第4話

 家に戻った後、居間で話を切り出そうと考えたノールだったが、幼い子供に邪魔に入られても困るのでマノリアに部屋を貸すよう要請した。考えるそぶりすら見せずに彼女は許諾して、ふたりは部屋の木製の机を挟んで向かい合った。


「いきなりで悪いが、マノリア、こいつが何か知ってるよな?」


 道具袋に収められていた本を取り出すと、小さな机に置いてノールは訊ねる。


「え~と、これってアレだよね~? ノールが昔から持ってる本、だよね? たしか、ページが全部真っ白の」

「そうだ。けどよ、それだけじゃねぇだろ。もっと細けぇことを前に教えたはずだよな?」

「う~ん、そうだったっけ~? えぇっと~、確か、お父さんとお母さんの遺してくれた物なんだっけ~?」

「ああ。こいつは、俺が持ってる唯一の両親の形見だ」


 その本を見る度に、ノールの脳裏には両親の最後の言葉が蘇る。風前の灯となった命を燃やして伝えられた、最後の言葉を。想像を絶する深い憎しみを込めて口にした、息子に託した願望を。


『国王を殺せ』


 両親の抱いた憎悪は、仇という形に変わりノールに引き継がれた。

 死んだ父親は、本があれば国王を討つことが可能だと言っていた。しかし当時のノールには、何も書かれていない本をどのように活かせばいいのかなど、まったく見当がつかなかった。


「大切に持ってたもんね~。気を失ってたのに、全然離そうとしなかったもん」

「親の命と引き換えに手に入れたもんだからな。ましてや俺がまだガキだった頃の話だ。誰かに渡したりなんざしねぇだろうよ」

「へぇ~。あの時はそんなに大切なものとは知らなかったけど、ほんと、捨てずに一緒に持ってきて良かったわぁ~」

「その件については感謝してんぜ。あん時マノリアが助けてくれなかったら、俺はあのまま死んでたかもしれねぇからな」

「うふふ、あんまり褒められちゃうと、お姉さん照れちゃうな~」


 マノリアは頬に手を当てて、嬉しげに口元を緩めた。

 実際に、ノールはマノリアに対して返しきれないとほどの大きな恩義を感じている。

 八年前、燃え盛る都で気を失っていた幼い彼を救ったのは、他ならぬマノリアだった。もしも彼女に救出されなければ、ノールはあの日に、両親と一緒に亡くなっていたかもしれない。生き残ったとしても、今ほど不自由のない充実した生活を送ることはできなかっただろう。ノールはそう結論づけており、拾って育ててくれただけではなく、孤児院に匿ってくれた彼女に深く感謝していた。


「今さらいちいち照れたりすんじゃねぇよ。めんどくせぇな。話を元に戻すぞ」

「だってぇ~嬉しいんだから仕方ないじゃな~い」

「……続けんぞ」


 まともに相手をしていては話が前進しないので、調子を狂わせながらも、ノールは本題を切り出すことにした。


「つーわけで、マノリアも知っての通り、こいつは俺の両親の形見であり、同時に意味のわからねぇ白紙だけで構成された謎の本だった」

「ん……『だった』? もしかして、変化があったりしたのかな?」

「ああ。俺はこの本を手に入れてから八年間、ずっと肌身離さず持ち歩いてきた。気が向いた時には変わった点がないか確認もしていた。だがよ、長い間、何一つとして変化することはなかった。いつしか親父が言ってたことは偽りで、国王に嘘を教えられたんじゃねぇかって、うっすらとそう疑うようにもなった。それでも、たとえ形見の本がただの無価値な紙くずだとしても、こいつが両親の遺産であることには変わりねぇ。正直なところ、親父の言葉が真実だろうが嘘だろうが、どっちだって良かったんだ。そんな風に思えるようになってから、こいつは急に正体を現しやがった」


 ノールは自分の心境をひとしきり伝えてから、表紙を上にして置いた本をマノリアに向ける。茶色の寂しげな表紙を、彼は反対側からゆっくりとめくった。


「あら? 文字がたくさん書かれてるね。これ、全部ノールが書いたの?」

「書いてねぇよ。つーか、白紙だった時も、そいつを自分のペンで汚そうだなんて思ったことは一度だってありゃしねぇ」

「じゃあ、これは誰かに書いてもらったってこと? 都に住んでる作家さんと、お友達にでもなったの?」

「それもちげぇよ。その文字はな、信じてもらえねぇだろうが、さっき突然浮かび上がってきたんだ。気づいたら一ページ目から最後まで、大量の文字が綴られてたっつーわけだ。なぁ? どう思う? わけわかんねぇだろ?」

