第2話
その日、この物語の主人公であるノールは、都の工業区の路地裏で汚れた空気を吸いながら、標的が現れるのを壁に背を預けて待っていた。
短く切った金色の髪を逆立たせた彼の身長は高く、鋭い目つきは狙った獲物は逃さない猛禽類を彷彿とさせる。腰に巻いたベルトには道具袋をいくつも提げており、中に様々な道具を入れて携帯している。
ノールが路地裏で待ち伏せを始めてから、既に結構な時間が経過していた。だが、未だに目的の人物が現れる気配はない。
持て余した暇を少しでも有意義なものとするために、ノールは道具袋の一つから本を取り出して、いつもそうしているように先頭からぱらぱらとページをめくっていく。
それは不思議な本だった。
いずれのページにも文字は綴られておらず、何かの絵が描かれているわけでもない。最初から最後までまっさらな白紙だけで構成された本は表紙も殺風景で、題名すら記載されていない。
もはや本と呼べるかも怪しい紙くず同然の品だ。
けれども、ノールにとっては大切な宝物だった。
その本は、幼い頃に亡くなった彼の両親の形見なのだ。ゴミと貶されようとも、決して失くさないように、受け取った日から肌身離さず持ち歩いてきた。暇さえあれば開いてみて、白紙の裏に隠されている謎の究明に努めた。
しかし、八年の歳月が過ぎた今も、その本は紙くずのままだった。
大通りに続く出口から、慌てた足取りで誰かが近づいてくる。ノールは狙い通り標的が現れたことに安堵すると、本を道具袋にしまって近くの物陰に身を潜めた。
乱暴に地面を踏み鳴らす音が着実に近づいてくる。殺人鬼にでも追われているように切羽詰った荒い息遣いが、ノールの隠れている壊れた調度品の横を駆け抜けようとした。
瞬間、ノールは足元にあった縄をナイフで切断する。切り口が凄まじい勢いで上空に舞い上がり、通路の中央に巨大な網が口をいっぱいに開いて落下した。
「なッ――――!」
ノールに狙われた標的は、受け身をとることもできず捕縛された。無様に躓いて、硬い石の地面を転がる。そのせいで、網が標的の四肢に複雑に絡まった。
身動きが取れなくなった標的を、ノールは満足げな表情で見下ろす。彼の存在を目に留めると、標的となってしまった男は顔を険しくした。
「キサマッ! これはキサマがやった――ッ!」
手足の自由が利かない男が怒号を散らすより早く、ノールは彼の無防備な腹部を蹴り上げた。続けて、痛みに身体を丸める男の肩を蹴り飛ばす。
「『キサマがやったのか?』って訊きたかったのか? けっ、てめぇは馬鹿かよ。んなもんよぉ、訊かずとも少し考えりゃあわかんじゃねぇか。ちったぁ頭使えよな」
「ぐっ……キサマ、俺が誰だかわかってるのか。このようなふざけた真似をしておいて、ただで済むと思うなよ」
「くっくっくっ、あんまり笑わせんじゃねぇよ。てめぇよぉ、女にケツ向けて逃げ回ってた臆病者の分際で、よくもまぁそんなでけぇ態度がとれたもんだな」
「……いま、何と言った? 誰が、誰から逃げていたって?」
「けっ! てめぇマジで馬鹿なんだな! なんで俺様がここにいて、どうしててめぇが簡単に捕まっちまったのか。んなもん誰だってわかんだろ。せっかく頭を使えって助言してやったんだからよぉ、おとなしくその通りにしてみたらどうだ? てめぇの足りねぇ脳みそでも、そんくらい理解できんだろ。それとも、てめぇが捕まったのはてめぇがマヌケだったからとでも言うか? くっくっくっ、ま、そいつも間違いじゃあねぇだろうけどな」
これ以上の抵抗は無駄だと判断したのか、標的の男はもがくのをやめてノールをジッと睨む。ただし興奮で顔を紅潮させたりはせず、理性は保っていた。
「……なるほど。そうか。キサマ達はグルというわけか」
「けっ、どうやら最低限必要な思考能力はあるみてぇだな。つっても、捕まってからじゃあ遅すぎんだけどな」
「キサマ、俺を捕らえてどうするつもりだ?」
「なに、悪いようにはしねぇよ。俺様はてめぇのファンなんだ。な? 〝賞金首のマルティン〟さんよぉ」
