第25話

 世界は黄昏に沈もうとしていた。

 俺と亜里沙が初めてまともな会話をした日も、今日と同じような夕焼けが頭上を覆っていた。


 ――そんなことを、これまでに何度考えただろう。


 今でこそ昼休みも喋れるようになったが、最初の頃は放課後の屋上でしか、彼女と顔を合わせて話をすることはできなかった。

 部活をやってた頃は、学校で茜色の空を見上げることなんて一度もなかった。日々の部活を向上心もなく義務的にこなしていた俺にとっては、放課後の時間は憂鬱でしかなかった。

 亜里沙と本当の意味で知り合って、その退屈だった時間を、一日で最も待ち遠しく思うようになった。


 ――それも、今日で終わりになるかもしれない。


 どうしようもない不安は拭いきれていない。

 これから俺が伝える感情を彼女が拒絶すれば、楽しかった時間も今日が最後となる。

 だったら伝える必要なんてないんじゃないか?

 俯瞰的に考えてみれば、それこそが正しい選択のようにも思えてくる。実に合理的だ。何もしなければ、何も変わることはない。俺が望む関係が、きっとこれからも続いていく。


 ――そうだったのか。


 そういった自論を持っていた男と、つい最近知り合った。

 男と相対した自分が吐き出した言葉、自然と紡ぎ出された感想を思いだす。

 その果てに迎えることのできた、彼の恋愛の結末も。


 ――どうするべきか、俺はもう知っていたんだな。


 ならば恐れることはない。やるべきことはわかっている。

 失敗を危惧して逃げること。それこそが失敗に直結するのだと、俺はもう知っている。

 数多の感情や思い出が、走馬灯のように脳裏に蘇っては消えた。

 今日という運命の分岐点に至るまでに、俺はどれほどの悩みを抱えて、どれほど無駄な時間を過ごしてきただろうか?

 ずっとだ。

 ずっと、俺は誰かを好きになる感覚がわからなかった。

 だが、高校生として過ごす最後の年、生まれてから十八年の歳月が経過して、ようやく俺は知ることができた。

 もしかすると、それもまた運命だったのかもしれない。

 彼女と出会うまで誰も好きになれなかったのは、彼女と出会うためだったのかもしれない。陳腐な妄想としか思えない憶測だが、そう考えてみれば、俺が恋愛できなかった時間にも意味があったように思う。

 約束の場所に続く階段をのぼりきって、俺は彼女の待つ屋上の入口に立った。

 冷たい金属製のドアノブに手をかける。

 昂ぶってる気持ちを落ち着けるようにして、大きく息を吸って、出来うる限りゆっくりと息を吐き出すと、

 初めて本当に好きになった異性に告白するために、屋上に続く閉ざされた扉をひらいた。

 

          *

          

 地平線の向こうに、沈みゆく夕日がみえた。夕焼けは視界を朱に染めて、空に散らばった雲を紅く染めている。

 この場所で人々の喧騒は遠く、まるで世界から切り離された異空間のようだ。

 彼女は、屋上の中央でなにげない顔で立っていた。ひらいた鉄の扉を閉じて、彼女の待つ地点に歩み寄る。

 俺の表情から異質な気配を察知したのだろう。一歩も動かずに俺を待ち構えていた彼女の瞳が、深淵で心配そうに揺れていた。


「どうしたの修平? 後輩たちの恋愛の件で、なにかあったの?」

「高橋くんと河合さんの恋は、亜里沙も電話で聞いたとおりだ」

「なら、特段問題があったようには思えなかったけど。じゃあ、私に伝えたいことって?」


 予想がはずれて、亜里沙は怪訝そうに眉を険しくした。

 少し怒っているように感じられる彼女を横目に、俺は茜色の虚空を見つめた。


「亜里沙が他人の恋愛に手を貸したがるのは、自分が恋愛できないからだったよな。中学の頃に起きた事件がきっかけで、誰かを好きになれなくなったって。前にそう教えてくれたよな?」

「そうだけど、それがどうかしたの?」

「いや……ただな、それを踏まえたうえでもう一度訊いておきたい。どうして亜里沙は、何年も一人で続けてきた他人の恋愛を叶える活動に、いまさらになって俺を誘ったりしたんだ?」

「それはだって、修平には私のタイムリープが影響しなかったし、なにより、修平が私と同じ人種だって知ったから」

「俺が亜里沙と同じで、誰かを好きになれないと?」

「そうじゃなかったら、勧誘したりしなかったよ」


 逡巡もなく、亜里沙は俺の質問に即答した。当時から考えていた、嘘偽りのない答えである証だ。

 ならば俺も、以前から決めていた返答をしよう。



「だったら亜里沙は、俺を誘うべきじゃなかった」



 彼女の行動は、絶対的に間違っていた。

 発言の真意を掴めず、亜里沙は当惑している。俺は問い質されるより先に、彼女から視線を逸らしたまま続けた。


「俺はな、恋愛ができないんじゃなくて、誰かを本気で好きになる感覚がわからなかっただけだ。亜里沙と似ているようで、全然違う。俺の場合は、その感覚さえ知ってしまえば、誰にでも恋することができたわけだからな。俺と亜里沙に同じ部分があるとすれば、それは恋愛への憧れだ。俺も、ずっと昔からドラマみたいな恋愛がしてみたかった。恋愛に二律背反の願望を抱いていること。その点についてだけは、俺と亜里沙は似た者同士だな」

