第18話

 俺は自宅のベッドで寝転がりながら、つい数時間前に学校の屋上で聞かされた話を思い出していた。


 ――想像以上だった。


 何かしらの悲しい出来事をきっかけに、亜里沙は恋愛ができなくなったのだと考えていたが、実際に彼女が打ち明けてくれたのは予想を上回る壮絶な内容だった。

 俺と彼女が初めて会話をした日、彼女は俺のことを『同じ』といったが、やはりあれは間違いだった。

 恋愛をしない俺と、恋愛を諦めた彼女との間には、決して埋められない深い溝がある。

 俺が本気で人を好きになれない理由に根拠はない。恐怖に恋愛を奪われた亜里沙とは、どちらが深刻であるか比べるまでもなく明らかだ。

 けれども、


「あいつは……いまのままでいいのか……」


 本人がいるわけでもないのに、狭い自室で亜里沙への心配を声にする。

 恋愛がしたいと願っていたのに、彼女は叶えることを諦めてしまった。

 もう何年も昔の話で、未練なんて残っていないのかもしれない。

 だが、俺には、彼女が完全に恋愛への欲求を捨てたようには思えなかった。

 本当に諦めて、自分には無理だと吹っ切れているならば、他人の恋愛に興味を持ったりはしない。彼女は、他人の恋愛を成就させることを〝代わり〟といっていた。〝本物〟が欲しくても手に入らないから、妥協して〝代わり〟で満足したフリをしているんだ。寂しげに過去を語る彼女の横顔が瞼に焼き付いてしまった俺には、どうにも彼女が未練を振り切れないでいるようにしか思えない。


 ――俺と出会わなかったら、亜里沙はいまも一人だったのかな。


 ふと、その可能性が頭を過ぎった。

 あの日――俺が初告白で痛烈にフられた日に亜里沙と出会わなければ、彼女はいまも孤独に、本当にしたいことの代わりを続けていたのだろうか。

 俺と一緒に他人の恋愛について思案しているときの彼女はすごく充実した表情をしている。

 一人でこなしてきた数年間も、誰からも見られない場所で、頬を緩めて他人の恋愛を叶える行為に歓喜していたのだろうか。

 当時の彼女の姿を想像して脳裏に浮かんだのは、過去を告白した際に見せた横顔だった。


 ――斎藤亜里沙。


 恋愛のできない同級生。

 人を好きになれなくなった女の子。

 クラスでは寡黙なようでいて、しかし親しくなってみると底抜けに明るい性格を見せてくれた。

 亜里沙は俺のことを『同じ』といった。『同じ』だから、俺とはパートナーになれる。孤独に生活してきた彼女にとっての、久しぶりの友人になれるのだと。

 だが俺は『同じ』じゃない。彼女のような凄惨な経験をしたわけでもなければ、恋愛ができないわけでも、人を好きになれないわけでもない。

 それどころか、正反対だ。

 俺はいまでも恋愛をしたいと思っている。彼女が小学生時代から夢に見ていたような素敵な恋を、高校生かつ男の身でありながら、俺はそんな本物の恋愛ができるのならしてみたいと純粋に願っている。

 誰かに好意を抱くことだってできる。亜里沙が過去の事件の際に落としてしまったものを、俺は大事に胸の奥に秘めている。

 単純に、俺にはそれが、本当に恋情と呼んでもよいのかわからなかっただけだ。

 誰かを好きになるという感覚は、いまもまだぼんやりとしていて実感がない。

 平凡に受験勉強をこなすだけの日々では、高校を卒業するまでに恋愛という言葉にかかった靄が晴れることはなかっただろう。微かな欲求不満を後悔しながら、大学に進学する羽目になっていたに違いない。

 そんな陰鬱とした未来は、亜里沙と出会ったことで変わった。彼女と出会って、現実的な恋愛に触れて、真剣に考えて、悩んで、漠然としていた恋愛への意識が明瞭な輪郭を帯びるようになった。


 ――他人の恋愛を応援してるばかりじゃ駄目だ。


 自分の恋愛も始めなければ。

 かつて亜里沙が憧れてやまなかった、本物の恋愛を。

 静かに心を奮い立たせると、音のなかった室内に軽快な音楽が流れだした。感慨も抱かなくなるほどに聞き飽きたそのメロディは、一年以上も替えていない俺の携帯電話の着信音だ。音の聞こえる方角を頼りに自室を見回すと、小学校から使っている勉強机の隅に端末を発見した。

