第24話
特に大きな事件もなく、運命の時間は呆気なく訪れた。
下級生の幼馴染の運命を決する約束の放課後、俺は亜里沙と事前に打合せしたとおりに、敷地内の最奥にあたる校舎一階の教室に身を潜めていた。
「佐藤先輩、聞こえる?」
校舎裏が見える窓の方向から、河合さんの声が聞こえてきた。姿は確認できないが、声は鮮明に聞き取ることができる。立石のときと同じように、窓を微妙にあけてあるからだ。
今日の昼、俺はまた河合さんに会いにいって、彼女に告白の一部始終を聞かせてほしいと無理な相談を持ちかけた。当然のごとく最初は渋い顔をされたが、河合さんは協力してくれた俺たちには見届ける権利があるといって、放課後の教室の使用状況などを鑑みて、うまい具合に室内から外の音を聞ける位置で陣取ってくれていた。
窓の隙間には通話中の携帯電話が公然と設置してある。俺の相棒が素性を隠していることを知る彼女は、俺から提案するまでもなく、彼女のほうから電話越しに亜里沙にも話を聞いてほしいと頼み込んできたのだった。
「聞こえてるよ。高橋くんはまだ来ない?」
「だねー……まだどこにも見えないや。やっぱ駄目なのかも。他に好きな人ができたんなら、しょうがないよね……」
「気が早いぞ。もう少し待ってみてもいいんじゃないか?」
昨日高橋くんから聞いた事実は、河合さんには教えていない。教えてしまえば、彼はまた彼女の好意に甘えるだろう。それだけは俺個人として許せない。恋人とは、相手との繋がりが消滅するリスクを承知したうえで、振り絞った勇気の結果としてのみ結ばれるべき関係だ。リスクがないと判明しなければ告白できないのなら、その告白によって築かれる関係に価値はない。
河合さんには申し訳ないが、俺は高橋くんは現れないと予想していた。
彼と直接言葉を交わして、彼には彼女に告白するだけの度胸はないと感じたからだ。
昨日の昼休みに、彼ともう一度会うまでは。
「あっ――――きた……っ!」
どうしようもない歓喜をはらんだ呟きが、室内にいる俺の耳にも聞こえてきた。廊下を行き交う生徒たちを眺めつつ、俺は意識を背面の窓側に集中する。
待ち合わせ相手を発見して以降、彼女は一言も声をもらさなかった。時間の流れが何倍も遅くなったように感じられる重い沈黙が続いた。
校舎裏の土を踏み鳴らす微かな音が徐々に大きくなってきた。
やがて、その音も途絶えた。
「――理恵、その、佐藤っていう先輩から聞いたんだけど」
「待って。その話をする前に、ちょっといい?」
「へっ――?」
相当な覚悟を固めて敢然と待ち合わせ場所にやってきたのだろうが、高橋くんが喋り出した途端に、河合さんは彼の話を遮った。
出鼻をくじかれた高橋くんが頓狂な声をあげる。
声はあげなかったが、俺としても同じ気持ちだった。
いったい河合さんは何をいうつもりなのかと訝しんでいると、
背後の窓が開け放たれて、反射的に振り返った俺と、外側に立っていた河合さんの視線が重なった。
彼女の背後からは、驚いた様子の高橋くんが顔をのぞかせている。ここでもまた、俺は彼と同じ反応を示してしまう。
俺を見据える彼女だけが、この状況でただ一人、驚きも笑いもせず、真摯な顔を保っていた。
「佐藤先輩、こっちにきてくんない?」
*
何がどうなっているのか。電話越しにやりとりを聞いていたであろう亜里沙も、合点がいかずに困惑しているに違いない。
俺は三年生の通用口で靴に履き替えながら、携帯電話をそのままにしてきたことを後悔した。
彼女たちが合流した地点に外からまわっていくと、ふたりとも変わらぬ位置で待っていた。河合さんは凛々しく真剣な眼差しで俺を迎えたが、高橋くんの瞳は俺の登場に揺らいでいる。
俺がふたりの間に立つと、河合さんは不信感を醸している幼馴染に目をやった。
「もう気づいてると思うけど、佐藤先輩が裕樹に近づいたのは、あたしがお願いしたからってわけ」
「それじゃ、彼氏を作るってのも……」