「でもそれって、誰かに恋する気持ちが芽生えなかったら、結局は私と変わらないんじゃないの?」

「芽生えなければ、な」

「――てことは、好きな人ができた、の……?」


 目を見開いて俺を見据える亜里沙を一瞥して、俺はまた地平線を眺めた。

 彼女の表情からは、純粋な驚愕以外の感情は汲み取れない。


「できた、っていうのは違うかもしれない。俺の胸の奥底には、以前から正体不明の感情があった。一緒にいると楽しい、尊敬する、幸せになってほしい、多くの人に彼女の素晴らしさを教えたい。ある個人に対してのみ向けている自分の想いが、当時の俺にはよくわからなかった。その相手に、友人よりも強く一緒にいたいと願うのはなぜなのか。様々な恋愛模様を眺めているうちに、俺は抱えていた問題の正体を知った。亜里沙が恋愛の魅力を教えてくれたから、俺も恋愛をしたいと本気で望むようになれた。そして、こうしていま、憧れていた恋に足を踏み出せるようになった」

「…………よかったんじゃないの? それは、私を裏切ったってことだけど」


 不貞腐れた声を返された。

 当然の反応かもしれない。俺は彼女が恋のできない相棒を求めていると知りながら、恋をしてしまったのだから。


「そうだな。だからまず、謝罪をさせてほしい。俺はもう、他の誰かの恋愛を手助けすることはできない。自分の恋愛で精一杯になるだろうから」

「気が早すぎじゃない? フられる可能性だってあるでしょ?」

「たとえフられても、たぶんもう、亜里沙と一緒には活動できないと思う。もしも亜里沙が許してくれても、きっと俺が耐えられない」

「耐えられない? それって、どういうこと?」


 またも疑念をはらむ声。ほとんど気持ちを吐露しているつもりで喋っているのだが、彼女は演技ではなく、まったく勘づいていない。

 しかし、それは些末なことだ。俺は屋上に彼女を引き止めた瞬間から、あるいはもっと以前から、逃げずに堂々と秘めた恋情を伝えると決心していたのだから。

 これは俺にとっての初恋だから、彼女に向けた想いが恋愛感情だと気づくまでに時間がかかってしまった。

 そうした葛藤を含めた恋愛感情を自覚する過程。どうでもいい相手には抱くことのなかった絶対に断られたくない不安。告白を前にしての呼吸すらできない緊迫。身体中の血液が煮えたぎるような異常な高揚。

 それらこそが、俺の求めていた誰かを本当に好きになる感覚の正体だ。

 それは同時に、恋をした相手を幸せにしてみせる覚悟の証でもある。

 そして俺は、亜里沙と向き合った。

 未だ答えに至っていないようで、彼女は依然として当惑を浮かべている。

 夕日を背景に佇む亜里沙。彼女との関係が始まった日を彷彿とさせる風景に、俺は違う世界の幻想をみた。


 ――なにかが違えば、俺があの日告白したのは、彼女だったかもしれない。


 そんなありえない妄想を膨らませて、

 それを妄想で終わらせないために、

 俺は――――

 

「俺が好きになったのは、亜里沙なんだ」

 

 初めて好きになった人に、初めて本気の告白をした。

 いえた。女々しくごまかしたりはせず、男らしく飾らない言葉で気持ちを伝えることができた。一種の達成感が高揚した気分に拍車をかけている。

 あとは、彼女の返事を待つだけだ。

 彼女が受け入れてくれるのかわからないが、可能性はあると思っている。俺のことを好意的に捉えていなければ、クラスメイトの知らない明朗な笑顔なんて見せてくれなかっただろうし、親しげに会話してくれることもなかったはずだ。

 互いに沈黙して、幾許かの時間が経過した。

 それがどれほどの長さだったのかはわからない。十秒だったかもしれないし、一分だったかもしれない。

 俺は返事を待つまでの間まったく呼吸ができず、

 沈黙する亜里沙は、気づけば教室でみせる表情を顔に貼り付けていた。


「……どうして、私を好きになったの?」

「それはさっき話したとおりだ。付け足すなら、俺はもっとたくさん亜里沙と喋りたいんだ。こんなふうに人目を忍んだ場所、時間だけじゃなくて、教室や廊下、帰り道なんかでも楽しく話したい。恋人ができれば、他人の恋愛で欲を満たす必要もなくなって、タイムリープする理由もなくなる。そうすれば、どこでだって、誰とだって話せるようになるんだろ?」

「……」

「亜里沙、俺は絶対に裏切らない。亜里沙が誰かを好きになれなくなったのは――恋愛できなくなったのは、好きになった相手に裏切られるのが怖いからなんだろ? だったら大丈夫だ。亜里沙に悲しい思いはさせない」