 ベッドから起き上がり、腕を伸ばして端末を手に取る。予想はしていたが、振動を続ける端末の画面には、本来の名称に戻したばかりの登録名が表示されていた。

 椅子代わりにしたベッドに座ったまま、俺は電話に出て端末を耳に近づけた。


「あ、もしもし修平? 元気~?」

「元気なわけないだろ。あんなヘビーな話を聞かされたばかりだってのに。むしろ、なんでお前はもう立ち直ってるんだよ」

「あー、まぁ、私にとっては昔のことだしね~。誰かに話すのは初めてだったから緊張しちゃったけど、修平が話を聞いてくれたおかげで、気持ちが楽になったよ。喉に刺さった魚の骨が取れたみたいな?」

「そりゃあ良かった。亜里沙の気が晴れたなら、俺も気分を沈めた甲斐があったな」


 電話越しに喋る彼女の声色は明朗で上機嫌そうだった。無理をしているのかと案じたが、過去の悲劇を俺に聞いてもらえて気分が楽になったというのは、おそらく嘘ではないだろう。何年も孤独に抱え込んできたのだから、そう思うのは道理かもしれない。


「用件を訊いてもいいか。俺が気力を失ってるか確かめたくて電話したんじゃないだろ?」

「それもあるけど」

「あるのかよ!」

「うそうそ。実は、立石くんと零音ちゃんの件が進行している裏で、校内にもう一人、恋愛関係で悩んでる生徒を見つけてね。修平は二人の相手に忙しそうだったから、私が密かに接触を試みていたの。もちろん、直接話したりはできないから、修平がパートナーになってくれる以前のように、手紙を使ってね」

「そんなこと、一言も教えてくれなかったよな?」

「ごめんごめん。反応が返ってくる可能性は低いって思ってたから、伝えるのは返ってきてからでいいかなーって考えてたの」

「ということは、返事がきたってわけか」

「うん。手紙にメールアドレスを添えて、悩んでることについて相談にのれるよって書いてたんだけど、さっき返信がきてね」

「なんて返してきたんだ?」

「『明日の夜、校門の前で会えないか』だって」

「亜里沙には無理な要求だな。それとも、俺に代わりに行けと?」

「もちろん修平も来るんだよ。もしかして予定あいてない?」

「都合がいいことにあいてるが……それより、その口ぶりだと、お前も同行するように聞こえるぞ?」

「うん。私も一緒にいくよ」


 あっさりと吐かれた台詞に、俺は耳を疑った。


「急に黙らないでよ。大丈夫大丈夫。ちゃんと私だってバレないよう対策していくし、そもそも相手は私のこと知らないだろうしね」

「いくら日陰で過ごしてるといっても、学校生活していれば顔くらい覚えてる奴もいるんじゃないか?」

「同じ校舎の同じ階で活動する同級生なら、そうかもね。だけど、今回の相手は下級生だから。私は部活をしていたわけでもないし、登下校は人混みに紛れてるから、覚えてる人はほとんどいないと思うよ」

「同級生ばかりじゃなく、下級生の事情にも精通してるのか……半端ないな」

「さすがに入学して数ヶ月の一年生の情報は少ないけどね。だけど相手は二年生で、それに立石くんみたいにちょっとした人気者だから、調べるのは簡単だっただよ」


 調査手段がろくでもない方法であるのは察しているので、その点に関しては追求しない。

 それはそれとして、彼女の守備範囲の広さには改めて驚いた。

 強すぎる執念を抱くのは、やはり彼女が、諦めてしまった願望に未練を感じているからなのだろうか。


「そういうことで、明日は休みだけどよろしくね~。詳しい集合時間は、相手と相談してメールするから。それじゃ、おやすみ~」


 俺の挨拶を待たずして、彼女は嬉々とした声で締め括って電話を切った。

 しばらく通話の終了画面に目を落としてから、俺は携帯電話をベッドの脇に置いた。

 絨毯に足をついたまま、上体を倒して天井を仰ぐ。真っ白な壁紙と白光する電球を眺めながら、俺はこれからのことに考えを巡らせる。

 亜里沙は必ずしも恋愛が成就しない恐怖を知って、恋愛のもたらす哀しみの深さに触れて、恋愛ができなくなった。

 彼女の心情を共有した俺も、恋愛には切っても切り離せないリスクが付きまとうことを承知している。

 それでも俺は、恋愛を捨てようとは思わない。

 受けてしまった依頼は、いまさら断るのも無責任なので、彼女の相棒であることを認めた俺も最後まで付き合おう。

 

 だが、これで最後だ。


 他人の恋愛にばかり興味を向けるのは、これで最後にしよう。

 俺は一つの誓いを立てることにした。

 他の誰でもない、俺自身に。

 〝自分の番〟を迎えて、逃げ出してしまわぬように。

 この件が片付いたら、この胸に生まれた恋心と向きあって――

 

 叶わないはずの恋愛を、叶えてみようと。

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