ノールは鼻を鳴らしながら、道具袋の一つから似顔絵と賞金額が書かれた一枚の手配書を男に突きつける。そこに描かれた顔は、網に捕まっている人物と完全に一致していた。
「マルティン=エルドゥク。最近そこそこ名が知れてきた悪党の名だ。主が留守にしてる家に忍び込んでは金目のもんを盗み出し、人も何人か殺してる。一見すると凶悪で卑劣な性格のように思えるが、盗みを働くのは非人道的なやり方で富を築いたゲスに絞っているし、殺すのは殺人罪に問われながらも逃走を続ける凶悪犯だけだ。果たして彼は正義か、それとも悪なのか……ってか? ご立派な活動じゃねぇか」
「随分と詳しいな。それで、俺をどうするつもりだと訊いている。誰かの敵討ちか? それとも、俺の首にかけられた賞金が目当てか?」
「どちらも違う。ま、賞金がもらえるってんならそれも悪くねぇけどな。けどよぉ、さっき言ったように俺様はてめぇのファンなんだ。熱狂的な大ファンさ。そんな俺様がわざわざこんな面倒をしてまでてめぇを捕まえたのは、てめぇにある頼みごとをするためさ」
「頼みごとだと? ふん、馬鹿はキサマの方だろう。それが人に物を頼む態度か? 第一、こんな状態でまともに話し合いができるとは思えん」
マルティンはノールを見上げて嘲笑する。
ノールもまた、彼を観察しながら同じように笑い返す。
「そう心配すんじゃねぇよ。てめぇからしても悪くねぇ話のはずだ。さて、そんじゃあ本題だ。俺様の頼みごとってのはな――」
一転して表情を引き締めると、ノールは声を潜めた。
「てめぇに、国王の暗殺に協力してもらいてぇんだよ」
「……は?」
何かの聞き間違いだと言わんばかりに、マルティンは呆けた顔を浮かべる。彼の腑抜けた顔を、ノールは初めて真剣に見据えた。
「だからよ、俺様が画策する国王暗殺計画に協力してもらいてぇんだ。言ってることはわかんだろ? てめぇだって国王が好き勝手振舞うのを妨害するために、繋がりのある貴族や平民を苦しめる悪人を裁いてきたんだよな? 俺様もてめぇと同じってわけだ」
「……他に協力者はいるのか?」
「いねぇ。俺様と、てめぇがさっき戦ったあの女と、てめぇとその仲間で決行する。てめぇの犯行に協力してる仲間がいるこたぁ知ってんだ。そいつらにも協力させろ」
「俺の仲間は三人だ。ということは、キサマ達二人と俺を合わせて六人の反乱軍となるわけか」
「ああ。話が早くて助かるぜ」
目を瞑り、マルティンは思考に耽るそぶりを見せる。
「国王暗殺か……ガキのくせに、なかなか楽しいことを思いつくじゃないか。お前の推察している通り、俺もいつかは同じことを敢行しようと考えていた」
「じゃ、決まりだな」
「そうだな」
契約が結ばれたと思い、ノールは顔を弛緩させる。
目を閉ざしたままで、マルティンは静かに返答した。
「無論、キサマの誘いは断る」
「……あ?」
ノールは確かめるように、腰を落としてマルティンの閉じられた瞼を睨みつける。
「いまなんつった?」
「断ると言ったんだ。さんざん人のことを馬鹿だと罵っていたが、だったらキサマは大馬鹿者だ。俺は確かに国王を倒したいと考えているが、たった六人で国と戦おうなどという無茶な考えは持ち合わせていない」
「けっ、そんじゃ、俺様には協力できねぇって言うんだな?」
「俺にはまだやるべきことが残っている。キサマと心中してやるつもりはない」
「そうかよ。そいつは残念だぜ」
ノールは今度こそ立ち上がり、無様に横たわるマルティンを眺めた。
唐突に、ノールはマルティンの顎を靴のつま先で蹴り上げる。驚愕に目を見開いたマルティンの呻き声が、暗い路地裏に響いた。
「だったら別の方法で! てめぇには役に立ってもらわねぇとなぁ!」
「ぐっ……キサマ、用が済んだならさっさと帰ればいいだろう」
「うるせぇよバーカ!」
聞く耳を失ったノールは、幾度も容赦なくマルティンに蹴りを繰り返す。顔面、喉元、腹部、上半身を中心に、満遍なく痛みが行き渡るよう蹴り続ける。
「てめぇが腰抜けだってんなら、もうてめぇ自身には用がねぇ。俺様が興味あるのは、てめぇを痛めつけて得られる快感と、気絶したてめぇを国に引き渡して貰える賞金だけだ。だからよぉ、さっさと俺様のために眠ってくれよ。なぁ、マルティンさんよぉ!」
