第16話

 駐車場は夜の海に沈んでいる。照らすのは点在する電灯の微弱な明かりのみ。

 薄暗闇に長い髪を溶かして、シュウの姉のルームメイトは両手の拳を握り、顔色をまったく変えずにいるハルカに一歩近づいた。


「お姉さま……寮に戻ったら皆さんがお姉さまが帰ってきたと噂しておりまして、色んな方から情報を頂いてお待ちしておりましたが……本当に、本当に……本当に、お姉さまなのですね……!」


 下唇を噛んで平然と喋ろうとしていたが、数秒ももたなかった。

 口元を手で押さえたカナデは、かろうじて聞き取れる泣き声で感激を伝える。丸々とした大きな瞳から、止め処なく涙が溢れていた。


「勘違いするな。オレはお前の知ってる奴じゃねぇ」


 嗚咽に震えていたカナデの肩が固まった。


「ちょ、ちょっとハルカっ! もう少し言い方ってものがあるでしょ!」

「知るか。お前はオレが姉のフリをしてくれると期待してたのか? この身体を借用してる現状を嫌悪してるはずのお前が」

「そうじゃないけど……でも、奇跡が起きたと思っちゃうのはしかたないでしょ?」

「奇跡には違いねぇだろ。お前達の期待する内容じゃねぇってだけでな」

「それは、そうなんだけど……」

「ぐずぐずしてんじゃねぇよ。そんなにそいつが気になるなら、気が済むまでお前が相手をしてやれ。オレは車で待っててやる」


 吐き捨てるようにいうと、ハルカは車のそばで立ち尽くすカナデの横を素通りして助手席のドアに手を伸ばした。


「ま、待ってくださいっ!」

「あァ……!?」


 ハルカの姿を視線で追いかけ、カナデは声をかけた。

 ドアを半開きにした状態で、ハルカは声の聞こえた方角に険しい眼光を飛ばす。殺意にも似た感情をはらむ鋭利な瞳に、カナデの表情が引きつった。


「わ、わたくしだってわかっておりますっ! この目でお姉さまの亡骸を見ましたから。ですが……ですがっ! それではあなたはいったい何者なのですかっ! 髪型と喋り方以外、顔も身体も声も服装も、全部お姉さまと同じじゃありませんかっ!」