「ああ、それ? あたしが佐藤先輩に教えたの。裕樹に伝えろとはいわなかったけど」
「……ひょっとしてマズかったか?」
「いいよいいよ。別に隠す必要なんてないしさ」
軽い調子で手をひらひらとさせる河合さんに、想定外の展開に困惑気味だった高橋くんが眉をひそめた。
「理恵、好きな人ができたの?」
「好きな人くらい昔からいたって。告白しなかっただけでさ。そういう裕樹だっているんでしょ? あたしは幼馴染で、裕樹のこと昔から見てたからバレバレだよ」
「見ててくれたのは知ってる。それでも、理恵は何もわかってない」
「そうかもね。何もしない、何も喋らない相手のことなんて、何もわかってないのかもしれないね」
不釣合いな微笑みで紡がれる言葉に、高橋くんは口を噤む。
「だってさ、急に愛想が悪くなったんなら、あたしより優先したい誰かが見つかったって思うじゃん? だからあたしも探しただけ。裕樹と同じように、大切な人をさ」
「……違う」
「違わないって。じゃなに? あたしに冷たくなったのは別の原因があるってこと? あたしはもう耐えられないよ。あたしを嫌いになった裕樹と付き合っていくのはさ」
「嫌いになんかなってない」
「嘘つかないで。説明できないんなら信じろってほうが無理だって思わない?」
時折嘲笑するような笑い声を織り交ぜて、暗く沈んだ声色で応答する高橋くんを彼女は容赦なく攻め立てる。
それは、高橋くんが望んだ〝何も変わらない〟関係に、彼女が明瞭な否定の意志を示しているともいえた。
一方的に畳み掛けてきた彼女の態度に、高橋くんは完全に押されているが、口を真一文字に結ぶ彼の瞳は、まだ諦めたりはしていなかった。
別れ話をしているかのように諦観する河合さんに、彼は臆せず反論した。
「ずっと悪いと思ってた。自分が情けなかった。どうすればいいかわからなくて、どうすることもできなかった。何をいっても言い訳以上にはならない。実際それはつまらない言い訳でしかなくて、おれは怖かった。おれが理恵に〝変化〟を求めて、理恵がおれを嫌ってしまうのが怖かった」
「何もしなかったら、あたしが嫌いにならないとでも思った?」
「思ってなかった。本当はわかってた。何もしなければ、それはそれで昔のようにはいられない。だとしても、おれにはどうする勇気もなかった。下手に関係を進めるような言動をみせて、否定されることが何よりも怖かった。伝えたい気持ちが誤解される恐怖もあった」
「だからって黙られたら誤解以前の問題じゃない? 違う?」
「違わない」
きっぱりと断言してみせた彼は、敢然と彼女の顔を見つめた。
彼の表情に、頼りない幼稚な面影は一切残っていなかった。
「おれは間違ってた。いまさら過去の失態を返上できるとは思わないけど、理恵にいっておかないといけないことがある。理恵が他の誰かを好きだとしても、はっきりさせておきたいんだ。昔からそうだったのに、一度も伝えることができなかったから」
「っ――」
もはや、次に続く言葉など誰の目にも明白だった。
彼の真剣な雰囲気に飲まれ、彼女は全身を強張らせる。
そうして紡がれた、真摯な想いが込められた言葉は――
「おれは理恵が好きなんだ。小学校のときから、いまも、ずっと」
向けられた相手である河合理恵という少女が、何年も待ち焦がれた答えだった。
しばしの静寂。一言も交わさず、たがいに眉ひとつとして動かさず、双方の瞳を見つめ続けている。
やがて、時間が動きだす。
折れたのは、幼馴染の告白を受けた彼女のほうだった。
「――ひとつ、条件」
彼が相槌を打つのを待たずに、彼女は固い口調でいった。
「小学校の頃みたいに、明るい性格に戻ること。できる?」
「……わからない。だけど、努力はする」
それまでは勇ましかった高橋くんが、提示された条件の内容を聞かされた途端に、気勢を削がれて頼りない声を出した。
彼の様子につられてか、河合さんも緊張を解いて呆れ顔で肩を落とした。
「だぁー……なにしてんの裕樹。そこはかっこよく頷くところじゃん!」
