アフター・ザ・ストーリー
のーが
第1話
一冊の本を胸に抱えて、ぼくは火の海を走っていた。
背後から荒々しい声が追ってくる。足の痛みも呼吸の乱れも限界を超えていたけれど、託された使命がぼくの身体を動かしていた。
父さんと母さんが殺された。
悪い王様に立ち向かったふたりは、だけど負けてしまって、ぼくの目の前で死んでしまった。
どれだけ逃げようとも、どこまでも男達はついてくる。父さんと母さんを手にかけた、国に仕える兵士達が。
抱えているこの本を捨てれば、もっと速く逃げられると思った。
けれど、これを捨てるわけにはいかない。
死の間際、平和だった日常では見せたたことのない憎しみに顔を歪めて、父さんと母さんはぼくにこう言った。
『国王を殺せ』
それが、ふたりが叶えたくて、叶えられなかった一番の願いだったのだろうか。
この本は国王の所有物だ。国王から奪ったこの本があれば国王を殺せると、そんな言葉と一緒に、父さんはぼくに本を渡した。
国王の殺害。
この世を去ったふたりには、もう叶えることのできない夢。
ならば、生き残ったぼくが必ず叶えなければならない。たとえ何年かかったとしても、それだけは為し遂げなくちゃいけない。
それが、ふたりの子供として生まれてきたぼくの義務だから。
だからぼくは走り続ける。追っ手を撒くために狭い路地を無我夢中で駆け回り、複雑に入り組んだ道の角を何度も曲がった。途中で自分がどこにいるのかわからなくなったけど、それでもとにかく足を前に出し続けた。止まれば、母さんと同じように背後から兵士に刺されると思えて怖かった。
見えざる殺気に怯えながら逃げていると、見知った広い道に出ることができた。
背後からの足音は、もう聞こえてこない。
ぼくは思わず身体から力を抜く。それから、希望の光に手を伸ばすように意気揚々と都の出口がある方角を向いた。
そして、絶望した。
そこには、鉛色の鎧兜に身を包む四人の兵士と、金色の派手な法衣と王冠を纏う男の姿があった。
男はぼくと目が合うと、髪と同じ白色の長い髭を触り、首を傾げる。
「……おや? いけませんねぇ。こんな危ないところに、幼い坊やが迷い込んでしまったようです」
すぐに逃げなければいけなかった。早く逃げないと、最悪の想像が現実に変わってしまう。
だというのに、ぼくの足は白髪の男を見た瞬間にまったく動かなくなってしまった。
何をすることもできず呆然と立ち尽くしていると、兵士のひとりがぼくの抱えている本に目を留める。
「ッ! トラヴィス様、この子供の持っている本……!」
「本? ふむ…………おや? おやおやおや! これは興味深い! 天の巡り合わせでしょうか。まさか、これほど簡単に見つかるとは思いませんでしたねぇ」
一歩でも遠くへ。半歩だけでも、彼から離れた場所へ。
背中を向けてでもいい。なによりも優先して、ぼくは逃げなくちゃいけなかった。
でも、逃げられなかった。
――どうして?
その疑問だけが幾重にも心に反響する。
ぼくの決意も、使命も、生きる意味さえも、すべてが一瞬にして消え去った。
自分が何も出来ず、何の意味もなく終わっていくのだと、ぼくはそう悟った。
目の前に、父さんと母さんを殺した国王が立っている。殺すべき復讐の対象を前にして、ぼくは立ち向かうことも逃げることもできず、ただ硬直して佇んでしまっていた。
悠然と歩み寄ってきた国王は、ぼくが胸に抱えている本を容易く取り上げると、ページをぱらぱらとめくって中身に目を通す。
しかしすぐに開いた本を閉じると、国王は髭を撫でて思考に耽る仕草を見せた。
「ふむ……意外でしたね。つまりこれは〝始まり〟ではない、ということですか。ですが、これはこれで楽しめそうです」
「この子供、始末しますか?」
「そうですねぇ。それも悪くはないですが、少々良いことを思いつきました。なので、今は生かしておきましょう」
不気味に口元を歪めた国王は身を屈め、どういうわけかぼくに奪い取ったばかりの本を返した。
――今しかない。
国王が目と鼻の先にいる。本を無視して国王の腰にある剣を奪えば、父さんと母さんの願いを果たせるはずだ。こんな機会、もう二度と訪れないかもしれない。
あまりに唐突すぎるけど、ぼくは、ここで一生分の勇気を振り絞る必要があった。
『国王を殺せ』
ぼくを育ててくれた両親の言葉を思い出す。そう口にしたふたりの憎しみの表情を脳裏に浮かべる。
――国王を殺す。
自分の願いも重ねて、その決意を更に固くする。
ここでやらなければならない。
いま、成さなければならない。
ぼくが、叶えなければならない。
…………。
……なのに、ぼくは指一本すら動かせなかった。父さんと母さんを殺した男を前にして心と身体が恐怖で凍りついてしまい、何も出来なかった。
「さて、用事も済みましたので城に戻るとしましょうか。坊や、またお会いましょう。その時がきっと、〝始まり〟になるはずですから。ひっひっひっ……」
わけのわからない言葉と気味の悪い笑みを浮かべて、国王は踵を返す。
足が小刻みに震えるのが治まらない。座り込まないよう意識を集中しているだけで、全身から溢れ出る汗が止まらない。心臓を直に掴まれているみたいに、生きた心地のしない苦しみが思考を支配している。立っているだけで精一杯だ。
だからぼくは、国王と近衛兵達の姿が見えなくなった途端に気が緩み、石畳の敷かれた地面の上に仰向けに倒れ込んだ。
――できなかった……。
言いようのない後悔に苛まれた。
けれどもそれ以上に、国王がぼくに本を返したことの意味がわからなかった。
父さんが言っていたことは嘘だったかもしれない。他人に持たれると不利になる本だとすれば、一度取り上げてぼくに返すのは明らかにおかしい。なにより、本を持っていた父さんが殺されたんだ。たぶん父さんは、国王に騙されたんだろう。
だって、この本の中身は――。
「父さん…………母さん…………」
街の至るところでは、依然として火の手があがっていた。
ぼくは自分の無力さに行き場のない怒りを覚えながら、見上げた曇り空が黒煙に汚されていく様相を、硬い地面からぼんやりと眺めていた。
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