「髪型と喋り方が変わりゃあ別人と呼ぶには充分だろ。詳しく知りたけりゃあお前の後ろにいる“弟”に伝えろ。オレはお前と喋る話題なんざ持ち合わせちゃいない」


 面倒を押しつけるようにいって、ハルカは助手席に乗りドアを閉めた。

 感情の昂ぶっていたカナデはハルカと話すことを諦めたのか静かになり、背後にいるシュウへ振り向いた。

 カナデには軍人とは思えぬ気品があった。おそろく戦争勃発によって不本意に徴兵されたのだとシュウは思った。

 そう思いながら、彼女の容姿を見た自分の鼓動が早くなっているのを感じた。


「弟……あなたが……」


 潤った艶やかな唇が動く。


「お姉さまから度々お話を聞きました。今朝お姉さまの遺体を持ち出したのもあなただと噂で耳にしましたが、本当ですか?」

「え、まぁ、そうですが」

「お名前はシュウ=カジさんですよね。教えてください。あの方はあなたの姉なのですか?」

「違います。いえ、違うと思います」

「それなら、あの方はハルカ=カジではないのですか?」

「それは合ってるみたいです。名前は肉体に付けられるもの……らしいので……」


 いってすぐ、シュウは失言だったと後悔した。

 自分がハルカに質問した際の回答をそのまま伝えてしまったが、これでは余計混乱するのは明白だ。

 だが訂正しようにも、もっともらしい嘘は彼の頭に浮かんでくれない。

 案の定カナデは怪訝そうな目をシュウに向けた。

 彼女は再び車に振り返り、閉められた助手席のドアを開け放った。ドアには鍵がかけられておらず、ハルカは首だけ動かして駐車場に立つカナデを見下ろした。


「……なんだ? 会話は聞こえてたぜ。そいつがいってるとおりだ」

「お姉さまの美しい髪をどうされたのですかっ!?」

「髪ぃ? んなもん見りゃあわかんだろ。邪魔だから切ったよ」


 質問したカナデは、返ってきた回答に目を剥いた。


「なんてこと……私だけではありません。多くの同期や後輩がお姉さまの黒髪に羨望して、見た目だけでも近づきたくて真似してたのですよっ!」

「お前のそれはこいつを真似てたってわけか。幸か不幸か、こいつは真似されてるとは気づいてなかったみてぇだぜ」

「そんな……いえ、どうしてあなたにそんなことがわかるのですか! あなたは別人なのでしょう!?」

「そうだぜ。だが記憶は受け継いでるんでな。こっちは吉報だが、こいつはお前に対して悪くない感情を抱いてたようだ」

「なっ……いえ、そんな……っ」


 喜んでいるのか怒っているのか不明瞭な表情をカナデが浮かべる。


「ま、オレ個人としては、外見だけ真似て成長した気になるなんざ馬鹿の所業としか思えねぇがな」


 カナデの顔が明瞭な怒りに染まった。頬がやや紅潮しているが、顔立ちが整いすぎているせいか、いまいち迫力に欠けていた。

 興味失ったようにハルカは彼女から目を逸らして、背もたれに重心を預けた。

 カナデの顔色がますます赤くなる。いまにも車に乗り込みそうだ。


「あ、あなたが何者か存じませんが、お姉さまの容姿であるならばお姉さまのように高貴に振舞うべきですっ! その野蛮な物言いは正してくださいっ!」

「なんだそりゃ。そんなのはオレの勝手だ。お前に指図する権利はねぇ」

「それならせめて『オレ』という一人称をやめてくださいっ! お姉さまの一人称は『わたし』ですっ!」

「知ってるよ。それで、変えたらオレに得があるのか?」

「私が気に入りませんっ! あなたの行いは、全部お姉さまへの冒涜ですっ!」


 一際大きい声が夜気にのって暗い空に響いた。

 カナデの呼吸は興奮に激しく乱れている。

 ハルカはカナデを一瞥して、無言のまま助手席を降りた。カナデは一歩後ずさったが、彼女に対する注目はやめなかった。


 また暴力で解決するのかと警戒したが、ハルカはカナデに手をあげたりはしなかった。

 短髪の裾を微かに風に揺らして、ハルカは車のフロント側から運転席に回った。

 途中立ち止まり、硬直しているシュウの姉のルームメイトを横目で見た。


「失せろ。お前の探してる奴は世界の裏側までいったところで見つかりゃしねぇよ。理解できねぇなら一生そこで現実を否定してろ。それがお前のやりてぇことなんだろ」


 反論はなかった。

 沈黙して佇立するカナデに構わず、ハルカは運転席に乗り込んでドアを閉めた。

 エンジンがかかった。口を挟めずにいたシュウの喉が動き、運転席の横に駆け寄ってハンドルを握る彼女を見上げた。


「ちょっとハルカっ! どこいくつもりだよっ!」

「作戦時間まで暇だから防衛線の様子を見に行くんだよ。敵が襲ってきてたら少しは楽しめるだろ。お前はそこのめんどくせぇ女の相手でもしてやれ」

「寮にはどう帰ればいいんだよっ!」

「その女が乗ってきたやつがあるんじゃねぇか? 何度もいわせるな。少しは考えて発言しろ」

「車で来たんじゃないかもしれないだろ!」

「だとしたら歩いて帰れる距離ってことだ。もういいだろ。あとは自分で考えろ」


 エンジン駆動音が大きくなり、タイヤが猛烈に回転してトラックが急発進した。

 駐車場の敷地内から脱出した車の赤いリアライトが瞬く間に遠くなっていく。シュウの姉も車の運転はできたが、ハルカの運転技術は彼の姉とは比較にならないほど上手かった。

 置き忘れられたように、薄暗い夜の駐車場にふたりは取り残された。

 先ほど意思疎通に失敗したこともあり、シュウは第一声をどうすべきか迷っていた。ハルカの愚痴でもいおうかと思ったが、会ったばかりの相手と他人の悪口をいいあうのは嫌だった。

 カナデは放心状態だった。何もない空間を呆然と見つめたまま、微動だにしない。

 放って帰ることもできたかもしれないが、シュウはその選択ができるほど冷徹ではなかった。


「……あの、カナデさん。ここへはどうやって来たんですか?」


 反応がない。

 シュウは彼女の正面に回った。


「ここにいてもしょうがないですから、まずは寮に戻りませんか?」


 どこを見ているのか判然としなかったカナデの焦点が、目の前のシュウに合った。

 半開きだった口元が一旦閉ざされ、彼女は唇を舐めた。


「……どうして、そんなに平気なんですか?」

「え……?」


 軽蔑の込められた一言だった。予想しなかった反応に、シュウの頭は真っ白な闇に覆われる。


「お姉さまが亡くなった日、わたくしは一晩中枕を濡らしました。一生分の涙を流して、もう明日からは泣かないようにしようと、お姉さまのように強く生きていこうと、そう決意しました。あのお姉さまと同じ容姿の方がどなたか存じませんが、粗暴な立ち振る舞いはお姉さまを汚しているようで許せません」

「彼女は姉ちゃんとは別人だから。気にしなくていいですよ」

「それがおかしいのだと、わたくしはいっているのです。どうしてそう簡単に受け入れられるのですか? あなたもお姉さまを大切に想っていたのでしょう? 家族の死に涙を流したのでしょう? お姉さまとの思い出が踏みにじられているように感じないのですか?」