「だけど、すぐに変われるかなんて、根拠もなく保証できないから」
「そんなのだいじょーぶだって」
作り笑いでも嘲笑でもなく、穢れのない微笑みをこぼした河合さんは、
「裕樹のことだけを見続けてきたあたしが、裕樹が変われる根拠になってあげるからさ」
やや遠回しではあったが、自分からも彼に好意を伝えてみせた。
虚を突かれて唖然とする高橋くんを置いて、彼女は俺に歩み寄ってきた。
「佐藤先輩、サンキューね。またお礼させてよ」
「いらないぞ、そんなの」
――お礼に相応しいものを、もう見せてもらったからな。
明言はしなかったが、俺の考えていることが伝わったのか、彼女は納得した様子で俺の隣に佇む高橋くんに視線を移した。
彼を見つめる彼女の瞳は、俺がこれまでに見た彼女のどの笑顔よりも幸せそうだった。
「裕樹、部活終わったらメールするからさ、今日は一緒に帰ろーね」
花が咲いたような笑顔を見せられて、彼も自然と嬉しそうな微笑みをこぼした。
「うん。たぶんおれのほうが早く終わるから、居残り練習でもして待ってる」
「りょーかい。んじゃ、またあとでっ!」
校庭の片隅にあるテニスコートの方角に駆けていく河合さん。
彼女の背中が段々と小さくなっていくのを、俺と高橋くんはしばらく眺めていた。
「おれも部活いかないと。先輩、色々とありがとうございました。先輩が声かけてくれなかったら、おれはたぶん、一生変わる覚悟ができなかったっす」
「大袈裟だな。それに、似たもの同士だ。お礼はいらないっていっただろ?」
「あれは理恵にいったんじゃ……?」
「きみに対しても同じだ。自分の願望が一つ叶った気分だね」
「はあ。よくわからないっすけど、わかったっす。とにかく、ありがとうございましたっ!」
人の話を聞いていないのか。お礼はいらないと聞いた直後に深々と頭をさげて、そそくさと彼は河合さんとは別の方角に走り去っていった。彼は卓球部だから、体育館に向かったのだろう。
――いいものをみせてもらった。
初対面のときには呆れるほど情けなかった少年が、たった三日で立派に想いを伝えられるまでになった。
彼の成長には、ただならぬ勇気を分け与えてもらった。
俺は隣接している教室の窓際に置かれた携帯電話を手に取り、受話器を耳にあてた。
「とまあ、そんな感じだ。今回は不思議な力を使われる羽目にならなくて助かった」
「そうだね。修平を誘って正解だったよ。修平は恋愛を叶える才能でもあったみたいだね。そうじゃなかったら、タイムリープなしで解決に導けるなんて信じられないよ」
「そんな才能、別に嬉しくもなんともないけどな」
「贅沢だなー。私は喉から手が出るほど欲しいのに」
くすくすと朗らかな笑い声をもらして、彼女は話を締め括った。
「ともかく、おつかれさま。あたしはもう帰るね。また明日――」
「いや、まだ帰らないでくれ」
俺は目的を達成して満足げに帰ろうとする彼女の足を、電話越しに引きとめた。
首を傾げている情景が脳裏に浮かびそうなほど、疑念に満ちた声が受話器から返ってくる。
「ん? どうかしたの?」
「……そうだな。どうかしたから、これから会えないか?」
俺は決めていた。
高橋裕樹と河合理恵の恋愛が成就したら――
いや、仮に成就しなくとも、自分の抱えてきた感情に決着をつけようと。
結果として下級生のふたりの恋愛は結ばれて、俺は背中を押してもらえた。
不安な気持ちはある。
足が竦みそうになるほどの恐怖もある。
それでも、こんな日がくることを、俺は長い間ずっと待ち望んでいた。
偽りのない本物を、誰かにぶつけられる日が来ることを。
俺が亜里沙を屋上に留まらせた理由。
それは、彼女が最も関心をもっていて、
それでいてまったく気づいていないであろう、
「どうしても亜里沙に、伝えたいことがあるんだ」
彼女の一番身近にある、〝叶わないはずの恋愛〟を叶えるためだった。
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