第28話

 教室では常に無表情な彼女だが、親密になってからは種類豊かな表情を見せてくれるようになった。

 彼女の本当の顔を誰よりも知っている俺だが、その俺ですら初めて目の当たりにする情けない泣き顔で、地面に膝をついたまま彼女は俺を見上げていた。


「なんで……? どうして……?」

「それはこっちの台詞だ。時間を巻き戻せなかったらお前は死んでた。どうして飛び降り自殺なんてしたんだ」

「見てたの……? 覚えてるの……?」

「お前が見せたんだし、お前が覚えさせたんだろうが。いや――少し違うか。お前が屋上にいく度に、扉の外で様子をうかがってたのは俺だもんな」

「扉の外……まさか、この三ヶ月の間、ずっと私を見てたの?」

「そう直接的にいわれると恥ずかしいけど、そういうことになるな。はぁ……これじゃあもう、どっかのネジが飛んだストーカー女の悪口はいえないか」

「五十嵐零音のことも……」


 崩れた顔で唖然とする亜里沙。

 どこか噛み合わない会話をするうちに、俺は彼女と自分の見解にある齟齬の原因に見当がついた。


「その……私と過ごした記憶はなくなったんじゃなかったの?」


 縋るような、願うような声で紡がれた言葉に、俺は自分の考えが的を射ていることを確信する。

 いつも想像もつかない突飛な提案で楽しませてくれた亜里沙だが、ここにいる衰弱した彼女の思考を読むのは、ずっと彼女を観察し続けた俺にとっては容易かった。


「ようやく繋がった。亜里沙はあの日――俺が同級生をフった時間より前にタイムリープすれば、俺が亜里沙を意識した事実も消滅して、同時に俺の記憶からも巻き戻した時間の思い出が消えると思ったんだな」

「そうだよっ! だって、実際に、修平は私を無視したじゃんっ! あれって私と過ごした時間を忘れたからじゃなかったのっ!?」

「無茶いうなよ。こっちは初めて好きになった人にフられた直後なんだぞ? おまけに過ごした時間を白紙に戻されたんだ。そんな苛烈に拒絶された相手に、どう声をかけろっていうんだよ」

「…………私を素通りしたのは、話かける勇気がなかったからってこと?」

「おいおい、人のこと痛烈にフっておいて『勇気』はないだろ。こっちは初恋が失敗したんだぞ?」


 口を半開きにしていた亜里沙は、段々と頬を紅潮させて、額に焦燥を浮かべた。


「ま、まってっ! そもそもなんで覚えてるの? 私は試したことだってある。私を意識する以前まで遡れば、タイムリープしていた頃の記憶はなくなるはず……っ!」

「それは本当なのか? 確証があるわけでもないんだろ?」

「そ、そうだけど……。でも……私の友達は、実際に…………」

「わかった。いわなくてもいい」


 精神が弱りきっているのか、過去を回想しただけで亜里沙はまた瞳を潤ませた。

 俺には確かなことなんてわからない。タイムリープ能力の仕様なんて、なんの特別な能力ももたない普遍的な人間の俺にわかるはずもない。

 仮に、彼女の見解が正しかったとしよう。

 しかしそれでも――


「――そうだとしても、やっぱり俺の記憶は消えなかったのが正しいけどな」


 俺が彼女のことを忘れる理由にはならなかった。

 合点がいかず、またも呆然と俺を見つめる彼女に、

 俺は、今日まで彼女に隠してきたことを白状することにした。

 それを伝えずして、誤解を解くことはできそうになかったから。


「実はな、亜里沙。俺がお前を意識するようになったのは、〝あの日〟じゃないんだ」

「……どういうこと?」

「そのままの意味だ。俺は、亜里沙に夕焼けの路地で声をかけられる前から、亜里沙のことが気になっていたんだよ」


 思い出すのは、三年生に進級した初日。桜の舞う校庭のみえる教室で、俺の前の席には地味で近寄りがたい雰囲気を醸した女子が座っていた。


「斎藤亜里沙っていう女子がどういう奴なのか、充に聞いたら教えてくれた。誰とも仲良くしているところを見たことがないってな。暗くて地味な変わり者。腫れ物に触るって感じでもないけど、クラスの連中は、亜里沙のことをまるで教室の調度品の一部のように思っていた」


 周りでどれだけ騒いでいようと、距離を置いて興味すら示さない。高校三年ともなれば新しい友達を作る気もおきないのか。あえて彼女に近づこうとする者もいなかった。


「でもな、俺にとってそれは特別だった。恋愛に勉強に部活に学友。学校には興味を惹くものがいくらでもあるのに、いずれにも興味がなさそうな亜里沙のことが、俺は気になってしかたがなかった。こいつは他の奴らとは違う。俺が恋愛に対して周りとは一線を画した考えを持っているように、こいつも特異な感情を胸に抱いてるんじゃないか。そう勝手に妄想したのが進級初日だ。まぁ蓋をあけてみれば、俺の妄想は空想なんかじゃなく現実で、特別だと信じていた自分の恋愛観は、似たように考えてる奴が何人もいた普通の観念だったんだけどな」

「つまり、修平が私を意識したのは……」

「そういうことだ。同じクラスになった日の登校時間まで戻せば、亜里沙と過ごした記憶は全部消えたかもしれないな」


 ――もっとも、高校三年で同じクラスに配属される運命を変えない限り、何度繰り返しても俺は亜里沙を見つけるだろうが。


 本当に巻き戻されても困るので、それだけは黙っておくことにした。

 それより、もっと大切なことを、俺は亜里沙に伝えたかった。


「先にいっておくけど、もう時間を巻き戻すなよ。正解を知っているといっても、充と南さん、立石と五十嵐さん、高橋くんと河合さんの恋愛を陰でサポートするのは相当に骨が折れたんだからな」