「……」

「俺を信じてくれ。俺を好きじゃないのなら、好きになってもらえるよう努力する。必ず俺を好きにしてみせる。俺が恋愛する相手は、亜里沙以外に考えられないんだ。初めての恋を――本当の恋愛を与えてくれた亜里沙以外の誰かを、俺は好きになれる気がしない」

「……」

「だから――」


 黙したまま表情の変化もなく、高揚感と自己陶酔で滔々と恋情を伝える俺を見据える彼女に、


「俺と付き合ってほしい。友達としてじゃなく、恋人として」


 あるがままの気持ちを、正面から全て手渡した。

 亜里沙の顔はなおも変わらない。

 我慢比べでもするように、俺は彼女を、彼女は俺を凝視した視線を逸らさない。

 ここで先に折れたら、すべてが台無しになるような気がしていた。

 膠着は、好きだといった直後よりも長く続いた。

 息の詰まる激しい緊張の果てに、亜里沙は俺から目を逸らした。

 感情の読めない横顔を追う。

 直後、どこを見ているのか判然としない彼女の顔に、変化が表れた。

 それは悲哀か、それとも失望か。

 切ない思いに耽っているように感じられる表情を浮かべて、どこか遠くをみる眼差しで、静かに呟く。



「……それは無理」



 返された答えに、熱を帯びていた熱情が急激に冷めていった。

 昂ぶっていた心拍数は鈍くなり、頭のなかは真っ白になり、茜色の景色が認識できなくなった。

 告白した相手の顔もうまく映らなくなったが、声だけは放心した心にも染み込んできた。


「修平と友達になってまだ二ヶ月くらいだけど、修平と一緒にいる時間は楽しかったよ。勘違いしないでほしいのは、ただ相棒として便利だと思ってただけじゃないってこと。私にとって修平は久しぶりの友達で、一人より誰かと一緒のほうが何でも楽しいってことを教えてくれた恩人だよ。〝叶わないはずの恋愛〟を叶える活動もそうだけど、誰かと喋ること、誰かとご飯を食べることの喜びを思い出せたのも、全部修平のおかげだよ」

「…………なら、どうして駄目なんだよ」


 必死に搾り出した声で、納得できない彼女の言い分に抗議する。

 徐々に色を取り戻した世界の中心に立っている彼女が、俺に目を向ける。

 彼女の抱いている感情を、今度は鮮明に汲み取ることができた。

 愕然とする俺を映す彼女の瞳には、明瞭な哀しみの想いが込められていた。


「修平も知ってるでしょ」


 儚げな声色で、そう教えられる。

 続く言葉は、いわれる前に俺の脳裏に浮かんできた。

 たしかに、俺は知っていた。

 好意的に想っていると語ってくれた彼女が、

 それでも、俺の告白を断るしかない理由を。


「私は、恋愛できないから」


 そんなのは百も承知の事実だった。

 それを初めて教えてくれたときの寂しい顔をみれば、それが容易には逃れられない束縛であると充分に理解していた。

 無駄だとわかっていたのに、俺は亜里沙を好きになってしまった。

 恋をした俺は、亜里沙がどんな事情を抱えているとしても、告白もせずに諦めるなんてできるはずもなかった。

 結果、俺は告白をして、撃沈した。

 フられるのはこれが二度目だが、いい加減な恋情で敢行した前回とは違い、今回は紛れもなく本気だった。与えられたショックには比較にならない絶望を覚えたが、不思議と気分はすっきりとしている。


 ――終わったんだな。俺の初恋は。


 全力は尽くしたつもりだ。立派に告白もできた。亜里沙とは恋人になれなかったが、彼女は俺のことを嫌いではないといってくれた。

 彼女さえよければ、俺は今後も、彼女の友達として関係を続けていきたいと思った。

 そう思う裏には、いつか恋愛のできるようになった彼女と恋人になりたいという下心もある。本気で好きになった人は簡単には諦められない。それもまた、俺が長年望み続けた本物の恋愛を知れた証明でもあった。

 俺はこれからも友人の関係でいてほしいと、そう亜里沙に伝えようとした。

 けれども、彼女の唇が、俺よりも早く動いた。


「修平、ありがとね。何度でもいうけど、修平のことは嫌いじゃないよ。私を好きだっていってくれたのも嬉しかった。――だから、私たちは出会うべきじゃなかった」

「え――?」


 今日フられても、それで亜里沙との関係が終わるわけじゃない。


「だから、なかったことにするね。大丈夫。修平くらい魅力のある男子なら、もっと素敵な相手が見つかるよ。安心して。そのときは、私が陰で手伝ってあげるから」


 その瞬間まで、俺は暢気にそう考えて、疑いもしなかった。

 時間を巻き戻す能力をもった彼女が、俺に記憶が残っている理由に実は見当がついていて、

 その気になれば、俺に刻まれた彼女との日々を白紙に戻せることを。


「私を忘れても、私は修平が本当の恋をできるよう祈ってるからね。それじゃ――」

「まて亜里沙ッ! 俺がお前の――――」


 咄嗟の制止も虚しく、亜里沙の唇は止まってはくれなかった。

 

「――――」


 それが、初恋の相手から聴いた、最後の声となった。

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