第23話
高橋くんは俺を一年生の通用口まで誘導した。
昼休みの通用口は生徒たちの往来も少なく、隅に立ってしまえば話し声を他人に聞かれることもない。俺は後輩の話の内容が、そういった類であることを察した。
彼は俺に目を合わせようとしない。どこを見ているのかすら判然としなかった。
「その、おとといはすみませんでした。先輩に対して失礼な対応をしたと反省してます……」
不本意ながら、というふうでもなく、高橋くんは心を込めて頭をさげた。
部活帰りに見せた幼稚な態度が彼の本質だと捉えていた俺にとって、その慇懃な所作には意表をつかれた気分だった。
「謝らなくたっていいよ。会ったこともないのに強引に押しかけたのは俺のほうだし。そんな奴にプライベートに関わることを無遠慮に訊かれたんだから、不快になるのは普通だって」
「けど、先輩はわざわざ教えにきてくれたんすよね? おれに、理恵が彼氏を作ろうとしてること」
「ああ、まあ、それはそうだけど……俺がいうのも変だけど、俺の隣にいた女の話を信じてるのか?」
「信じられないっすね」
きっぱりと彼は否定した。そうだろう。見ず知らずの人間に自分の過去を知ってますといわれても、信じられるわけがない。
緊張がとけてきたのか、高橋くんは砕けた口調になってきた。
「でも、本当のことをいわれたら認めるしかないっすよ。俺と理恵が幼馴染なのも、おれが理恵を……その、好きなのも……」
「好き〝だった〟じゃなく、好きか。薄々察してはいたけど、高橋くんが好意を抱く人は、昔から変わってないんだな」
「彼女以外、おれには考えられないっすから……」
「それにしては冷めてるようだけど――ああ、これは俺といた女から教えてもらった情報で、真偽のほどは把握しきれてないんだけどね」
「そう感じられてもおかしくない態度で接していることがあるのは自覚してます。……だけど、怖いんすよ。昔のように、無邪気に話すことが」
おとといの論調からは想像できない弱々しい雰囲気を醸して、彼は聖職者に後悔を語るように訥々と喋りはじめた。
「おれは駄目な奴なんです。小学校を卒業する頃まではよかった。なんていうか、周りの関係が安定してたから。つまらない口喧嘩とか、多少暴力を振るわれたり、やり返したりもしてたけど、壊れかけた仲は簡単に修復できた。けど、中学になるとみんな変わった。つい一ヶ月前まで遊んでいた友達と急に疎遠になったり、彼氏だ彼女だと騒ぐようになったり、根も葉もない噂を流されて不登校になったりして、おれの遊び仲間は中学に入学してほんの数ヶ月の間に激減したんです。おれは怖くなりました。自分は何もしていないのに、周りの景色は目まぐるしく変わってく。日常に潜む恐怖に勘づいてからは、とにかく誰かの〝敵〟にならないよう心がけることにしたんです」
「具体的にどうしてたの?」
「どうもしてないっすよ。どうもしてないってのは、言葉のとおり何もしなかったってことっす。いままでに築いていた交友関係が崩れるくらいならばと、おれは平行線を辿りたいがために保守的な考えを持つようになりました。いま思うとひどい話っすね。周りが変わってるなら、おれも同様に変わらなきゃいけなかったのに」
「河合さんとの距離がひらいてしまったのも、そこに起因してるってわけか」
「周りとの関係を変えたくなくて、誰かを褒めることも貶すこともしなくなったおれからは、次々と友達が離れていきました。最後まで残ってくれたのが、幼馴染の理恵です。理恵だけはおれが願ったように、おれとの関係を変えないでいてくれた。人との関わりかたがわからくなったおれは、高校にはいったいまも友達なんていません。部活でも独りです。誰とも仲良くなんてなれないし、なりかたもわからない」
高橋くんは逡巡するような間を置いて、後頭部を手で押さえた。
「……これをいうのは恥ずかしいんすけど、おれがこの高校にはいったのは、理恵がいるからなんす。理恵がいる学校なら、おれは独りじゃない。理恵はきっと、昔と変わらずおれのことを気にかけてくれると思ったからなんす。勉強だけはしてきたんで、試験に落ちる心配はしてませんでした」
「昔と変わらず……か」
本当にそうだろうか。
本当に昔と変わっていなければ、ふたりの関係は彼の望むように崩れる兆候すらみせなかったはずだ。