けれどもマルティンはノールから目を逸らさない。無力でありながら威嚇を止めない男の姿勢が気に食わず、ノールは彼の頬を靴の裏で踏みつけた。
そのうちに、互いが互いの姿以外を見られなくなる。ノールはマルティンを、マルティンはノールを。今後、因縁の相手となるであろう人物だけを、それぞれの瞳に映していた。
故に、ふたりは背後から近づいてきている人影があることに、声をかけられるまで気づくことができなかった。
ふたりのそばで立ち止まった男は、貧しい生活を強いられている薄暗い路地の住民とは正反対の格好をしていた。
「――おやおやおや、喧嘩ですか。なんとも物騒ですねぇ」
「あ?」
急に背中から鼻につく言葉をかけられたノールは、マルティンへの苛立ちを抑えぬまま声の聞こえた方を振り向く。
そこには、想像もしなかった人物が毅然と佇んでいた。
「ッ! てめぇは……!」
その人物を視認すると同時に、ノールは胸元のホルダーから素早くナイフを引き抜く。
その男は、彼にとっては殺すべき対象でしかない。
理性を捨て去って獰猛な獣となり、予告もなく真の標的に飛びかかる。
身体を反らせて振り上げた刃が、銀色の弧を描いて振り下ろされた。
殺意の終点には、露出した標的の首筋がある。
「貴様ッ! 何の真似だッ!」
しかし、ナイフを持った手は取り巻きの兵士によって阻まれた。体勢を崩したノールは二人の兵士の長槍に押さえ込まれ、身動きを封じられる。
ノールの俊敏な行動も虚しく、兵士達に守られる金色の法衣と王冠を纏う男は、たったいま命を狙われたというのに口元に楽しげな感情を浮かべていた。
「これはこれは。久しぶりに城下を見物したおかげで、興味深い民と出会うことができたようですね。命を狙われるとは、随分と久しい出来事ではありませんか」
袈裟に交差した槍を押しのけようとするが、相手の兵士は双方ともにノールより腕力があるらしく、どれだけ気合を入れても彼の体力が浪費するばかりだ。
過度の焦りに額から汗を流し始めるノール。それでも、諦めて倒れたりはしない。
ノールに恐怖はなかった。
恐怖だけは、あの日――両親を失った日に捨ててきたのだ。
もしも次の機会があるのなら、同じ失敗をするわけにはいかない。
この八年間、あの時のことを思い返さなかった日は一日としてなかった。
瀕死の重傷を負って帰還して、目の前で息絶えた父親の姿を。
無力な息子を逃がすため、囮となった母親が簡単に斬り殺された瞬間を。
ふたりが見せた最後の表情を。
ふたりが伝えた、最後の言葉を。
「トラヴィスッ! やっと会えたなッ! いますぐ殺してやるから動くんじゃねぇぞッ!」
「国王陛下ッ! お下がりくださいッ! こいつは危険ですッ!」
強行突破は難しい。だから、挑発して隙を誘う。
……それだけの策を練られる余裕があれば、あるいは不倶戴天の敵を討つこともできただろう。
しかし、ノールの脳には憤怒の炎が渦巻いているだけだった。激しい怒りは、冷静な思考を灰も残さず燃やし尽くしてしまっていた。
「ん……? おや……? おやおやおや? 君、もしかして……?」
「どうかされましたか、陛下」
退くよう勧められるトラヴィスだったが、ノールの顔を興味深そうに観察してから急に真顔になる。数瞬後、眼球を剥いて高笑いを上げて、狂ったような表情を見せた。
「ひっひっひっ! どうやら、本当に興味深い民と出会えたようですねぇ。まったく、運命とはおもしろいものです。こうして君と私が再会したということは、時は満ちたと考えて間違いないでしょう。久しぶりですねぇ、〝坊や〟」
「ど、どうされたのですか、陛下」
「その子供が腰に提げている道具袋を調べなさい。おそらく、一冊の本が出てくるはずです」
真意が不明なまま命令に従う兵士が、ノールの腰周りにある道具袋を探り始める。ジタバタともがくノールだったが、屈強な兵士達が相手では抵抗することも叶わない。
ノールは困惑していた。なぜ今頃になってトラヴィスが本を欲しがるのか、その理由に見当がつかなかったからだ。一度は奪還し、そのうえで返却されたというのに、なぜまた興味を示すのか。
