第5話

 安いビジネスホテルを彷彿とさせる六畳間に連れてこられた。調度品は簡易ベッドと小さな応接セットがあるだけだ。入室するなりリリアはベッドに身体を沈めて、俺に応接セットの安価そうなソファに座るよう促した。

 椅子に腰かけると、安物とはいえ体重を預けた心地よさに、緊張続きだった俺の心身はいくらか脱力した。


「あまり邪魔されたくはないのでな。狭いところだが我慢してくれ。本音を言えば私も結構な距離を移動してきたばかりなので休みたいところだが、君の忍耐力に免じて我慢しよう」

「んなこたぁどうだっていい。敵が迫ってんだろ? さっさと〝能力〟とやらの説明をすべきなんじゃねぇのか?」

「それもそうだ。早いところ済ましてしまうか」

「俺は何を準備すればいい?」

「何も。だが、そうだな……君はアカシックレコードを知っているか?」


 聞いたことがあるような、ないような。

 少なくとも、説明できるレベルではないことは確かだ。


「ああ、もう答えなくていい。名前だけは聞き覚えがあるって面構えだ。まあ、今はそれでいい。名前なんてのは便宜上存在しているに過ぎんからな。それよりお勉強だ。私が先ほど零した〝能力〟の概要を覚えているか?」

「未来から借りるとか、わけわかんねぇこと言ってたな」

「その『わけわかんねぇこと』が、アカシックレコードに触れてしまえば実現できてしまうのだよ」


 リリアがジーンズをはいた長い脚を組む。


「アカシックレコードというのはな、端的に解説するならば魂の記録だ。魂と聞くと肉体に宿る心を連想するかもしれないが、それは少し違う。魂は一つの存在に一つだが、肉体は寿命が尽きれば破棄されて、新たな肉体が用意される。心とは個々の肉体に宿るもので、魂とは、より上位から心に指示を与える想念だ。魂とは私達が前世と呼ぶもの、来世と呼ぶもの、過去と未来において全て同一であり、アカシックレコードには、〝魂の誕生〟から〝魂の終焉〟までの記録が既に刻まれている」

「……わりぃが、お前が何言ってるか全然わからねぇんだが」

「これでも噛み砕いたのだがね。要は、君の知らない世界に、君の現在過去未来、前世や来世までの情報が保管されているわけだ。君にはこれから、君自身のアカシックレコードを閲覧してもらう。――私の瞳を見ろ、アレス」


 依然として彼女が何をさせようとしているか、見当すらついていない。

 しかし、その有無を言わせぬ毅然とした命令には、妙な強制力があった。

 自然と俺は、対面にある透明な瞳を眺めていた。


「アカシックレコードを閲覧するには、現存する全ての魂の記録が管理されている殿堂――|裏次元(アカシャ)に意識を移行せねばならない。この裏次元に意識を飛ばす工程が容易ではなくてな、自力で叶えたのは私以外だと一人しか知らない」

「じゃあ俺にだって無理なんじゃねぇのか?」

「自力ではな。そこで私の出番というわけだ。アカシックレコードは個人の記録であるが故に、元来他人の介入は許されない。だが、私のように裏次元の構造を把握した者であれば、相手が入口さえ開いていれば例外的に対象者の記録に干渉することができる。その際に、侵入された側も強制的に裏次元に意識が移行するのだ。今回は、君の瞳を入口とさせてもらう。瞳は魂の玄関口でもあるからな」

「つまり……俺は気を失うのか?」

「そうなるが、憂慮することはない。裏次元には時間の概念がないからな。それ故、途方もないほどの過去と未来の記録を管理できるわけだ。時間の概念がない以上、現実で意識を失っている時間は実質ゼロ秒なのだから、第三者による知覚も倒れる心配も不要と考えていい」

「なんか頭が痛くなってきたな……」

「上出来だ。これだけの説明で理解した気になってもらっても困る。昔から言うだろう? 結局のところ、未知を知るにはあれこれ考えるより体験すべきということだ。――では、飛ぶぞ」


 下された号令には、どういった心持で応じるべきか。


「私を見ろ、アレス」


 その一言は、音でありながら鋭利な輪郭を帯びていた。

 空気に捕縛されたかのように、肉体が自由を失う。

 指先さえ微動だにできず、瞬きを禁じられた視界が固定される。瞳が映す景色には別の瞳。合わせ鏡のごとく、水晶体の奥で相互の全貌が無限に連なる。

 無限の果てに、見覚えのない鮮やかな青色を見た。

 一瞬にも満たない刹那、活動していた意識が断絶する。

 それが気絶ではないと気づいた時には、俺の意識は別の世界に立っていた。

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