈したノールは、物語を読み終えて知った全てを、メルトにも伝えておかなければならないと思った。

 しかし彼女は、彼の意に反して首を横に振る。


「ううん。教えてくれなくていいよ。むしろ、教えないでほしい」

「まだ信じられねぇか? 俺だって信じたくはねぇが、ここには本当に起きることが書かれてる。おめぇの身に降りかかる面倒事や、事件だってな。知っておいた方がいいだろ?」

「信じてないわけじゃないよ。ノールが言うんだから、間違いないと思う。でも、あたし頭良くないし、余計なことは考えない方がいいと思うんだ。それに、これから起きることを知ったって、変えられないんだよね?」

「敵である俺に渡したままだってのは、つまりそういうことだろうな。だが、変えなくちゃならねぇ。この物語を辿って同じ結末を迎えちまったら、俺もおめぇもそこで終わりだ」

「マノリアさんが助かってることだけは、変わらないようにしないと」

「そうだな。都合が良すぎる話だが、マノリアには恩を返しきれてねぇからな。勝手に死んでもらっちゃ困る」

「うん」


 神妙に頷くと、メルトは運んできた物資の整理を始めた。ノールは椅子に座り、開いた窓から晴れ渡った空を見上げる。二人とも喋っていないと、遠くの喧騒が部屋の中まで漏れ聞こえてきた。

 どうすれば本の展開を覆すことができるのだろうか。現在までは、細かい点を除けば本の物語通りに現実も進んでしまっている。

 彼は裏表紙をめくり、最後のページに目を落とす。

 〝主人公とヒロインの国王討伐は叶わず、二人の旅はそこが終点となった。〟

 トラヴィスの余裕と現状を鑑みるに、少なくとも、何もしなければ最悪の終点に到達するだろう。抵抗に意味があるか判然としていなくとも、在りもしない抜け道があると信じて、この事態を打開しなければならないとノールは思索する。

 早速思いついた彼は、食料の詰まった紙袋を覗くメルトの背中を見た。


「メルト、さっき頼んだ物は買ってきてくれたか? ……メルト?」


 すぐ近くにいるノールの声が届いていないのか、メルトは紙袋の内側に視線を落としたまま固まっている。背中から見据えているノールには、彼女の表情は確認できない。

 しかしノールには、彼女の顔が無表情であることがわかった。メルトが突然意識を失ったように硬直するのは、これが初めてではない。昨日も呆然と虚空を見つめて静止する彼女の姿を、何度も目撃していた。

 ノールは椅子から立ち上がると、メルトに歩み寄って肩に手を置く。


「メルト、大丈夫か?」

「えっ……あ、うん。大丈夫。またぼーっとしちゃってたね」


 意識のない瞳に活力を蘇らせて、メルトが口元にぎこちない笑みを浮かべる。


「マノリアのことか?」

「うん。どうして守れなかったんだろうって。そのために、あたしは強くなったのに」

「何度も言ってるが、別に死んじゃいねぇんだ。そう落ち込まなくたっていい」

「だけど守れなかったんだよ? 孤児院だって燃やされちゃった。あたし達の帰る家を、あの男が壊したんだ」


 不器用な作り笑いから一点、歯軋りしてメルトは顔を歪める。


「あの男が、勝手に本に書いて、勝手に孤児院を燃やしてマノリアさんや子供達を傷つけた。まるで遊んでいるような気軽さで、人の大切な物を奪っていったんだ。あたしはあの男を許さない。これ以上、あたしの大切な物に触れさせない」

「……ああ」


 つい数日前まではトラヴィスへの私怨を抱いていなかったメルトは、ノールですら戸惑うくらいの強い憎しみを心に植えつけていた。

 ノールは復讐を果たす仲間を得て頼もしいと感じていたが、彼女の決意には返す言葉が見つからなかった。失敗しないと誓う彼女の身にこれから起きる出来事を、彼は既に知っていたのだ。

