第26話

 脳裏に浮かべたのは、学校帰りの狭い路地を染める茜色。夕焼けの彩る人の気配の薄い道で、誰かの怒りをはらんだ声を聞いた。


「――帰れっていってんだろうがッ!」


 目の前にある角の先から聞こえてきた声に、私は死角をつくっている民家の陰から顔をのぞかせる。

 そこでは、直前まで怒っていたはずの佐藤修平が、困惑した様子で佇んでいた。

 あの日と、同じように。

 私は迷った。咄嗟に大幅な時間遡行を発動して、彼との関係が始まった日に戻ってきてしまったが、彼がまだタイムリープ前の記憶を保持している可能性は否めない。

 私と接点のなかった彼が、どうしてタイムリープ前のことを覚えていられたのか。その理由に見当はついていても、確証はない。推論した仮説に従って、彼の記憶から私が消えるように図り、この日、この瞬間に時間を巻き戻しただけだった。

 迷った末に、私は路地の角を曲がった。

 すぐそばに、夕日色に染まった修平の背中があった。

 私は声をかけることもできず、足音を立てることもできず、黙って彼の後ろ姿を眺める。

 不意に、修平が振り返った。

 彼の視線が私を捉えて、興味深そうに目を丸くされる。

 私の脈動は急速にはやくなる。

 一瞬で、とりとめのない色んなことを考えた。なかでも一番に脳裏を駆け巡ったのは、実はまだ記憶を保持している彼が、制止を無視して無理矢理に時間を巻き戻した私に、凄絶な怒りを抱いている可能性だ。

 私の悪い予想が的中していた場合、私がとるべき手段はただひとつ。

 彼の記憶から私が消えるまで、より昔にタイムリープする。同じ時間を何度も繰り返すのは苦痛だが、修平に近づいたのは私自身の判断で、自分で撒いた種と知れば、文句を垂れる資格はない。

 愕然としていた表情に平静を取り戻して、修平が私のほうに歩み寄ってくる。

 私にとって重要なのは、私の存在が彼の記憶から抹消されること。彼と親密になるきっかけをなかったことにすれば、それは可能なはず。

 本当は、最初からこうするつもりだった。彼から荻野玲子をフった理由を聞いたら、タイムリープで記憶を消して、ふたりが結ばれるよう図ろうとしていた。

 記憶抹消の成功を信じていながらも、失敗を憂慮せずにはいられず、私は再びタイムリープする準備を整える。

 遡行した先の情景として浮かべたのは、今日から数えて一日前の放課後――授業から解放された喧騒に包まれる教室の全容――。

 しかし、思い浮かべた想像が現実になることはなかった。

 私から興味を失ったらしい彼は、声もかけずに呆然と立ち竦む私の横を素通りして、自宅のある方角に淡々と歩み去っていった。

 未練がましく彼の遠ざかる背中と沈んでいく夕陽を瞳に映して、周囲の景色とは対照的に心が色を失っていく。

 私は、それで確信した。

 佐藤修平の記憶から、斎藤亜里沙との思い出のすべてが喪失したことを。

 別れの挨拶は済ませたつもりだったが、もう交わることのない男の背中に、私は、自分が選んだ別離を惜しむように呟いた。


「私も、好きだったよ」


         *

         

 それからの日々のことは、あまり覚えていない。流れるままに時間は未来に進んで、私を置き去りにして季節は春から夏に変わった。

 桜が散って、梅雨が明けて、制服が冬服から夏服に変わっても、私の日常は何も変わらなかった。

 修平とは毎日顔を合わせた。クラスメイトで後ろの席にいるのだから、それは自然なことだ。

 けれども会話はしない。

 授業の一環で資料をまわすことがあって、その度に私は内心で破裂しそうなほど心拍数を跳ね上げたが、彼は淡白に機械的な挙動で応対するばかりだった。

 修平の交友関係は、以前と大差がなかった。これは不思議なことだ。私と関わらなかったのに、彼の親友である岡崎充はクラスメイトの南千佳と結ばれて、最も親しかった仲間を失った彼は、まもなく立石浩二と共に昼食を摂ったり頻繁に雑談するようになった。教室の外では、ふたりが別のクラスの五十嵐零音を交えて雑談してる場面を目撃することもあった。修平が廊下で下級生の河合理恵、高橋裕樹と笑いあってることもあった。

 それが不思議でしかたなかった。

 修平を裏切って以来、私はタイムリープ能力を一度も使っていない。なのにどうして、私や修平が必死になって成就させた〝叶わないはずの恋愛〟が、手助けしなかった世界で同じように叶っているのか。

 答えは、一つしかなかった。

 私が他人の恋愛を叶えていたのは、強すぎる恋愛欲を満たすためだ。自分では恋愛できない私にとって、それ以外に欲求を鎮める手段はなかった。

 恋愛について誰よりも考えた私は、誰よりも恋愛が怖くなった。

 私は修平に『人を好きになれない』といったが、正確にはちょっと違う。

 私は、人を好きになれないのではなく、人を好きにならないようにしていただけだ。

 だから、好きになってしまった。

 タイムリープ能力の性質上、友達すら作れずにいた私は、誰かと友達になるきっかけを探していた。私が友達を作るには、タイムリープ能力の影響を受けないことが最低条件で、それは実質的に不可能ともいえた。案の定、高校三年になるまでの二年間を私は孤独に過ごしたが、三年にあがると、私に何年かぶりの友達ができた。

