第31話
暗闇に、粉微塵に割れたガラスと粗いコンクリート片が散乱していた。庁舎本館から地上までをショートカットした後、敷地奥の演習場に続く通路を駆け抜けた。道には動かなくなった者を除いて、敵も味方もいなかった。無惨な死骸と残酷に汚れた地面が、暗闇の奥に俺達を誘う。まるでそこが、死者の待つ冥府の入口であるように。
あと一つ曲がれば演習場に到着する。〝悪魔〟以外の敵は鎮圧されたようで、襲撃されることは一度もなかった。
最後の曲がり角を目前に控えて、行く手の角から赤色の軍服を着た男が急に現れた。男は軍隊の標準装備であるライフルを胸の高さで構えている。男の双眸は敢然としていて、引き金にかけられた指は、それが問答無用の奇襲であることを示していた。
避けなければならない。でなければ、俺はここで命を落とす。
だが、避ける必要がなくなった。
両刃の剣の先端が、ライフルを構えた敵兵の胸元から突き出ていた。背中の斜め後方から貫通した幅広の刃は、まとわりつく鮮血を地面に零しながら、暗闇で銀の光沢を放っていた。
即死した身体から異物が取り除かれる。男は仰向けに地面に倒れた。
死骸に成り果てた男の背後に、赤色の軍服を着た赤髪の男が、薄っすらと喜悦を浮かべて立っていた。
「好敵手。貴様を待っていた」
「分が悪くなったもんだから、そいつの首を手土産に俺達に寝返ろうってか?」
「冗談だろう。これは私の邪魔を働いた報いだ。手土産になるほどの価値もない」
「恐ろしい男だぜ。大切な仲間を手にかけて、何の感慨もねぇなんてな」
「元より私に仲間などいない。利害が一致していたから共闘していたまで。目的が噛み合わなくなった今、私が彼らに味方する理由はない。邪魔ならば排除する。それだけのこと」
「狂ってるぜ、お前。軍隊から――いや、国から追われることになるぜ」
「その時には、極上の刺客を差し向けてくれることを祈るばかりだな。――ああ、それはいい。軍に入隊なんかするより、軍に追われる身のほうがずっと強者と巡り合えそうだ。最初からこうしておけば良かったのかもしれないな」
俺との間合いを一歩分だけ詰めて、狂人は自嘲するように笑みをこぼした。
「違うな。やはり、それでは駄目だ。軍隊にいなければ、貴様と出会うことはなかった」
「気味わりぃこと言うんじゃねぇ。俺はお前となんざ会いたくもなかった」
「では、これは片想いか。悲しいが、それもまた悪くない。人生においては、情熱を向けられる相手がいることより、情熱を向ける相手がいることのほうが肝要であるからな」
「人生観を説いて悦に浸りてぇなら他所でやりな。そこをどけエリゴール。俺は、奥にいる〝悪魔〟の相手をしなくちゃいけねぇんだ」
「あの兵器を前にして、なおも諦めないか。称賛に値する勇気だが、貴様の勇ましい気持ちが報われることは生涯ありえない。貴様は、ここで私と戦い、ここで終わる運命だ」
「どうあっても、俺と戦いてぇみたいだな」
短刀の鞘を右手に持ち替えて、左手で青色の柄を握った。僅かに開いた鞘から銀色の輝きが放たれて、一息に刃を引き抜いた。正方形の鍔から垂直に伸びる刀身は、暗闇にありながらも怪しい光沢を帯びている。
ヘカテが一歩退いた地点で佇んでいた。この先に起こる展開を、黙って見届けるつもりのようだ。それとも、彼女は全て視たうえで、予知した通りに終息するか確かめようとしているのか。
彼女の視た未来で、俺は生きているのだろうか。
「ふむ。この時代に短刀とは珍しい。貴様は銃の扱いが得意なようだが、刀も扱えるとは芸達者だな。ますます興味が湧いた。一戦交えずにはいられない」
「腕には期待するんじゃねぇぞ。短刀のほうは、今日始めたばかりだからな」
「嘘をつくな。私にはわかる。貴様が刀を抜いた途端に、一帯の空気が変わった。それは、一つの道を極めた人間が放つ独特の反応だ。少なく見積もっても、会得までに一〇年は要する」
「お前こそ、身体から殺意が漏れてんぜ?」