「……? 彼らは、自然と結ばれたんじゃなかったの……?」

「そんなわけあるか。恋愛がそんなに簡単じゃないことは、亜里沙が一番知ってるはずだ。亜里沙が時間を遡った回数、その長さがどれほどなのかは知らない。けれど、一人で活動していた頃は、気が狂いそうになるくらい同じ時間を過ごしてきたんだろ? それだけ失敗を重ねたのは、それだけ恋愛が思いどおりにならず、複雑だからだ。複雑だから、何もせずに成立するはずがないし、どう足掻いたって叶わない恋愛だってあるかもしれない」


 俺は彼女ほど他人の恋愛を見ていない。

 誰よりも真剣に考えているつもりの恋愛観も、彼女のそれには及ばない。

 俺の恋愛観はズレているのかもしれない。何もしなくたって成り行きで恋人同士になることはあるかもしれないし、叶わない恋愛なんて存在しないのかもしれない。

 結局のところ、正解なんてものは誰にもわからないのだと思う。

 それでも――


「――それでも、たとえ叶わない恋愛だとしても、たった一度の失敗で諦められるようなら、そんなのは恋とは呼ばない。一時の気の迷いが引き起こした幻想だ。本当に好きになったら、一度フられたくらいじゃ吹っ切れないらしいからな」


 自分のなかに相手を想う気持ちが残っている限り、諦めるのは間違っていると断言できる。俺は彼女を好きになり、その答えに至った。

 亜里沙は何かを悟ったように、俺を見上げる瞳を大きくした。

 俺は砂で汚れた床に腰をおろして、座り込んだままの彼女に目線を合わせる。

 彼女の視線は屈む俺の動作を追って、最後には俺の視線と交錯した。


「これで最後にする。駄目だっていうなら、俺も素直に諦める。時間はかかるかもしれないけど、亜里沙に嫌な思いをさせるくらいなら、そっちのほうがマシだしな」


 彼女は相槌も返さず、俺から目を逸らさないよう見つめている。


「俺じゃあ役不足だっていうなら、お前の隣が似合う男になってみせる。これにも時間が必要かもしれないけど、絶対に果たしてみせる。分不相応だといわれようが、俺は決めたんだ」


 相手が彼女でなければ、こうしてフられた相手の前に立つことはなかった。

 彼女を好きになったから、もう一度気持ちを伝える勇気を得られた。

 それは、

 

「〝叶わないはずの恋愛〟を叶えて、亜里沙を幸せにするってな」


 他でもない亜里沙本人に、そう誓っていたからだ。


「亜里沙。お前に、俺の恋人になってほしい」


 その言葉で告白を締め括り、俺は彼女の瞳から逃げずに返事を待った。

 亜里沙は硬直して一切視線を動かさない。三つ編みだけを微かに揺らして、俺をジッと凝視している。

 ひとつだけ、普段の彼女とは違っている箇所があった。

 いつもは乾ききっている彼女の澄んだ二つの瞳。

 ガラス細工のように綺麗な色をした、その両端から――

 呆然とした表情のまま、一筋ずつ涙が流れていた。

 固まっていた小さな唇が、小刻みに震えながら動く。


「……フれるわけ、ないよ。だってこれは、私が叶えたかった恋だから」


 こぼれる雫を拭おうともせず、彼女は弱々しく言葉を紡ぐ。


「私こそ、修平の期待に答えられないかもしれない。恋愛はたくさん見てきたけど、自分でしたことはないから」

「自信がないのは俺も同じだ。それに、その点は問題ない。俺と亜里沙は、一緒に恋愛を叶える相棒同士だろ? 足りないところは互いに補いあえばいい。そうじゃなかったのか?」

「――――」


 俺としては当然のことをいったつもりだが、彼女は思いのほか驚いた顔をしていた。

 彼女には申し訳ないが、誰よりも彼女が知っているはずの話を聴いて泣きながら驚愕する姿は、俺にはなんだか滑稽に映った。頬が思わず緩んでしまう。


「なに驚いてんだよ。そもそも、俺を相棒に選んだのは亜里沙じゃないか」


 忙しなく表情を変化させている彼女が、またも驚いた眼差しで俺を見る。

 それも一瞬。

 寸秒だけ目を瞑って俯いた彼女が次に顔をあげたとき、彼女の瞳から溢れていた感情は静まっていて、浮かべていた表情には、

 俺と二人でいるときにだけ見せてくれた、俺の好きな朗らかな笑顔が咲いていた。


「ふふっ。そういえば、そうだったね。先に選んだのは、私のほうだった」

「先にみつけたのは俺のほうだけどな」

「そうだね」


 亜里沙は立ち上がってスカートの汚れを手で払い、西の空に沈もうとする夕日を眺める。

 俺も立ち上がり、夕日を背景に佇む亜里沙の背中を見据えた。


「――修平。私からも、伝えたいことがあるの」


 振り返った亜里沙が、茜色の世界の中心で俺と向きあう。

 こんな夕暮れの景色のなかで、俺と彼女の関係も始まった。

 けれどもそれは単なる偶然で、この瞬間にこそ、茜色の景色は似合う。


 ――きれいだな。


 純粋な感想を心中でこぼす俺を見つめて、

 本来は、物事の終わりを比喩する黄昏の時間に、

 


「――私と、恋人になってくれますか?」

 


 斎藤亜里沙は、〝叶わないはずの恋愛〟をしていた少女と決別した。

 それは、俺の〝叶わないはずの恋愛〟が結ばれた瞬間でもあった。

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