 修平を好きになるのに、そう時間はかからなかった。彼の恋愛に対する真面目な姿勢は異質で、世間に充満する安っぽい恋愛観とは一線を画していたからだ。私は初めて、恋愛を本気で考えられる同士を得た気分で嬉しかった。それに、話してみると彼はとても楽しい人物で、私を信じてくれて、私も彼は信じられると思った。

 彼ならば――。

 そんな可能性が、浮かんでは沈むようになった。私は彼のことが好きになってしまったのだと自覚した。それが相思相愛であったのだと、彼と最後に喋った夕焼けの景色で知った。

 

 そして、私は逃げ出した。

 

 この先の人生で、彼以上の異性が私の前に現れるとは思えない。陳腐な表現をするなら、佐藤修平は運命の人だった。

 私が恋愛の恐怖を克服するために、幸福の神様がめぐり合わせてくれた、生涯で唯一の相手。そう確信できるほどに、私は彼に心惹かれた。

 断る理由などないはずなのに、その相手を私はフった。

 それだけじゃなく、彼と作った思い出の全部をなかったことにした。

 素敵な恋を願っていた少女がいた。

 純粋な恋を知らない少女がいた。

 運命の恋を諦めた少女がいた。

 

 それらはすべて、他の誰でもない、私自身のことだった。

 

          *

          

 紅く染まる校舎の屋上。足場のふちに立って眺める俯瞰の景色は、多くの生徒たちの笑顔にあふれていた。なかには男女で談笑したり、手を繋ぎあっている者たちもいる。

 何かが違えば、私もあんなふうに笑えたのだろうか。

 高いところから星を眺めるばかりの人生じゃなく、紅色の空の奥に煌く星を掴むような、そんな生き方ができたのだろうか。

 帰宅する生徒たちが埋めつくす歩道で、地味な女子を演出するための三つ編みおさげをした女子生徒と、彼女が初めて好きになれた男子生徒が手を繋いで歩いていた。

 それが幻覚であることを、私は他の誰よりも知っている。

 それは決して悪いことじゃない。

 だってそれは、私にも彼と恋人になれる未来があったということだ。

 幼い頃から憧れていた恋愛が叶う世界があったということだ。

 いったいどうすれば、そんな世界にいけただろう?

 彼が告白してくれた日に戻って、恋愛への恐怖を断ち切り告白を受け入れればいいのか?

 だけどもう、あの時間には戻れない。私と彼が本当の意味で出会わなかったこの時間では、私は彼から告白されていないのだから。

 たとえ私と彼が初めて顔をあわせた放課後に戻っても結果は変わらない。

 なぜなら、この問題の原因は、すべて私にあるからだからだ。

 人を好きにはなれたが、恋愛はできないままだった。そんな私が何度時間を繰り返したところで、夢と呼んだ素敵な恋愛ができるようになるはずもない。相思相愛の相手まで見つけたのに、これ以上は未来永劫現れないと思うほどの理想の相手から告白されたのに、私は恋を始められなかった。

 こんな〝叶わないはずの恋愛〟だったが、誰かにとっての私のように、私にも陰で手伝ってくれる人がいれば、運命もまた変わったかもしれない。


 ――そんなわけ、ないか。


 だって、私が何もしなくとも、〝叶わないはずの恋愛〟をしていた男女は結ばれた。

 他人の恋愛を叶えるというのは、私の錯覚だった。余計なお節介をせずとも、私が目をつけた男女は自然と恋人になる運命だったんだ。

 学校の外に伸びる歩道から、願い続けた恋人の幻覚が消えた。

 時間の巻き戻しが無意味だったとすると、どうして私は幻覚などを目にしたのだろう。

 何をどうしていたら、私は幸せな結末を迎えられただろう。

 いまとなってはもう、どうでもいい。

 ただひとつ。

 私と彼が結ばれた世界もあったのだと信じられたいま、この世界に対する私の未練は欠片も残さず解消した。

 眼下から吹きつける風に、制服のスカートと髪が踊る。学校の敷地内を歩いている生徒も教師も、屋上から身体をのぞかせる私の存在に気づきもしない。クラスでの私のように、誰もが私の存在を認知しない。

 彼が別の誰かと始めた恋愛を陰で応援しようと考えたこともあったが、やっぱり無理だ。

 きっと私は彼以外を一生好きになれない。彼だけを一生愛し続けてしまう。

 変わらない、変えられないのであれば、それはもう死んでいるのと同じだ。

 だったらもう、私は存在しているべきじゃない。生きている理由も失った。

 私は屋上と空の境界に体重をかけた。四階下にあるコンクリートが視界の全面に広がって、重力に引っ張られた身体が足場を離れて落ちていく。

 逆さまになって落下していく短い時間で、私はたくさんのことを考えた。


 ――私は恋愛に失敗してしまったけど、それもまた恋だった。


 ――私は恋がしたいと願ってた。期待した形ではなかったけど、それを叶えることができた。


 ――私は恋を知らなかった。だけど、やっと知れた。


 ――私は恋することを諦めてた。


 ――それだけは、最後まで叶わなかった。


 ――けれど、


 ――私にも、好きな人と恋人になれる未来があったなら、

 

 最後の瞬間に、私は彼の隣を歩いていた少女の笑顔を思い出した。

 


 ――私は、そんな普通の恋愛をしたかった。

 


 地面との衝突の直前、教室の窓ガラスに反射した少女の瞳は、

 絶え間なくこぼれる涙に濡れていた。

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