 やや不自然ではあったが、話を逸らすためにノールは平然とした声で尋ねた。


「ところでメルト、さっきも訊いたが、俺が頼んだ物は買ってきてくれたか?」

「ちゃんと買ってきたよ。えーと、確か、この袋だったかな?」


 床の隅に置かれた大小の袋のうち、小さい方の前に屈んで両手を入れる。

 引き抜いた手には、それぞれ数枚の紙の束と、一本のペンとインクが握られていた。ノールは礼を述べて受け取ると、机の上に紙を置いて椅子に戻る。


「気になったところをメモでもするの?」

「それも考えているが――というか、おめぇ本を見ても平気なのか?」

「そんな好き嫌いをしていられる状況じゃないよ」

「そうか。……いや、そうだな」


 くだらない個人感情を引き摺っていられるほど楽観的な事態でない。心配したわけではないが、偽りなくそれを把握しているようで、ノールはメルトへの信頼を一層強めた。


「紙はついでだ。なにかとメモが必要になってくるかもしれねぇからな。それよりペンだ。これが本に綴られた物語であるなら、対抗するには文字を書くためのペンが重要だと睨んだってわけだ」

「どういうこと? 決められた未来を、何の変哲もないペンだけで変えられるの?」

「かもしれねぇってことだ。もちろんトラヴィスだってそこまでの間抜けだと過小評価しちゃいねぇ。けどよ、奴だって人間だ。完璧に物事を運ぶことなんざできねぇよ。なら、この本をどうにかすりゃあ、結果も奴の思い通りにならなくなるかもしれねぇだろ?」

「たとえば、燃やしたり? でもそれって、あの男が無駄だって言ってなかったっけ?」

「言ってたな。あいつの提言を信用するわけじゃねぇが、嘘を吐く理由はねぇから本当なんだろう。だが、否定したのは燃やす行為だけだ。他にもいくつか、試す価値のある対策はある」

「それにペンが必要ってこと?」

「そういうことだ」


 ノールは机に置かれた本の中間あたりのページを開いて、そこから手前に数枚めくる。見開かれたページの一文を指差すと、示した箇所をメルトが見る。


「たとえば、この〝宿屋の主人が部屋を訪れ、孤児院を襲撃した盗賊の情報を入手する〟とかいう展開がある。直前で主人公達が物資を宿に運びこんでいるから、これからすぐ起きることだろうな。この程度なら物語の通りに起きても何の支障もないが、本の効力に抗えるか検証するには適当だ。だから、まずはこいつで試す」 


 インクを付けたペン先を対象の一文の先頭に移動させると、紙に書かれた文字の上から線を引いていく。一文の先頭から末尾までが縦長の取り消し線によって塗りつぶされると、ノールはペンをインクの容器に立てかけた。


「おおー! ペンで塗りつぶしちゃえば、物語の内容はわからなくなるもんね。さっすがノール! あったまいいーっ! こうやって全部の文字を消しちゃえば、本の効力はなくなるんじゃない?」

「期待はしてねぇけどな。こんな子供騙しで解決するわけがねぇ。だが、確かめてみねぇとわかんねぇからな」

「そうかなぁ? 本に書かれたことが本当に起きるなら、取り消し線でなかったことにすれば起きなくなるんじゃないの?」

「燃やしても無駄なもんを、そんな楽に覆せるわけねぇだろ。それに、俺が逆の立場だったら、そんな容易く変えられる物を敵に渡したりしねぇよ」

「そういうものなの?」

「あたりめぇだ」


 つまらないように言ったノールの瞳は、けれど鋭い。力を抜いて椅子の背にもたれつつも、緊張と淡い期待の入り混じった表情で、閉ざされた部屋の扉に目を向ける。メルトは彼の言葉に納得すると、二つ並んだベッドのうち、自分のベッドに腰を下ろした。


「あとは待つだけだが、そう時間もかからねぇだろ。失敗なら、すぐに来客があるはずだ」

「来ない方が良いんだよね? 良い方向になるよう期待しないの?」

「ああ。期待なんざしてねぇからな」


 上半身を起こそうともせず、椅子に深くもたれたまま変わらない口調で意思を伝える。メルトはノールの言葉の意味を理解できていなかったが、ノール自身に迷いが見受けられないことから、彼に任せておけば問題ないと判断した。

 それから暫く時間が経過したが、一向に扉が開かれる気配がない。思いも寄らない結果に戸惑い、ノールは椅子から立ち上がる。

 だが、前触れもなく部屋の扉は開かれた。

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