理解のできない行動はさらに続く。道具袋から本を見つけて奪い取った兵士に対して、トラヴィスは「その子に渡しなさい」と命令した。一瞬だけ戸惑いを浮かべる兵士だったが、すぐさま感情を押し殺す。従順な人形となった兵士はノールの近くにやってきて、その胸元に本を差し出した。拘束していた兵士達が、ノールの腕を解放する。
「開いてみなさい。ついに、始まりの時が訪れたのです。物語がまた一つ生まれ、新たな歯車が動き出したのですよ。この話がどのような結末を迎えるか、今から楽しみで仕方がありませんねぇ。ひっひっひっ!」
手足を動かす自由が戻ったが、悔しいことに兵士に監視された現状では、トラヴィスを殺すのは不可能だ。
言われるがままにするのは癪に障ったが、トラヴィスが何を言っているのか気になったのも事実だ。最初から最後まで白紙の本を見て、どうしてそこまで感情を昂ぶらせたのか。その理由が知りたかった。
トラヴィスに指示された通り、ノールは見飽きた題名のない表紙をめくる。
そして、彼は驚愕した。
トラヴィスに従った嫌悪感に苛むわけでもなく、いつものように昔のことを思い出すわけでもなく、ただ突き抜けた驚きに硬直していた。
何年も繰り返し目を通してきた白紙の一ページ目に、小さな文字が無数に綴られている。
「ひっひっひっ! どうされたのですか? とてつもなく驚かれているようですが、なにか不思議なものでも見つけたのですかねぇ?」
トラヴィスは愉快そうに笑うが、その笑い声はノールの耳には届いていない。
彼は無我夢中に本のページを送る。
次のページも、さらに次のページも、最後のページに至るまで、ぎっしりと凝縮された文章が白紙だった本に書かれている。
まっさらだったページを埋め尽くすように、黒色の小さな文字が縦に整列されている。
「わかりますよぉ。文字が現れているんでしょう? 白紙だったはずの本に、たくさんの文字が。隠したところで仕方がありません。それは、元々私の本なのですから。何が起きているのかなど、手に取るように分かります。疑うのなら、証拠を見せて差し上げましょう。さぁ、一ページ目を開いてみてください」
催眠にでもかかったように、ノールは無意識に本を一ページ目に戻す。
ノールの反応を確認してから、トラヴィスは口元を歪めて続けた。
「そのページに書かれている最初の一文は、こうです――」
自身に怨恨を植えつけた男の声を聞きながら、ノールは本の最初の一文を目で捉える。
「〝主人公が国王と再会を果たしたところから、この物語は始まる〟」
本に書かれている文章は、淡々と言い放たれた音と寸分違わず一致していた。
再び笑い声をあげたトラヴィスは、開いたページに目を落としたままのノールに背を向ける。
平常時であれば、即座に背後から刺し殺してやろうという考えが生まれたであろう。
だが、思考をかく乱されたノールの脳裏には、剣呑な思考はよぎることさえもなかった。
「ああ、そうです。一つ、訊き忘れていたことがありました。坊や――という歳でもないでしょう。君、名前はなんというのですか?」
「……んなもん、俺様に聞かなくたって、てめぇなら調べりゃすぐわかんだろ」
「それもそうですねぇ。では、そうさせていただきます」
近衛兵を引き連れてトラヴィスが遠ざかっていく。
隊列の一番後ろでは、腕を束縛されたマルティンが兵士に連れられていた。ノールが仕掛けた網はいつの間にか取り除かれていたが、代わりに頑丈そうな縄で、背面に回した手首をきつく縛られている。
自由が封じられている状態でありながらも、マルティンは憎悪に満ちた目つきでノールを睨んでいた。
対するノールはマルティンの視線など眼中になく、先頭を歩くトラヴィスの後ろ姿だけを、澄んだ茶色の瞳に映し出している。
「また、近いうちにお会いしましょう。〝坊や〟」
路地裏の出口に向かう途中で一度立ち止まり、トラヴィスは独り言を呟くようにそう告げた。
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