「それが私の瞳にも映っている空気だ。私も伊達に一〇年以上、剣だけを極めてきたわけではない」
剛剣の剣尖を下げて、エリゴールは前方に歩き出した。足音を立てず、水面を歩くかのごとく軽やかに、緩慢とした所作で。
鏡に映る姿のように、俺もまた悠然と前に歩み出た。
対峙する男は、以前の俺が全力を賭しても勝てなかった相手だ。いや、全力どころではない。裏次元に干渉する力を解放してなお、微かな傷をつけることが精一杯だった。奴は俺を評価してくれているようだが、実力差は歴然だった。
戦えば、どちらが勝つのかは明白だった。こうして戦う運命に追いついてしまった以上、今さら結果を変えることはできない。この日で終わることもまた、俺が彼と出会った時点で確定していたことなのか。それとも、俺がニーベルングへの加入を了承した時に決まったのか。或いは、ついさっき、この場所で彼と再会した瞬間か。
無言のまま互いに肉薄する。
繋ぎ合わせたように瞳は逸らせず、一歩、また一歩と踏み出す足だけが動いている。
空気が張り詰める。特別な剣と特別な刀。エリゴールの握る長剣と俺の握る短刀に、緊迫した空気がまとわりついた。一振りすれば、周囲が蒸発してしまいそうな気さえもする。
敵が駆け出した。
長剣のほうがリーチが長い性質上、先手を打たれるのは自然なこと。自分より短い武器を持つ相手に、相手の土俵に上がって戦ってやろうなんていう奴はどこにもいない。
エリゴールが外側に剣を振りかぶる。
脳裏に胴体で肉体を分断された凄惨な死体が蘇る。あの一撃を受ければ、俺も切り離された自分の下半身を見ることになるだろう。
昨日も見せつけられた俊足の移動術。緩やかに埋められていた互いの隙間は瞬きで埋まり、余裕を浮かべた面が目と鼻の先に現れた。
視界の端から視認できない速さの一閃が振るわれる。
それが開戦の合図だった。
敵の接近に応じるため、俺は短刀を強く握り直して地面を蹴った。
俺とエリゴールの交錯は、その一回で決着がついた。
水平に構えられた剛剣は、振るわれることなく静止していた。
エリゴールの顔が肩の横にあった。野心に満ちていた彼の瞳に、もはや生きている者が持つ輝きはなかった。彼の腕は剣を握ったまま力を失った。剣尖が地面にぶつかり、鋼の衝突音が暗闇に沈む通路に反響した。
俺が左手に持った短刀の刀身が、根元から敵の腹部に隠れていた。赤色の軍服から染み出してきた鮮血が、鍔を伝って俺の手のひらを汚す。
「――――――?」
光を消失した瞳で何事かを語りかけてきたが、聞き取れる音にはならなかった。
短刀を身体から抜き取った。異物が除去されると飛沫が足元を汚して、前傾でもたれていた支えを失って、彼の身体は力なく膝から崩れ落ちた。
うつ伏せで手足を広げたまま、男は倒れた。倒れても、自慢の剛剣だけは頑なに離そうとしなかった。戦う意思だけは死んでいないようだったが、その意志を宿す肉体は既に死んでいた。
「これが俺とお前の結末だ。俺には視えていた。お前には視えなかった。それが勝敗の理由だ。悪いが俺にはやらなくちゃいけねぇことがある。ここでお別れだ」
通路でエリゴールと遭遇した時、脳裏に彼と戦う未来の映像が具現していた。
視た通りに行動した結果が、この刹那の決着だ。青色の短刀が繋げた未来の自分との同期が、敵わないはずの相手に圧勝できるレベルまで俺の能力を昇華させたのだった。
倒れた赤髪の男のそばを、ヘカテは見下ろすことなく通過した。
「先を急ぎましょう。アレスさんには、まだやることがあります」
「……ああ。ここからが、本番だったな」
前触れもなく現れた襲撃者を撃退して、破壊すべき最大の敵が待ち構える演習場への歩みを再開する。
通路の曲がり角を折れる前に、背後の空間を一瞥した。
俺を「好敵手」と呼んでいた男が、剛剣を握ったまま息絶えていた。
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