 問いかけるカナデの声は震えていた。

 シュウにも彼女のいいたいことは理解できる。

 だが、答えることはできなかった。

 “ハルカ”を容易に受け入れた理由を説明する言葉がわからないからだ。

 彼に答えられるのは、姉への想いについてだけだった。


「……姉ちゃんが死んだことで、僕は涙を流してなんていません」


 カナデは息を呑んだ。張り詰めていた雰囲気がその色を変える。


「僕もカナデさんと同じです。小さい頃から、優秀な姉ちゃんを誇りに思ってた。戦争が始まって軍隊に志願したのも、姉ちゃんのようになりたいって思ったからなんです。追い続けていれば、一人では何もできない自分が、何でもできてしまう姉のように変われると思ってました。

 姉ちゃんが戦死した報せが届いて泣きそうになったとき、昔と全然変われてないことに気づきました。だから強くなる一歩として、涙は流さないことに決めたんです」


「……お姉さまの亡骸を持ち出したのは?」

「ずっと守ってもらってた姉ちゃんに恩を返したいと考えたら、故郷で魂を供養しようと決心してました」

「デイジーの花で、ですね」

「姉ちゃんから聞いたんですね。姉ちゃんは平和の花であるデイジーが本当に好きで、岬にある群生地帯でよく寝転がってました。本当に小さい頃の話ですけど。最後の瞬間はデイジーに囲われたその場所で迎えたいともいってました。こちらは軍隊に入ってから聞いたことです」

「危険を冒して故郷に戻ったのは、お姉さまの最後の夢を叶えるためだったのですね」


 カナデのシュウに対する態度がやわらかくなった。無断で亡骸を持ち出したのは私欲のためでなく、姉を想っての行動だったと誤解を解いてくれたようだ。


 だから、シュウはいいだせなくなった。

 本当は、ただ死を待つくらいなら姉と一緒に故郷で永遠の眠りにつこうと思っていたことを。

 見栄を張っていた。浅はかだが、姉と親しかった人物に知ってもらいたかったのだ。

 ハルカ=カジは、家族からも慕われる素晴らしい人物だったのだと。

 彼女と過ごした時間を、自分と同じように誇りに思ってほしかった。

 和やかな空気になり、ひとまず寮までは楽しく会話でもしながら歩ける。シュウはそう期待したが、一度は軟化したカナデが眉間に皺を作った。


「それでは、なおさら憎いのではないですか」

「ハルカが、ですか?」

「命を懸けて願いを叶えたのに、安らかな眠りにつこうとしたお姉さまを邪魔しているのですよ? その、あなたが『ハルカ』と呼ぶ存在は」

「……難しいですね。僕はハルカがいなければ、リベックには帰ってこれなかった。最初はカナデさんと同じように思ってましたけど、命を救われた以上は彼女の存在を全否定する気にはなれない」

「ほんとうに生きて帰ってきたかったのですか?」


 核心に触れる指摘に、シュウは言葉に詰まった。

 動揺する彼を丸々とした瞳に映して、カナデはかぶりを振った。


「……失礼しました。そんなこと、お姉さまが望むはずないですよね」

「……そうですね。姉ちゃんなら、生き延びてほしいと思ってくれるはずです。みんなを救うために軍人に志願したくらいですから」


 眉尻を下げ、カナデは悲しげな顔で微笑んだ。存命だった頃のルームメイトとの思い出を脳裏に蘇らせているらしい。

 それは幸せな日々だったのか。言葉で確かめる必要はなかった。

 長い髪を揺らして、カナデは駐車場の出入口の方角に振り向いた。

 シュウが彼女に声をかけようとすると、歩き始めたばかりの彼女の足が止まった。背中を向けられた状態で、カナデの声が夜気にのって届く。


「お姉さまは怒るでしょうが、それでも、わたくしなら……」


 呟いたあと、カナデはシュウの反応を確かめるように振り返った。

 カナデは儚げな微笑みを浮かべていた。


「何でもありません。シュウ=カジさん、今夜は話せて楽しかったです。お姉さまのためにも、最後まで生き延びてくださいね。わたくしも明日の作戦での無事を祈っております」


 表情を変えずにそういって、カナデは靴音を立てずに遠ざかっていった。

 今夜、カナデは一度も楽しそうな顔をしなかった。

 放っておくのは心配だったが、一人になりたいと暗にいわている気がして、彼女についていく気になれなかった。

 小さくなっていく自分の姉と似た後ろ姿を、駐車場の真ん中に佇み黙って見送った。

 その後ろ姿は、二日前の死体埋立地から立ち去るシュウの姿にもよく似ていた。

 姉の亡骸を初めて目の当たりにしたあとの、何かを決意した彼の姿に。

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