「だけどまさか、理恵が彼氏を作るなんて……理恵は昔から明るい性格だから、友達は絶えることがなかった。それ自体はどうでもよかったんす。理恵がいくら友達を増やそうが、おれは彼女にとっての特別で、人が増えたことで追い出される心配はないと信じてたから。根拠もなく、ずっと」
「つまりきみは、自分が河合さんの彼氏だと思っていたんだね?」
俺は遠慮もなく、彼の冗長な話の核心に触れた。
中学校になって周りが彼氏だ彼女だと騒ぐようになったと高橋くんは苦言していたが、彼自身にいたっては、小学校のときから意識していたのだろう。あるいは、後づけかもしれない。唯一見捨てなかった幼馴染の河合さんは自分に好意を寄せていて、相思相愛である以上、恋人同士であることは暗黙の了解なのだと。
最初からそれを伝えたかっただろうに、なんとも回りくどい。
俺が話の本質を理解すると、高橋くんは動揺を隠すように口元に痛々しい無理な笑みを浮かべた。
「へへ……そうっすね。理恵がいつまで経っても彼氏を作らないのは、おれが好きだからって決めつけてたんすよ。先輩も理恵を見たことあるんすよね? あんなにかわいくて人気者の理恵に彼氏がいないなんておかしいと思わないすか? おれは何度も考えました。そして、〝特別〟なおれのことを彼氏と思ってくれているに違いないと、その結論に至ったんす」
「当然、直接河合さんに尋ねたりはしなかったんだろうね」
「あたりまえっすよ。もし違ったら、おれはもう理恵と口すらきけなくなるんすから。……まあ、もう確かめる必要はなくなったんすけどね。理恵が彼氏を作るってことは全部勘違いで、おれは片想いだったってわけすから」
「きみはそれでいいのか? このまま黙って河合さんが誰かと恋人になるのを傍観しているのか?」
「よくないっす」
即答だった。
声を荒げて否定した彼は、しかしすぐさま意気消沈して顔を暗くした。
「だから、先輩にお願いしたいんすよ。なんとか理恵に、彼氏をつくるのをやめさせれないすかね?」
「やめさせなくとも、きみが彼女に気持ちを伝えれば全て片づくじゃないか」
「無理っすよ。だって結果がわかりきってるんすから。彼氏を作ろうとしてるっていうのは、他に好きな人がいないってことで、おれをどうとも思ってないってことっすよね?」
「じゃあどうして、その誰もが恋人になりたいと思う彼女が、いまのいままで彼氏を一人も作らなかったんだと思う?」
「単に興味なかったんじゃないすか。最近になって気が変わって、誰かと付き合ってみようという気になったんすよ、きっと」
「なら、俺にできることは何もないな」
冷淡に会話を遮断して、俺は彼の前から立ち去ろうとした。
「待ってくださいよ! 無責任じゃないすか! 人に勝手に関わっておいて!」
「無責任だって……?」
癇癪を起こした高橋くんの言葉に、俺の抑えていた激情が限界を越えた。
頭に血がのぼることを自覚しながら、湧き上がる憤怒に身を任せることした。
「無責任なのはきみのほうだろ。きみのいうように、河合さんほどかわいい女子なら、彼氏がいないほうが不自然だ。その原因はなんだ? 俺は知ってる。彼女は彼氏を作らなかったんじゃなく、作れなかったんだ。その原因をつくったのは、彼女の幼馴染であるきみだよ」
「おれが、原因……?」
「そうだ。なにが『特別』だ。そんなことを豪語するなら告白してみせろよ。待ってるだけの奴が特別なわけないだろ。自分が特別だと思うなら確かめてみろ。それすらできないんなら、きみには孤独がお似合いだ。何もしないきみは、周囲に気を遣わせるだけだからな。フられるのが怖いんなら『彼女』だなんて口にするな。それでも行動しないなら、一方的に『彼女』と呼び続ければいい。河合さんはきみ以外の彼氏を作るだろうけどね」
良い返事がもらえる確証がなければ告白はできない。
断られることが怖いから告白なんてできない。
俺は高橋くんと河合さんの恋愛を容易に成就するものだと評していたが、どうもそうじゃなかったようだ。なにもかもを自分の意のままにしか考えられない男を更生しない限り、ふたりが結ばれる未来は永遠に訪れないだろう。
それは、亜里沙の定義する〝叶わないはずの恋愛〟に該当する。高橋くんと河合さんの間にあるものは、紛れもなく俺たちの活動の標的といっていい。
だが、自身の考えを吐露していたときの俺は、特段それを意識してはいなかった。ただただ、こんな情けない男に何年も縛られてきた相手が気の毒だった。
俺が観察してきたどんな恋愛観よりも、目の前にいる幼稚な男の考えは醜く、正視に耐えない。恋愛について真剣に考えることを放棄して、そのくせ美しい恋愛を求めようとする甘えた男の姿勢には甚だ腹が立つ。