「すごいじゃな~い。まるで魔法みたいねぇ~」


 マノリアは喩えで魔法という単語を口にしたが、ノールはまさしくその通りだと思った。文字はトラヴィスから本を返された際に急に現れた。あの男が魔法を使ったのだとしたら、この不可解な現象にも強引ではあるが説明がつく。

 あの男――ノールの脳内で不倶戴天の敵が不気味に微笑んだ時、マノリアに仇敵との再会を伝えていなかったことに気がついた。


「そういえばよ、本とは関係ねぇんだが、さっき都でアイツと会ったぜ。あのクソ国王にな」

「ん……王様が都に来てるの?」

「どうやらそうみてぇだ。殺してやろうと思ったんだが、情けねぇことに失敗しちまった」

「またそんな危ないことして。命を狙われたのに、王様はノールを捕まえなかったの?」

「俺もしくじった時には覚悟したんだが、どうやら八年前に会ったことを覚えていたらしくてな。本に文字が現れたことに気味悪ぃほど歓喜してから、その本の一行目と同じ台詞を吐いて勝手にいなくなりやがった」


 マノリアは数ページめくっていた本を一ページ目に戻し、最初の行に視線を落とす。


「〝主人公が国王と再会を果たしたところから、この物語は始まる〟。ノールと会って、これだけ読んで帰っていったの?」

「正確には少しちげぇな。あの野郎は本を読んじゃいねぇ。ページを見ずに言ったんだ。まるで、そこに書かれた文章を暗記しているかのようにな。けど、そいつはありえねぇだろ? この本は最初から最期までずっと白紙だった。記憶しようにも、文章が存在しねぇんだから不可能だ」

「う~ん、でも、それはノールのお父さんが王様から奪ったものなのよねぇ? 詳しいことはわからないけれど、だったら王様が内容について知っててもおかしくないんじゃないかな?」

「親父が奪取する前は白紙じゃなくて、文章が書かれてたってことか? あの野郎はその頃に読んだっつーことか? そんなのありえるのかよ。突然浮かび上がってきたんだから、消えることだってあるのかもしれねぇが」


 彼の話を聞いていたマノリアが、難しそうな顔で首を少し傾げる。


「う~ん、ちょっと違うかな~? 元々書かれてたんじゃなくて、王様が書いたのかもしれないよ?」

「書いた? アイツが、自分でこの本を書いたとでも言うのか?」

「もうずっと昔のことだからノールは知らないかもだけど、王様は、王様になる前は作家さんだったみたいだよ。噂で聞いただけだから、本当かどうかは知らないけど」

「あの頭のイカれた男が元作家だと? 信じられんな。あんな狂った男が物語を書くのか? そんなの初めて聞いたぜ?」

「あまり売れてなかったらしいし、知らないのも無理ないかもね。ただ、昔は性格も普通だったって話も耳にしたことがあるよ。これも、嘘か本当かわからないけどね。少なくとも、お姉さんが子供の頃に初めて見た時には既にキマってたね~。あ、いまも心は子供なんだけど」

「頼むから早く大人になってくれ」


 「えぇ~」と惚けた返事をしながら、マノリアはわざとらしい笑みを浮かべる。

 それにしても、とノールは思う。そこまでの期待があったわけではないが、トラヴィスに作家業を営んでいた時期があったとは知らなかった。謎の中心が書物であるだけに、その事実は今回の件と関係性があるのかもしれないと推測した。

 これ以上の情報は得られないと判断して、ノールは自分の部屋に戻ろうとする。

 椅子を立ち上がりかけた彼に、マノリアは暢気な声で質問した。


「ところで、ノールはもうこの本を全部読んだの~?」

「いや、まだ最初の数ページをちょろっと読んだだけだ。さっきも言った通り、そいつに文字が現れたのはほんの数時間前のことだからな。それに、なにぶん量が多すぎる。すぐには読破できねぇよ」

「ふぅん、そっかぁ。で~も~、ノールは他にもやりたいことがあるんじゃないの~?」

「ああ。国王が都に来てんなら、それが何故なのか、奴の目的を知っておきたい」

「じゃあ、また都に行くんだね? だったら~、ついでに食材を買ってきてくれないかな~? 家にある食材が、今晩の分までしか残ってないんだよ~」

「はぁ? ふざけんじゃねぇ。遊びにいくんじゃねぇんだぞ」

「いいじゃな~い。その代わり~ノールがおつかいに行ってる間に、お姉さんが本を読んでおいてあげる。それならいいでしょ~?」


 自分の発言に間違いはないとばかりに、マノリアは自信たっぷりに提案する。

 時間がない彼にとって、それは合理的と言えた。彼が欲しいのは、本に秘められているであろう国王討伐に役立つ情報だけだ。ならば、自分自身で読むことは必須ではない。


「……そうだな。確かにそれは悪くねぇな。なら、マノリアの提案に乗らせてもらうとするか」

「りょ~か~い。じゃ、さっそく必要な食材をメモしてくるね~」


 明るい声で告げると、マノリアは部屋を出て行こうとする。


「ちょっと待ってくれ」


 その背中にノールが声をかける。彼女は不思議そうに振り向いた。


「ん~? どうかしたの、ノール?」

「一つ訊き忘れてたことを思い出した。この件については、早いうちにマノリアの見解を聞いておきたい」

「ん? ん~? お姉さんに訊きたいことって何かな?」

「ここを見てくれ」


 机の方へ戻ってきた彼女に、ノールは最後のページを開いた状態の本を差し出す。


「ちょっとノール~。これ、最後のページだよ? まさか、ネタバレすることが目的なの? いじわるはやめてほしいな~」

「ちげぇよ。俺だってネタバレは嫌いだ。普通の本ならいきなり結末を見たりしねぇよ。けどな、そいつは特別だ。つーわけだから、ちらっと最後のページを確認したりなんかもしたわけだ。まぁとにかく、そのページの最後の一文を読んでくれ」

「う~ん。なんだか残念だな~。えぇっと~――」


 マノリアは瞳を上下に動かし、指示された部分の文章を声に出して読み上げる。


「〝主人公とヒロインの国王討伐は叶わず、二人の旅はそこが終点となった〟」


 それが、八年間の眠りから目覚めた物語の結末だった。


「この結末、おめぇはどう思う?」

「う~ん……」


 マノリアは額の中心に眉を寄せて目を瞑り、珍しく悩む様子を見せる。

 この物語の主人公とヒロインは、不幸な形で終幕しているようだった。とはいえ、別段それが悪いわけではない。現実は甘くないのだ。現実に近しい世界での話を書けば、幸福な結末よりも不幸な結末になる方が自然である。重要なのはそこに至るまでの過程で、過程が素晴らしければ、結末に関わらず作品の評価は高くなるものだ。

 空想の物語に対してそういった考えを持っているノールだが、この本の唐突な終わり方には漠然とした違和感を覚えた。

 やがてマノリアが、暫しの熟考の末に口を開く。

 彼女を隠れた有識者ではないかと期待するノールに、マノリアは自分の見解を伝えた。


「悲しいなぁって。そう思ったかな~?」


 理想とかけ離れた能天気な回答に、ノールは思わず片手で頭を抱える。


「…………そうか」

「あれ~? ノール、なんだか気分悪そうな顔してるよ~? 大丈夫~?」

「なんでもねぇよ。ただ、自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしただけだ……」


 これでは、代わりに読んでもらっても有益な意見は聞けないかもしれない。

 しかし、何もやらないよりはきっとマシだろう。どうせ出かけている間は自分で本を読むことはできない。必要なら、帰ってきてから自分でも読めばいい。ノールは、マノリアがいくら読解力に乏しくとも、依頼の取り下げはしないことに決めた。


「……まぁいい。とにかく、本に書かれてる内容を全部読んでおいてくれ。俺様も、日が沈む前までには帰ってくるからよ」

「はぁ~い。じゃ、おつかい用のメモをとってくるね~」


 立ち去ろうとするマノリアを今度は制止したりせず、彼女の背中が扉の向こうに消えるのを見送る。

 主のいなくなった部屋に残されたノールは一息つくと、机の上に置かれたままの本を表紙から数ページめくり手を止めた。開いたページに、目を落とす。

 そこに書かれているのは、国王と再会した〝物語の主人公〟が、街で国王の動向を探っている場面であった。

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