思うがままに叱責した俺は、高橋くんが反論せず黙り込んだのを確認して、今度こそ彼の前から立ち去ることにした。
「……明日、理恵と会わせてくれるんすよね」
校内に渦巻く喧騒にかき消されそうな声に、俺は廊下の角を曲がる直前で足を止めて、独り立ち竦む下級生の顔を一瞥した。
「きみにその気があるならね」
吐き捨てるように返答して、俺は自分の教室に戻っていった。
*
高橋くんの相手をしたおかげで、教室に戻る頃には昼休みが半分以上も経過していた。
亜里沙の席には誰も座っていない。
俺は弁当を持って、急ぎ足で屋上に向かった。
――まだ、屋上にいるだろうか。
――いたら、高橋くんの件を報告しないとな。
――そして、明日、彼の恋愛を叶えることができたら……。
いよいよ運命の日が迫っていることに緊張と高揚を覚えながら、最上階を素通りして、さらに上に続いている階段に足をかける。付近には生徒も教師の影もない。思考に耽っているとはいえ、最低限の注意を払うことを怠ったりはしない。
けれども、思えば普段もそうだったように、上への警戒はまったくしていなかった。
だから俺は、視線の先にある踊り場に人影が見えたとき、金縛りに遭ったかのように全身が硬直してしまった。
屋上から降りてきた人物もまた踊り場で立ち止まり、階段の中腹で愕然と佇む俺を見下ろす。
両肩に三つ編みの髪を垂らしたその女子生徒の顔に笑みはなく、人を寄せ付けない拒絶の雰囲気をまとっていた。俺と目が合っても、彼女はわずかほども表情を変化させない。
――もうスイッチが切り替わってしまったのか。
少し前までは放課後の短い時間だけ見ることのできた彼女の本来の姿を、最近では昼休みにも目にかかることができるようになったのだが、残念なことに、今日は間に合わなかったようだ。
彼女が気を許してくれる、限定された時間に。
もはや屋上に行く意味はなくなった。そもそも彼女がここにいるならば、屋上の扉は施錠されているだろう。選択肢は教室に戻る以外にありえないのだが、俺は彼女が引き返すんじゃないかと期待して踵を返すこともできない。
先に彼女が動きだす。
俺の期待も虚しく、彼女は一切の感情を取り除いた表情のまま、俺から目を逸らして階段を降りはじめた。
一段一段ゆっくりと、機械的な規則正しい歩調で俺のいる地点に迫ってくる。
すれ違いざま、最接近する手前で、彼女の唇が微かに動いた。
「おそいよ修平。また放課後」
俺の耳にそう残して、彼女の足音は階下に遠のいていく。
俺は彼女の足音が聞こえなくなるまで、階段の中腹から動く気になれなかった。
彼女に校内で喋りかけられたのは、これが初めてだった。
たった一言ではあるが、それは俺にとって、とても大きな意味をもつ出来事だ。
俺は彼女の魅力を知っている。寡黙で友達のいない暗い影のようなクラスメイトの女の子が、本当は誰かのために必死になることができて、話してるだけで人を楽しくさせてくれる素敵な女の子だってことを知っている。
俺はいつからか、彼女に普通の女の子になってほしいと願うようになっていた。
正体を隠したり、人目を忍ばなければ会話すらままならない女の子じゃなく、堂々とクラスメイトと笑い合って、大勢に混じってはしゃげるようにな女の子になってほしいと。
相手が俺といえども、校内で話しかけてくれた事実は、俺の理想に対しての大きな前進といえる。
ただし、その理想を実現するにあたっては、絶対不可欠な要素があった。
――明日だ。
それを満たそうとすれば、彼女だけでなく、俺の生活にも多大な変化が起きるだろう。
高橋くんはそういった変化を恐れるあまり、身動きができなくなっていた。
彼に偉そうなことをいったのは、自分を追い詰めるためでもあったかもしれない。
外野からいいたい放題に野次をとばして、自分の番になったら尻尾を巻いて一目散に逃走する。
そんな情けない人間にだけは、死んでもなりたくはない。
――明日、すべてを終わらせる。
静かにそう誓った俺が階段を降りはじめようとしたとき、
校内のいたるところに設置されたスピーカーから、昼休み終了の五分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。
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